思慕


 蒼の物語から、また数日経って。

 あやめは買い物の為に街の通りを歩いていた。

 先日感じた体の違和感も既に落ち着いていれば、何時ものように軽快な足取りで店の軒先覗きながら進む。

 玄鳥も御影も未だに心配して一人で出歩かぬ方がと言っては付き添おうとする。二人とも其々に仕事があるでしょうと断っても、それでもと。

 大丈夫だからと再三主張して打ち合わせだという二人を送り出し、買い物へとやって来た次第である。

 今日は何にするか、もしかして御影も食べていくかもしれないから……と思いながら思案していた時に、声をかけられる。


「あの……あやめさん?」

「……あなたは……」


 女学校時代の友人の一人だった。

 学校を辞して以来会う事は無かったが、涙して見送ってくれた覚えがある。

 この様な処で会うとは予想だにしておらず、二人は驚きながらも再会を喜ぶ。

 つい先日結婚したという彼女は、今日夫の親類にあたる家を所用があって訪ねる途中だったらしい。

 引き留めて悪いと思いながらも、彼女や親しかった人々の事が気にかかればついつい尋ねてしまう。

 どうやら知己は皆それぞれに元気に暮らしているらしい。

 安堵しつつも、そういえば、と気になり再度口を開く。


「璃子は、元気かしら……」

「りこ? それはどなたかしら?」


 問いに返ってきたのは、疑問を含んだ呟きだった。

 あやめは目を丸くした。

 璃子とあやめの間柄を知る者は多く、よく仲が良い事を羨まれていた。

 目の前の彼女とて、璃子と言葉を交わした事がある。彼女が璃子を知らないとは考えられない。

 けれど、彼女の様子に嘘をついている様子はない。本当に知らないのか、或いは覚えていないのか。純粋に分からないという様子で彼女は首を傾げている。

 戸惑いながらも、あやめは説明を続けて紡ぐ。


「二学年下の、私を特別に親しいお姉様と呼んでくれていた……」

「あやめさん、そういう間柄には興味はないからと、そういう方は居なかったじゃない」


 確かにそうだった、璃子が手紙をくれるようになる前は。

 璃子が居なければ、多分そう言い続けていただろうし、誰ともそのような間柄にならなかっただろう。

 彼女の記憶からは璃子が居た事実自体が消え失せているのでは、という疑念の種が生じた。

 それを押し隠しながらもあやめは言葉を続けたが、その声は何処か弱弱しい。


「ほら、あの薔薇屋敷の……」

「ああ、あのお屋敷ね……持ち主だった実業家が事故で亡くなられて最近また持ち主が変わられたけど……。そんなお嬢さんなんていなかったわよ」


 今度こそあやめは言葉を失くした。

 彼女は嘘をついていない、恐らく彼女の中にある事実はそう在るのだろう。

 顔色無くしたあやめを気遣う相手に、記憶違いだったかも、と明るく取り繕って笑って見せる。

 その後、他愛無いやり取りをして友人と去っていったが、あやめはその場に立ち尽くしたままだった。


 ……蒼い鬼の物語の中の『璃子』は、最後どうなった?

 鬼と行ってしまった後、人々の記憶から失われたと、語られていなかったか?


 物語が本当になった? 或いは、あの物語は現実にあった出来事であるということ?

 少し前ならまさかと笑って否定出来た事が、もう笑えない。

 積み重なった数々の要素が、それこそが間違いだと――物語こそが現実であると言っている。

 どういうこと、とここ暫く幾度繰り返したか知れない問いを呟いていた時、右肩に突如衝撃感じた。

 大きくふらつくものの、転ぶ事だけは何とか避ける。

 驚きながら其方を見れば、だらしない風体に荒んだ雰囲気の男がよろけながら立っているではないか。

 昼間から酒精を帯びて赤らんだ顔をしている男を見て、あやめは顔を顰める。近所でも評判の破落戸である。

 千鳥足で歩いてきた男がぶつかってきたのだと分かれば、災難だと溜息をつきたくなる。

 酔っぱらった破落戸は罵倒の言葉を喚き散らしていたが、あやめの顔を見ればにやにやと下品な笑いを浮かべた。


「作家先生のところの、好きもの女中じゃねえか」

「……は?」


 男の言葉に、あやめの口からは剣呑な程に低い声が出る。

 どう好意的に解釈しても悪意しかない言葉に、友好的になれよう筈がない。瞬時に険しい眼差し向けて睨みつけたなら、男は更に嘲笑う。


「だってそうだろう? お前さんみたいな年頃の女が、やもめ男の家に一人で住み込みなんてよ。どうせ先生とよろしくやってるんだろう?」


 あやめの前に女中や派出婦が玄鳥の手のかかり方に逃げ出したが、その理由について玄鳥が無体を強いたからだ、などと囁く人々も居る事は知っていた。

 彼を少しでも知る者はそれを信じていない、人となりを知れば如何すればそうなる? と首を傾げすらする。

 けれど、時折こうして揶揄される事はある。ここまで面と向かっては初めてであるが。

 言葉を発する事すら難しい程の怒りが裡に燃え上がっていく。このような男、相手をするだけの価値はないと言い聞かせても、限界が近い。

 無言のままのあやめを見て、返す言葉もないのかと言いながら下劣な笑い声を響かせる男は、尚も続ける。


「あの先生もなかなか大したもんだよ。虫も殺さねえようなのんびりした面で、お盛んなこった」


 その瞬間、あやめの目の裏に火花が散った思いがした。

 我慢できない、と思った瞬間にあやめは怒り露わに叫んでいた。


「冗談じゃないわよ! あんたみたいな下衆野郎が、先生を語らないで頂戴!」


 自分が何を言われたとて、我慢できる。

 けれど、玄鳥の事を悪し様に言われる事だけは耐えられない。

 お前があの人の何を知っていると、怒りが身体の奥底から湧いてくる。

 あの手がかかるけれど優しくて。頼りなさげに見えるけれど、常にあやめを見守ってくれる人の、何をと。


 あやめが言い返した事に、男の赤らんだ面は更に色を増して歪んだ。

 女が生意気に、とか口答えするな、とか散々に騒ぎ始めたが、猿が喚いているようだと思う。いや、それでは猿に失礼か。

 口には出さなかったものの、あやめの心に浮かんだ事を感じ取ったのか、男は顔を醜悪なまでに歪めたかと思えば……。


 一瞬、何が起こったのか分からなかった。痛みと衝撃、自分が吹き飛んだような感覚、鉄の味。

 殴られたのだと気付いたのは、地面に倒れ伏してからだった。口の端が切れて血が流れているらしい。

 頬が燃えるように痛い、顔を殴るなんてやってくれるじゃないのと心で憎まれ口を叩くけれど、すぐには起き上がれない。


 遠くに悲鳴や怒号が聞こえる。近所の奥さん達が蒼褪めている様や、男の人たちが破落戸に食ってかかっている様が見える。

 大丈夫かと問いながら、こちらへと近寄る声気配を感じた時。

 ふわりと上半身が浮き上がる感じがして目を瞬いた。

 誰かに抱え起こされている、と気付いて見上げれば、そこには


「……うちのあやめさんに何を?」

「玄鳥先生……」


 静かな言葉と共にあやめを支えているのは、他ならぬ玄鳥だった。その傍らには御影も居る。

 ああ、打ち合わせが終わったのかな……とぼんやり見上げる先で、怒り露わな御影は今にも男に殴りかからんとする様子である。

 平素の冷静な御影らしからぬ、どこか血気盛んな子供を思わせるような横顔に、奇妙な懐かしさを覚えたのは気のせいか。

 それを制する玄鳥は、声音も物腰も穏やかに見える。けれども……。


「……聞こえませんでしたか? あやめさんに、何を?」


 玄鳥はもう一度問いかける。 そして、一度だけあやめに眼差しを向けた。

 瞳に心配そうな光を宿していたものの、表情自体は穏やかだった。

 否、第三者であればそう見えただろう。

 しかし、あやめは気付いていた。その抑えた声音の平坦さに潜むもの――底なし沼のように深く恐ろしい、計り知れない程の怒りに。

 大丈夫と笑って見せたくても、その余裕すら奪う程に静かに激しい感情を垣間見てしまえば、顔を強張らせて言葉を飲み込むしかできない。


 重ねて問いかけられて、男は何かを言おうとした。多分、また低俗な揶揄でも口にしようとしたのだろうか。

 だが、それは終ぞわからなかった。

 男と玄鳥が、視線を交わした直後の事である。

 男が、そこに何を見たのかは分からない。

 破落戸は、この世ならざる恐ろしいものでも見たかのようだった。

 驚愕と恐怖で目を見開いて顔は凍り付き、赤らんでいた顔を蒼褪めさせて震えて始めた。

 誰も言葉を発する事が出来ぬままの沈黙が流れ、重さに耐えきれずに根を上げたのは男の方だった。

 意味を為していない喚き声をあげながら、なりふり構わず人を押しのけて走り去っていく。

 男の背を無言の内に見据えていた玄鳥は、口を開いたかと思えば硬質な声音で傍らの青年へと告げる。


「御影」

「……はい」


 あやめは、まだ殴られた衝撃と、触れた怒りに思考があやふやなままであった。だから気付けなかった――何時もと違うやり取りの違和感に。


「……抜かりなく『処せ』」

「かしこまりました」


 短い承諾残して、御影は疾風のようにその場から姿を消していた。

 何が起こっているのか分からぬまま、裡の言の葉が意味のある体を為さずに言葉紡げぬまま。

 ただ事の成り行き見守るしかできなかったあやめは、不意に自分の身体が宙に浮く感覚を覚えて驚愕する。


「先生!?」

「足も痛めたかもしれません」

「い、いえ、大丈夫ですから! 先生!?」

 狼狽えるあやめを、玄鳥は軽々と抱えあげて横抱きにしたかと思えば、淀みない足取りで帰路につく。

 人前でこのような、と恥ずかしさやら戸惑いで声をあげるが、玄鳥が意に介した様子は全くない。

 何処にこのような力を持ち合わせていたのか、と思う程にその腕は逞しく揺らがない。

 いいから、とはぐらかすように呟く玄鳥の腕に抱き上げられたまま、あやめは帰宅する事となった。




「女性の顔を殴るなんて、とんでもない話です」


 氷嚢を当ててくれながら、玄鳥は静かに呟いた。

 声音こそ穏やかに聞こえるけれど、あやめはその底にある滾る怒りが続いている事に気付いていた。

 余りに様々な想いが渦巻いて鬩ぎあって、もう自分ではどうしようも出来ない。

 それを自覚した瞬間、堰が決壊するかのように、あやめの瞳からは透明な雫が次々と零れ落ちていく。


「あやめさん……」

「違います。痛いのでは、ありません」


 心配させてしまった、怒らせてしまった、と悔いる気持ちはある。

 けれども、心配してもらえた事が嬉しい、という気持ちも存在している事に気付いてしまった。


 あやめはもう否定できなかった――玄鳥を想っている自分を。


 だからこそ、玄鳥と自分の間にあるものを貶められたようで、つらい。

 確かに他者の目から見たら、そうとられても仕方ないのかもしれない。

 でも、自分が抱く想いを、この人が向けてくれる優しさを汚される事がつらくて堪らない。

 二人で過ごした歳月を邪推されるのが、我慢ならない。

 泪は、そんな言葉にならない想いを宿して次々に生じては伝い落ちていく。

 そして……。


「先生……お暇を、下さい」


 絞り出すようにして漸く紡いだ言葉に、玄鳥が目を見開いて絶句したのを感じた。

 自分がここにいれば、今日のようなあらぬ誤解を生むのだ。

 分かっていても、今まで見ぬふりをしてきたことを、今日改めて突きつけられた。

 これ以上この家に居る事はできない、好きな人を悪く言われるのが辛い。

 いや、それだけではないのだ。


『あの方が思うのは、今も昔も奥様ただ一人だと思います』


 蘇るのは、あの日御影が告げた一言。玄鳥の心は、今も亡き妻だけのものであるという言葉。

 見ぬふりしてきた自分の心を、こうもはっきりと自覚してしまったならば、決して亡き人を忘れる事がない男性の傍に居る事が辛い。

 亡くなってしまった人には、どうあっても叶わないと知らされるのは、哀しい。

 玄鳥からの答えはない。

 彼が何を考えているのか、そして思案の果てに何と答えるのかを待つ重い沈黙。

 何方も言葉を紡ぐ事が出来ず、互いが何を思うのか分からぬままの時間が流れる。

 長時計の針が時を刻む乾いた音だけが響く刻が、どれ程経った後の事だろうか。

 あやめの耳に切なる響きを帯びた声が降ってきたかと思えば、次の瞬間には温かで力強い感触があやめを捉えていた。

 

「どこにも、いかないで下さい。……ここに、私の傍から、もう何処にも」


 抱き締められていると気付いたのは、一呼吸おいて後の事である。

 あやめを包む腕は思いの外に力が強く、振りほどけない。

 くるしい、と心が思う。胸が締め付けらえるほどに、苦しくて切ない。

 玄鳥の腕の中、そこには紛れもない確かなこころがある。あやめが去っていく事を、彼は恐れている。

 泣いているのではないかと思う哀しみ伴うこころが、抱き締める腕から伝わってくる心地がする。

 深く包みこむような愛情を感じるのは、気のせいではない。そしてそれは、今に至るまでずっと自分と共にあったものだ。

 貴女がいなかったらどうなっていたかと笑いながら甘える様子の中に、何処にもやるつもりはないと言った毅然とした言葉の中に。

 日々の何気ないやり取りで感じる、優しく温かな眼差しの中に……。

 気づかない振りをしていた。だって気づいてはいけなかったから。

 女中としての分を弁えねばという考えもあった。

 けれど、それよりも何よりも、この人は亡き奥様のものだからと。

 それ以外であって欲しくないし、なって欲しくもない。自分でも説明できない奇妙な願いである。

 亡き人を思うこの人の傍にいるのが辛いのに、この人が亡き人から心変わりすることも嫌なんて、おかしな話であるけれど。

 不思議に感じるのは、玄鳥が向けてくれる想いと、彼が亡き人を思う心に相反するものを感じない事。

 移り替わりを感じない、元々彼が抱くのは一つである気すらする。

 それは有り得ない、妻は既に亡く、自分はこうして生きている。

 だというのに、この人は今も昔も変わらぬような感覚を与えてくる……。

 先程とは違うものを含んだ不思議な温かさの沈黙の果て、徐に口を開いたのは玄鳥の方だった。


「貴方に聞かせたい物語があと一つ。……聞いてくれますか?」


 何を伝えていいのかわからぬまま居たあやめに、玄鳥は問いかける。

 ああ、今日も美しい月夜であるのだ、と肩越しに見上げた先に仄かに輝く光を見て気づく。

 離して下さいと言わなければいけないのはわかっている。

 でも、許されるならもう少しだけこの温もりに触れていたいと願ってしまう。

 だから、あやめは静かにひとつ頷いた。


 ――闇夜に優しく降り注ぐ繊月の光の下、彼の口から語られる最後の物語が始まった。

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