眠たい夜に夜更かしを

紫 小鳥

眠たい夜に夜更かしを

 僕は友人と外食に来ていた。平屋建ての洋食屋で、初めて入る店だ。

 民家を改修した洋食屋で、古民家というほどではないが、なかなかに趣がある和風の内装である。友人の後輩の勧めだそうだ。

 パリッとしたシャツにソムリエエプロンを着けたウェイターが唐草模様の暖簾をくぐってキッチンに出入りしているサマは吹き出しそうになったが、僕もいい大人なので平静を取り繕った。何度か見るうちに慣れてきたので胸をなでおろした。

 昨日は日曜日で、趣味でやっている劇団の公演が終えたところだった。一年ぶりの定期公演だった。

 劇団員は六人で、全員で夜通し打ち上げをした。おかげで今日は一日中船を漕いでいた。

 仕事終わりに仮眠をとってから改めて、友人と二人だけの慰労会に来たのだ。

 夕食を食べ終わった頃、突然の雷雨に出会った僕らは店を出られずにいた。

 ピシャッ、ドンガラガラ。

 ザァザァと叩きつける雨に交じって、腹の底に響くような雷鳴が聞こえる。

「夕立かな」

 もはや夕立と表現するには値しない時間だが、ともかく友人はそう呟いて店員を呼び止めた。

 通り雨が上がるまでと思い、めいめいで飲み物を注文する。友人はコーヒーゼリーを追加で頼んでいた。

「オムライスなんて久しぶりに食べたよ」

「僕もだ」

 ある時、オムライスを自分で作ろうとしたら、味はともかく、見た目がよくなかった。チキンライスは簡単に作れるのだが、上に載せる卵が上手く作れないのだ。破れるか、固まるか、とにかく綺麗に作れないのでめったに作らなくなった。

 一時期はオムレツを作る練習などをして、動画を見ながら練習したもんだが、一週間もしないうちに己の不器用さを嘆いて諦めてしまった。

 今日食べたオムライスは半熟のオムレツが見事な黄色い丘を作り、皿に添えられたソースとの色調が見事なものだった。やはりオムライスはこうでなくてはいけない。

「学生の頃、覚えているかい。最速のオムライス」

「もちろん。覚えてる」

 最速のオムライスと言えば、大学のカフェにあったメニューだ。オムライス、ドリンク付き、四百七十円。特筆すべきは、カフェのどのメニューよりも提供スピードが速いこと。

 生活リズムが違う友人どもと昼食に行き、次の時間に授業がある人はオムライスを頼むのだ。時間に余裕があれば他のメニューを頼む。

「あれもまた、食べてみたいもんだ」

「大学に行けば食べられるじゃないか」

「もう社会人だぜ。わざわざ大学に行くのは気後れする」

「それもそうか」

「あれは薄焼き卵だったよな」

「そう。ケチャップが格子状にかけられていた」

「ケチャップライスじゃなくてガーリックライスだった」

「大盛にするとマヨネーズを乗せてくれるんだ」

「そう、固まりで。マヨネーズはほとんど残したっけ」

「はは。懐かしいな」

 大学のオムライスに記憶を馳せていたら、頼んでいた飲み物が届いた。僕はアイスコーヒー。友人はホットコーヒーだ。

 お互いに無言で、それぞれを手繰り寄せた。僕はプチりとガムシロップを開け、山盛りの氷の上からグラスに垂らした。ストローでガラガラかき混ぜる。

 友人はシュガースティックを半分に割って入れ、ミルクポーションを三つ入れた。ユラユラとスプーンを往復して撹拌している。

 僕はアイスコーヒーを少し飲み、紙のコースターの上にグラスを置きなおす。

「さっきの話の続きだけど」

 友人は少し上を向いた。激しい光と音によって中断されてしまった話題を思い返しているようだ。

「資格の話だっけ」

「いや、勉強の話」

「そっちね」

「僕と違って、大学の時って勉強とか全然してなかったじゃん。どうしてたのかなって思ってさ」

 雷鳴の直前、僕が会社から受験を勧められ続けて逃げられなくなった資格試験の話をしていた。

「どうって……。してただろ、勉強」

「そうだっけ」

「してなかったっけ?」

「勉強していたようには見えなかったけど」

「じゃあしてなかったかもしれん。あの頃は、努力なんてしなくても知識が身についてたからかなぁ。勉強のクセがついてた、というか」

「そういうモノかな」

「社会人になってからさ、学生の頃ってすごく勉強していたように感じるよ。今は机にかじりついて勉強するだなんて無理。ゼッタイ無理だね」

 友人はムリー、と言いながらコーヒーゼリーの上のクリームに乗せられているミントをつまみ上げた。数枚のうち一枚をちぎって口に運び、またムリーと言って残りを脇に除けた。

 僕は断って残りのミントを貰った。一枚千切って食む。

「そう。勉強の仕方が思い出せなくて困ってるんだよ。久しぶりに机に向かって、さあ勉強だとなったら途端に何をしていいかわからないんだ」

「教本とか無いのか」

「あるけど、教本を前にパラパラと捲るじゃないか。すると眠くなるわけだ」

「それは昔からそうだろう」

「そうだったかもしれない」

 爽やかなミントの香りが鼻に抜けてくる。ガムでも買っておこうかなぁと、薄ぼんやりと考えていた。

「また光った」

「イチ、ニィ、サン……」

「だいぶ遠くなったな」

 僕は子どもの頃から、雷が光ると数を数える癖がある。数に三百四十を掛ければ距離がわかる。距離を知っても何にもならないが。

 とにかく秒数だけ数えれば、近づいているのか遠ざかっているのかがわかる。

 ゾウが一匹、ゾウが二匹。なんて数えてたこともあった。なんでゾウなんだ?

「そろそろ雨も上がるかな」

 僕は備え付けのペーパータオルでグラスの結露を拭った。

「過ぎてみればあっという間だったな」

「雨の話?」

「大学の話」

「そっちか」

「仕事もさ、新人の頃が遠く感じるよ。矢のごとし……ってな」

「そうだね」

「大学生に戻りたいもんだ」

「今の記憶はそのままで?」

「いや。消えてもいい」

「僕は残っていてほしい」

「つまらなくないか?」

「そんなことないと思うけど」

 ボタタ、タタ。

 大きな雫が平屋の屋根を打つ音がする。どうやら雨が上がったようだ。

 僕はグラスの底に溜まった、氷が解けた水をストローで啜った。コーヒー風味がする。底に溜まっていたガムシロップの主張が激しい。

「じゃあ、そろそろ終わろうか」

 僕がグラスを置くのを見て、友人はそう言った。胸の前に片手を掲げ、手のひらを上に向け下ろしながら軽くすぼめる。

「それ、昔からやってるけど、何か意味があるの?」

「それ?」

「こういうやつ」

 僕も同じように、手をすぼめながら下ろした。

「ああ、癖になってるんだ。本当は両手でやるんだけど……。昔小学校で流行ったんだよ。手話ができる先生がよくやってた。みんな真似してたんだ」

「ふうん」

「他にもいろいろあったよ」

 友人は少し上を向いて、また手を胸の前に持ってきた。

「嬉しい、忘れた、こんにちは、さようなら、イチ、ニ、……サン? えーと――」

 しばらくクルクルと手を動かしていたが、ほとんど忘れちまったな、と言いながら上げていた手を伸ばして伝票を掴んだ。

「今日は俺の奢りって話だからな」

「ありがとう。ごちそうさま」

 友人が会計を済ませている間に外に出ると、雨上がりの湿った風が吹いていた。

 会計が終わるころに一度戻り、厨房の入り口に向かって御馳走様を叫ぶ。ヒョイとコック帽が顔を覗かせて、微笑んだ後に消えていった。

 変なところに感心して、二人で顔を見合わせた。

「コック帽だったんだ」

「洋食屋だしね」

 店の外に出て現代の建物群を見ても『洋食屋のシェフ』といういで立ちで暖簾をかき分ける様子が頭から離れなくて、ウェイターと内装とのミスマッチさをも思い出して吹き出してしまった。

「コック帽……」

「言うなって」

 友人も釣られて笑った。

「じゃあね。楽しかったよ。」

「へば。またな」

「ははは。せば」

 そういえば友人はこの前東北の方に帰省していたな、と思い出した。話のタネにすればよかっただろうか。

 まあいいか。

 また会うだろう。一年後の公演予定か、その前に何かあるかもしれない。

 改札をくぐると、ちょうど電車が滑り込んできた。

 空いてる席を見繕って座る。電車に揺られて、また眠気が襲い掛かってきた。

 自分を信じて少し眠ることにした。是非最寄り駅で起きてほしい。

 カフェインの効果にも期待しながら、僕は体の力を抜いた。


***


 日本人の習性か、はたまた習慣か、しっかりと最寄り駅で目覚めた僕は真っ直ぐ帰宅した。

 家に帰ると、彼女がハブラシを咥えていた。風呂から上がったところらしく、湿った髪をタオルで覆っている。

「ただいま」

「ほはえり」

 僕は出勤着を脱いでスウェットに着替える。低床のソファに腰掛けた。

 口を濯いできた彼女がリビングに戻ってきてカーペットに座る。

「早かったね」

「そうかな」

「いつもならお酒を飲んでくるじゃない?」

「ああ、そうだね。今日はそういう日じゃなかった」

「だって明日、祝日じゃない」

 そうだった。

 壁に掛けられたカレンダーで、赤く塗られた火曜日をチラと見る。会社でもそんな話をした気がする。気に留めていなかったことを少し悔やんだ。

「まあ、賢明ね」

「どういうこと?」

「ニュースで見たのよ。夜更かしするなら異性の方がいいんですって。次の日の眠気が軽いらしいの」

「ふうん」

 何の話だろう? と思いながら相槌を打った。情報が少ない。多分特に意味はないのだと思う。

 時々話が飛ぶのは彼女の悪い癖だ。おかげで上司の主語なし会話にも対応できるようになった。上司から話しかけられる回数が増えたのであまり嬉しくはない。

 腰を下ろして一息ついたら、喉の渇きを感じた。

「何か飲む?」

「じゃあ、冷たいお茶」

 駅から歩いて帰ってきたので、身体が水分を欲しているのだろう。彼女にも問いかけて、飲み物を用意することにした。

 冷やしている水道水をシェイカーに移して、粉末緑茶を混ぜる。撹拌した後は少し置いておく。

 グラスに氷を一欠け入れて、シェイカーに沈んだ粉末が暴れないように静かに注ぐ。

 氷を入れた後、お酒でもよかったかもしれないと思ったが止めておいた。腹がこなれてきたらまた考えよう。 

「梨剥いてー」

「はいはい」

 さっき歯磨きしたところじゃないか? と思ったが、ご要望にお応えして冷蔵庫から梨を取り出した。

 決して旬とは言えない時期だが三つほど買ってみた、早目に売り出している梨だ。

 追熟しただろうか、冷蔵庫ではしないんだっけか、と考えながらペティナイフで切り分けて皮を剥く。今日はオーソドックスなくし切りにした。

 ぎりぎりを狙って芯を取る。

 一つだけ深めに切ってしまった梨を味見しつつ、剥けた順に皿に盛る。ちょっと舌触りが悪いかもしれない。

「できたよ」

 彼女に一声かけて、フォークと共にテーブルに置いた。どっこいしょ、と一声入れて彼女が立ち上がる。

「冷やしてて忘れてたね」

「先週買ったのにね」

「梨って追熟しないらしいよ」

「そうなのか」

 しないらしい。冷蔵庫とかそういう問題ではないのかもしれない。

 シャクリシャクリと音を立てて梨を咀嚼する。つまみ食いした場所が悪かったのか、それほど悪くない味だった。

「忘れてたと言えば、この前会社でさ。給湯室にスマホが置いてあったのよ」

「へえ」

「社用携帯で誰のかわからなくてさ、私、事務所に向かって大声で叫んだの。誰のですかーって」

「したら?」

「持ち主は見つかったんだけどさ、ああよかったって自分の席に戻ったらさ、お茶をね、――淹れるの忘れてたのよね」

 彼女は自分がお茶、と言ったところで緑茶を啜った。

「ふうん」

「二度も恥をかいた気分よ」

「そうだね」

「そうだねってさ、いや忘れ物は恥じゃないでしょ! とか言ってよ」

「そうかな、そうかもね」

 話しながら梨を食べ終わり、少し残ったお茶も飲み干した。

 時刻は零時になるところだった。

「寝るかい?」

「まだ」

「じゃあお酒を開けよう」

「はいどうぞ」

 梨を食べたらお腹がすいてきた気がする。

 許可も出たことだし、と自分に言い訳をして、僕はストッカーを物色した。

 手軽に飲むような大きいパック酒やペットポトルではなく、四合瓶の日本酒を取り出す。

「常温?」

「氷を入れようね」

 冷凍庫の製氷トレイから丸氷を取り出してグラスに落とす。トレイは軽くすすいで、置きっぱなしのケトルの水で満たしてから戻す。

 沸かした水で作ると綺麗な氷になるよ、って教えてくれたのは誰だったか。

 都度沸かした水を用意するのは億劫だから、僕は一石二鳥とばかりに都度余った電気ケトルの水を捨てずに使いまわしている。もっとも、綺麗な氷ができたためしはない。何が悪いんだろう。

 二つのグラスに日本酒を注いだ。グラスに半分ほどだ。一度に呑むものではない。

 同じ形のグラスをもう二つ取出し、冷やしたミネラルウォーターを注ぐ。こちらは氷なしにする。

 キッチンにボトルを置いたまま、四つのグラスを手に持ってリビングに戻った。

「おまたせ」

「ありがと」

 グラスを軽く掲げ、チビ……と口を付ける。口の中にお酒を広げながら、『はて、酒のアテは何にしようか』などと考える。

 少し考えて缶詰を開けようと思ったが、冷凍庫に生ハムの切り落としがあることを思い出した。自然解凍では時間がかかるので、レンジに入れて急速解答を使った。

 ブーン……と唸る音を横目に、またグラスを傾ける。

「何出したの?」

「生ハム」

「生ハム梨サンド?」

「何それ」

「え、知らない? 生ハム梨サンド。おいしいらしいよ。食べたことないけど」

 全く知らない。

 調べたところ、クリームチーズと梨を生ハムで巻いて胡椒とレモン、オリーブオイルで味を調えるらしい。

「作ってみようか」

 冷蔵庫の奥に埋まっていたペーストのクリームチーズポーションと一緒に梨をもう一つ取り出し、再び梨を剥いていく。今度は櫛型ではなく厚めのスライスにする。

 形が悪い部分や小さいものはつまみ食いをする。

「今度は甘いや」

「それはよかった」

 ついでとばかりにストッカーからクラッカーを取り出した。カットした梨と一緒に平皿に並べて、使い切りカップから掬ったクリームチーズを乗せていく。

 カップ二つ分のクリームチーズを乗せて、まだ余っているクラッカーはチーズを乗せたものに重ねてサンドした。

 レンジから生ハムを取り出すと、端の方は火が通ってただのハムになっていた。

 加熱された部分は包丁で落とし、軽く刻んでサンドされていないクラッカーに盛り付けた。

 生ハムで梨を包んでから、書いてあった調味料を適当に振りかける。

「できたよ」

「うーん天才」

「くるしゅうない、もっと褒めよ」

「酒が進みますな」

 彼女のグラスはすでに空いていた。僕がつまみを作っている間に呑んでしまったようで、キッチンに行って四合瓶を持って戻った。

「くるしゅうない」

 してやったりという顔で言い返された。

「ははー」

 僕は床に膝をついて、大仰に四合瓶を掲げる。堪えきれずに彼女が笑ったところで立ち上がって椅子に戻り、自分のグラスを乾してからお互いに酒を注ぎあった。

 チビと口を付け、当該の生ハム梨サンドを食べてみる。

「うーん、梨とチーズを生ハムで巻いた味がする」

「なんじゃそりゃ」

 ほかに上手い感想が思い浮かばず、とにかく『梨とチーズを生ハムで巻いたもの』である。

「あ、塩みがいいね」

「しょっぱければ何でもいいのか」

「一理あると思う」

「しょっぱいといえば、珍しいものを食べたら珍しいものが飲みたいよ私は」

「何?」

「出汁割り」

「ご自由にどうぞー」

 日本酒の出汁割りだ。前に彼女に呑まされたが、僕はあまり好みではなかった。

 どこかの居酒屋のメニューにあったらしく、大学生の頃に呑んでお気に召したらしい。

 彼女は手鍋に少しの湯を沸かして、粒状の合わせ出汁を溶いてから鰹節を適当に入れた。沸騰する手前で火を止める。

 少し冷ましてから、濾しながらマグカップに注ぎ、日本酒を足して混ぜる。

「どう?」

「ソコソコかなー。呑む?」

「ちょっと舐める」

 彼女はいつも目分量なので、同じ味の料理が作れない。入ってる調味料が同じでも、似た料理、あるいは全く違った料理になる。

 違ったものが食べられていいじゃん、とは彼女の談。僕も大して気にしないので、当分はこのままだと思う。

 リビングに戻った彼女は椅子に腰かけ、梨と出汁割りを往復した。

 僕は合間を見て一口飲んでみたが、たまらずに水を飲んで口の中を誤魔化した。

「うーん」

「お嫌いですか」

「好きになれない味」

「残念」

 しばらく梨とクラッカーを食べていたが、また唐突に彼女が口を開いた。

「――そういえば今日、流星群なのよ」

「へぇ。何座?」

「ペルセウス座? たぶん」

 彼女は布団の横で充電していたスマホを持ってきて調べはじめた。

「あ、今日じゃないらしい」

「どっちなの」

「今日も見えるけど、一番よく見えるのは明後日なんだって」

「なるほど。外に出てみる?」

 僕はカーテンを開けて空を確認してみたが、半分ほどは雲に覆われていた。ゆっくりと流れてはいるようだけど、薄雲が残っている。

「……まだ雲が残ってるな」

「いいよ。明後日見ようよ」

「そうだね」

 また椅子に腰かけて、冷えた日本酒に口を付ける。もうほとんど残っていない。

 グラスの結露を指で拭って机に落とした。

「あ、それで夜更かしの話か」

 僕の突然のひらめきに、彼女は不思議な顔でこちらを見てくる。

 話がようやく繋がったので、僕は人心地ついた気分だった。

「帰ってきたときに言ったじゃないか。夜更かしするなら~、って」

「そう、そんなこと言ったっけ。言ったか、うん」

「流星群の話から、夜更かしのことをニュースで見たんでしょ」

「そうそれ! お天気のお姉さんが言ってた」

 問い質したあとに間違っていたら赤っ恥だな、とも思っていたが、どうやら合っていたらしい。

「ほっとしたら眠くなってきたな。お水いる?」

「よろしく」

 お酒もほどほどにして、少し残っていたミネラルウォーターを飲み干し、追加でもう一杯だけ水を注ぐ。

「お香焚いていい?」

「どうぞ」

 出汁割りを飲み干した彼女が、線香に香立て、香皿とマッチを持ってきた。

 気まぐれに彼女が焚くお香は、何種類かの匂いが数本ずつ入っているセットなので、必ず匂い当てゲームを挑まれる。

 色はついているが暗めの色で、そもそも何の匂いがあるのかは知らないので純粋に匂いで判断しなければいけない。

 マッチを擦って線香に火をつけた彼女は、空いた皿とグラスを下げ始めた。

「桜? ……はこの前焚いたからな、え、なにこれ?」

「なんでしょーねー」

 香り始めはわからなかったが、しばらくして匂いが広がってくるとはっきりと分かった。

「ああ、バラか」

「どう?」

「ロマンティックなかんじ」

「何よロマンチックって」

「『ティ』。ロマンティック」

「余計わからない」

 ロマンティックとロマンチックは全然違うと思う。

 水の音が止んで、水切り籠に置かれる皿がカチャリと音を立てた。

「ありがと」

 僕は席を立ち、寝室へのふすまをスラリと開いた。彼女も続いて入ってくる。

 バラの香りが寝室に流れていく。香皿ごと寝室に移し、ふすまを閉めた。香皿は外窓のふかし枠に置く。

 お香の先を手折って、燃えてない物は枕元に置いた。香皿に残した方は火が消えるまで確認しなければいけない。

 僕らは敷きっぱなしの並んだ布団に腰を下ろし、それぞれ毛布を手繰り寄せて横たわった。

「――最近のブームってある?」

「また唐突。一緒に住んでるのにそんなこと聞かれてもなあ。……お香の匂いをあてること?」

「あと6試合あるよ」

 今のところ3勝1敗である。最初に水仙、次がラベンダーだった。その後は桜ときて今日は薔薇だった。水仙はちょっとわからなかった。もう一回焚かれてもピンと来ないと思う。

「ああ、そうだ。会社の人にお菓子を貰ったんだ」

「どんなの?」

「タルト生地で、檸檬味だったかな。一個食べたけどおいしかったよ。帰省のお土産だってさ。明日食べようね」 

「うん」

 ちょうど夏季休暇の時期だ。お盆には早いが、地元に戻っていたのだろう。

 お盆と言えば、そうだ、準備をしなくてはいけない。

「迎え火、どうする?」

「迎え火かあ、うちはお盆とかやったことなかったなぁ」

「そうなの? じゃあ、とりあえず今年はやってみようよ。」

「参りに行くお墓はなくなっちゃったけど、それもいいかもね」

 お盆に必要なものを思い浮かべて、この時期ならスーパーかホームセンターで揃うだろうという結論に至る。

 我が家は永代供養に入れてしまったし、彼女の実家の墓は海に攫われてしまったらしく、先祖代々の墓はもうない。お参りに行くようなお墓はなかったし、ご縁のあるお寺さんもなくなってしまった。

 だからお盆も形だけになるけれど、こういうのは僕らの気持ちの問題だからやってみても損はないと思う。自分に必要ないと思った時にやめればいい。

「ああ、消えたかな」

 香皿から昇る煙が落ち着いたのを確認して、完全に体の力を抜いた。

「そうだね。おやすみ」

「おやすみ」

 シャラシャラと、虫の声が響いている。

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眠たい夜に夜更かしを 紫 小鳥 @M_Shigure

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