彩鬼万華鏡奇譚 天の足夜のきせきがたり

響 蒼華

《始まり》

日常風景

《始まり》


 あやめの朝は、夜明けと共に始まる。


 昇り初めた太陽に照らされ始めた帝都の片隅に、あやめが女中として勤める家はあった。

 典型的な和洋折衷の文化住宅である。若干こじんまりとしてはいるものの洒落た感じのある一軒家であった。

 湯気の立ち上る台所に立つあやめの姿は、落ち着いた色味の縦縞の着物にエプロンといった、典型的な女中の出で立ちだ。

 今年で二十歳、肩上で切り揃えた髪が動きに合わせてさらりと揺れる。

 明るく愛嬌ある顔立ちに真剣な表情を浮かべ、集中した様子で忙しなく手を動かし、くるくると独楽のように台所を動き回っている。

 飯を炊いて蒸らしておき、その間に汁と菜を手際よく仕上げていく。あやめの手付きには一切の澱みがない、実に手慣れたものである。

 始めてから左程かからず朝餉の支度を終えた。恙無く支度できたのは、あやめ自身の手腕もさることながら、この台所によるところが大きい。

 世の女中達が見たら羨ましいと溜息をつきそうな設備の充実ぶりである。

 電気に水道も引いてある。冷蔵庫も瓦斯コンロも、未だ高価な天火まで備えてあるという贅沢さ。

 外が暗かろうが明るい電灯をつけて仕事が出来て、蛇口を捻れば水が出て、火を起こすのに手間いらないし後始末も楽。

 一足お先に簡素な食事を摂らせてもらいながら、あやめはしみじみと台所を見回す。

 女中としては嬉しい過分な程に整ったこの環境、されど使わなければ無いと同じ事。人はそれを宝の持ち腐れともいう。

 自分が来る前、一人で暮らしていたこの家の主にとってこの設備はまさにそれ。

 便利な道具も使ってこそ、自分は目いっぱい使わせてもらって日々の仕事をこなしている。


「ああ、そろそろ時間か……」


 御馳走様でしたと手を合わせて食器を片づけ終えた頃に、居間の長時計が数度鐘を鳴らした音が聞こえてきた。

 それはあやめの雇い主の起床時間を示している。

 しかし、このまま放っておけば主は起きて来ない。自分から起きてきた試しなどない為、毎朝寝室まで起こしにいかなければならない。

 雇い主は男性である。元は妻があったというが亡くなったということで、今はやもめの身である。

 その寝室に未婚の女子が立ち入るというのは、本来到底褒められた事ではない。

 けれどそれを守っていたならば、この部屋の主は待てど暮らせど目覚める事はないだろう。

 あやめも仕事が滞るし、主の仕事を待っている人たちも困る。一日における最初にして最大の関門、それがこの主の目覚めだ。

 あやめは必要な道具を手に、主が眠る部屋へと歩みを進める。

 緞帳が閉じたままの部屋は薄暗いが、既に隙間から朝日が差し込んできている。

 一つ大きく息を吸い込むと、手にした二つのものを持ち上げた。

 フライ鍋、準備良し。おたま、準備良し。

 それでは。


「先生! 朝です! 起きる時間です!」


 鍋とおたまを打ち鳴らす賑やかで盛大な音と共に、あやめの必死な叫びが響き渡る。

 それでも丸まった布団はわずかにもぞもぞと動くだけ、中の人間が起き上がる気配はない。

 あやめは声を更に張り上げて、叫び続けた。


「朝ごはん冷め……いえ、兎に角、まず起きて!」


 その手捌きは最早芸術の域。

 鮮やかなまでの連打を布団に接近させ披露してやや暫し、漸く布団から人影がゆるゆると起き上がる。


「おはようございます……。あやめさん、今日も元気ですねえ……」

「……おかげさまで」


 漸く第一の関門を突破したあやめは肩で息をしながら答えた。

 まだ半分程度は夢の中に微睡んでいそうな様子で起き上がった男性こそ、あやめの雇い主である作家・玄鳥げんちょうである。

 文壇において新星と名高い彼の小説は、老若男女問わず読まれており、あやめも読者の一人であった。

 情緒的で流れるような文章で、時代物をまるで見て来たかのように描写すると評判であるが、それと同じぐらい締め切りから毎度逃亡を図る編集者泣かせでも有名である。

 かなり昔に妻を亡くしてから後添えを迎える事をせずにいるらしい。

 玄鳥という名は無論筆名であるものの、実は本名は教えてもらっていない。

 人の良い印象を与えるのは良いが、何処か抜けた、草臥れて頼りない雰囲気を漂わせている。

 顔の造作はけして悪くない。冷静に見たならば、むしろかなり整っている方だ。気合を入れてしゃんとして、なおかつ黙ってさえいれば女性が色めき立つであろう美男なのは間違いない。

 なまじの女よりも艶やかで長い黒髪をさらりと揺らしながら、玄鳥は呑気な様子で欠伸をひとつ。

 髪も瞳も射干玉、肌もきめ細かい、ひとつひとつはこれ程恵まれているのに。これも宝の持ち腐れというのだろうな、とあやめは遠い目をする。

 しかし勿体ないと黄昏ている場合ではない、まずしっかり起きてもらって食卓についてもらわねばならない。

 流石に着替えを手伝うのは気が引けるどころでは無いため、着替える着物を用意して部屋外に出て定期的に声掛けを行う。

 何度か声をかけながら様子を伺っていれば、やがて扉を開けて着替えた玄鳥が姿を現した。

 よれよれな襟元などを整え、帯を直すぐらいは許されよう。斜めの眼鏡も直し、身支度の最後の仕上げをしてあげると、まだ少し夢見心地な背中を押して進ませ朝餉の席についてもらう。

 綺麗な箸使いで瞬く間に朝餉を平らげた玄鳥は、満面の笑顔で今日もあやめに礼を言う。


「ああ、今日も美味しいです! ありがとう、あやめさん」


 玄鳥は、食事は褒めながら実に幸せそうな笑顔で食べてくれるので、作る側としてはとても気分が良い。

 そこに至るまでの疲労も、少しは癒されるというものである。女中にいちいち感謝を伝える雇い主など珍しいのだが、彼は感謝を惜しむ事はない。あやめは、それがこの人の美点と日頃思っている。

 いい人なのだ、そう『あれ』さえなければ……。

 物思いに耽りそうになったあやめを、玄鳥が引き戻す。あやめさん? と怪訝そうな顔で覗き込んでいるのを見て慌ててそちらを向く。

 玄鳥は今日出版社へと足を運ぶ事になっているようで家を開けると言う。了承の意を伝えて朝餉は終わりとなる。

 主の姿を見送ってから後片付けに、家の掃除に……と頭の中で段取りつけながら、あやめは歩く。

 この家の朝は、そんな調子で過ぎていくのだ。







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