《翠》 喝采の宴

喝采・一


 浅草公園第六区、数多の大衆娯楽が集う場所。

 旗や幟で彩られた通りの片隅にある小さな劇場。けれども混雑するほどホールに人は集う。

 ペラゴロが意見を戦わせるのを横目に人の間をすり抜けて、シトロンの瓶を胸に抱えた少女が辿り着いたのは、舞台裏。

 そこからそっと見つめる華やかな舞台に玲瓏たる歌声を響かせるのは、華やかな衣装に身を包んだ麗人達。

 幕が下りれば、拍手喝采が鳴り響く玉響の宴。今宵も、見事な終わりに拍手と歓声が何時までも響く。

 続く拍手に応じて再び幕が開く時、一際大きな歓声の中に『彼女』は居た――。



「お疲れ様です、緑子みどりこさん」

「ありがとう、灯里あかり


 緑子と呼ばれたのは、先に幕を下ろした歌劇にて最も注目を集めた主演女優である。

 灯里と呼ばれた少女は、汗を拭う布を手渡したり喉を潤す飲み物を用意したり、甲斐甲斐しくその世話を焼いている。

 よくよくみれば整った造作をした美しい少女であるというのに、武骨な眼鏡にお下げ髪、素っ気ない衣服のせいで与える印象は只管に地味。

 華やいだ女優に対して何とも洒落っけのない、鄙から出てきたばかりの田舎娘といった風情である。


 主演女優の為の控室に、舞台の後の何時もの光景が在った。

 緑子は好物のシトロンを飲み干せばひとつ息をつく、その様子を見ながら灯里は心に呟く。

 緑子はとても美しい人だ。

 どう美しいのかと言われると、その顔かたちや女性としてはかなりの長身なすらりとした体つきだけではなく、所作も含めて全てが「美しい」と感じる。

 華やかで艶やかな緑子は時として享楽的な雰囲気を纏うけれど、清楚で気品ある役柄を演じる時、その雰囲気は高貴そのもの。

 演じる役柄によって如何様にも色柄を変えて見せる不思議な人、それが緑子だと灯里は思うのだ。

 緑子は、普通ならばソプラノ歌手が選ばれる中、アルトの声でありながら主演女優に選ばれた人だ。

 経歴はほぼ全て謎。ふらりと浅草に現れ、その美貌と歌声で瞬く間にスタアに昇りつめた。

 本来ならこんな小さな箱に留まる存在ではない、と支配人は言う。帝劇からも声がかかっているという、けれど本人は頑としてこの劇場に拘るのだ。

 井戸の外に出るのが怖いのさ、と嘲笑った者もいた。けれども、舞台に立つ緑子を見て同じ事を言えた人間は居ない。

 輝き放つ星であるけれど、その行動に少しも驕った処はない。気取ったところのない気さくな人柄もまた愛される所以だ。

 完璧だ、と灯里はつくづく思う。そう、完璧だ。今を時めく歌劇女優として、浅草の街にその名鳴り響く存在として。

 そう『女優』として……。

 見れば、灯里の眼差しの先で緑子は扇子で仰いで胸元に風を招じ入れている。

 無造作に緩めた襟元を見つめつつ、灯里の口から溜息と共に非常に冷静な言葉が紡がれる。


「……また、ばれても知りませんよ?」

「あら、嫌だわ! いけない、いけない!」


 何時『あの時の私』みたいに誰かが現れるかわからないのに無防備な、と言外に言いたげな灯里に緑子は茶目っけたっぷりな仕草で笑って見せる。

 あの『秘密』を隠したいのではないのかと思えば、灯里の眼差しは思わず半眼になってしまう。

 この麗しい人がひらひらと風を入れた胸元の衣服の下。なだらかな丘陵を描くのが、実に巧みに造られた詰め物である事を灯里は知っている。

 この人の本来の胸は、真っ平だ。胸が小さいということではない。


 そう、この緑子という稀代の歌劇女優は――男性なのである。

 どう見ても絶世の美女にしか見えないこの人は、女性ではないのだ。美女と見紛うばかりの、れっきとした男なのだ。


 何故その事実を、灯里が知り得たのか。あれは突発的な、不幸な事故である。

 当時劇場の裏方をしていた灯里は、支配人のお使いで緑子の楽屋へと足を運んだ。

 無論扉を叩いて声をかけた、けれども緊張も手伝って答えに対して些か扉を開けるのが早かった、いやあれは返事の前では無かっただろうか。

 ともかく、その時ちょっとした『事故』があった。

 詳細については『色々目撃してしまった』で割愛させて頂きたい、など誰に言うでもなく灯里は心の裡で呟いた。

 その後、緑子は灯里を自分の付き人兼専属の衣装係としたいと支配人に願い、それが聞き入れられて今に至る。

 あれが無ければ知る事も、こうして緑子の付き人となる事もなかっただろう。例えそれが、口封じの意味合いだったとしても。

 転機というものは、本当に何処にどう転がっているかわからない。思い出すたびに灯里はしみじみと考えてしまう。


 灯里、と呼ばれてそちらを見れば、緑子が櫛を手に灯里を上目遣いに見つめているではないか。

 甘えるような様子を見て、少しだけ苦笑して。櫛を受け取ると緑子の髪を梳く。

 気持ちよさそうに目を細めながら、息をつく。満ち足りた表情で緑子は幸せそうに呟いた。


「灯里に髪を梳かしてもらっていると、落ち着くわ」

「……ありがとうございます」 


 貴方が居てくれて良かったと、言い添えられれば面映ゆくて俯いてしまう。

 二人きりの空間であろうと、私的な空間であろうと、緑子の口調や仕草が変わる事はない。

 若しかすると、あれは素なのかもしれない。そうだとしたら、顔を顰める人もいるだろう。

 日の本の男子が何たる軟弱なと。けれども灯里はだからどうしたと思う。

 この人は、この人のままであるのが美しいし、素敵だと感じるから。

 舞台の上で人々を惹きつけて已まない輝きを放ち、高みにある存在であるのに気さくで面倒見がよくて、お茶目で。


「ありがとう。大好きよ、灯里」


 胸に不思議な温かさをくれるひと。

 本当の名前も知らないけれど、灯里は優しく包み込んでくれるようなこの人の傍に居られて良かった、と折に触れて思うのだ。




 舞台がはねて、夜更けて。喝采の渦にあった劇場も今は静寂の中にある。

 その場を全て覆いつくさんとする闇に、僅かな灯が抗っている。

 持ち込んだランタンを用心深く板張りの舞台の上に置き、灯里は舞台から劇場の全てを見回す。

 この場所を埋めつくしていた熱狂を思い出して、溜息を零しながら過去に思いを巡らせる。


 母も喝采の中に立つ存在だったという。

 灯里の母は女優だった。舞台に立っていたところを実業家の父に見初められ、灯里を産んだ。

 父には妻があった、けれどそれは左程珍しい事ではない。

 母は産後程なくして亡くなり、育ててくれたのは父の妻だった。憎んでも飽き足らない女の子、虐げられても文句の言えない存在だったはず。

 しかし、養母は実の子である兄と分け隔てなく大事に育ててくれた。

 名家の令嬢として相応しい教育を与え、習い事をさせて。綺麗な衣服に美しいお道具、甘い菓子。

 娘が欲しかったのよと微笑む人を、実の母のように思って暮らしていた。父もまた優しくて、時折我儘を言ったとしても、笑って許してくれて。

 何の不満もなかった。幸せだと、恵まれていると心から思える暮らしだった。父母に恥じない娘となるよう努力したいと思える程に慈しまれていた。

 けれども、唯一人だけ――兄だけは灯里を疎んでいた。

 記憶に残る兄の眼差しは、常に厳しく冷たいものを含んで灯里に向けられている。

 事あるごとに兄は灯里に冷たく当たった、それは父母に窘められても変わる事はなかった。

 遠目に見かけた小さな婚約者に向ける眼差しが温かい分だけ、灯里は向けられる眼差しが冷たい事を哀しく思った。

 兄の気に障らぬよう必死に努めていて、迎えたあの日。諍いの原因は何だったのかもう思い出せない、だがあの日決定的な亀裂が齎された。

 相応しい場所へと出ていけ、人目に付かぬように身を潜めて暮らすがいいと、彼は叫んだ気がする。

 気が付けば灯里は身の回りのものを纏めて家を出ていた、吐き捨てるように言われた言葉の声音は今も胸に爪痕となって残っている。

 父と母には申し訳ないと思いながらも、灯里の心には塞ぐ事できない亀裂が生じたのだ。


 母の昔の伝手を頼って、この劇場の衣装係の職につき緑子と出会い、そして今がある。

 今、灯里は光の当たらぬ場所にいる。

 それは自分が望んだ事であり、期せずして兄の言ったように人の目に付かぬところに身を潜めるようにして生きる事となった。

 自分にはそれが相応しいと思う、けれど……。


 大きく息を吸い込んだと思えば、灯里の口からある旋律が紡がれる。

 それは、今日の舞台にて緑子が歌っていた歌劇の曲、栄えある主役にのみ許された歌だ。

 歌い、そこに他の演者があるように振舞い、台詞を少しの澱みもなく紡いでいく。


 誰かが見ていたら驚いただろう。

 寸分の違いもない、目を閉じて聞いたなら緑子がそこに居ると勘違いするものもあるかもしれない。

 けれども、すぐにそれが緑子のものとは違った、伸びやかな明るさと爽やかさ持つ事に驚くだろう。

 しかし、今はここには誰も居ない。

 闇に包まれた広い空間、誰の目にも止まらぬ一人だけの歌劇。それが灯里の毎夜の密かな倣いだった。

 こんな事をしてどうするのと嘲る自分がいる。

 それでも気が付いたら夜闇の舞台に立ち、その日の歌劇を一人なぞるように歌っている。

 何時か出来るならば、二律背反の感情を抱えながら灯里は謳う。


 ――緞帳の裏に、ひとつの影があった事に気づかないまま。

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