第2話 これが恋なら残酷だ

 ツェツィーリアが言った通り、彼はほとんど毎日太陽の橋の前にいた。昼間はたまにその橋の欄干に座ってぼんやりしているのを見た。


 それにいつでも声をかけられるわけもなく、既に彼が客に買われたところであったり、どこかへ移動しようとしている瞬間であったりと、なかなかタイミングが掴めない。


 さらに、ジークハルトが第六次イングナ・フレイ攻防戦へ出征したこともあり、ようやくツェツィーリアと話ができたのは、初めて彼と過ごした日から三ヶ月経っていた。


 休日にたまたま見つけたツェツィーリアは、珍しく夜の太陽の橋ではなく、昼間の町外れのたばこ屋の前にいた。たばこ屋の店主と親しげに話しているところを偶然道路の反対側で見つけて、パチリと彼の紫水晶の瞳と目が合った。


 軽く手を振ってみると、ツェツィーリアは店主との話を切り上げてこちらに駆け寄ってきてくれた。嬉しそうに「ヴェルト」と偽名で呼ばれて、こちらも「ツェツィーリア」と三ヶ月ぶりに彼の源氏名を舌に乗せる。


「久しぶり、ヴェルト。今日はどうしたの? あ、こっちに何か用事でも?」


「いや、ちょっと近道しようと思って」


 嘘ではない。フェリックスとの待ち合わせ場所に行くには、この町外れの道を進むのが一番早い。ツェツィーリアはそれに「ふーん」と返事をして、何かを考えるように頬を人差し指で叩いている。


「ツェツィーリアは? どうしてこっちに?」


「ん? んー、たばこ買いたくて。安いの、こっちにしか売ってないんだよね」


 そう言ってポケットからたばこの箱を出して振る。


 そういえば彼は喫煙者であったな、と初めて会った日を思い出す。庶民にとっては非常に高価なたばこだが、ツェツィーリア曰くそこの店主は割と良心的な値段で売ってくれるそうだ。非喫煙者であるジークハルトには分からない世界だ。


 なるほど、と納得していると、ツェツィーリアの手がこちらの軍服の袖を遠慮がちに摘んできた。どうしたのかと彼を見ると、照れたように笑われる。


「ヴェルトに会えたのが嬉しくて」


「ぼくも、会えて嬉しい」


 あの日の夜を忘れるわけがない。袖を握っていた彼の小さな手を取って握り込むと、ツェツィーリアはまるで恋人同士のように指を絡めてきた。彼の少し低い体温が心地よい。


「ヴェルトは今日はお仕事?」


「いや、休みだよ」


「お休みなのに、軍服着てるの?」


「うん。ちょっとこれから出掛けなきゃいけなくて……」


「どこ行くの?」


「友達と、友達のお姉さんに会いに」


 さすがにフェリックスの名前を出すのは憚られた。フェリックスはこの帝都ではかなりの有名人であり、そこから芋づる式に自分の素性がバレるのは、なんだか気恥ずかしさもある。


 事実のみを端的に伝えると、ツェツィーリアは「大変だね」とだけ言った。


「お仕事は忙しい?」


「まあ、そこそこ」


「そっか。ねぇ、ヴェルト。ヴェルトは、もう俺のことは買ってくれないの?」


「えっ」


 ツェツィーリアの言葉に、途端に現実に引き戻されたかのようだ。


 きょとんとこちらを見上げてくるツェツィーリアに、ヒクと口角が引き攣った。


 彼にとって自分は客で、金という細い線でしか繋がりがない。たかだかあの一晩だけでその関係性が覆るわけがないのだ。


 ただ、このハンマーで殴られたような衝撃は何なのだろう。


「? ヴェルト?」


 こちらを見上げてくるツェツィーリアの瞳に嘘はない。彼と自分の間にある溝の大きさに、くらくらと目眩がしそうだった。


「どうしたの?」


「……いや、なんでもない。ツェツィーリア、今日の夜は空いてる?」


「うん、空いてる」


「そう。なら、太陽の橋で待っていて欲しい」


「いいよ、わかった」


 ああ、そんなにも嬉しそうな顔をしないで欲しい。誤解してしまう。


「あ! ねぇ、ヴェルト。お願いがあるんだけど、いい?」


「お願い? ……なぁに?」


 先ほどとは打って変わって、少し言いづらそうに躊躇うツェツィーリアは、少しして決心したようにこちらを見上げてきた。きゅう、と握っていた彼の手に力が入ったので、彼の緊張を解いてあげようとゆっくりと親指でツェツィーリアの手の甲を撫でてあげた。それに合わせるように深呼吸を繰り返したツェツィーリアが愛おしい。


「あの、あのね。今日、ヴェルトがよかったら、ずっと一緒にいてほしいんだ」


「え?」


 ずっととは、と聞くと、ツェツィーリアはまた少し悩んだ後「明日の朝まで」と言う。


「今日って、えっと……お休みの次の日の次の日でしょ?」


 お休みの次の日の次の日。なんのことだ、と一瞬考えて、それがどうも曜日を指すのだとわかった。「火曜日のこと?」と聞くと、「そうそれ」と言われる。


「火曜日になると、ちょっとめんどくさい人が俺のこと待っててさ……向こうが客なのにお金くれって言ってくるし、痛いことばっかりするし、あんまりその人の相手したくないんだよね。断っても追いかけてくるし。だから、ヴェルトには申し訳ないんだけど、助けてほしいんだ」


 だめかな、なんて少し諦めた色を乗せて言われてしまうと、否なんて言えるわけがなかった。


 努めて冷静に「いいよ」と答えると、ツェツィーリアはホッとしたように息を吐く。そしてまた嬉しそうに笑った。


「よかった。まだ1回しか会ってないのに、こんなこと言うの変かもしれないけど……こういうの頼めるの、ヴェルトしか思いつかなかったんだ。よかった、今日ヴェルトと会えて」


 それと、とまだ彼は続ける。


「あの日からヴェルトに会えなかったの、実はちょっと寂しかったんだ。もしかしたらあの日だけで終わりになっちゃったんじゃないかって、ちょっと不安だった。ヴェルトが今日俺のこと買ってくれるって言ってくれて、ほんとに嬉しい」


 じゃあまたあとでね、と言ってあっさり離れた手を、無意識に追いかけてしまう。それに気づくことなくツェツィーリアは走って行ってしまった。


 心臓の鼓動が痛い。


 こんなにも残酷な恋があっただろうか。


 *****


 今日は、ジークハルトにとって、とてもとても大切な日である。


 フェリックスの姉、エミリアに会いに行く日だ。


 エミリアは幼少の頃から身体が弱く、帝都の療養地に家を構え、そこで暮らしている。出兵命令が無い時は、最低月に一度は必ず会いに行っている。


「まぁ、二人とも。いらっしゃい」


「姉さん」


 仕事を離れ、フェリックス・フォン・ビューロウ大将から、ただのフェリックス・フォン・ビューロウになるこの瞬間。フェリックスにとっても、仕事のストレスから解放されるこの時はとても大切な時間である。それに同行させてもらえる自分は、なんて幸運なのだろうと思っていた。


「エミリア様。お久しぶりです」


「ふふ、久しぶり。今回は随分長く外に出ていたのね」


「えぇ、姉さん。ですが、戦争の話は止めましょう。今日は街で評判のタルトを買ってきたんです」


「ありがとう、フェリックス。いつも悪いわね」


「いえ。姉さんの口に会えば幸いです」


「……」


 あぁ。美しき、姉弟の再会だというのに。

 どうしても、ツェツィーリアのあの笑顔が心に引っかかる。

 エミリアとフェリックスと共に摂る貴重なティータイムで、こんなにも気がそぞろになるなんて初めてのことだ。


 バルコニーを吹き抜ける風に乗った花の香りも分からないし、せっかくエミリアが淹れてくれた紅茶も、なんだか今日は味がしない。


「ジークハルト。ジークハルト?」


「……っ! はい、なんで、しょうか」


「どうしたの、ジークハルト。さっきからずっと上の空だわ」


 エミリアに声をかけられて慌てて意識を戻すと、なぜかフェリックスの姿がない。驚いて周囲を見渡すと、エミリアが苦笑していた。


「フェリックスなら、さっき仕事の電話が入ったって席を外したわ」


「そう、でしたか」


「珍しいわね、ジークハルト。あなたがフェリックスの話を聞いていないなんて」


 どうかしたの?と優しく問われたが、居住まいを正して慌てて否定する。さすがにエミリア相手に、最近遊んだ男娼のことを考えていましたとは言えない。


「少し、仕事が忙しくて……」


「そう? ならいいんだけど。……本当に大丈夫? フェリックスに言って、少し休ませてもらったらどうかしら」


「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」


 だが、エミリアの心配そうな顔は変わらない。それがどうにも、今のジークハルトには苦痛だった。


 まだフェリックスが戻ってくる気配はない。一瞬走った沈黙に背中を押されるようにして、気づけばジークハルトは口を開いていた。


「実は、その……とある友人から、相談されていまして」


「相談?」


「はい。……友人が、随分前に街で男を買ったそうなんです」


「あらまあ」


 内容が内容なだけに、嘘をふんだんに織り交ぜてつぶやくと、案の定エミリアは目を丸くしていた。そもそも男を買うこと自体特殊なのだから仕方がない。これで実はその『友人』はジークハルト本人なのだと言ったら倒れてしまうだろう。


「それで、その方がどうしたの?」


 引かれるかと思ったが、なぜかエミリアが先を促してきた。やはりお優しい方だ、と胸を打たれる。


「えぇ。友人は、一晩買ったその男娼に、その……恋を、してしまったそうで……向こうはこちらを客としか見ていないはずなのに。不毛な恋だと悩んでいると相談されたんです」


 嬉しそうに駆け寄ってくる、そばにいて欲しいと乞い願う、恋人のように手を絡めてくる……向こうも同じ気持ちかもしれないと思ってしまうツェツィーリアの行動は、挙げればキリがない。


 護りたいと願うことは、悪いことではない。ツェツィーリアのような弱者を護ることは、天下統一へも大切なことだと思う、と無理やり理由を作ってみる。


「同じ気持ちだと嬉しいとは、思うのですが……」


「そう思う何かきっかけがあったの?」


「……助けて欲しいと、言われたそうです。誰に助けを求めればいいか分からず、その友人の顔が真っ先に思い浮かんだと」


 誰しもに言っているのだろう、とは思う。

 ただ、こちらを金としか見ていない、と言い切るには、少し違和感のある態度もある。あれがツェツィーリアの策略だとしたら、彼は相当な切れ者である。


 カップの中で紅茶が揺れる。


「友人とその人の間は、お金という細い糸でしか繋がっていなくて、友人はそれが苦しくて……でも、本心を伝えたら、その場でその関係は終わってしまうから怖いのだと」


 エミリアは、沈黙してしまったジークハルトの横で少し悩む素振りをして、そうねと呟いた。


「わたしはその方とは立場が違うけれど、でも、そのご友人の気持ちは分かるわ」


「………」


「伝えたい気持ちを伝えられないのは苦しいわよね」


「……はい」


「でもね、ジークハルト。もしそのご友人がまだその方のことを諦めきれないのだとしたら、キチンとその方に想いは伝えた方がいいと思うわ。その方はあなたと同じ軍人?」


「はい。でも、なぜ?」


「あなたたちが軍人だからよ、ジークハルト。わたしのように安全な場所にいる立場じゃないから。明日死ぬかもしれない、あさってにはどうなっているか分からない。……未練は残さない方が良いわ。伝えられる時にちゃんと伝えなさい」


 そのご友人にもそう伝えてあげて、とエミリアが微笑む。


 彼女の言葉に、ジークハルトははっとさせられた。自分たちの命は、帝国にとっても軍にとっても、とても軽く見られている。もしかしたら、今から数分後には死んでいるかもしれないのだ。


 そんな時に、フェリックスや彼の野望以外の未練が残っていたとしたら。無様に死ぬよりも酷い姿だろう。


 未練は残さないように。


 その言葉が、すとんと身体の中に入ってくる。


 ジークハルトは、先ほどとは変わってまっすぐエミリアを見て「はい」と答えた。


 *****


 エミリアの家に行くと、いつも話し込んでしまって帰りが遅くなってしまう。

 薄暗くなってきた空を見て慌ててエミリアを中に入れるのはいつものことだった。

 今日も結局話が止まらず、フェリックスと共にビューロウ家の迎えの車で帰路に着いたのは夕暮れが夜に変わる瞬間だった。


「すっかり遅くなってしまった」


「そうですね」


「ジークハルト。今日はこの後はどうする?」


 いつもなら、そう聞かれた後はフェリックスの家で共に夕飯を摂りつつ仕事の話をするのだが、今日はツェツィーリアとの約束がある。


 すみません先約が、と断ると、目を丸くして驚かれたが、フェリックスはクスクス笑い出した。唐突に笑われたことに疑問符を浮かべていると、フェリックスがひらひらと手を振る。


「いや、お前にもそういう相手が出来たんだな、と」


「え」


「いつか紹介してくれ、ジークハルト」


 ああ、勘違いされている。きっとフェリックスは、この後会うのは女性だと思っているに違いない。残念ながら、この後会うのは男だ。


 それを否定してまで話を大きくすることは憚られたので、ジークハルトは曖昧に笑って有耶無耶にすることにした。


 フェリックスとは、太陽の橋の手前で別れた。帰るのは朝かもしれない、と伝えるとフェリックスの笑みはますます深くなる。嬉しさではなく、ただただ面白いだけだろう。

 まだニヤついていた親友の顔を見て非常に心が痛んだものの、ジークハルトは質問攻めにされる前に車から離れた。


 フェリックスの車が遠ざかったのを確認して、ツェツィーリアの待つ橋のたもとへ向かう。


 時計を見れば、既に夜八時を回っている。夜に、と約束はしたものの具体的な時間を伝えていなかったなと今更気付いた。


 だがはたして、待ち人は橋の欄干に座ってぼんやりと空を眺めていた。


 今日は珍しく周囲に人の気配は無く、こちらの足音に気付いたらしい彼の紫の瞳がこちらを見る。途端に、パァッと顔が華やぎ、欄干から軽やかに飛び降りるとこちらに駆け寄ってきた。


「ヴェルト!」


「……お待たせ、ツェツィーリア」


「ううん、大丈夫。来てくれて嬉しい」


 本当に嬉しそうに笑って言うのだから、堪らない。


「あ……ねぇ、ツェツィーリア」


「ん? なぁに?」


「えっと……」


「ごめん、ヴェルト。会えて早々悪いんだけど、早く行こ。おっさんがさっきからずっとこっち見てるんだ」


 強く手を引かれる。ツェツィーリアの言う方を見ると、小汚い格好をした恰幅の良い男がじっとりとこちらを睨んできていた。


「あれが、その人?」


「そう。はぁーあ、もう嫌んなっちゃうよね。俺は別にそーゆー相手じゃないって言ってんのに、勝手に自分のモノって言い出すんだ。ほんと最悪」


「そう」


 ああ、エミリアさま……申し訳ありません。


「(どうも目の前にすると、言い出せそうにありません……)」


 自分の気持ちなんて。

 もう少しだけ、彼への想いを胸のうちに留めておくことした自分を、どうかお許しください。


 その日の戦果は、『ツェツィーリア』の愛称である『ジルケ』と呼んでもいいかと聞いて、OKを貰えたことくらいだった。

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