第3話 薄着で宅配便

「あちぃ……」

冷房のボタンを押せば良いだけなのに、そうすると何かに負けた事になる気がする。それはなんとなく避けたい。

「きぬのやつ、エアコンつけてってくれてもいいのに」

鬼怒川だって意地悪で付けなかった訳では無い。朝はまだ涼しかったから冷房が無くとも十分に過ごしやすかったのである。ただ、この古いアパートの断熱材の機能が思ったより低かっただけの事なのだが、竜児にとってそんなことは見当もつかない。

朝早くから「所要で」と出ていった鬼怒川への恨み言が止まらない。

少しでも涼を取ろうと、ひんやりしたキッチン前の板の間に寝転がり頬をつける。

「つめてぇもんなんかねーのかな……」

のっそりと立ち上がり、冷蔵庫に手をかけた。


ピンポーン


「宅配便でーす」

薄いドアの向こうから、いかにも元気な声。

「あー。はーい。すぐ出まーす」

冷蔵庫に向かっていた足をくるりと反転させ、ドアを開けた。そこには健康そうに日に焼けた、爽やかな宅配員の男が汗を滴らせて立っていた。多分、近所の奥様方が『新しくなった配達員がカッコイイ』と井戸端会議していた人物だろう。

竜児と目が合うと爽やか君はニッカリと笑顔になった。

「あれ?ここって絹田さんのお宅ですよね?」

「……そーだよ」

絹田というのは鬼怒川の偽名である。ややこしいので外で聞かれた時はそう答えるようにと言われていた。

「あの強面の人、一人暮らしだと思ってました!初めまして!お荷物お届けに上がりました。このエリア担当の前川です。判子かサインお願いします」

チラチラと宅配員の視線が、伸びきったティシャツが汗で体にへばりついている胸元へと向けられるが、竜児は気付かない。

「あー……はいはい。ハンコ、ハンコっと……」

「あの、お兄さんは……お名前は?」

「俺?竜児っての」

「竜児さん……汗が凄いですね。ちょっと失礼します」

そう言って、ポケットからタオル地のハンカチを取り出すと竜児の額に当てた。

「あれ?なんか冷たい」

「中に保冷剤入れてるんですよ」

「へーなんかキモチイイね」

「それは良かった……」

額の汗を拭ったタオルが、竜児の首筋へと降りてくる。汗の跡を辿るようにゆっくりとタオルを滑らせて行くと、気持ちよさそうに竜児は目を閉じた。

長いまつ毛に、汗ばんだ体。暑さから頬が少し赤らんでいて、紅顔の美少年とはこの事かと、前川はゴクリと喉を鳴らす。

「あ、あの、竜児さ……」

「あれ?前川さん指定時間と違いませんか?」

前川の言葉を遮るように、聞きなれた声が飛んできた。若干怒りが見える声に、前川はハッと正気に戻る。

「あー!すみません絹田さん!ちょうどこの辺りにお荷物あったんで、もしかしたらいるかなーって来ちゃいました!」

「いえいえ、良いんですよ。前の担当の方には指定時間厳守して貰ってたんで……次回からは前川さんもお時間守ってくださいね」

「は、はい!」

さらさらとサインすると、鬼怒川はにっこりとした笑顔を向けた。笑顔なのに怖い。明らかな「帰れ」の合図に前川は笑顔を引き攣らせると、慌てて帰って行った。

「きぬ、オニーサン怖がってんじゃん」

「坊ちゃん、ピンポン鳴らされても知らない人なら出ないって約束でしょう?」

「宅配だったし。荷物くらい俺でも受け取れるし」

「そういう問題ちゃうやろが」

ドスの効いた声と共に、ただでさえ人を殺してそうな鬼怒川の目が鋭利になった。

「じゃあ、どういう問題?」

怖がることも無く、汗ばんだ手が、鬼怒川の首に回される。気化熱によってひんやりとした竜児の腕が心地良い。

「教えて差し上げましょうか」

「お、いいね、今日はヤル気?」

「……たまには良いでしょう。でも、熱中症は怖いのでエアコン付けてからしましょうか」

いとも簡単にエアコンのスイッチをいれると、しっかりと締めていたネクタイに手をかける。

シュル、とネクタイを取った鬼怒川を見て、たまには嫉妬されるのも悪くないと心の中で竜児はペロリと舌を出したのだった。

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