第30話 あなたのそばに

 ノアの熱意に押されて、廊下を歩くこと数分。セシルは帝国軍の幕僚陣がオフィスを構える区画を歩いていた。


 なんでこんなところを……と思わないでもない。しかも、なぜかノアが先導者なのだ。何を企んでいるのだろう。それぞれの部屋の中に人の気配はあるものの、廊下を誰も歩いていないのも不気味だった。


「ノア……」


「はい」


「そろそろなんでこんなところに俺を呼んだのか、教えてくれてもいいんじゃないか?」


「ダメです」


 心身共に成長したノアは、少し頑固さも兼ね備え始めたように思う。はぁ、と特大のため息をついても、歩を緩めてくれる様子はない。


「こちらです」


 ようやく到着したのは、応接間のようだった。ドアを開けた先には皮張りのソファが一対と、天鵞絨ビロードのカーテンが引かれた豪奢な窓。まさに帝国人好みの部屋だなとぼんやり考えながら入室して、足が止まった。


 窓際に、こちらに背を向けて立つ男。


 ワインを溶かし込んだような赤毛の、背の高い男。


 言葉が出ない。


 どうして。


 だって、あの時、ヴェルダンディに残してきた部下からの報告もあったのに。


 扉の閉まる音で、男がこちらに振り返る。


 咄嗟にノアを見るが、ノアの姿は部屋の中になかった。


「ぁ……」


 視線を戻すと、金色の瞳と目が合った。


 声が出ない。

 身体が固まってしまって、動けない。


「ツェツィーリア」


 柔らかな声が、セシルの耳を撫でる。聞き慣れてしまった偽名がとろりと身体の芯に染み込んで、途端に湧き上がった感情を制御しきれなくなり、涙となって溢れ出す。


「どうし、どうして……」


「………」


「だって、おまえ、死んだって……」


「ごめんね、ツェツィーリア」


 何に謝っているのか。


 なぜ謝るのか。


 涙が止まらない。


 どうすることもできなくて、膝が折れる。

 呼吸が苦しい。


 目の奥がチカチカと明滅する。

 彼の柔らかな微笑みが、涙で滲んでよく見えない。


 膝が折れたセシルの方へ歩み寄る音が聞こえたが、動けそうになかった。


「ツェツィーリア」


「どうして……なんで、」


「会いたかった。ツェツィーリア」


「う゛、ぁ……やだ、ヴェルト……」


「会いたかった」


 目の前にしゃがまれたと分かった瞬間、痛いぐらい強く抱きしめられた。香るにおいも、ぬくもりも、あまりにも懐かしく、そしてずっと求めていたものだと分かってしまった。


「ヴェルト……ほんとに……?」


「うん」


「ほんとに、生きてる」


「うん」


「俺、おれ、」


 考えがぐちゃぐちゃでまとまらない。

 かき抱くようにジークハルトの背を掴む。


「あいたかった」


「うん」


「ヴェルト、会いたかった……っ!」


「ぼくも、会いたかった」


 その声に、言葉に、応えたいのに嗚咽しか出てこない。

 彼の死を知ったあの日に閉じ込めた感情が溢れ出て落ち着くまで、ジークハルトはいつまでも強く抱きしめていてくれた。


 *****


 わんわん声を出して泣くツェツィーリアを見たのは、これが初めてだ。存外子供っぽい泣き方だな、と思い、それすらも愛しさが胸を打つ。


 泣き声が落ち着いた頃、ソファに彼を座らせてタオルを差し出すと、真っ赤になった目のまま距離を取られて睨まれた。手に持っていたタオルはサッと取られてしまい、猫のようだなと思う。


「……なんで……」


「なんでって?」


「だって、ナイフが腹のど真ん中を貫通したって、報告で……」


 それに関しては、ジークハルト自身もよく分かっていない。医者が言うには、本当にギリギリのところだったらしい。太い血管を避け、肺と心臓を避けたナイフ。出血死しかねなかったらしいが、そこは即処置されたおかげで命を取り留めたらしい。


 あとは若さだ、と言った医者の顔を思い出し、彼らから言われた言葉をそのまま伝えると、ツェツィーリアは苦い顔をしてこちらを見た。


「どんだけ図々しい神経してるんだ、お前」


「こればっかりは、図太い神経に生まれたことに感謝だね」


「言うことまで図々しい……」


「ツェツィーリア。会いたかった」


 荒れた目尻を撫でようとすると、ツェツィーリアは不貞腐れたような顔をして顔を背けてタオルの中に埋めてしまう。


 顔が見られなくなったことに一抹の寂しさは覚えたものの、見慣れない彼の格好をまじまじと観察することで紛らわせた。


 軍帽姿が可愛らしいと言ったら殴られそうではあるが。


 座り方も、あの頃のようにシナは作らず、そこそこ広めに足を広げ、膝に肘を乗せて、どこからも艶かしさは感じないというのに。それなのに、やはりジークハルトにとっては、愛しさが募るばかりだった。


「ツェツィーリア」


「……ンだよ」


「あ、セシルって呼んだ方がいい?」


 一応、ツェツィーリアという名前は彼の偽名だ。源氏名として使っていた名前をいまだに呼ぶのは、彼のプライドが許さなそうだと思っての提案だったが、予想に反してタオルから少し顔を上げたツェツィーリアにジロリと睨まれた。


「……いい。そのままで」


「そう?」


「……ん。お前に、前にセシルって呼ばれた時、鳥肌がすごかったから……」


 それはおそらく、彼が『ミュンヒハウゼン伯爵』としてジークハルトと対峙した時のことを言っているのだろう。セシルと呼べと言ったのは彼自身だったが、あの涼しげな顔の下でそんなことになっていたとは。今更ながら口元が緩む。


「あの時は、なんで鳥肌が立つのか全然分からなかったけど……お前が死んだって聞いて、理解した。理解したくなかったけど……」


「なにを?」


「うるせぇな。言わない、絶対」


 ぷい、とまたツェツィーリアの顔がタオルに埋まる。


 ああ、抱きしめたい。抱きしめて、彼の髪に指を通して、そうして彼の言葉を聞いてあげたい。色濃く出てしまっているクマを撫でて、まろい頬に口付けたい。


 だがどうも、この拳一つ分空いた距離が埋められそうになかった。


 ツェツィーリアから放たれる不機嫌なオーラがそうさせているのも理由だが、ジークハルト自身が、おそらく怯えている。


 もし手を伸ばして、ツェツィーリアに拒絶されたら。


 それが、怖くて仕方がない。

 そっと持ち上げた手を、何度も下ろす。こうして、ようやく会えたのに。会えたからこそ、どうしても臆病になってしまう。


「ツェツィーリア」


「………」


「ツェツィーリア」


「ああもう、なんだよ! 何度も呼ぶな!」


「ツェツィーリア」


「だから、呼ぶなって……」


「何度でも呼ぶよ。だって、ずっと会いたかったんだ、ツェツィーリア」


 死の間際。本当に、死の間際に、心残りを思い出してしまった。


 無意識に手を伸ばした先に、ツェツィーリアがいたのに。言葉を詰まらせ、美しく輝く瞳でこちらを見つめるツェツィーリアに手を握られた、あの時。意識が途切れる寸前。脳裏に浮かんだ、心残り。


 ツェツィーリアを、もう一度抱き締めたかった。

 キスをしたかった。


 彼の本心を、きちんと聞けなかった。


 ツェツィーリアは、煙のように消えた。ジークハルトの入院先に送り付けられた小切手(今までツェツィーリアに支払った金が全額返ってきた)と、さっぱりとした手紙と共に。


 太陽の橋の向こうにあった娼館も、いつの間にか消えていた。


 ひどく無味乾燥としたさよならに、どうにか折り合いをつけようと頭では理解し、そうしてきたつもりだったのに。心残りは作るものでは無いな、と自嘲する。


 会いたかったともう一度言うと、ツェツィーリアがタオルから顔を上げてくれる。が、こちらを見ようとしてくれない。


 シンと沈黙が走る。


 それに居た堪れなくなったのか、ツェツィーリアは手慰みにタオルをいじり、スンと鼻をすすった。


「俺だって、会いたかったよ……」


「ツェツィーリア」


「でも、お前はもうどこにもいなかった。どんなに頑張っても、俺はいつまで経ってもお前のところに行けなかった」


「……それは、」


「勘違いすんな。後追いなんてダサい真似、俺は絶対しない。……ただ、そういう機会があって、病院で目が覚めた時、お前がいると思ってた場所に行けなかったと知った時は、さすがに絶望した。どう頑張っても、お前と俺は一緒になれないんだって、思ったんだ」


 絞り出すように呟くツェツィーリアの声は、震えている。タオルをいじる細い指が、カタと震えたのを見て、それでも抱きしめられなかった自分が悔しい。なぜ、理性と本能は、こういう時だけは結託してくるのだろう。


「まぁ、今思えば、あっちに行かなくて正解だったわけだけど」


「………」


「なぁ、ヴェルト」


「なぁに?」


「……その、えっと……」


 ツェツィーリアからの言葉を待つ。


 どんな罵詈雑言も受け止める覚悟だ。ツェツィーリアの気持ちは、先ほど会いたかったと叫んだあの言葉に込められていた。だからこそ、彼の本音を全て受け止めなければいけない。


 ジッと待っていると、ツェツィーリアはウロウロと視線を彷徨わせ、そして控えめにこちらを見た。その視線に怒りを感じず、思わずキョトンと見つめてしまった。


「ツェツィーリア?」


「あの……今は、その……ぎゅって、してくれないか?」


 そう言って、おずおずと両腕を開いてこちらに向き直ったツェツィーリアの顔が、赤い。

 言い終わらないうちに、拳一つ分の距離を詰めて、その小さな身体を抱き込んだ。


 柔らかな髪は軍帽に阻まれるものの、香るにおいも、細い身体も、あの頃と何一つ変わらない。


 ツェツィーリアの手が少しためらいを見せたあと、ジークハルトの背に回ったのを感じて、ますます抱きしめる力を強めた。


 肩口に顔を埋めたツェツィーリアに、ヴェルトと小さく偽名を呼ばれる。それに、彼の耳元に唇を寄せて応えると、また偽名を呼ばれた。


「なぁに、ジルケ」


「……ヴェルト」


「うん」


「あいたかった」


「うん。ぼくも」


「会いたかったんだ、本当に」


「うん」


 消え入りそうな声を逃すまいと、ジークハルトは耳をそばだてた。ツェツィーリアもまた、ジークハルトの熱を取り込もうと必死に縋り付いてくる。

 戦争が終わった今、二人を隔てるものは何もない。それが、ジークハルトにとって最大の喜びだった。


 彼の後ろ髪を撫でていると、ツェツィーリアがぐっと胸を押してくる。少しだけ抱きしめる力を緩めると、ツェツィーリアがこちらを見上げてきた。


 期待と恐れが入り混じった紫水晶の瞳に、にこりと微笑んで、彼の小さな唇に口付ける。そこだけは慣れた様子で目を閉じたツェツィーリアに、あの頃に戻ったような感覚を覚えた。


 二度三度と口付けるたびに返ってくる柔らかな感触に、少しだけかさつきが加わっていて、あまり本調子でないのだと分かった。そういえば、ノアが「医者に怒られる始末」と言っていたのを思い出す。


 そっとツェツィーリアの背中から腰にかけて撫でると、あの頃と同じままの感触が返ってきた。それは、本来なら絶対にあり得ないことだ。


 シャツの下に更に着込んでいるのか、感触は布独特の固さがあるものの、指にあたるゴツゴツとしたものはおそらく骨だ。肉らしい肉がない。


「ツェツィーリア、前に比べて随分痩せたようだけど、もしかしてちゃんと食べてないの?」


「え、あー……ええっと……」


 キスの合間に指摘すると、ツェツィーリアはあからさまに焦り始め、顔を逸らしてしまった。


「飛行機で会った時はもう少し太ってたよね?」


「太ってたって言うな。適正体重の範囲だ」


「今は?」


「……………」


「ジルケ」


 咎めるような声が出てしまったが、止められない。黙ってしまったツェツィーリアの頭にキスを落とし、ひとまずこの話は置いておくことにする。

 今は、こうして会えた喜びを分かち合いたい。


「ジルケ」


「……うっ、いや、その、食べてはいたんだけど、仕事が忙しくて、」


「それはまた今度聞くよ。ねぇ、こっちを見て、ツェツィーリア」


 髪を撫でていた手でツェツィーリアの頬に触れると、渋々といった風にこちらを見上げてくる。そうやって全てジークハルトのせいにするかのような態度は変わらないな、と笑うと、ますます不貞腐れたような顔になった。これで既に三十歳を越えたというのだから恐ろしい。


「キスさせてよ、ね?」


「うぅ……」


「嫌?」


「嫌じゃ、ない……」


 まだ涙で濡れていた瞳に、少し熱がこもったのが分かった。


 これ以上やったら、止まれそうにない。

 そう頭では理解しているものの、キスをやめる選択肢もない。


 チラ、とツェツィーリアの背の向こう側にかけられた壁掛け時計を見る。

 一応、ノア経由でレイリーから許しを得たのは三十分。泣き止むのを待つ時間が少々長かったから、逢瀬の猶予はあと十分ほどだ。時間になったら、ノアが部屋をノックする手筈になっている。


「ん……ヴェルト?」


「……ううん、なんでもない」


 愛しい人からの催促の方が大切だ。軍帽が落ちないよう気をつけながら頭を支えて、ジークハルトはまた柔らかく甘やかなキスをツェツィーリアへ施した。


「ツェツィーリア、愛してる」


「俺も、好きだ、ヴェルト」


 甘い声で、囁かれた言葉。

 

 その言葉が嬉しくて、もっとと唇を追いかけて、ツェツィーリアの舌を絡めとる。

 咥内の奥まで舐め取ると、さすがにツェツィーリアから抗議されてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る