また荒野で
寧々
第一節
果ての見えない荒野の中を、我らは歩き続けている。
死を得るその日までは、歩き続けねばならない。
それが人間に課せられた唯一の宿命である。その宿命に賭す情熱、絶えず渇きを与える個々の情熱は、成功を収めるか、または恋を弄ぶ事でしか潤うことはなく、そしてそれすらもひとときのものである。
*
その時の私といえば、
それは家の中ではもちろんのこと、額の汗を拭いながら自転車の上で、同僚のいる職場の中で、すし詰め状態の電車の中で、ありとあらゆる場所でぶつぶつやっていたから、恐らくは相当不審がられていただろうと、後々になって気が付いた。
後々にならないと気が付けない自分に私は、春の熱気と同じくらい辟易していたし、また何らかの特別性のようなものを感じていた。
何らかの部分が分からないところにも、他にはない何かを自分は持っているのだと、自分は感覚派の人間なのだと、そうして自尊心を保ちながら毎日毎日、ただひたすらにそれを文章に変貌させていた。
苦節十五年、読書三昧の夏休みを過ごしていた、ソーダの中の氷の音に
神の言葉は覚えている。
地中の奥底からゆっくりと進み、いつの日か大空を見上げてやるのだ。なんだあ、聞いていた話よりゃあ大した事ねえじゃねえか? 空って奴はよう! と
さて、そんな私のしようもない決意表明は兎も角として、冒頭の話をしよう。こうして私が筆を執ったのは、いや、満を持して筆を執ったのは、この澄田薫子の話をしたいからだった。
というよりは、澄田薫子と出会ってからの私の人生を話したい。それはもちろん文字通り特筆すべきことで(私のような弱卒の人生にとってはだが)これをしたためたならば必ずや傑作になるに違いないと、すべてことが終わったころに、ようやく筆を走らせた次第だった。
言葉を繰り返す未熟さを許してほしい、そんなこんなで、私が澄田薫子と出会ったのはもちろん冒頭の通りなのだが、正確な場所はというと、当時私がアルバイトに励んでいた巨大チェーンの飲食店、つまりは職場だった。
今から一年ほど前になる。
三年ほど前に大学を中退し(中退した理由について、そりゃあ色々なあれこれがあった訳だけど、蛇足になるだろうから、一先ずは置いておこうと思う。私としては話したい事だらけなのだ。阿呆の軽音楽先輩、自称博愛主義者の淫乱眼鏡後輩等々、機会があれば書くこともあろう)兎に角私は唐突に職探しをしなければならない事情に追い込まれ、しかし、私には小説を書く宿命があったものだから、如何せん時間が何より大切だ。
社畜になるつもりはなかったし、世間の目を借りて色々見て回ってみると、どこもかしこもブラック企業とやらが横行しており、自分に合うような条件がないものだから、最善の案として、アルバイトをすることにした。
読者
あくまで最善の案として、妙案としてその道を選び取ったのだ。
お忘れなきようにしてもらいたい。でなければ、この一件について日永一日語らなければならなくなる。それはだれにとってもよろしくない。私も疲れるし、君らは眠くなる。貴重な一日を浪費したくはないのは、きっと世界中の誰もがそうなのだ。いや誰もではないだろうけど、特定の誰かを指すのは何やらよからぬ予感がするので、差し控えさせて頂くとする。
えっと、何だったか、そうだ、澄田薫子と出会った場所の話だった。
そう、そんな経緯で辿り着いたアルバイト先の職場で、彼女も同じくアルバイトとして面接に現れ、禿げ頭デブ店長と向かい合うこと数十分、無事に採用が決定された。
その面接の時私は非番で、彼女のことは次の日に「新しい高校生の女の子が入るらしい」と同僚に聞き知った。
正直なところ何の期待もしていなかった。
当然一概には言えないのだが、特に高校生はアルバイトというものを軽んじている節があるから、私が働き始めた頃から、入ってきた高校生はおよそ十五人に上るが、今その中で残っているのは二人だけである。
同僚の新しい、という言葉からも分かる通りに、入れ替えが激しく、折角仕事のあれこれを懇切丁寧に教えたところで、平気で電話すらないまま来なくなるし(いわゆるトぶ、というやつだ。どういう漢字が使われるのかは知らない。飛ぶ? 跳ぶ? まあ何でもいいが)なまじ居残っても、やはりなめているので、ちゃんと仕事をしない。
たまたまそういうたぐいばかりだったのかもしれないが、これでは期待しろという方が酷である。
私にとっても、その高校生にとっても。だから、その新しい高校生、つまり澄田薫子にも別に期待はしていなかった。
また来て、程なく辞めていく。私は私で小説を書くために日々妄想に励んでいたものだから、期待していない以前に、気にもしていなかった。同僚には、ふうん、くらいの生返事だった。
ところが、澄田薫子が初めて出勤してきた時のことは、すべてが終わった今も高性能なカメラで撮ったかのように、鮮明に記憶している。
つながるフィルムの一枚一枚が、脳の中をゆっくりと流れ、今にもエンドロールが聞こえてきそうな始末だった。それくらいに私は美化していて、しかし、当時の私は特に
端的に言うと、可愛かったのだ。
美しいというのとは違う。可愛い、だ。この可愛いという言葉が一番似合う女性は、きっと世の中を歩き回っても、澄田薫子の他には見つけられないだろう。芸能人とは違う、何というのだろう、素朴な可愛さ、というか、顔立ちが極めて整っているという訳ではなく、いやもちろん顔立ちも整っているのだが、それ以上に、雰囲気に含まれる可愛さというものが彼女にはあった。
それは仕草や言葉遣いからくるのかもしれないし、天性のものなのかもしれない。兎に角、人を魅了する何かを持っているのは間違いがなかった。私は彼女のそれを読者諸賢に伝えたいのだ。
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