第3話 小さなミスは取り除いて 1

 架空歴四八六年一月


 仕事で、帰りがだいぶ遅くなってしまった。


 普段は残業なんてしない二人であったが、軍内で密かに流行している麻薬について聞き取り調査をしていると、気づいた時には外は真っ暗になってしまっていたのだ。


 慌てて外套を羽織り、外に出たは良いものの外はバケツをひっくり返したような土砂降りの雨。車の中でもうるさいくらいだった。


「まったく……今日はついていないな、ジークハルト」


「そういう日もありますよ、フェリックス様。早く帰りましょう」


「そうだな。……まったく、例の薬についてはまるで尻尾すら出てこない。実に腹立たしい」


「ええ。そうですね」


 いくら尋問を行おうと、バイヤーについて何も出てこないのが不気味だ。購入ルートもなにも出てこない。自作にしては効能はしっかりしていて、バラつきもない。最悪だった。


 大雨の空を車内から見上げて、フェリックスは苛立たしげに息を吐いた。


「早く帰って、温かいスープでも用意してもらいましょう」


「ああ。熱い風呂にも入りたいな」


「ええ、そうですね」


 フェリックスが借りているアパートメントの前に到着し、先に降りて傘を差し出したジークハルトを見上げて、フェリックスがクスリと笑う。


 そんな時だった。ふと遠くからバシャバシャと大きな水音を立てて走る音が聞こえた。


 その音にフェリックスも気づいたようで、音の出る方角を見た。雨音の中に、何か罵声のようなものも聞こえる。


「なんだ……? 喧嘩か?」


「憲兵隊に連絡を、」


「待て。こっちに来るぞ」


 走ってくる音が近くなる。

 音の聞こえる方を見ると、街灯に見窄らしい格好をしたずぶ濡れの青年が照らされ、彼がこの水音の原因だと悟った。よく見れば彼は裸足で走っていて、服もズタズタに破られている。痛々しい怪我も見える。追われているのも彼のようで、しきりに後ろを確認していて、こちらの存在に気づいていない。


「おっ、と」


「……っ! ごめん! 通して!」


 案の定こちらに気づかないままドンッとジークハルトにぶつかった青年から、なぜか聴き慣れた声が出る。その声に、咄嗟に青年の腕を掴むと、ずぶ濡れの髪から紫の瞳が覗き、青年は驚いたように顔を跳ね上げた。こちらを見上げる右目の泣きぼくろに、やはり見覚えがある。


「おい! 離せよ!」


「ツェツィーリア?」


「へ? ……ヴェルト?」


「どうして、こんな……、っ!」


 遠くで、荒々しい罵声が聞こえてくる。

 咄嗟にフェリックスと目配せをして、困惑しているツェツィーリアにジークハルトの外套を頭から被せた。サッと彼を背に隠したところで、レインコートを纏いライトを持って走ってくる数人の男たちが現れる。彼らの纏う服は私兵の制服で、軍所属の憲兵とは少し違う。どこかの貴族に雇われているのだと一目で分かった。


「あんたたち、こっちに男が走ってこなかったか?紺の髪の、目元にほくろのある男だ。背はあんたたちよりも低い」


「……いったい何事だ」


「旦那様がその男を高い金で買ったんだが、そいつが旦那様を突き飛ばして逃げやがったんだ」


「男娼か」


 フェリックスの冷めた声に、ビクリ、と背後で震える感覚があった。ジークハルトの軍服をおそるおそる握った彼の手から、助けを求められていると知る。男たちに気づかれないよう、背にそっと手を回して震えるツェツィーリアの手を優しく握った。


「だから言ったんだ、あんな男娼風情に薬使うのはもったいないって」


「仕方ないだろ、旦那様が使えっていうんだから」


 ジークハルトたちを放って何やら言い争いを始めた男たちを見て、フェリックスが大きくため息を吐く。


「お前たちが探している者かわからないが、男なら向こうに走って行った。それ以外は知らん。さっさと行け」


「ありがとう、感謝する」


「おい、さっさと探すぞ!」


 男たちはバタバタと、フェリックスの指し示した方向へ走って行った。その背中が完全に見えなくなってから、フェリックスとジークハルトは大きく安堵の息を吐く。


「はぁ……この俺が、嘘の片棒を担ぐなど……」


「ありがとうございます、フェリックス様」


 そっと、握っていた手を引きながら背後を見る。ジークハルトの外套を頭から被ったまま、おそるおそるこちらを見上げたツェツィーリアの格好は、やはり酷いものだった。

 シャツはほとんど形を成しておらず、ズボンも下の肌ごと切り裂かれていた。足元は裸足で泥まみれ。途中で転んだのか擦り傷もできているし、男たちの話が本当なら薬の類を使われているはずだ。握った手は氷のように冷たく、この雨で冷えたのか、薬のせいかは分からない。


「もう大丈夫だ、ツェツィーリア」


「あ、ありが、とう……」


「帰るあてはある?」


「………」


 ジークハルトの問いに、ツェツィーリアはふるふると首を振った。ぎゅう、と震える手がジークハルトの手を握ってくるが、諦めているのか、フイと顔をそらされた。


「ジークハルト。そいつの介抱をしてやれ」


「は……フェリックス様?」


「怪我をしているんだろう。それに、その格好では外を歩くにも目障りだ。早く中に入るぞ」


「……っ、はい。フェリックス様」


 フェリックスなりに、気遣ってくれたのだと分かる。不安そうにこちらを見上げてくるツェツィーリアの手を離してそっと抱き寄せると、びくりと彼の身体が震え、そして控えめに軍服を握られる。早急に、震える身体を温めてやらなければならない。


「おいで、ツェツィーリア」


「……ん」


 できる限り熱を分け与えたくて強く抱き寄せて、玄関に向かった。


 *****


 まだ起きていた大家のカイテル夫人とキール夫人に事情を話し、急いで風呂の準備をしてもらう。

 ずぶ濡れで更に裸足であることを理由に最初は家に入るのを拒まれたが、ジークハルトが問答無用で抱え上げるとツェツィーリアは諦めて大人しくなった。


「コート、ごめん。いっぱい汚しちゃった」


「いいよ。気にしないで」


 脱衣所にツェツィーリアを下すと、あとは自分でできると言ってボロボロの服を脱ぎ始めた。

 冷えたせいで真っ青になった身体には他に目立った傷は無く、ほっと安堵する。後のことは夫人たちにまかせて、ジークハルトは脱衣所の扉を閉めた。


「あの者と随分親しいようだな、ジークハルト。もしかして、先日言っていた約束の相手というのは、あの者のことか?」


 暖炉をつけた客間で窓の外を見ていたフェリックスに近づくと、冷ややかに問われる。思わず言い淀んでしまうと、こちらの反応がいたく面白かったのか、先ほどの声とは裏腹に、クスクスと笑われた。


「咎めようとは思っていないから安心しろ」


「は……申し訳ありません」


「いい。お前のそういう相手が男だったことに驚いただけだ。……あの者には何があったのか、詳しく聞かなければならない」


「薬ですね」


 二人でソファに移動して、カイテル夫人が用意してくれた温かいコーヒーに口をつける。冷えた身体が中から温められて、頭も冴えてきたかのようだ。


「ああ。逃げてこられた、ということは、そこまで強い薬ではないのだろうが……」


「前に報告のあったものでしょうか」


「それならいいんだがな……探す手間が省ける」


 しばらくして、キール夫人に連れられてツェツィーリアが客間にやってきた。寝巻き代わりにもなれば、と夫人たちが渡したワンピースシャツ姿だった。


 血行の良くなった桃色の肌が実に健康的で良い。


 裸足だった足元は怪我の手当てがされており、傷に触れないようスリッパだった。どうやら足裏も酷い怪我をしていたらしい。シャツとスリッパの隙間から覗く包帯が痛々しかった。


 ツェツィーリアは、フェリックスがいることに驚いたようで、ドアのところからぴたりと動かなくなってしまった。手招いても、首を横に振られてしまう。


「ツェツィーリア」


「……こんなこと、俺なんかにしてくれなくていいのに。ありがとう」


「いいんだ。私がしたかっただけだから。おいで」


 ジークハルトの声に、ツェツィーリアは諦めてのろのろとジークハルトのそばに寄った。まだ遠慮するツェツィーリアの手を引いて横に座らせると、スリッパを脱いだ彼はソファの上で膝を抱えて小さくなってしまう。温かいコーヒーも嫌だと首を振られた。


「ツェツィーリア、どうしてあんな追われる羽目になったんだ?」


「………」


 言いたくないのか、フェリックスの存在が気になるのか。おそらくどちらともなのだろう。ツェツィーリアは口を開こうとしない。チラチラとジークハルトとフェリックスを交互に見やり、首を小さく横に振る。


「俺がいることがそんなに不満か?」


「フェリックス様……」


「不満じゃない。けど、俺がなんであんなとこにいたのか言ったって、あんたには関係ない」


 冷めたフェリックスに、ツェツィーリアから反論が飛ぶ。ばっさりと言い切った彼に、フェリックスの眉間に皺が寄った。


「関係ない、とはどう言う意味だ」


「そのままの意味だ。なんであんなところにいたのか、なんであんなことになってたのか……言ったって、あんたたちには関係ない」


「関係なくはないだろう」


「関係ない。だって、あんな風になるのは、俺らにとっちゃ日常茶飯事だからだ」


 知らなかっただろ、とツェツィーリアは言う。


「知らなかった、のは確かだけど……なら、ツェツィーリア。薬を飲まされたようだけど、身体は平気?」


「……ん。別に、なんともない。今日の分を飲まされる前に逃げてきたし」


「今日の分?」


「うん。七日間くらいかなぁ。毎日飲まされてたんだけど、さすがに薬と水だけじゃ腹が膨れなくて」


 なんでもないことのようにツェツィーリアは呟いた。つまらなそうに包帯から覗く足の指をいじっている。


「太陽の橋でぼーっとしてたらおっさんに声かけられて、飯と金くれるって言うからついて行ったんだ。そしたら目隠しされて、車に乗せられて……気づいたらどっかの地下室にいた」


 ポツポツと話し始めた内容に、自然とジークハルトの眉が寄る。


「そこで粒みたいな薬と、甘い液体を飲まされた。で、そこまでは別にいいんだけど、いつまで経っても飯はくれないし、金もくれないから、隙をついて逃げたんだ」


「その薬とやらは、飲んでも平気なものなのか?」


「そんな訳ないじゃん。明らかに飲んじゃいけない色してたもん。粒の方は飲んだら身体に力入んなくなるし、甘い方は身体が熱くなってくるわ、おっさんが女に見えるわで大変だったんだからな」


 催淫作用と幻覚作用。どうやら、甘い液体の方は報告書にあったもので間違いないようだ。


「なぜ、危険なものと分かりながら飲んだ?」


「そんなの決まってんだろ。飯と金が欲しかったから。それなのに、いろんな理由つけて飯も金も渡さず、おっさん以外のやつらも相手させられてさぁ。もう腹が立つのなんのって」


 ツェツィーリアの吐き捨てるような言葉に、フェリックスは言葉もないようだった。


「こんな仕事していて、学がない、文字も読めない俺だけど、さすがに扱いが酷すぎる。あーあ、腹に一発キメてくればよかった。この七日間があったら、どれだけ稼げたことか」


 従卒にもなれない最貧困層がどのような生活をしているのか、話には聞いているが実際に目の当たりにするのは初めてだろう。ジークハルトも、ツェツィーリアの話を聞くまでは同じ気持ちだった。


「その男はどこの誰だ?」


「知らない」


「………」


 それもそうだろう。ツェツィーリアにとって、男はただの客であり、金さえ貰えればそれでよかったのだ。向こうも素性を明かさず好き勝手できる相手として、ツェツィーリアのような者を買う。

 それはそれとして、フェリックスのこめかみがヒクヒクし始めたので、何かしらの情報は得たいところだが。


 そこでふいにツェツィーリアが口を開いた。細い指がフェリックスとジークハルトの服を指す。


「ああ、でも、あのおっさんはたぶん、軍人さんだ」


「……ほう?」


「あんたたちと同じ服着てた。おっさんの取り巻きも。あと、なんだっけ……皇帝陛下に謁見するとか、今度の出征がどうとかなんとか言ってたから、たぶんあんたたちも知ってる人なんじゃない?」


「その男の特徴は?」


「髪は黒、デブ、頬に火傷の痕があった。背は俺と同じくらい。いつも右に体重をかけて歩いてるから、足音が変」


「ふむ……」


 フェリックスと目配せをする。すぐに該当者は判明しそうだ。

 ただの足切りにしかならないだろうが、男へ突きつける証拠と処罰をどうするか、と考えたところで、くぅう〜と控えめで少し間抜けな音が聞こえてきた。音の出どころはジークハルトの真横で、思わず二人でそちらを見ると、ツェツィーリアが首まで真っ赤に染めてますます小さくなっていた。ジッと見られていることに気づいたようで、ツェツィーリアが絞り出すように呟く。


「しょ、しょうがないだろ、まともに飯食べてないんだから……」


 意識したら途端に空腹を自覚したのか、またくぅくぅと小さく聞こえてくる。それに思わず笑ってしまうと、痛くない拳がジークハルトの肩に触れた。


「すぐに食事を準備してもらうよ」


「……いらない」


「食べてないんでしょう? 少しでもなにか食べないと」


 スープか何かでも食べないと倒れてしまう。夫人へ食事を用意してもらおうと腰を上げた時、ツェツィーリアは抵抗する気力が削げたのか、空腹には勝てなかったのか、もう何も言わなかった。


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