ムーンゲイザー

柚塔睡仙

MOONGAZER




『ムーンゲイザー』






【作品紹介】


 文明が崩壊し、世界から秩序が失われた遠い未来……。

 ひとりの魔法使いが、てのない旅をおこなっていた。

 彼女の名前はメーゼ。

 不老不死であり、もう、長きにわたって生きながらえている。

 見た目は十代半ばの少女。衣服こそ身につけているものの、人形をおもわせる精妙な容姿をしていた。

 まるで、凍結した時空から送られた、使者であるかのように……。


 数々の出逢いと別れを、彼女は経験する。

 過ぎ去ってゆく、幾つもの風景。

 記憶も思い出も、うつろな幻のように、どこかへと消え去っていく。

 生と死。

 光と影。

 空を流れていく無数の星々。

 幾つもの生命のように、それらはきらめいていた。

 

 空虚と寂寞せきばくちた終末の世界。

 到来する幻影たちと、最後の楽園。

 果てしない旅路の果てに、彼女は何を見つけるのか。



 ☆



 ここではないどこか。

 月が見守る、静かな終局の星で――。

 




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『MOONGAZER』






【Desert】


 とある少女が砂漠を歩いている。

 見た目は十代前半くらいに思われた。

 濃紺色のうこんいろのローブを着用し、三角帽子をかぶっていて、片手に杖が握られている。

 だいぶ疲弊ひへいしているようだ。杖をつきながら、脚を引きずるようにして、一歩一歩地面を踏みしめていた。

 風が吹き、流砂りゅうさが動く。

 彼女の肌は、透き通るように白い。

 髪は金色であり、瞳も同様に金色だ。

 人形のように均整きんせいのとれた容貌ようぼうであったが、疲れのためか、表情がけわしくなっている。

 かすんだ太陽を浴びつつ、砂の斜面をくだっていく。

 彼女はつまずき、その場で転んでしまう。前のめりに地面へ倒れる。

 地面は砂であるため、怪我はないようだ。しかし、転んでしまったことにより、心にひびが入る。

 うつぶせに倒れたまま、顔を動かす。

 帽子からさらさらと砂が落ちる。

 彼女は自問する。いったい自分は何をしているのだろうか、と。

 彼女は旅人であった。魔法使いの旅人だ。

 名前はメーゼ。月を意味しており、他人に名付けてもらったものだ。髪や瞳が、月のような色をしていたため、そう名付けられたのである。

 彼女はしばらく倒れたまま、体力を回復させた。

 私はこんなところで、止まるわけにはいかない……。

 手をつき、ゆっくりと身体を起こす。服についた砂を払い、視線を上げる。

 地平線は砂ばかり。建物はない。乾いた空気と高い空、それらが視界のすべて。

 彼女は首からげたペンダントを片手で握りしめた。

 そして目をつぶり、静かに祈りを捧げたあと、再び歩き出した。





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【Grave】


 廃墟はいきょになった街を歩くメーゼ。

 彼女は今、食料を探している。

 魔力が尽きたり、破壊されたりしない限り、死ぬことはない。しかし、栄養補給をおこたると、ろくに動けなくなる。不老の肉体とはいえ、完全なものではないのだ。

 ふらふらになりながらも歩いていると、とある廃屋はいおくの前で声を掛けられた。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 子供の声がする。見上げると、十歳くらいの少年が、開いた窓から首を出していた。

 メーゼは応えた。「何か……食べ物を……」

「ちょっと待ってて」少年は階段を降り、扉を開けた。「どうぞ、入って」

 家はボロボロであったが、何度も修理をしているようで、暮らすのには充分な環境になっていた。雨風はしのげるし、隙間風も入ってこない。

 キズ有りで歪んでいる家具がほとんどだった。打ち捨てられた廃品を、どこかから回収してきたのだろう。

 かまどでは鍋が煮えている。グツグツ音を立て、良い匂いを漂わせていた。

「いま、シチューを作ってたんだ。最近野菜を手に入れてね、久々ってわけ」

 少年はそういうと、お玉でシチューをすくい、皿へと流し込んだ。

 彼は両手で皿を運び、こぼさないように気をつけつつ、メーゼの前に置く。「はい、どうぞ」

「本当に、食べて良いの?」

「うん……ちょっと作り過ぎちゃったし、誰かと一緒に食べるほうが、美味しいから」

「ありがとう」

 メーゼは感謝して、シチューを食べ始めた。

「ひとりなの?」と少年がいた。

「そう」

「ひとり旅?」

「ええ」

「その……危なくはないの? 盗賊とか、いろいろいるし……しかも、ぼくよりちょっと歳上みたいだけど、その……」

「わたし、魔法使いなの。だからだいじょうぶ」

「魔法使いって……?」少年は首をかしげた。

 どうやら魔法の存在を知らないらしい。

 しかし、それも仕方ないことだ。魔法使いの数もだいぶ減っているし、その存在を知らない者も大勢いる。知っていたとしても、遠い昔の……お伽噺とぎばなしの事柄だと思っている人も多い。

「つまり、とても強いということ」メーゼは応えた。黙々とシチューを食べ進める。皿が空になった。「ところで、何か手伝えることはある? せっかく料理もごちそうになったことだし……」

「手伝えること?」

「そう。何でも良いよ」

「えっとね……」少年はすこし迷っていたようだが、視線をメーゼに向け、それからこう言った。「一緒に、母さんをめて欲しいんだ」


 ☆


 それは大きな犬であった。

 雑種のようだが、毛並みが綺麗で、顔には愛嬌あいきょうがある。

 しかし、その目は閉じられており、息もしていなかった。

「母さん、昨日の夜、死んじゃったんだ……。だから、今日のうちに埋めてあげて、お墓を作ってあげたい。手伝ってくれると嬉しい」

 メーゼはうなずき、埋葬を手伝うことにした。

 家から少し離れた場所に、見晴らしのよい丘があった。

 彼らはスコップで地面を掘り、穴の中へと犬を横たえ、土をかぶせた。

「母さんは、ぼくが生まれた頃から大きかった」少年は言った。「犬のことを、母さんと呼ぶのはおかしいかもしれないけど……母さんはどんなときでも、ぼくのそばに居て、支えてくれたんだ。だから、ペットなんかじゃない。大切な家族なんだ」

「産みの母親は?」

「ぼくを産んで、すぐに亡くなっちゃったらしい。だから、ほとんど覚えていない」

「…………」

「今日は、本当にありがとう」

「……どうして?」

「寂しくて……君が来てくれたおかげで、だいぶ気持ちをまぎらわせることができたから……」

 彼はそう言いながら、涙をにじませていた。


 ☆


 二人で墓石を運び、そこに立てた。

 メーゼは少年と共にしばらく祈った。

 だいぶ陽が傾いている。夕焼けの光が、墓石に影をつくっていた。

 メーゼは少年に別れを告げ、旅を再開させた。





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【Lighthouse】

 

 遠くのほうで光がきらめいている。

 闇夜の中、チカチカと明滅を繰り返す。自分の存在を顕示けんじするかのように。

 メーゼはそちらへ近付いていく。

 灯台であった。どうやら、海のそばまで来てしまったらしい。

 彼女は、何か使える物がないかを調べるため、灯台へとのぼることにした。

 金属製の階段は、老朽化が進んでおり、踏みしめるたびギシギシきしんだ。

 うえまでのぼり、部屋へと入った。ここには、光を放射している装置がある。

 人の気配はなかったし、もう、管理もされていないようだ。自動で、機械だけが動き続けているのだろう。

 部屋を探っていると……メーゼはあるものを見つけ、驚きそうになった。

 それは骸骨がいこつであった。骸骨は椅子に座っており、洋服を着ていた。きっと、椅子に座ったまま亡くなったのだろう。

 メーゼは骸骨に近づく。

 灯台守とうだいもりだったのだろうか……。

 骸骨の前にはテーブルがあり、そこには本が置かれていた。近くにはペンが転がっている。ここに、この骸骨の手掛かりがあるかもしれない。

 彼女は本を開いた。

 それは日記であった。彼の人生が、数年間ではあるが、インクで記されていた。

 どうやら彼は船乗りだったらしい。しかし途中で降ろされることになり、この付近をさまよっているうち、灯台を見つけたようだった。

 灯台にたどり着いてから数日で、記録は途絶とだえていた。内容から察するに、栄養失調で亡くなったと思われる。きっとここには、食料を探すためにのぼったのだろう。

 日記には手紙がはさまっていた。

 それは、遠くに住む恋人に向けて書かれたものだった。


 ☆


 メーゼは、懐中電灯やバッテリーを手に入れたあと、海へと向かった。

 左手にはびんが握られている。

 瓶はコルクで、しっかりせんがされている。その中には、先ほどの手紙が入っていた。

 海岸までたどり着くと、彼女は静かに、瓶を海へと浮かべる。

 海は穏やかだった。きっと流れに乗って、水平線の向こうまで運んでくれるだろう。

 夜空を数羽のカモメたちが飛んでいる。その鳴き声が、波打ちぎわで静かに響いていた。





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【Blackbird】


 メーゼは傭兵を雇い、治安の悪い区域を移動することにした。

 彼女は強い。だから、本当はひとりでも危険区域を渡ることはできた。

 しかしそのときの彼女は、とある人物と、区域の向こう側で会う約束をしており、念のため徒党を組むことにしたのだ。

 集団なら監視の目が増えるため、それだけ安全度も増す。

 お金はそれなりに掛かる。だが、確実性を高めるためにも、今回は支払ったほうが良いと判断した。


 ☆


 荒野のなかを彼らは歩いていった。

 警戒は万全だった。

 しかし、その闇夜のなか、空から襲来する刺客には、彼らも気づけなかった。

 突風が、彼らの背後でおこった。

 次の瞬間、ひとり、傭兵の頭部が地面に落ちる。

 また、腹部を切り裂かれ、血を流している仲間もいた。

 メーゼは上空へと視線を向ける。

 夜の闇にまぎれ、一体の大きな鳥が飛んでいた。いまは上昇しているところである。

 それは漆黒しっこくの鳥だった。

 翼を広げている様は死神のようで、全身の羽毛から不気味さを漂わせている。

 くちばしには何かをくわえている。それは、仲間の傭兵が持っていた、貴重品入れのカバンであった。

 傭兵たちは銃撃を試みたが、すでに黒鳥は遠くまで飛んでいってしまっており、弾丸は届かなかった。メーゼも、さすがにこの距離では攻撃できない。

「参ったな」仲間のひとりがいった。「あの中には、大事な貴金属が入っていたんだ。悪いが、あれを取り戻すまでは、この区域を抜けられねえ」

「……わかった」メーゼはうなずいた。「とりあえず、あとを追いましょう」

「でも、どうやって?」

「私の魔法を使えば良い」

 メーゼは杖を空に掲げた。そしてそれを、軽く左右に振る。

 すると空間に、光の紋様もんようが浮かび上がった。それは形を変化させ、立体映像のような方位磁針コンパスを作り上げた。

「針の向いているほうに行けば、必ずたどり着ける。さあ、行きましょう」


 ☆


 彼らが、針の指し示すほうに歩いていると、ヒゲを生やした一人の男に出会った。

 男は彼らと同じ方向に歩いていた。

「そこで何をしている?」傭兵のひとりが尋ねた。

「商売をしに行くんだ。おまえたちには関係ない」

 男は、自分が商人だと名乗った。

「商売だと……?」

「そうだ。悪いが急いでいるんでな、そこを通してくれ」

 商人はそう言いつつも、額にうっすらと汗をかいていた。やや、焦っているようにも見える。

 いずれにせよ、不審な人物であることには間違いない。

 傭兵たちは彼を拘束し、尋問をおこなうことにした。

 カバンの中には、大きな肉がいくつも入っていた。それらは合成肉であり、栄養価の高いものであったが、人間が食べられる種類のものではない。

 どちらかというと、肉食獣などのエサに使うような……。

 詰問するうち、商人は観念したのか、事情を説明し始めた。

 その肉は、岩山にみついている、黒鳥のエサであった。

 その黒鳥はとても知能が高いらしく、人間の言葉を理解することができるらしい。

 商人は、黒鳥から金目の物を受け取り、そのお返しに、エサを届けているということだった。

 彼はぐったりとして白状した。「あの鳥は頭が良い。だから、奴には旅人を襲わせて、貴重品を奪うように提案した。代わりにおれが、エサを手に入れてやると言ってな」

 商人はメーゼたちに、黒鳥の棲家すみかを教えた。岩山のうえであり、いつもそこで交換をおこなっているらしい。

 岩山には巣があり、そこに盗品も置かれているとのことである。

 集団で向かうと気付かれる恐れがある。そのためメーゼひとりで、巣へ向かうことになった。


 ☆


 岩山をのぼり、メーゼは巣を探した。

 そして探索をしているうち、崖のほうに、倒木や枝でできた大きな巣を見つけた。

 今は周囲に黒鳥の姿もない。

 チャンスと考え、メーゼは巣に近づき、中をのぞき込んだ。

 確かにそこには、盗まれたカバンがあった。

 しかし、それと共に、五匹のひなもそこには入っていた。

 雛はメーゼを見ると、大声で鳴き始めた。

 メーゼは急いでカバンを取り、素早く道を引き返そうとした。しかし遠くの空から、すでに黒鳥が、こちらに向かって飛んできていた。きっと、雛の鳴き声に反応したのだ。

 走っても逃げ切れないし、攻撃を受けてしまう恐れもある。あの鋭い爪で肌をえぐられたら、ひとたまりもないだろう。

 怒ったような様子から見て、交渉できそうな余地もない。

 仕方ないが、倒すしかないだろう。

 メーゼは杖を振り、目の前の空間に、大きな「光の矢」を現出させた。

 光の矢はエネルギーで満ちており、まばゆい光を放っている。

 そして、黒鳥が急降下してきたのを見計らい、その矢を発射させた。

 矢は一直線に飛び、黒鳥の体を貫く。

 黒鳥は落下し、そのまま地面に激突したあと、動かなくなってしまった。


 ☆


 メーゼは傭兵たちのところへ戻った。

 それから、捕らえていた商人のところへ向かい、黒鳥の死と、残された雛のことを伝えた。

 メーゼは商人に、罰を与えることにした。

 杖の先端で、商人の胸のところに紋様を書き込んだ。

「あなたはこれから、雛たちを育てなさい」とメーゼはいった。「雛たちが成長し、巣立ちするまで、その紋様は消えない。もし、育てることを放棄した場合、あなたの心臓は止まるわ」

「そ、そんな……」

「命を奪われなかっただけ、感謝することね」

 メーゼはそう言い残すと、ローブをひるがえしてその場を離れた。

 再び傭兵たちと共に、目的地へ向かって歩き始めた。





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【Exchange】


 危険区域を抜け、メーゼはとある街へやって来た。

 そこで彼女は、ある人物と待ち合わせをしていたのだ。

 ストリートを歩き、目的の店を探す。そして、一軒の酒場が目に入った。

 たしか、ここのはずだ。

 彼女は扉を開け、中へと入る。

 店内は昼間だというのに薄暗かった。窓にはカーテンが掛かっており、代わりに天井のほうでランプが灯されている。

 客は少なかった。バーテンダーはのんきに、ワイングラスを磨いている。

 奥のほうに目的の人物がいた。カウボーイハットをかぶった男であり、脚を組んでテーブルのうえに載せている。片手にはビール瓶が握られており、もう片方の手で後頭部を掻いていた。

 彼はメーゼに気づいたようで、手招きしている。

 メーゼはテーブルの反対側に座った。「調子はどう?」

「まあまあってとこかな」男は応えた。「この前はうまく、賞金首を生け捕りにしてやったさ。両膝を撃ち抜いて、動けなくしたっつうわけよ」

 男は賞金稼ぎであった。そのため、メーゼのように各地を渡り歩いており、それで幾度か顔を合わせるうちに、知り合いになったのだ。

「それにしても、お前、やっぱり全然老けてないな」と男は言った。「十年前とまったく同じだぜ」

「それで、例のモノは持ってきた?」

「もちろんだ」男はふところから布袋を取り出し、テーブルの上に置いた。「中を見てみな」

 メーゼは巾着きんちゃくを解き、中を見た。数々の宝石がそこには詰まっていた。

「ありがとう、これで充分。助かったわ」

 宝石にはエネルギーが宿っている。

 魔力を回復させたり、力を増幅させたり、傷を治癒したり……種類によって様々であった。

 そのため、一般人にとっては「見た目が美しい」という価値しかないが、魔法使いにとっては、それ以上の価値を有するのである。

「なあに、お安い御用さ。それに、お前には借りがあるしな」

「約束通り、お金は払う」メーゼは小切手を取り出し、男に渡した。

 男は眠たそうに、大きなあくびをした。「それにしても……お前さん、本気でその、〝エメラルダ〟とやらを探すつもりかい?」

「ええ」

「俺が忠告するような立場じゃないことは分かっているが……やめておいたほうが良いと思うぜ。ときどき情報を耳にするが、悪い噂しか聞かねえ。イーストタウンでは、失踪者が数十人単位で出たという話だ」

「だからこそ、私は彼女を追うわ。〝妹〟のやっていることを、黙って見過ごすわけにはいかない」

「妹、ね……。俺にはよく分からんよ、まったく同じ姿形をした存在が、この世にいるという状態がね……」





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【Replica】


 歳を取らない存在として、彼女たちは造られた。

 それは六体の複製体クローンであった。


 ☆


 かつてその世界には、ルーシーという魔法使いがいた。彼女は特別な存在であり、幾度も世界を救った救世主であった。

 しかしあるとき、彼女は突如として姿を消してしまったのだ。

 ルーシーは、神に等しい力を持った、卓越した魔法使いであった。そのため彼女が消えたあと、世界は混乱の渦に巻き込まれてしまう。

 時代は流れ、魔法は徐々に力を失っていき、次第に科学が影響力を持つようになっていった。

 才能に依存する魔法と異なり、科学は、勉強さえすれば、誰でも扱える代物だ。だから科学は急速に発展していき、世界中で活用されるほど、普遍的なものとなった。

 しかし、その科学技術は、戦争にも使われ始めるようになった。

 科学は戦争と相性が良い。いったん技術さえ確立すれば、どんな人間でも扱える……その容易性があだになる。人間たちは、何度も戦争を繰り返すようになった。

 巨大な爆弾も造られた。一瞬で、大勢の命を奪い、人を住めなくする爆弾だ。その爆弾が、世界中のあらゆる地域に落とされ、人口は激減し、文明も崩壊することになった。


 ☆


 そんな戦争の最中である。科学によって確立したクローン技術によって、遥か昔に存在したという伝説の魔法使いを、いま一度再生させようと試みた者達がいた。

 彼らは、ルーシーが残した生体情報を元に、何度も試行を繰り返し、数多あまたの実験の果てに、やっと目的を達成しそうになった。

 六体のクローン。

 彼女たちを操ることができたら、どんな兵器さえも、どんな魔法使いさえも敵ではない。しかも、オリジナルであるルーシーは、不老不死だとも言われていた。栄養を与え続ければ、亡くならないということだ。

 そして完成が目前に迫る。あとは洗脳を済ませるだけ、という最終的な段階まで来た頃……その研究所は襲撃に遭った。

 研究者たちは殺され、施設は炎上した。

 その施設では、ルーシー・クローン以外にも、人造人間やキメラなど、様々なものが研究対象になっていた。

 そのため、とある組織が、彼らを救おうと試みたのである。

 クローンたちも運ばれた。まだ培養液にひたされており、見た目は赤ん坊だ。

 彼女たちは、組織によって育てられることになった。

 組織の名は「レムナント」と言った。

 レムナントは、文明崩壊後に結成された自警団のひとつであり、無秩序状態と化したその世界においても、比較的良識ある組織だった。

 レムナントは、とある旧都市にアジトを構えており、そこを拠点にして活動していた。彼女たちはその街でしばらく育った。

 六人はほとんど同じ見た目をしていた。

 皆、金髪であり、人形のような顔立ち。そして、透き通るような白い肌。

 しかし、それぞれが異なる瞳をしていた。

 赤、黄、緑、橙、紫、白。

 瞳だけでなく、性格も異なっていた。

 赤は激情、黄は冷静、緑は柔和、橙は陽気、紫は偏屈、白は内気だった。

 彼女たちは、それぞれ名前をつけられた。

 ルビス、メーゼ、エメラルダ、コーパル、アメジサ、ネージュ。

 姉妹であり、仲間であり、かけがえのない家族であった。

 しかし……ずっと一緒に居られることはできなかった。

 レムナントは、別の組織によって攻撃を受けた。それは戦争に発展し、旧都市も戦場へと変わる。

 物心がついたとはいえ、まだ彼女たちは幼かった。不老であるため、成長が遅かったのだ。

 だから逃げ出すためには、大人たちの助力が必要だった。

 彼女たちは、六人で一緒に逃げることを望んでいた。しかし、それは叶わず……互いの居場所が分からないほど、離れ離れになってしまったのだ。


 今ではもう、遠い昔の出来事である。





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【Duel】


 街角で決闘が起こっていた。

 二人の男が向かい合っており、腰のホルスター近くに手が添えられている。

 周りには大勢の野次馬がいて、声を上げてはやし立てていた。

 喧噪けんそうの中、メーゼは近くの建物の上に立ち、その様子を俯瞰ふかんして眺めていた。

 普段なら気にも留めないような出来事であったが、暇潰しになると思ったのである。

 二人の男はにらみ合っており、そこには一種の緊張が、ピンと張り詰めていた。何事も見逃すまいとする集中力が、そこには詰まっている。

 しかし、メーゼはその光景から、奇妙なモノを感じとった。

 片方の男……白い帽子をかぶっている、いかにもお金持ち風の男。彼の心拍数が、あまり上昇していなかったのだ(メーゼは、小さい音を聞き分ける聴力にも恵まれていたし、魔法を使えばそのくらい簡単に分かるのだ)。

 白帽子の男は、一流のガンマンなのだろうか。腕に自信があるなら、落ち着いていても不思議ではない。しかし、彼女はそう思えなかった。

 メーゼは透視能力を使って、白帽子を見た。

 そして、とある事実に気がつく。この男は、衣服の下に鉄板を入れている。腹や胸を撃たれても怪我しないよう、対策をしていたのだ。

 それに対し、もう一方の貧乏そうな男は、薄そうな茶色の服以外、何も着用していない。

 これはアンフェアだ。

 メーゼはその決闘を止めるべきか、少し逡巡しゅんじゅんした。しかし、迷っているうちに、勝負は始まってしまった。

 先に、茶服の男が銃を抜いた。少し遅れて、白帽子が銃を抜く。

 茶服は素早く狙いを定め、引き金を引いた。

 弾丸はまっすぐ、白帽子の男に飛んでいった。

 確実に胸に当たった。

 しかし、白帽子にダメージはない。服下の鉄板が身を守ったのだ。

 白帽子も引き金を引いていたが、その弾丸は茶服の体をれていった。どうやら狙いを外してしまったらしい。

 これで、いったん間が空くはずだ。その隙に決闘を止めれば……。

 しかし、茶服の男は、その場に倒れようとしていた。胸に穴が空いている。彼はそのままうずくまってしまった。

 メーゼは確実に、弾丸が逸れたのを視認していた。他の観衆には分からなくとも、彼女ははっきり見ていたのである。

 彼女は透視能力を使って、周囲を見渡した。すると観衆のなかに、コートを身につけた、その場から去っていく人影があった。その人影は、コートの内側に、消音器サプレッサー付きの拳銃を隠し持っていた。


 ☆


 メーゼはコートの男をこっそり尾行した。

 コート男は、人気ひとけのない路地裏で、誰かが来るのを待っている。

 しばらく経つと、狭い道の向こうから、ひとりの男が現れる。先ほどの白帽子であった。

「アンタのお陰で助かりましたよ」と白帽子はいった。「あの男、なかなか、みかじめ料を払わないんでね。案の定、ちょっと鎌かけたら、ほいほい提案に乗ってきましたわ」

「打ち合わせ通りで良かったじゃないか」

「ああ。だが、決闘を始める前に不意打ちされて、そのままどこかにトンズラされちまう可能性もあったからな」

「奴には妻子がいるだろう? 彼らはどうするつもりだ」

「さあな。収入もなくなることだし、職を探してどこかに行っちまうだろうよ。おれには関係ないね」

 メーゼはだいたいの話が掴めた。

 物陰から出て、彼らに言った。

「あなたたちのイカサマは見ていた。決闘は無効よ。亡くなった男から奪ったお金を、ちゃんと遺族に返しなさい」

 二人は驚いたように彼女を見る。それから笑い出した。

 白帽子が言った。「本気かいお嬢ちゃん? 冗談ならやめてくれよ、家に帰れなくなっちゃうぜ」

「本気よ、さっき写真も撮っておいたわ。これは決闘とは認められない……警備隊に伝えても構わないかしら?」

「お前が伝えて信じると思うか? まあ良い、死にたいってんなら、おとなしくくたばっちまえ」

 白帽子は銃を抜いた。

 彼女はそれを見届けてから、魔法を発動した。

 白帽子の足元から、大きな剣が一瞬で生え、彼の体を真っ二つにした。

 弾丸はすでに発射されていたが……それは、メーゼの近くの空間で静止しており、そのまま地面に落下した。

 コートの男は呆然とし、その場に立ち尽くしている。

「自首するなら見逃してあげる。それとも、この男のように、私に勝負を挑みたい?」

 メーゼは地面に転がっている死体を、視線で指し示した。

 男は観念したように首を振った。


 ☆


 メーゼは、敗れた男の家族のもとを訪れることにした。

 彼女は家の前に立ち、扉をノックする。

 足音がして、扉が開いた。エプロンを着けた女性が、メーゼを見た。

「あの、どちら様でしょうか」

「先程の決闘のことはご存じでしょうか?」

「え、ええ……さっき、教えられて……」

 彼女はまだ動揺しているようだった。

 メーゼは、家の中にお邪魔させて貰ったあと、決闘のイカサマについて女性に説明した。

 この自分こそが不正を暴き、裁きを与えた本人である……という事実だけは隠して。

「ですから、間もなく警備隊の方が来るはずです。もう、脅威は去りましたよ」

「そう……わざわざ伝えに来てくれて、ありがとうございます。でも、あの、実感が持てないというか……まだ……」

「路地裏で、白帽子の男が倒れているのを発見したのですが、彼はこんなものを持っていました」メーゼはカバンから、幾つもの札束を取り出した。「これはきっと、あなたの主人から決闘で奪ったモノでしょう。お渡ししておきます」

 彼女は驚き、困惑した顔で札束を受け取った。「で、でも……」

「大丈夫です、何の心配も要りません。それから、もし、他に住む場所が必要なら、わたしが紹介しますよ。子供を育てるのに良い環境の地域を、いくつか知っているので」





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【Statue】


 メーゼが道を歩いていると、路上で、老人が横たわっているのを発見した。

 死んでいるわけではなかった。どうやら、つまずいて転んでしまい、そのまま起き上がれなくなってしまったらしい。

 メーゼは老人を背負って、運んであげることにした。

「すまぬな。転んだとき、腰を思いっきり打ってしまって……」

「いえ、お安い御用です」

 彼女は老人を、彼の家まで運んだ。老人をソファーに座らせる。

「ううむ……体力には自信があると思っていたのじゃが、どうやら歳には敵わんらしい」老人はそう言って、溜息ためいきをついた。

「それでは、私はもう行きますね」

「待たれよ、今日はここに泊まっていったほうが良い」

「なぜ?」

「外を見てごらん」老人は窓の外を指さした。「わしらが到着した頃から、雨が降り始めただろう?」

「はい」

「この雲だと……ああ、かなりの長雨になるな。お前さん、旅をしているのだろう? それに、歩いてきた方向から察するに、谷を越えた向こう側を目指しているはず。今から向かっても、きっと川の水が増水していて、渡るにも渡れないだろう。少なくとも、かなり危険なはずじゃ……。それに、そろそろ陽も落ちる……」

 確かにそうかもしれない、とメーゼは思った。

 わざわざ危険を冒し、体力と魔力を消費してまで、川を渡りたいとは思っていない。彼女は基本的に、堅実な性格をしていたのだ。


 ☆

 

 家は二階建てであった。

 彼女は二階の一室をあてがわれた。

 部屋の窓からは、家の周囲の草原が見える。

 そして、その薄ボンヤリとした草原の中に、メーゼは不思議な人影を見た。

 それは……数十人もの「人の形」だった。大勢の人間が、まるで凍結したかのように、その草原に立ち並び、固まっていたのだ。

 様々なポーズをしていて、大人から子供、あるいは動物まで、様々な影があった。

 暗いため、シルエットしか分からない。

 これはいったい何なのだろう……。彼女は不思議に思い、老人に尋ねることにした。

「ああ、あれはな……わしの彫った石像じゃよ」と老人は言った。「付近の岩山から切り出した素材で造っているのじゃ。近くに行って、見てみるが良い。すぐに分かるよ」

 メーゼは雨の中、草原へと出た。

 数々の石像たちがそこにはあった。

 ランプを近づけ、じっくり眺める。ひとつひとつが丹念に、精巧に彫られており、今にも動き出しそうだった。無機物であるにもかかわらず、生命を宿しているような眼差まなざしをしている。

 彼女は家に戻り、老人に訊いた。

「なぜ、あれらの石像を?」

「彼らは、わしにとっての思い出なのじゃ。思い出は、思い出のままだと風化してしまう。だから忘れぬうちに、それらを〝かたち〟にすることで、一種の永遠さを持たせているのじゃよ」


 ☆


 数十年の歳月が経過した。

 メーゼはたまたま、この付近で依頼を受けた。それから、昔の記憶を思い出し、仕事のついでに草原を訪れることにした。

 きっともう、あの老人は亡くなっているだろう。その際は、お墓の前で、お祈りでも捧げることにしよう。

 草原に着く。

 昔と同じように、石像が立ち並んでいた。

 そして、家もまだ建っていた。改築や修理はされていたが、以前の家の面影を、少し残していた。

 家の裏側には、洗濯を干している女性がいた。四十代くらいの主婦に見えた。

 メーゼは彼女に挨拶した。それから、この草原の石像を見に来たことを、彼女に伝えた。

「あら、珍しいわね。ひとりでこんな所に来るだなんて……ここまで来るの、それなりに疲れたでしょう?」

「ええ、少し」

「それにしても……あなた、どこかで見たことがあるような……? うーん、なぜかしらね」

 彼女はメーゼをじっと見つめ、それから眉間みけんしわを寄せ、空を見上げていたが、ふーっと息を吐いて頭を振った。

「ごめんごめん、勝手に考え込んでしまったわ。ま、ゆっくり見ていってちょうだい。今はお金も取ってないし、あなたの独占状態よ」

「そういえば、この石像を造った方は……」

「あ、おじいちゃんのお墓なら、草原の奥のほうにあるわ。怖かったら、ついていってあげるよ」

「いえ、大丈夫です。ところで、ひとつお訊きしたいのですが、これらの石像は、なぜ、何の為に造られたものなのですか?」

「これはね……おじいちゃん、私の祖父が小さい頃に住んでいた、村の住人たちなのよ……」

 彼女の話によると、その村は火砕流に呑み込まれ、一晩のうちについえてしまった……多くの犠牲者を出したらしい。噴火の際、村に居た者は、皆死んでしまったとのことだ。だが偶然にも、別の街へと宿泊に行っていた、一人の少年が居た。それで……彼だけが生き残った。その少年こそが、石像を造った老人なのであった。

「だからね、おじいちゃんはきっと、慰霊のために彫っていたんじゃないかなって、あたしは思うのよ。石像に、昔の……村での記憶を投影させることで、心の安らぎを得てたんじゃないかな。推測だけどね」

「…………」

「あ、でも祖父は、それ以外にも、色々なものを彫っていたわ。あたしをかたどった石像も、草原のどこかにあるはずよ……暇なら探してみてね。ま、あたしが六歳の時に造られたモノだから、分からないかもしれないけど」

 彼女はそう言うと、静かに笑った。


 ☆


 メーゼは草原で、ひとつひとつの像を見て回った。

 若干、形が崩れているモノもいくつかあったが、だいたいが綺麗なままであった。

 明るい陽射しのもとで眺めてみると、やや印象も違って見えた。意志を保持しているような、力強さがある。

 そして彼女は、ひとつの石像を発見する。

 それは、メーゼの容貌を模した、魔法使いの少女であった。





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【Bouncer】


 とある村へと立ち寄るメーゼ。

 その村は、どこか緊張した空気が張り詰めていて、人々の顔も浮かない様子である。

 疑問に思ったが、特に彼女は気に留めなかった。

 公園のベンチに座り、この先どこへ向かおうか計画を練っているうち……いつの間にか、周囲に人が集まっていた。彼らの顔はメーゼへと向けられている。

 ひとりの老人が群衆の中から歩み出て、メーゼに話しかけた。

 どうやら現在、この村は「用心棒」を探しており、それに適する人材を探していたらしい。

 長老と思わしき老人は言った。

「このN村は、山賊の脅威にさらされている。だから、是非、おぬしの力を借りたいのだ」

 メーゼは魔法使いの格好(三角帽子にローブ、そして大きな杖)をしていたから、戦闘能力もあると考えたのだろう。事実、それは当たっていた。

 厄介なことになった、とメーゼは頭を掻いた。しかし、報酬を貰えるのならば、引き受けても良いだろう。道中、何が手掛かりになるか、分からないのだし……。

 彼女は、充分な報酬が貰えることを確認した後、N村の依頼を引き受けた。


 ☆


 真夜中。

 村人だけでなく、森の生き物たちも寝静まったと思われるような静寂。その中において、風の音を聴きながら、メーゼは見張り台から周囲の景色を見渡していた。

 風は気持ち良い。穏やかな涼風が、彼女の髪をなびかせる。村のわずかな灯火たちも、ゆらゆら揺らめいている。

 精神を集中させる。小さな異変さえ見逃さないように。

 そして丘の向こうから、彼らはやって来た。

 それは二十人ほどの部隊であった。全員が馬に乗っていた。手には自動小銃を携えており、制圧するための武装を整えている。

 彼女は見張り台から飛び降りた。綿のようにふわりと着地した後、丘のほうに駆ける。

 疾走。風に溶け込んだかのような素早い動きであった。

 メーゼは丘のふもとに立ち、山賊たちを見上げた。暗闇の中だ、山賊はメーゼの姿を視認できていない。

 メーゼは空中に、無数の「光の矢」を展開させた。それらは高密度のエネルギー体だった。まばゆい光がそこから放たれる。山賊たちは驚き、馬を停めた。

 しかし、時既に遅し。「光の矢」は一斉に、山賊たちへと発射された。

 流星のように、それらは敵へと向かっていき、彼らの体を貫いた。灼熱によって溶けていく山賊たち。攻撃をまぬがれた者は、慌てて逃げていった。

 主人を失った馬たちが、丘の上で右往左往している。

 これで終わりか、呆気あっけないものだったな。

 そう思い、気を緩めようとした時……彼女は、大地に立つひとりの男に気がついた。

 その男は、ひるむことなく、そこに立っていた。片手には、大きな木製の杖が握られている。

 こいつは魔法使いだ。なるほど、先程の攻撃は効かなかったらしい。

 相手の反応を見てみるか。

 メーゼは再び「光の矢」を現出させ、男めがけて発射した。

 男は杖を振った。すると、彼の目の前から大木が生えてきて、盾のように周囲を覆っていき、矢の攻撃を防いだのである。

 木は早回しの映像のように、急速に成長していった。

 それだけではない。数もどんどん増えてきた。

 まるで大量の巨人が、そこに現れたかのようだった。大木たちはゆっくりと歩いてくる。根を脚のように動かしているのだ。

 また、枝を腕のようにして、地面に叩きつけてきた。衝撃で地面が揺れる。この攻撃をじかに受けたら、体が潰れてしまうだろう。

 メーゼは攻撃をかわしていたが、とうとう囲まれてしまった。大木たちは隙間すきまをつくらないよう、互いが互いに枝や根を絡みつけ、密着しているため、抜け出せないのである。

 追い詰められてしまった。しかし、彼女は慌てなかった。

 メーゼは杖を掲げ、それをゆっくり回転させた。彼女の頭上に、大きな火の玉が形成されていく。そしてそれは、鳥の姿に形を変えると、大木たちに向かって飛翔した。

 炎の渦。すべてを灼き尽くすような業火であった。

 大木たちは炎上した。煙を吐きながら、形を崩壊させていく。灰へと変わっていく。炎はますます勢いを増していった。

 火の海をものともせず、メーゼは歩いていった。彼女を攻撃しようとする者は、もういなかった。

 呆然としている男の前で、彼女は立ち止まった。男は観念したように、両手を上げた。


 ☆


 メーゼはその魔法使いを、強靭きょうじんな縄で拘束した。魔法を使われないよう、杖を奪い、それから尋問する。村を襲った理由について。

「俺は……依頼されたんだよ」

「誰に?」

「隣村の連中さ」

「どういうこと?」

 男は滔々とうとうと話し始めた。

 このN村と、隣村のT村は、昔から仲が悪かったらしい。境界線での領有権・採掘権争いや、水源を巡る長い紛争。他にも、伝統行事の起源を主張し合ったり、通行権でのいがみ合い、互いの村民の価値観の相違……。とにかく様々な問題を抱えていたらしい。

 しかし、何とかこれまでは、大きな争いに発展することもなく、微妙な均衡を保ってきたそうだ。

 ところが、である。T村の資源は年々不足していったらしく、経済的に衰弱しつつあった。

 本来なら、新しい事業を開拓したり、地道に運用方法を模索していけば良いものを、T村は、安易な方法を選ぶことにした。

「それが、N村の制圧ってわけさ」と男は言った。「N村を武力で制圧して、資源を根こそぎ奪おうとしたのさ。たとえ村民が出ていかなくても、奴隷のようにして働かせれば、それで利益が出るって算段だ」

「あの山賊たちは?」

「T村の若者達だよ。山賊のフリして、村を乗っ取る。それが計画だったってことさ。失敗しても、バレないようにな」

「その試みは失敗に終わったようね」

「それで……あんたはどうするつもりだ」男は訊いた。「あんたも俺のように、村から依頼されて仕事してんだろ。こうして解決したんだから、さっさと金もらって、早く立ち去れば良いじゃねえか。俺はもう、あんたがいるときは襲わねえからよ」

「あなた、何かを履き違えているようね」

「なんだと……?」

「私はあいにく、お金には困ってない。仕事を受けたのも、そう……暇つぶしのような、ボランティアのつもりかしら。だから、解決すると決めたら、最後まで徹底的にやるわ。時間ならたくさんあるからね」

 メーゼは少しだけ嘘をついた。もちろん彼女は、時間もお金も無駄にはしたくない。

 ただ単純に……彼女は事態を放置しておくのが、不正をそのままにしておくのが……なんとなく、居心地悪かったのだ。


 ☆


 メーゼは翌朝、N村の長老に会い、山賊の脅威はなくなったと告げた。

 長老はそのことを村人たちに伝え、村はお祭り騒ぎになった。

 メーゼは報酬を貰ったうえ、村人たちに感謝された。彼女はとりあえずの応対をひと通り済ませた後、N村を離れた。

 彼女はそのままT村に向かう。

 T村は、N村に似ていたが、陰気な空気が漂っていた。遠くから眺めても、人影はほとんど見られなかった。きっと今頃、なんとか逃げ帰った若者たちは、治療でも受けているのだろう。

 彼女は中央広場まで来ると、持っていた笛を鳴らした。それから魔法を使い、声量を増幅させた。

 メーゼは村人たちに、広場まで来るように命じる。

 少し遅れて、村人たちが集まってきた。メーゼが、計画を阻止した用心棒であることは、すでに知れ渡っているようだった。

 彼女は村人に呼びかけた。「隣村への襲撃を計画した者は誰?」

 一人の老人がおもむろに立ち上がり、メーゼのほうへと歩いてきた。険しい顔をした老人だった。「何の用だ?」

「あなたが、この村の長老?」

 その問いに答えず、老人は応えた。「お前が噂の、N村に雇われたという魔法使いだな。どうしてここまで来た。奴らに頼まれて、われわれを殺しに来たか?」

「そうではありません。私はこの付近を正常化しに来ました」メーゼは言った。「あなたは、この村の若者達が犠牲になるかもしれない、ということを念頭に入れなかったのでしょうか?」

「地位の低いものが、上からの命令に従うのは当然のこと。下の者が、上のために忠義を尽くす。昔からのしきたりだ」

「しかし、あなたの考えに反対していた者も居たはず。自分の村が衰退しているからといって、他の村を攻撃して良い理由にはならない」

「用心棒のくせに、その土地のいざこざまで介入するのか? こちらにもこちらの事情がある。その様子だと、理解して貰えるとは思えんが」

「そんなに戦争をしたいなら、正々堂々と通告すれば良かった。少なくとも、山賊のフリをして収奪を図るのは、フェアじゃないと思われます」

 それから彼女は、村人全員に向けてこう言った。

「皆さんを裁こうとは思いません。私は神様でも裁判官でもありませんので……。ただ、もしかしたら隣村への襲撃に、深い事情でもあるのかもしれないと考え、とりあえず話を聞きに来たのです……でも、そういう訳でもなさそうですね。私はこれからN村へと戻り、山賊の正体について彼らに話すつもりです」

 メーゼはいったん言葉を区切り、周囲を見渡した。

 村人達はすっかり疲弊しきっていた。

 この前の戦闘によって、T村の兵力は既にだいぶ削がれてしまっていた。もう、お金もないようだし、再び襲撃を試みても上手くいかないのは明白だ。

「――しかし幸いなことに、山賊による犠牲者は出ていません。もし、これから不当な手段を使わないことを約束していただければ、私は沈黙を守ったまま、この土地を立ち去りましょう……」

 村人たちはその提案に同意した。

 また、T村の行政を、村人全員の多数決で決定していくことも約束させた。

 彼女にできるのはこのくらいだった。それ以上の干渉は行き過ぎというものだろう。

 静寂がT村を覆う中、メーゼはその場を立ち去った。


 ☆


 メーゼは、魔法使いを縛っておいた森の奥まで行き、その拘束を解いた。

 彼女は言った。「宝石と金目のもの、すべて出してくれる?」

 男は困惑したようにメーゼを見たが、しぶしぶ従った。

 それらの貴重品をすべて取り上げ、カバンに入れると、メーゼは男に告げた。

「今から日没までに、できるだけ遠くに離れなさい。もし、この付近で再びあなたに出逢ったら、そのときは命を取らせてもらう」

 氷のように冷然とした声。

 男はコクコク頷くと、身軽な格好のまま、森の奥へと駆け出した。慌てているようであり、途中で木の根につまずいていた。

 その滑稽こっけいな様子を見届けたあと、メーゼは旅を再開させた。





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【Dragon】


 林道を抜けると、周囲の景色が開けてきた。

 どうやらここは崖の上らしい。

 メーゼは崖から、下界の様子をのぞきこんだ。

 荒野が広がっている。

 遠くのほうに薄く山並みが見えるが、それ以外には何もない。乾いた大地に砂埃すなぼこりが舞っている。

 そんな景色の中、彼女はとある様子を目撃した。

 かなり遠くのほうだ。そこには一体の竜がいた。

 真紅色をした大きな竜であり、口から火を噴いている。

 竜の周りには、幾人かの狩人がいるようで、弓や剣を持っている。

 竜は弱っていた。長いこと戦闘していたらしい。

 そして、狩人の放った一本の矢が、竜の喉元へと突き刺さり、そのまま絶命してしまった。狩人たちは竜を解体し、布で包んで荷車に載せ、協力して運んでいった。

 メーゼはその一部始終を眺めていた。

 干渉する気は無かった。彼女は誰の味方でもないし、なるべく、世界との距離を保つよう心掛けていたからだ。

 もう荒野に物陰はない。メーゼは魔法で体を支えながら、なだらかな斜面を選びつつ、慎重に崖を降りていった。

 その最中、彼女は巣を見つけた。

 それは竜の巣であった。しかも、中には大きな卵がある。

 きっとこれは、あの竜のモノなのだろう……。メーゼは推測した。

 そのまま通り過ぎるつもりだった。しかし、その卵が動いていることに、彼女は気づいてしまう。

 卵は揺れつつ、内側から音を放つ。

 そして殻が割れ、中からは、小さな竜の稚児が現れた。

 稚児はメーゼを見つめている。

 それは愛くるしい瞳だった。


 ☆


 彼女は竜を育てることにした。

 竜はすくすくと成長していった。色々なものを、好き嫌いなく食べてくれた。メーゼは、森や林で狩猟して、その獲物を竜に与えてやった。

 彼女はその竜を、ワイバーンと名づけた。

 昔読んだ小説に出てきた登場人物から引用したのだ。

 ワイバーンは、彼女にとても懐いていた。メーゼのことを、母親のように思っているのだろう。

 いつしかそこには絆が生まれていた。

 言葉を交わさずとも、分かり合えるような関係……。

 竜を育てるという試みは、とても億劫おっくうな作業のはずだった。手間暇が掛かり、寿命も長いため、飼育できる人間はそうそういない。

 でも、彼女はそれを面倒に思わなかった。

 時間なら幾らでもある、という考えもあったし、何より彼女も、そうした飼育の中に、退屈さを忘れることができたのである。

 赤い瞳……それはメーゼの、姉妹のひとりを思い出させた。


 ☆


 ワイバーンが空を飛んでいる。

 まだ飛行は覚束おぼつかなかったが、以前に比べたら、遥かに上達していた。

 筋肉は発達し、翼も大きくなり、飛行するだけの体格になったのである。

 狩りもできるようになっていた。もう、メーゼが餌を取ってくる必要もなかった。

 尻尾の先に灯されている「火」も、メラメラと燃えており、ワイバーンの元気さを物語っていた。

 ワイバーンがゆっくり降下してくる。

 そして、メーゼの隣に降り立った。

 ワイバーンは誇らしげにメーゼを見つめている。彼女はワイバーンの背中を撫でてやった。

 ワイバーンは後ろ脚をたたみ、背中の位置を低くした。それから喉を鳴らす。視線は後ろのほうに向いている……。

 どうやら、背中に乗ってもらいたいらしい。

 メーゼは少し迷ったが、乗ることにした。

 彼女を乗せ、ワイバーンは飛翔した。

 上昇し、翼を広げて風に乗る。

 今日は青空で、景色も綺麗だった。下界には草原が広がっており、遠くには海が見える。

 雲が周囲を流れていく。

 メーゼはうろこに掴まりつつ、様々な方向を眺めた。

 二人は風になっていた。

 穏やかで優雅な飛行。安定している空域を選んで飛んでいるらしかった。

 ワイバーンの首の付け根に、彼女は耳を当てた。

 心臓の鼓動が聞こえる。

 そのリズムの中に、メーゼは彼の意志を感じていた。

 目に見えるものと、目に見えないもの。

 メーゼは後者の力を昔から信じていた。

 こうやって空を飛んだのは、いつ以来だろう……。

 むかし、飛行機に乗った記憶がある。小さな飛行機で、彼女は後部座席に座っていた。前の座席には老人が座っている。彫りの深い顔立ちをしている、澄んだ瞳の老人……。

 あれからどれだけの月日が流れたのだろう……。分からない。記憶はどんどん曖昧になっていく。遠ざかって、薄れていく……。

 彼女は頭を振り、意識を現実に向けた。

 ただ、この飛行は――今この瞬間、ワイバーンとともに空を飛んでいる実感は――それだけはまぎれもなく確かで、とても尊いものであることを、彼女は理解していた。


 ☆


 ワイバーンは恋人を見つけた。

 それは彼と同じく、赤い色をした竜であった。

 彼らはつがいのように、並んで空を飛んでいる。

 とても仲が良さそうである。ワイバーンは、メーゼと共に旅をする道中、やっとパートナーに巡り会えたのであった。

 ワイバーンの体には、旅での戦闘により、いくつも傷跡が残っていたが、それらは勲章のように輝いている。

 彼は強いが、おとなしい竜でもあった。メーゼに育てられたせいか、人間を襲うこともなかった。

 メーゼのもとを離れたあとは、人間から狩られないよう、森の奥に棲み始めた。

 やがて彼らは夫婦になり、そのうち子供を産んだ。

 子供もまた大きくなっていく。二匹は子供に餌を与えるため、様々なところへ狩りに出掛けた。

 数年が経過する。

 三匹の竜が、並んで空を飛んでいる。

 夫婦は子供に、飛び方を教えたのだ。

 子竜は飛行の名人だった。ワイバーンが小さかった頃よりも、遥かに上手に飛んでいた。

 メーゼは遠くのほうから、その様子を眺めていた。

 彼女はもう、ワイバーンに干渉していなかった。ワイバーンが自立してからは、見つからないよう、遠くで眺めることに決めていたのである。

 そして時折、旅の合間にその地を訪れ、彼らの様子をうかがうことにしていた。


 ☆


 数十年の歳月が経った。

 その日の雲は灰色で、雪が降っていた。

 ワイバーンは老い、そして衰弱していた。

 彼は病気にかかっており、飛ぶことはできなかった。

 痩せ細っていく体。もう、何も食べようとしない。

 老いた竜は岩穴で、横たわって休んでいた。

 彼のパートナーはもう亡くなっていたし、子供もどこかへ去ってしまっていた。

 静かに降り積もっていく雪だけが、ワイバーンの視界に広がっている。

 その、銀世界の向こうから、とある人影が歩いてきた。

 それはメーゼだった。あの頃と変わらない姿で、ワイバーンのもとへと歩いてきたのだ。

 彼女はワイバーンに近づき、そっと撫でた。

 ワイバーンは嬉しげに喉を鳴らした。彼は長い間、ひとりぼっちだったからだ。

 メーゼは、ワイバーンの尻尾の火が、消えかかっているのが分かった。

 彼女は何も話さなかった。ただ、ワイバーンの瞳を見つめていた。それに呼応するかのように、ワイバーンも彼女を見つめ返している。

 暖かな沈黙。

 彼はもう一度、喉を鳴らした。

 もう、怯えも不安もなかった。瞳には安堵あんどが浮かんでいる。

 ワイバーンは静かに目を閉じた。


 ☆


 メーゼはワイバーンを燃やし、その遺灰を地面に埋めた。

「結局は、出逢いと別れの繰り返し……」

 彼女は哀しげな表情を浮かべ、しばらく空を眺めたあと、雪原の中を歩いていった。





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【Orgel】


 オルゴールが落ちていた。

 メーゼはそれを拾って、よく調べた。

 どうやら壊れていないらしい。塗装も綺麗だ。落としてから、そこまで時間が経っていないものと思われる。

 ふたを開けると、音が鳴る。

 甘く切ない調べが、彼女の耳に響く。

 金属の音だというのに、ここまで柔らかみのある雰囲気を出せるのかと、彼女は少し驚いた。

 どこかで聴いたようで、初めて聴く曲……。

 メロディを、何度も頭の中で再生しつつ、道を進むと、川に突き当たった。

 この付近は山に近く、川はそこまで広くなかった。

 道は左右に分かれている。彼女は上流へ向かう道を選択した。

 

 しばらく歩くと、滝が見えた。

 崖の上から、大量の水が落ちてくる。滝壺は濃い青で、間断なく飛沫しぶきほとばしっていた。

 滝の音に混じり、かすかなメロディが聞こえる。

 本当に微弱であり、普通の人間なら聞き逃してしまうような……。

 オルゴールの音だとメーゼは気づいた。先ほど彼女が拾ったオルゴールの音に、とても似ている。

 その音は、まさに滝のほうから聞こえていた。

 彼女は滝を調べる。すると、落下する水流の裏側に、小さな扉を見つけた。舗装ほそうされた岩道もできており、扉の前まで続いている。

 彼女はそこまで行き、扉をノックした。

 メロディがやみ、しばらくの沈黙のあと、ゆっくり扉が開いた。

 そこに現れたのは、工具を持った一人の青年だった。


 ☆


 メーゼは中へと案内された。

 椅子に座ると、青年はコーヒーを出してくれた。彼女はありがたく頂き、少しすすったあと、テーブルの上に置いた。

 青年は二十代半ばに見えた。眼鏡を掛けており、髪の毛はボサボサである。

 作業着を着ており、機械油で汚れていた。

「なるほど、これを届けてくれたんだね」

 青年はタオルで手を拭いたあと、オルゴールを点検するように眺め回した。「良かった。この金属板を探していたんだよ……どうやら落としてしまっていたらしい」

「ここで、オルゴールを造っているんですか?」

「そうだよ。だいたいがオーダーメイドで……依頼されて、その通りに造る。ただの職人さ」

「どうしてこのような、辺鄙へんぴな場所に住んでいるのですか?」

「人ごみが苦手なのさ。ここは静かだし、作業に集中できる。学校に通ってた頃は街に住んでいたけれど、もう、その必要も無いしね」

 彼はここで注文を受け、オルゴール製作に集中し、それを販売業者に引き取ってもらって、生計を立てているそうだった。

 作業場には様々なパーツが散らばっていた。別の部屋には、完成したオルゴールの品々が並べられている。


 青年は頭痛に悩まされていた。

 特に騒音が苦手らしく、少しでも痛みを緩和させるため、都会の喧騒けんそうを離れ、このような場所に住むことを決めたらしい。

 青年は、メーゼが旅人だと知ると、次のように依頼してきた。

「君はわざわざオルゴールを届けてくれた善良な子だ。それで、お願いがあるのだけど、ひとつ聞いてもらえないだろうか?」

 彼は少年のとき、川でおぼれたことがあった。そのとき、溺れていた彼をいち早く発見し、縄を投げてくれた少女がいた。同じ街に住む、二歳年上の女の子であった。

 少年は彼女に恋をした。単に命を助けてくれただけでなく、色々な面で礼儀正しく親切だった。その少女は優しい性格をしていたのだ。

 しかし彼は、その想いを、彼女に打ち明けることができなかった。そしてそのまま学校へと入り、職人になるための修行を積み、気づいたときには離れ離れになっていた。

「彼女は引っ越しをしていたんだ。ここから遠くの、D街ってところさ。僕の知っている情報はそれだけ……いつか行こうと思っていたんだけど、なかなかその勇気もなくてね。もう、あの頃から長い年月が経ってしまった。状況が違う。たぶん彼女だって、その街で様々な出会いをし、すっかり変わっているはずだ」

「…………」

「それで」と青年は切り出した。「もし、D街を訪れることがあったら、このオルゴールを渡して欲しい。渡すだけでいいんだ。受け取ってもらえなかったら、君が貰って構わないから……」


 ☆


 メーゼはD街を訪れていた。

 レンガ造りの家々が建ち並ぶ、平和な街であった。

 ニワトリの鳴き声が、あちらこちらから聞こえてくる。鐘の音に呼応して鳴いているのだろう。朝の到来を誰よりも待ちびていたようだ。

 メーゼは、オルゴールと一緒に渡された手紙をもとに、目的の家を探した。

 聞き込みをしたり、警備兵に尋ねたりしたが、なかなか情報は得られなかった。

 彼女は別の手段を使うことにした。図書館に行き、名簿を調べ、そこから住所を突き止める。時間は掛かったが、幸い記録は残っていた。

 地図をもとに、その住所に向かう。街の端であり、寂れた雰囲気が増幅していく。

 そしてメーゼは、ついにたどり着いた。

 そこは、すでに使われていない廃屋であり、誰も住んでいないようだった。

 住所は正しいはず……。廃屋には表札があったが、がれかけており、名前も消えていて判別できない。

 メーゼは近所の人に、事情を訊くことにした。

「彼女、殺されたのよ」とその人は言った。「もう三年前のことね。強盗に襲われたらしくて……可哀想にねぇ。旦那と一緒に、北のお墓に眠っているわ。たしか、小さな子どもが居たけど、いまはどうしているのかしらね……。たしか、教会の方が引き取っていたような気がするけど……」


 ☆


 彼女は孤児院にやって来ていた。

 僧院の一部が、孤児のための施設になっていた。

 聖堂からは、静かに讃美歌が聞こえてくる。

 院に住む、尼僧に導かれ、メーゼは中を案内された。

 子供たちの部屋が並んでいる。普段は大広間のほうで、勉強したり祈祷したりしているため、ここに帰ってくるのは夜間だけらしい。

 廊下を通り抜け、メーゼは食堂へと案内された。

 食堂の向こうは広場になっており、子供たちはそちらで遊んでいた。今は自由時間のようだ。

 尼僧は広場から、ひとりの少年を呼んできた。

 まだ小さい。五歳かそこらくらいであろうか。純真な双眸そうぼうが、きらりと輝いている。

 メーゼは彼に、オルゴールを渡した。

 少年は不思議そうにオルゴールを眺め回す。

 蓋を開ける。

 そこから、甘く切ないメロディが拡散し、空間へと溶けていった。

 オレンジ色の光が、窓から斜めに射し込んでいた。





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【Drug】


 とある街にやって来たメーゼ。

 大通りには、人の姿が見られない。

 ひどく閑散としており、静まり返っていた。

 だが、気配はある。

 彼女は試しに、近くのドアをノックした。

 返事がない。

 窓から中をのぞき込んでみる。その家は、まったく掃除がされておらず、さまざまな道具が散乱していた。

 彼女はこの街を調べることにした。


 ☆


 薄暗い路地、そこには地面に座り込んだ人々がいた。

 皆、生気を失っているようであり、虚ろな瞳をしていた。

 無気力が充満しているようだ。

 動いている者もいたが……血走った目で近くの壁を引っ掻いたり、存在しない相手に怒鳴ったり……とにかく狂ったような様子であった。

 何があったのだろう?

 メーゼは口のきけそうな者を探した。

 そして、街の広場で、当惑したように座り込んでいる女性を見つけた。

「何があったのですか? 普通ではないみたいですが」

 女性は顔を上げ、メーゼに応えた。「わからないの。私が戻ってきたときから、こんな感じで……」

「戻ってきた?」

「ええ。ちょっと用事があって、しばらく街を離れていたの。それで、一昨日おとといここに戻ってきたのだけど、そのときから、もう……」

「体調が悪いように見えますが」

「ここに来てから、なんだか私も、気分が悪くなって……」

 女性はそう言うと、再びうつむいてしまった。


 ☆


 街には数々の建物があったが、そのほとんどは、内部が滅茶苦茶になっていた。

 メーゼは疑問に思った。

 無気力な者が大半なのに、ここまで内部が荒らされるなんて、あり得るのだろうか、と。

 そして彼女は、ついに手がかりを見つけた。

 それは、とある馬であった。

 その馬は、おかしな挙動をしており、何度も頭を揺さぶったかと思うと、そのまましゃがみ込んで土をめ始めたり、舌を出したり引っ込めたり、尋常だとは言えない様子であった。

 人間だけでなく、動物にも異変が生じている。

 メーゼは、馬とその周囲のモノをよく調べた。

 考えを巡らせつつ、試行錯誤しながら実験し、やっと原因を特定した。

 馬が飲んでいた水……その水に、薬が入っていたのだ。

 人々に幻覚を見せ、無気力にさせる薬。

 それが、この街の上水……飲料水に混じっていたのである。

 なぜそんなものが、飲み水に混じっているのだろう。

 メーゼは街を離れ、川を辿たどって上流をさぐることにした。


 ☆


 浄化施設には男たちがいた。

 作業服を着ており、見た目自体には違和感はない。だが、やけに表情が明るく、不思議な連携が取れていた。

 駐車場に、何台ものトラックが停まっている。

 彼らは盗賊団だった。

 上水に薬を混ぜ、それを飲んだ人々が狂っている間に、街を荒らしまくって、金目の物を盗んでいたのである。

 一週間掛けて、計画的に、街の品物を根こそぎ奪い去るつもりだったらしい。

 メーゼは彼らを捕まえ、警備兵へと引き渡した。

 盗まれた品物は、持ち主へと返された。一件落着である。

「ところで、残っていた薬はどうしたのですか?」ひとりの兵士がメーゼにいた。

「全部奴らに飲ませたよ。きっと、夢からめたころには、廃人になっているでしょうね……」





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【Labyrinth】


 どこまで行っても鏡があり、どこまで行っても虚像がある。

 そこには彼女自身が写っている。

 ここは鏡の迷宮。

 彼女は気まぐれで立ち寄ったのだが、そのまま出られなくなってしまったのだ。

 空間把握能力には自信があったため、迷ってしまうとは思いもしなかった。

 もしかすると、何らかの魔法が掛けられているのかもしれない。

 彼女は出口を探すのではなく、逆に、奥深くへ潜っていくことに決めた。


 ☆


 階段を何度もくだり、迷宮の深層部まで彼女は辿り着いた。

 そこは大きなドームのようになっていた。

 天井や、周囲の壁には、さまざまな色のガラスがめ込まれている。

 静かに聞こえてくる、オルガンの音……。

 そして、ドームの天井からは、大きなブランコが吊り下がっていた。

 ブランコはゆっくり揺れていた。

 人が座っていたのである。

 それは、全身が青色をした男だった。

 男は悩ましげな表情でブランコを漕いでおり、その様子は悲哀に満ちていた。

 メーゼは男へと近づく。

 男は反応しなかった。体を揺らし、まばたきする以外には、何もしたくない、という感じであった。一種の拒絶が、そこには存在した。

「あなたはだれ?」メーゼは訊いた。「ここで、何をしているの?」

「オレはオレさ」と青男は答えた。「ここでずっと、ブランコを揺らし続けている。ブランコを揺らすことで、オレは、自分の居場所を確かめているのさ」

「ずっとここに居るの?」

「オレはここから出られない。ここはオレの居場所であると同時に、監獄なんだ。精神的な監獄……それをオレは、現実のものにした。そうしなければ、精神が壊れていくようだった……」

「わたし、ここから出たいの」

「外からやってきた人間は、アレに乗ればいい」男は、メーゼが入ってきた方向とは反対側の、木製の扉を指さした。「あの向こうに、エレベーターがある。それで上にあがれば、すぐに出口だ」

 メーゼはそちらまで歩いていき、扉を開けた。

 確かにそこにはエレベーターがあった。

 彼女はそのまま、外に出ることもできた。

 しかし、思い返して、青男のほうに歩いていった。

「ねえ、本当にそのままで良いの? 余計なお世話かもしれないけど、ここは退屈だと思うよ」

「きみは、鏡の中に住みたい、と思ったことはあるか?」

「え?」

「鏡の中、だよ」男はゆっくりと繰り返した。「現実と限りなく似ているけれど、ほんの少しだけ違う世界。そこには、違った法則や原理があるんだ。オレは昔、そこを目指していた。なぜなら現実は、限りなくつらくて、苦しいものだったからだ」

 男はそう言うと、ブランコから立ち上がった。

 するとドーム全体が、ぐらぐらと揺れ始めた。

「きみはこの迷宮に来た、千人目のお客さんだ。オレはその相手を、元の世界に帰さなければならない。さあ、月色の魔法使いよ、早く現実へ帰るのだ。ここはまもなく、閉鎖されるのだから」


 ☆


 メーゼはエレベーターに乗り、地上まで戻った。

 迷宮の外に出る。

 すると直後に、大きな地震が起こった。

 背後を振り返ると、まさに、鏡の迷宮が崩壊していくところだった。

 あっという間に建物は砕け散り、バラバラになったかと思うと、そのまま風の中に消えてしまった。

 終わってしまったのだ、とメーゼは思った。

 彼は遂に、存在という呪縛から解放されたのだろう……そして、ずっと夢みていた、鏡の世界に入ることができたのだ。

 残像が意識をたしていく。

 彼女はしばらく、余韻よいんひたっていた。





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【Race】


 メーゼはお金が必要だった。

 魔力を回復するための宝石を、切らしていたのである。

 旅を続けるうえで重要なものだったが、不法な行為をして入手するわけにもいかない。

 そんなとき彼女は、とある貼紙を見つけた。

 レースの広告。

 車を使ったレース大会であり、優勝者には賞金が支払われる。

 それに、車は主催者が用意してくれるらしい。

 自信があるわけではなかったが、彼女は試しに挑戦してみることにした。


 ☆


 今回のレースは、馬車ではなく、自動車だった。つまり、原動機エンジンがついているのである。

 文明崩壊後の世界において、自動車は貴重だ。資源的に、あまり数を造れないというのもあるし、燃料ガソリンの問題もある。

 どうやら主催者は、かなりの金持ちであるようだった。

 会場には多くの人々が集まっていた。

 自動車に乗りたい人間が、たくさん集まってきたのである。

 しかし、大会出場に、なんのリスクも無いわけではない。

 出場者は道中、命を失っても文句を言えないという誓約書に、サインする必要があったのだ。


 ☆


 観客たちの、むせ返るような熱気と声援の中、レースは開始された。

 運転に不慣れな者が大半だったが、メーゼは違った。遥か昔に、何度も自動車を運転したことがある。そのため、彼女は有利だった。

 とはいえ、コースの途中には、荒野や湿地だけでなく、廃棄都市や濃霧地帯、さらには活火山の周辺部なども含まれていた。ただ走破するだけでも、それなりに難易度が高い。

 そして、大会に出ているのは命知らずばかりである。

 妨害行為を仕掛けてくる者も現れるだろう。

 簡単に勝てるような代物ではない。

 約三百キロの道のりを、疾走する車たち。

 彼女はとりあえず、様子を見ることにした。

 レースが始まってから間も無く、前方の車が火を噴いた。ボンネットが炎上している。どうやらエンジンを攻撃されたらしい。

 その向こう側には、トラックに乗った男たちがいて、手には自動小銃を携えている。

 なんでもありだとは思っていたが、こんなに早くから攻撃するだなんて……。

 メーゼは自分から相手に攻撃するつもりはなかった。

 しかし、防衛のためには、それも致し方ない。

 案の定、トラックは減速しつつ、こちらへと近づいてきた。

 銃口はもちろん、メーゼの車に向けられている。

 仕方ない。

 彼女は車を走らせながら、魔法を使うことにした。

 車の周囲に「光の矢」を現出させる。

 光の矢、それは魔力を凝縮させたエネルギー体である。

 彼女はその複数の矢を、一直線に、トラックへと飛ばした。

 それらは高速で、目標へと飛翔する。

 矢はタイヤを貫いた。

 トラックはパンクし、そのままバランスを失って横転した。

 これで、最初の脅威は切り抜けられたというわけだ。

 彼女は再び、アクセルを踏みしめた。

 

 ☆

 

 レースはその後も快調に進んだ。

 あまり狙われない目立たない順位で、たんたんとペースを守っていた。

 きっと、意欲のある者同士が争って、お互いけしかけてくれるだろう。

 予想通り、車の数は減ってきた。

 残ったのは、才能ある猛者もさたち。

 もう、妨害行為をするような余裕もなさそうだった。

 あとはゴールへと疾駆しっくするのみ。

 そして終盤に差し掛かったころ……、空から岩が飛んできたのである。

 隕石ではない。それは人為的なものだった。

 丘に、ずらりと投石機が並べられている。出場者のものではなさそうだ。

 誰の仕業だ……?

 その疑問を解消する間もなく、次々と巨大な岩が、流星群のように、無数に飛来してきた。

 ぺしゃんこにつぶれる、運の悪いクルマたち。

 メーゼはたくみなハンドルさばきで、何とか攻撃を避けていたが、それももう限界だった。

 車体を覆うように、魔法でシールドを展開させた。これで、岩がぶつかってもダメージを受けない。

 彼女はシールドのお陰で、減速することなく走り続けることができた。

 そして、ゴールにたどり着く。

 優勝である。

 メーゼはそのまま、ゴール地点で表彰され、主催者であるS氏から小切手が渡された。

 それは多額であった。普通人なら一生遊んで暮らせるほどの金額だ。

 彼女は小切手を受け取り、いったん街まで戻ることにした。


 ☆


 この小切手は、他の地域では使えない可能性がある。

 だから、この街で現金に換え、それを使って、買えるだけの宝石を買い占めることにしよう。

 使いきれなかったら、古い知り合いの宝石商のところへ訪れてみようか、と考えながら。

 それにしても、あの投石機は、やはりやりすぎなのではないだろうか。

 おそらく、主催者が用意したものだろう。コースには障害物があり、命の危険もあると、契約書には書かれていた。しかし、あそこまで無数の岩を飛ばすだなんて、まるで誰も走破できないよう計画していたみたいだ。

 実際、最後まで走りきれたのは、メーゼを含めて四人ほどであったし、それ以外の出場者は皆、車が破壊されるかリタイアしたかのどちらかであった。

 賞金は、走りきった四人に渡された。もちろん一番金額が多かったのはメーゼである。

 他の三人も、街で買い物をしているようだった。


 ☆


 魔力含有度の高い宝石を買い集め、彼女は街を出ることにした。

 もっと早くに出るはずだったが、街は広く、数日掛かってしまった。

 ホテルで休み、充分な休息をとったあと、彼女は出発した。

 黙々と歩き続け、その区域から出て、しばらく経った頃だった。

 たくさんの車が、街の方角からやって来ていた。

 一体何なのだろう。

 背後を振り返り、車たちを眺める。

 こちらへと近づいてくる。

 そして、あっという間に、彼女の周りを取り囲んだ。

 武装した兵士たちが車から降りてくる。

 彼らは皆、銃をたずさえており、メーゼのほうに銃口を向け、構えていた。

 そして、兵士の奥から、レースの主催者であるS氏が、鷹揚おうような態度をとりながら歩いてきた。

「いったい何のつもり?」メーゼは訊いた。

「ご覧になっている通りですよ」S氏は応えた。「さあ、あなたが貰った賞金と、買った品々のたぐいを、私に返してください」

「そんな義務なんてない。契約書だって、きちんと書いたはず」

「ええ、あなたは契約書にサインしました。その効力はいまも有効です。しかし……」そこまで言って、S氏は地面を指さした。「ここは街からだいぶ離れており、法で管理されていない領域です。つまり、無法地帯だということ……地図を見れば一目瞭然いちもくりょうぜんでしょう。ここでは罪を問われません」

「私が領域外に出るのを見計らって、追いかけてきたというわけね」

「そのとおり。それにあなたの行動は、街の監視カメラで、ずっと見張っていました」

 だから素早く行動できたというわけか。彼女は合点がいった。「……ところで、他の出場者はどうしたの? 賞金をもらった、他の人たち」

「もちろん彼らからも、お金を返してもらいました。さあ、早く事を済ませましょう。きちんと返していただければ、命までは取りませんので」

 メーゼはS氏のほうを見つめた。

 そして読心術をつかって、奴の心をのぞいてみた。

 彼は嘘をついている。こいつは間違いなく、他の出場者の命も奪っている。きっと、あとで訴えられないよう、対象を抹殺し、証拠を消しているのだ。

 彼らがすぐに攻撃しないのは、話術を駆使し、こちらが油断する瞬間を見計らっているからだ。

「わかった。お金は返す」

 メーゼはそう言いつつ、ゆっくり両腕を上げた。

 そして、うつむき加減のまま、小声で詠唱した。

 あたりを煙が包み込む。相手が警戒する間もなく、魔法で煙幕を張ったのだ。

 敵は視界がさえぎられ、戸惑っているようだ。誤射をおそれ、なかなか発砲できない。

 いっぽう、メーゼは透視魔法を使えるため、なんてことはなかった。

 手元に剣を現出させると、右往左往している兵士たちを、一体ずつ葬っていった。

 そして煙が晴れる前に、S氏の背後へ回り込み、首元に刃をそえた。

「取引をしましょう」とメーゼは言った。


 彼女は、縄で拘束したS氏を乗せて、車を運転しながら、火山の近くまで来た。

 それからS氏を引きずり下ろし、地面へとほうった。

「火山が噴火したら、この辺りまで溶岩が流れてくるのかしら?」独り言のようにメーゼはつぶやく。

 S氏は身体を揺さぶりながら、懇願の瞳をメーゼに向けている。口も縄で縛っていたため、うめき声しか彼女には聞こえない。

「じゃあ、この車は私がもらうわ。自分の罪でも数えながら、神様に祈っていなさい。まだ、希望は残っているかもしれないよ」

 彼女は車に乗り、その場を去った。





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【Cyborg】


 メーゼはとある街へとたどり着いた。

 もう夜であり、大半の店は閉められている。

 宿屋を探したが、なかなか見つからなかった。やっとのことで見つかった宿も、もう満席で泊まれそうにない。

 とりあえず、いまは座って休みたい……。

 それに、彼女は喉も渇いていた。昨日から、まったく水分を口にしていなかったのである。

 彼女は酒場を見つけた。

 煌々こうこうと明かりが灯っており、深夜なのに活気があった。

 騒がしい場所は好きではないが、選んでいる余裕もない。

 店に入り、カウンター席に座った。

「お嬢さん、ここは大人の来る場所ですよ」グラスを磨いていた店員がそう言った。

 メーゼはため息をつく。「お金を払えば良いのでしょう? 詮索しないでくれると助かるのだけれど」

「たしかにその通りですな。それで、なにを飲みます?」

「えっと、ジュースとかある?」

「ココナッツミルクなら」

「じゃ、それで」

 彼女は頬杖をつき、物思いにふけった。

 メーゼは別に、お酒が飲めないというわけではない。だが、その出生のせいか、全く酔うことができないのであった。それに、精神は年を重ねているが、肉体的には子供に近い。だから、ジュースなどのほうが、おいしく飲むことができるのである。

 ココナッツミルクをすすりながら、店内を眺めた。

 どうやら、翌日は休日らしく、それで混んでいるようだ。

 トランプで賭け事をする者や、奥でダーツを楽しむ者もいた。

 店は二階建てであり、吹き抜けだ。

 天窓がついていて、わずかに星が見える。

 労働者の姿が多い。この近くに、工場でもあるのだろうか。

 彼女はだんだん眠くなってきた。疲労も溜まっていたし、ここ数日はなかなか眠れなかった。

 というのも、巨大なサンドワームの群れに、追いかけられる羽目になったからである。

 仕事の依頼で、サンドワームの巣を破壊したのだが、それが切っ掛けで彼らは暴走した。激怒に燃えたサンドワームたちは、メーゼに復讐しようと執拗しつような追跡を試みた……というわけだ。

 文明崩壊後の世界において、砂漠の面積は徐々に拡大していた。

 砂漠化が進行しているのである。

 そのため、人々の暮らせる範囲はせばまっていた。

 それに伴い、脅威も増えている。砂漠に住む魔物だけでなく、法の管理が行き届かない無法地帯の増加が、深刻な問題となっていた。

 だから、こうした街で、のんびり飲み物を楽しめるというのは、それだけでも落ち着くことなのである。

 微睡まどろみのヴェールがメーゼの意識を包み込もうとしていた頃、突然、怒鳴り声が聞こえた。

 彼女はそちらのほうを向く。

 どうやら喧嘩のようである。

 一体のロボットが、店の中央に転がっていた。

 大きな男が、ロボットの首元を掴み、店の外へとほうり投げた。

 白服の男たちが、そのあと並んで店を出た。店内は静まり返り、皆、距離をおいて様子をうかがっている。

 メーゼは裏口から外に出て、ストリートのほうへと向かった。

 白服たちがロボットを取り囲んでいる。

 ロボットは、白服たちに怒鳴った。「俺は人間だぞ、馬鹿野郎!」

「ちょっとからかったぐらいで、そう怒るなよ絡繰からくり男」と、白服のひとりが言った。

「からかう、だと。お前らは俺を嘲笑ちょうしょうしたうえ、モノを投げつけてきただろうが!」

「機械の分際ぶんざいで、酒場に来るんじゃねえ。お前の姿が目障めざわりなんだよ」と別の白服が言う。「とっとと家に帰って、潤滑油オイルでも飲んでるんだな。血の気の多いロボットちゃん」

 その言葉に、ロボットは激昂げっこうした。拳を握りしめ、白服たちに向かって駆け出した。

 すると、先程の大男が立ちふさがり、ロボットに向かって殴りかかった。

 ロボットは頭を傾け、その攻撃をかわす。

 そして、下から上へと突き上げるように、大男のアゴに向けて、力強いアッパーカットを放った。

 宙を舞う巨漢。

 強化された身体ボディが繰り出す破壊力は凄まじかった。大男は一撃で、地面にのびてしまった。

 白服たちは少し驚き、表情を変えた。

 彼らもまた怒ったようである。数人が腰から拳銃を抜き、ロボットのほうに向けた。

「お前を破壊してパーツを売り飛ばしたら、それなりの金になりそうだ」白服は言った。「端微塵ぱみじんにしてやる」

 流石さすがにロボットはうろたえていた。一斉に射撃されたら、金属のボディを貫いてしまうだろう。

 男たちは引き金を引く。

 弾丸が一斉に、ロボットに向かって飛んだ。

 しかし弾丸は、途中で威力を失った。宙で静止し、そのまま地面に落ちたのである。

 白服たちは怪訝けげんそうに、互いの顔を見合わせている。

 メーゼはその隙に、ロボットの手を取って、ストリートの向こう側へと走っていった。

 魔法を使って加速したため、あっという間にくことができた。

 暗い路地へと入り、立ち止まった。もう周囲には誰もいない。

「よく分からないが……ありがとう、おかげで助かったぜ」

「喧嘩していたようだけど、何があったの?」

「まあ、ちょっとな。聞いていたなら分かると思うが、ロボットだと馬鹿にされて怒っちゃったのさ。俺はこう見えてサイボーグなんだ」

「サイボーグ」

「そう。脳とか、一部の臓器は人間のままなんだけど……腕とか脚とか、あとは目とか耳とか、体中のいたるところを機械化していてな。それで、見た目はほとんどロボットなんだが、俺はれっきとした人間なんだ。ちょっと酔ってて、うまく説明できているか分からんが、分かってくれるよな?」

「あの白服たちは?」

「知らんよ。まさか拳銃を持っているとは思わなかったが、どこかのマフィアかもしれん。ヤバい奴らに目をつけられちゃったかな……。まあ、名前もバレてないし、もしものときは顔のパーツを変えれば良いさ」

 彼は、甲冑かっちゅうのような見た目をしていた。たしかに、そのかぶとにあたる部分を入れ替えれば、見た目もだいぶ変わってくると思われた。

「ああ、それにしても頭が痛い。酒のせいか、殴られたせいかは分からんが……」彼はそういうと、その場にしゃがみ込んでしまった。

「大丈夫?」

「たぶん……。それで、ちょっと頼みたいんだが……その、家まで送ってくれないか? 道は教えるし、あとでチップは払うからさ」


 ☆


 メーゼは彼を家まで運び、それからベッドに寝かせた。

 彼女も同様に疲れていた。そのままソファーで横になり、仮眠をとった。

 そして、気が付くと朝になっていた。

 彼はすでに起きていて、椅子に座り、コップの水を飲んでいる。

「よう、起きたか?」

「どうやら、ぐっすり眠ってしまったみたい……」

「起こそうかと思ったんだけどな、かなり疲れている様子だったから、起こすのも忍びなくて……」彼は立ち上がって、大きく伸びをした。「そうだ、自己紹介が遅れていたな。俺の名前はメリー、メリー・グロッサムだ」そう言うと、彼は手を差し出した。

 メーゼは握手した。

 金属の手であったが、不思議と温かみがあった。


「俺はもともと特務機関にいたんだ」メリーは言った。「だが、任務中に大怪我にあってな。一命は取り留めたものの、体をサイボーグ化する羽目になった。脳とか胃とか、いくつかの臓器は残っていて……水や酒、あるいは流動食くらいなら、いちおう口にすることはできる。栄養は、流動食か点滴で摂取しているが……それに加え、機械部分をメンテナンスせにゃならんし、けっこう面倒だよ」

「いろいろ事情を抱えているのね」

「アンタだって、けっこう複雑そうに見えるぜ」とメリーは言った。「魔法使いのようだが、見た目と精神年齢に、かなりの乖離かいりがあるように思えるしな」

「私にも、いろいろあって……」メーゼは少し考えてから、彼に質問することにした。「あなたは、エメラルダという名前に、聞き覚えがあるかしら」

「エメラルダ……?」

「それから、人造人間の噂だとか……。この辺りで、そうした話を聞いたことはない?」

「はは、なんだか面白いことを言うな」彼は笑った。「残念だが、そういうのは分からねえ」

「特務機関にいたということで、何か知ってるかもしれない、と思って」

「……いや、そんな大層たいそうなもんじゃないさ。俺はただ、とある共同体の利益のために、働かされていたようなものだからさ」

「…………」

「あんた、旅人なんだろ? 今まで、どんなモノを見てきたんだ?」

「……言葉では簡単に説明できない。ただ、多くの出逢いがあって、多くの別れがあった」

「どこか、目指しているところはあるのか? さっきのエメラルダという名の人物に、用があるみたいだが」

「ええ。私は彼女を捕まえなければならない。それが、さしあたりの目標……」

「それが済んだ後は、どうするんだ?」

「…………」

「いや、ちょっと気になっただけだ。少し、訊きすぎちまったかな」

「いえ、別に」

 彼はしばらく沈黙したあと、こう切り出した。「俺は……いま、迷っていることがあって、それを実行に移すべきか、悩んでいるんだ」

「…………」

「何度もすまねえが、お願いがあるんだ。どうか頼みを聞いてくれるか、小さな魔法使いさん……。これは俺にとって、とても重要なことなんだ。あんたを信じて、たくしたいことがある」

 彼はそう言うと、頭部に付いた二つのレンズで、メーゼの顔を真摯しんしに見つめた。


 それはとある手紙だった。

 宛先には『ロビン・グロッサム』と書かれている。

「俺の父だ」とメリーは言った。「今から半年後の今日、手紙を親父のところに届けて欲しい。必ず、だ。約束してくれるか?」

「ええ」

 メリーの真剣な態度に、彼女はうなずいた。

「ありがとう……本当に、恩に着るよ」


 ☆


 メーゼが街を離れ、数ヶ月が経った頃だった。

 彼女は船の中で、新聞を読んでいた。

 いた時間を潰そうと思い、購入したのである。

 暇だったので、隅から隅まで眺めていると、彼女はとある記事の中に、知っている人物を発見した。

 そこにはこう書かれていた。


『メリー・グロッサム氏殉職 テロ組織を壊滅 彼に市民栄誉賞を!』


 ☆


 メーゼは手紙を届けるつもりだった。

 約束を守るのは、彼女の信念だからである。

 だが、今となっては、そうも言っていられなくなった。

 メリーが亡くなった理由は、この手紙に書かれているのではないだろうか。

 彼女は封を破り、中の手紙に目を通し始めた。

 そこにはこう書かれていた。


 ――――――


 父へ


 この手紙を読んでいる頃には、もう私は亡くなっていると思います。

 私はあなたの元で拾われてから、何不自由なく暮らしてきました。

 事故に遭い、病院に送られたあと、見知らぬ私のために、機械の体を用意してくれました。

 本来なら死んでいたところでした。

 それなのに、恵まれない私のため、多額のお金を払って命を助けてくれました。

 私はあなたの元で、養子として育てられました。

 十二のときに事故に遭い、それから十五年間、私は幸せでした。

 しかし、それと同時に、ずっと罪悪感を抱えていました。

 真実を伝えます。

 あのとき、列車を爆破した犯人は、他ならぬ私なのです。

 自爆テロをしようと思っていました。

 しかし途中で怖くなり、時限爆弾の入ったカバンを、設定時刻の直前に捨てようとしました。信じて頂けないかもしれませんが、そのようにして車外へ捨てようとしたとき、予定よりも早く起爆したのです。


 私は幼い頃、テロ組織にさらわれました。

 物心もついていない小さい頃でした。本当の両親が今どこに居るかはわかりませんが……とにかく、私は幼い頃に誘拐され、あの組織で教育されました。

 教育というより、洗脳です。

 憎悪と敵意を教え込まれ、テロ行為が、正義のための美しい行為であると刷り込まれました。

 私はあと一歩で、見知らぬ大勢の乗客たちを、あやめるところでした。

 しかし、幼い頃の、おぼろな両親たちの面影が、それを止めてくれました。


 ですが、私の起こした事故のせいで、数人が死にました。

 本来の予定より被害者が少なかったとはいえ、亡くなったのは事実です。

 そして私は、真実を話すことなく、運良く、幸せに育てられてきました。

 到底、許されることではありません。

 洗脳されていたとはいえ、私には責任がある。

 罪滅ぼしをしなければならない。

 いろいろ噂を聞きました。まだ、あの組織の残党は残っているらしいのです。

 私は内部事情に通じています。奴らを壊滅させ、これからの被害を食い止めることができるはず。誘拐された子供たちを救うことにも繋がります……私と同じような罪を背負わせないためにも……。

 これは贖罪しょくざいです。

 何もかもを告白し、処刑されるべきなのかもしれません。

 しかし、その前に、私にはやるべきことがあります。

 ずっと迷っていました。でも、やっと決心がつきました。

 父さん……今まで育ててくれてありがとう。

 あそこで過ごした日々のすべてに、心から感謝しています。


 追伸:黒猫のエドガーは元気ですか? タマネギを食べさせないよう、気をつけてください。



                      メリー・グロッサム



 ☆


 メーゼはしばらく迷ってから、その手紙をバラバラに破り、窓の外へと放った。

 紙切れたちが、海へと吸い込まれていく。

 彼女は窓を閉じてから、座席へと身を沈めた。





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【Doctor】


 丘の上に、ちょっと変わり者の博士が住んでいるという話を聞いた。

 何ともその博士は、ロケットを開発しているらしい。

 しかし、何度挑戦しても、いつも失敗してしまうとのこと……。

 そのため、ロケット打ち上げの際には、近隣の住民たちが空を見上げ、打ち上げ花火を楽しむかのように、爆発を楽しんでいたのだった。

 メーゼは興味が湧いて、丘をのぼっていった。

 丘の上には建物がある。

 とても大きい。

 博士は若い頃、歴史に残るような大発明をして、多額のお金を入手したらしい。

 その資金を元にして、研究を続けているとのことだった。

 メーゼは建物の前まで来ると、ドアをノックした。

 すぐに扉がひらく。

 正面にはロボットがいた。

 四本脚と六本の腕。まるで、エイリアンのような見た目だ。

「コチラヘ、ドウゾ」

 彼女は素直についていった。

 好奇心もあった。科学の衰退したこの時代に、真面目に取り組んでいる人がいて、感銘を受けたのかもしれない。

 何度も廊下を曲がり、博士のところへ案内されたのだが……彼女は珍しく驚いてしまった。

 なんと博士は、〝脳髄のうずいだけの存在〟だったのである。

 培養液に浸されながら、透明なケースの中に入れられていた。

 その脳髄には、電極やケーブルがつながっており、そこから伸びたコードが室内のコンピュータにつながれていた。

「よく来た。旅人よ」と博士はいった。その声はスピーカーから聞こえた。「こんなわしに、いったい何の用かな?」


 ☆


 彼女は博士に、事情を説明した。

 メーゼが、エメラルダという名の妹を追っており……彼女が、人造人間を開発しているという噂を。

「それで……人造人間というものは、可能なのでしょうか?」

「もちろん、可能だよ」博士は応えた。「しかし、君の質問は漠然とし過ぎているね。ぜんぜん具体的な手がかりを掴めていないじゃないか」

「まだ、調査中でありまして……」

「でも、そうした生命体を造っているのなら、莫大なエネルギーと、卓越した技術力が必要だろうね。わしが言えるのはそのくらいだろうか」

「…………」

「ところで、きみは良いタイミングに来た。わしは間もなく、最後の打ち上げをするつもりなのだよ」

「最後の打ち上げ?」

「そうだ。一週間後の夜明け前、今までで最大級のロケットを打ち上げる……そしてその中に、わしも乗るのだ」

「あの、お言葉ですが」メーゼは口をはさんだ。「近くの住人によると、今までの打ち上げは、すべて失敗だったとか……。それに、博士は何のために、こんな事業を始めたのですか?」

「失敗じゃと?」博士は訊き返した。「わしは今まで、一度も失敗などしておらん。すべての行動には意味があり、次の試行へのいしずえとなっておる」

「しかし、途中で爆発したり……」

「たしかに爆発はした。しかし、そのたびに、有益なデータを得ることができた。失敗ではなく、成功のために実験を繰り返してきた……その過程なのだ。そしてわしは、今、充分なデータを蓄積した。やっと、念願の望みを叶えられる」

「それは、博士の夢なのですね」

「そうだ」彼はうなずいた。「わしは若い頃から、そのために努力してきた。いや、努力と呼ぶには、あまりにも楽しい経験だったかもしれない。自分にとっては、目標に向かって進み続けることさえ、夢の一部だったからだ……」

 博士は近くのアームを動かして、とある写真をメーゼに見せた。

 そこには、とある男性と女性が映っていた。

 両者とも、笑みを浮かべており、背後には大きなロケットが映っている。

「これは?」

「昔のわしと、妻だ」博士は応えた。「まあ、とうの昔に離婚しておるがな……。きっと研究にのめり込みすぎたせいだろう。でも、後悔はしておらぬよ。自分の道を歩み続けることこそが、何よりも気高い行為だと、わしは信じているからじゃ」


 ☆


 最後のロケットの準備は、着々と進んでいた。

 設置も完了し、燃料も満タンになった。

 発射台には巨大ロケットがえられている。

 そして、発射まで残り十二時間になったときだった。

 博士の脳波が薄れていき、そのまま亡くなってしまったのだ。

 それは穏やかな最期だった。

 享年八十五歳、老衰である。


 ☆


 発射の準備は整っていたし、博士が乗っていないこと以外は、完全に計画通りだった。

 その街で、緊急会議が開かれたが……全員一致でロケットの発射を認めることにした。

 住民たちは、博士の意志をみたかったのである。

 ロケットの発射は、とむらいの意味を持つことにもなった。

 それにロケットの発射は、街の風物詩のようなもので、皆、心から楽しみにしていた。

 博士は街に貢献しつづけてきた。

 だから、ここにきて中止するなど、あり得ないことだったのだ。


 ☆


 丘に集まった数々の群衆。最後の打ち上げということで、かつてないほどの人々が集まっている。

 その中には、メーゼの姿もあった。

 カウントダウンが始まる。

 固唾かたずを飲んで見守る人々。

 皆、そわそわしており、緊張のせいか、喋り声もほとんどなかった。

 スピーカーが発射を知らせた。

 壮麗な火炎を噴出しながら、金属の大きな柱が、空に向かって飛んでいった。

 流れ星が、天蓋てんがいに向かって打ち上げられるかのように……

 みるみる高度を上げていく。

 そして、もう少しで大気圏を離れるかというところで……

 ロケットは爆発した。

 それは大規模な爆発だった。

 明け方の空に、もうひとつの太陽が現れたようだった。

 まばゆい光を燦然さんぜんと放ち、空全体を明るく染め上げてから、そのまま消えてしまった。

 空は藍色あいいろに戻っていき、夜明け前の静けさが、ふたたび街へと帰ってくる。

 安堵あんどの声が空気を満たした。

 宇宙まで届かなかったというのに、皆、さわやかな顔つきをしている。

 博士は確かに、その目標を叶えられなかったのかもしれない。

 しかし、彼の生き様は……そしてロケットの輝きは、観ている人々に、底知れない希望を与えていたのであった。





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【Correspondence】


 メーゼは湖のほとりで、小さな機械を拾った。

 機械からは、少年の声が聞こえていた。

 それは不思議な無線機で、不思議な場所とつながっているようだった。

 次の文章は、彼女と、その相手との交信を、逐一ちくいち記録したものである。


 ☆


「CQCQ……ハロー、聞こえますか? こちらブルーシティ、第七地区のポールです。もし、聞こえていましたら、返事をしていただけると嬉しいです。ハローCQ、ハロー……」

「あなたは誰? どうぞ」

「わっ、こんにちは! 本当につながるとは思わなかったです。ぼくの名前はポール。ブルーシティで、中学校に通っています。あの、ぼくも質問していいですか? どうぞ」

「こちらはメーゼ。私は魔法使い……世界を旅しています。どうぞ」

「えっ、魔法使い? それに、世界を旅している、だって……なかなか面白い方ですね。その、あなたはどこにいるんですか? どうぞ」

「さあ、どこかの森の奥……近くに湖があるけれど、場所はちょっと分からないかな。どうぞ」

「森から交信しているということは、だいぶ遠いのかな……。ぼくの家の近くには、森なんてないし……。えっと、きみも、もしかして中学生ですか。なんとなく、若いような気がしたので。どうぞ」

「チュウガクセイってなんですか? どうぞ」

「えっ、学校に行ってないんですか? どうぞ」

「ああ……そういうことね。学校は、うん、行ってないかな。ほら、さっき旅をしているって言ったでしょう。そういうこと。どうぞ」

「そうなんだ……。世界は広いなぁ。ぼくなんて、今日の宿題を終わらせていないのに、こうやって時間を潰しているんだよね。今日はパパもママもいないから、こっそりやっているって訳さ。ところで、メーゼさんは無線が好きなんですか? どうぞ」

「いえ、たまたま拾ったモノを使っています。だから、好きというか、偶然あなたと話しているというわけ。いちおう、無線のようなモノはやった経験があるので、使い方はわかるけど……。どうぞ」

「拾ったモノを使ってるの? もしかして、免許とか持っていなかったりする? どうぞ」

「持ってないよ。どうぞ」

「ははっ、それはすごいや。けっこうワイルドというか、怖いモノ知らずなんだね。どうぞ」

「そうね……怖いモノ知らずかもしれない。ところで、ポールくんは学校で、どんなことをやっているんですか? どうぞ」

「学校で、えっと、この前は体育祭があったかな。ぼくは野球チームに所属しているんだけど、めっぽう弱くてね。だからそのときの試合でも、相手チームに、思い切りホームランをかっ飛ばされちゃって、ボロ負けって感じだよ。どうぞ」

「運動が苦手なの? どうぞ」

「まあまあかな。ぼくだけじゃなくて、チーム全体が弱いんだ。でも、みんな楽しくやってるし、不満はないんだけどね。それから……ぼくは運動じゃなくて、こうやって機械をいじっているほうが好きなんだ。どうぞ」

「私は運動が得意だよ。野球なんて、お茶の子さいさいって感じです。どうぞ」

「意外と気さくな人なんだね。うーん、ますます気になってきたぞ。嘘をついているにしては、なんだか飄々ひょうひょうとし過ぎているしなぁ……。ところで、どんな魔法が使えるんですか? どうぞ」

「宙に浮いたり、変身したり、物を動かしたり、透視したり、結界をつくったり、幻影を召喚したり、いろいろです。どうぞ」

「な、なるほど…………。ところで、メーゼさんは、趣味とかありますか? あるいは、目標とか。どうぞ」

「趣味は……さまざまな地方の景色を、眺めることかもしれない。旅をしていると、自然と、無数の風景を味わうことになるからね。目標は、いちおうあるけど、ここでは説明できません。そちらはどうですか? どうぞ」

「旅が趣味みたいなものなんですね……。ぼくは、映画を観るのと、本を読むのが好きです。夢は……漫画家になることです。漫画が大好きで、暇なとき、ついつい描いちゃうんです。この前は、授業中に絵の練習をしていたら、先生に怒られちゃいました。やはり、気をつけないといけませんね。どうぞ」

「漫画家を目指しているのね。そんな職業が、遠いむかし、あったことは知っている。詳しいことは分からないけど、頑張ってね。どうぞ」

「ありがとうございます。ふわぁ……なんだか眠くなってきました。夜もけてきたことですし、ぼくはそろそろ寝ることにします……。今夜は、どうもありがとうございました。楽しかったです。どうぞ」

「こちらこそ、ありがとうございました。どうぞ」

「おやすみなさい、メーゼさん」

「ええ、おやすみ……」


 ☆


 交信が終わったあと、メーゼは機械を調べてみた。

 そこに記された年は、数百年前のものであった。

 空を見上げると、大きな彗星が尾を引いて、夜空に広がっていた。





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【Chimera】


 廃棄都市。

 それは人々が住まなくなった、捨てられた都市のことだ。

 その大半は、むかしの戦争で汚染されており、浄化が進んでいるところはほとんどない。

 メーゼは調査のため、そうした都市のひとつを訪れていた。

 普通の人間なら、足を踏み入れるのも躊躇ためらわれる領域。

 彼女は魔法使いであったので、体を保護するすべも持っていたし、不意の脅威から身を守る力もあった。

 聞こえるのは、風の音と、鳥の声のみ。

 無人の世界が続いているようであった。

 普段なら、彼女もあまり入りたがらない領域だ。

 戦争の名残なごりで、地雷が埋まったままのところもある。

 魔法で周囲を探りながら、彼女は慎重に歩を進めていた。

 

 どうして、こんな世界になってしまったのだろう……。

 理由はいちおう分かっていた。

 でも、その理解に、実感が追いつかない部分がある。

 むかしはもっと平和だった。

 それが途中でおかしくなってしまった。

 バラバラになってしまった。

 退廃してしまった。

 世界はまだ、終わったわけではない。

 でも、終わりはだんだんと近づいている。

 それは確実に、着実な足取りで。

 平和な世界……遠い昔は、もっと美しい星だったのだろう。

 そう思うと、少しやり切れなくなってしまう。

 どんな風に生きたって、取り戻せないものが、この世にはたくさんある。

 命も、時間も、記憶も……。

 私は本当に……本当の意味で、何かを成し遂げることができるのだろうか……。

 静まり返った都市は、メーゼに憂鬱ゆううつな気持ちをもたらしていた。


 ☆


 ひとつひとつ建物を調べていく。

 どこもかしこも、中はがらんどう。

 朽ち果てた家具や用具が、所々に散乱しているだけで、有用なものは見つかりそうにない。

 人の管理がされていないため、雑草がそこらに生えていたし、大都市だというのに大きな木々が乱立していて、一種のジャングルにも見えてくる。

 とある木には、果物がなっていた。

 メーゼはお腹が空いていた。

 どうやらリンゴのようである。

 食べられるだろうか……。

 ひとつもぎ取り、検分してみた。

 見た目は綺麗だし、新鮮だ。

 よくいたあと、そのままかじる。

 美味しい。

 果汁が舌の上であふれてくる。甘味と酸味も、ちょうどよい。

 やはりこの廃棄都市は、ほとんど汚染されていないようだった。

 彼女がもう一つリンゴをもぎ取ろうとしたとき、あるものを発見した。

 それは足跡あしあとであった。

 いくつかの足跡が、リンゴの木の近くに残っていたのである。

 古いものではない。けっこう新しい。

 つまりこの付近に、誰かが住んでいるということ……。

 かすかな痕跡を頼りに、彼女は探索の範囲を広げていった。

 そして、横長の巨大な建物を見つける。それは何かの集会場のようであった。

 そこから声が聞こえてきた。それなりの人数いるようだ。

 気配を消し、メーゼは建物の中に入った。

 物陰に隠れながら、忍び足で廊下を歩く。

 どうやら、その集団はホールに集まっているようであり、そこで会議を開いているらしい。

 謎の集団……活発な議論がおこなわれている。

 彼女はホールを一望できる場所から、慎重にのぞいてみた。

「…………!」

 そこには、たくさんの動物たちがいた。

 いや、彼らは動物ではない。

 二本脚で歩いているものが多く、しかも、言葉を話していたのだ。

 それに、既存の動物にはうまく当てはまらないような、非凡な見た目をしていた。まるで獣人のような……。

 あれは、キメラだ。

 かつて戦争で使われたという、人造生物兵器。

 科学者は、さまざまな動物と人間の遺伝子を組み合わせることで、身体能力の高い、新たな生命体を造り上げた。そして洗脳によって、彼らを兵力にしていたのだ……。

 遺伝子操作で生まれた異形。

 科学者のエゴによって創り出された、本来、存在するはずのなかった生命たち。

 ある意味……それはメーゼと同じ境遇だと言えた。

 彼女もまた、元々は兵器として生み出された存在だからだ。

 クローンとキメラ、違いはその程度。

 メーゼは聞き耳を立て、会議の内容をうかがうことにした。

 聞き取りにくい声であったが、それが言語であることは確かだ。

 魔法で聴力を高め、集中して内容を聞き取る……。


「それで、第二防衛線は機能しているのかね?」

「いいえ……残念ながら、物資が不足しているため、第一防衛線しか使えない状況です」

「奴らとの調停はうまくいきそうですか? 交渉官どの」

「ダメだ。彼らはわれわれに、偏見と差別意識を抱えている。対話による解決は、間違いなく不可能だ」

「しかし、こちらには知能があることを、向こうだって理解しているはずでは……」

「そうだ。だからこそ、潰すとなったら、全力で潰しにかかるだろう。奴らには慈悲がない」

「いっそのこと、この都市を離れるってのはどうかな?」

「何を言ってるんだ、ヘンリー。ここを離れてどこで生きていくというんだ。まさか、砂漠にオアシスを見つけに行くとでも?」

「だが、彼の言うとおり、戦争は無謀なのではないか?」

「戦わなければ、間違いなく死ぬのみだ。それならば、戦って死んだほうが良いと思うな。それに、かならず負けると決まったわけではない。可能性があるなら、それに賭けるさ」


 数々のキメラたちが、白熱して議論していた。

 身分や階級に関係なく、意見を出し合っている。

 その後も話を聞き続け、メーゼはおおよその状況をつかむことができた。

 それは次のような事情である。

 キメラたちは、かなり前からこの都市に住んでいた。少しずつ除染作業を進め、安全な土地がどんどん増えていった。

 しかしあるとき、「汚染がほとんど無くなっている」という情報が、人間たちに漏れてしまった。

 人間たちは、この都市を管理下に置こうとしている。

 それで彼らはキメラたちを、殺処分……虐殺して、都市を奪おうと画策しているのだ。人間側は、キメラたちが脅威に成り得ると考えているのである。

 一方キメラたちは、元々、対話による解決を模索していた。しかし、人間たちは話し合いに応じてくれず……こうして戦争の準備をすることになったのである。

 キメラたちは確かに、身体能力には優れている。

 しかし、兵力や物量、あるいは技術力の面からみて、かなりの劣勢に立たされているのであった。


 そのとき、背後から気配がした。

 どうやら巡回していたキメラが、近づいてきたらしい。

 どうする。

 透明化の魔法を使うこともできた。

 だが、メーゼはそれ以上に、キメラたちに関心を持っていた。

 なにか自分にできることはないだろうか。

 メーゼは覚悟を決め、とある魔法を使うことにした。

 彼女は杖を振る。

 そこからキラキラ輝く鱗粉りんぷんのようなものが舞い降りた。

 そして、その金色の粉が地面に落下しないうちに、メーゼは〝きつね〟の姿になっていた。

 変身魔法。

 これを使うのは久しぶりだ。今のメーゼは、二本脚で立つ、一体のキメラになっていた。

 鏡を取り出して、違和感がないかすばやく調べる。

 毛も生え揃っているし、尻尾しっぽも付いている。もとの面影を残しつつも、彼女は動物化していた。

「おい、そこで何をしている」

 振り向くと、そこには警官の格好をした、ブルドッグのようなキメラが立っていた。懐中電灯をメーゼのほうに照らす。

「ちょっと、迷ってしまって」

「勝手にうろつくから悪いんだ。本来なら上に報告するところだが、今回は見逃してやる。さあ、席まで案内してやるよ」

 キメラたちの知能は、人間と同等か、それ以上だとされていた。だから、こうして難なくコミュニケーションを取れるのは不思議ではない。また、声帯のついていないキメラでも、話の内容を理解することならできる。

 ホールの中を案内され、空いている席に座るよう命じられた。「今度は気をつけろよ。トイレに行きたいのなら、警備に報告してからだぞ」

 そういうと、ブルドッグは巡回へと戻っていった。


 ☆


 会議は長いこと続いた。

 最初のうちは白熱していたが、いまは全員に疲労の影が見え始めていた。

 前方のステージ上の椅子に腰掛けていたクマのようなキメラが、

「やはり、戦うしか道はないだろう」

 と重々しく宣言した。

 彼はどうやら、議論における座長だったらしい。

 集まっていたすべてのキメラに指令書が配られ、集会は解散となった。

 メーゼはキメラたちの居住地……それは古い地下道であった……を確認してから、集団から離れ、魔法を解いた。

 そのままどこかへ旅立つこともできた。しかし彼女の中には、彼らに協力したいという感情が芽生えていたのである。


 ☆


 都市を囲むようにして、壁が建設されていた。

 それは集会で話されていた、防衛線というものであった。

 キメラたちは武装し、壁の近くにずらりと並んでいる。戦闘に参加できるキメラはこの壁から射撃をおこない、そうでない者は物資を運ぶ役割を課せられていた。

 壁の向こう……地平線に、無数の光がきらめいた。

 それらの輝きはみるみる大きくなり、壁へとぶつかった。

 大砲から砲弾が発射されたのである。

 壁はすぐに、あらゆる部分が崩れてしまった。頑丈な造りをしていたが、砲弾の数が多すぎて、防ぎ切れなかったのである。

 その後、馬に乗った人々が、一気に崩壊した部分へと突撃してきた。彼らもまた銃を持っており、馬に乗りながら発砲している。

 キメラ側の攻撃も、それなりに効いていたが……多勢に無勢、あまりの物量に対処しきれないようだ。

 メーゼは、高層ビルの上に立ち、一連の様子を俯瞰ふかんして眺めていた。

 もう、これ以上は、キメラたちも持ちこたえられないだろう。

 そろそろ頃合いか……。

 タイミングを見定め、彼女は魔法を唱えた。

 すると、みるみるうちに、空に黒雲が立ち込めた。

 大雨が都市へと注がれる。先程まで晴れていたのに、突然天候が変わったせいか、人間もキメラも驚いているようだった。

 メーゼはそれから、もうひとつ魔法を唱えた。

 すると雨雲から、竜のごとき稲妻があらわれ、人間たちのところへと落下したのである。

 一瞬の出来事だった。

 巨大な雷が、無数に枝分かれし、大地へと直撃した。

 まるで狙い澄ましたかのように、雷は人々にだけ当たった。

 人間側は一気に勢力をがれてしまった。残されたわずかな人々は、馬に乗って、あわてて地平線の向こうへと逃げ帰っていった。

 キメラたちは呆然ぼうぜんとしていたが、しばらくすると我に返り、戦争を生き延びたことをお互い喜び合っていた。


 ☆


 彼女は廃棄都市を立ち去った。

 あの戦闘で人間たちは、「キメラたちは特殊な武器を保持している」と誤解したようであり、人間とキメラとの間で、不可侵条約が結ばれることになった。

 人間側が、話し合いに応じてくれたのである。

 メーゼはその結果を知りつつも、ため息をついた。

 本来ならば、干渉すべきではなかったのかもしれない。

 今回危機を逃れても、きっと、いつかは滅びてしまう運命だろう。

 でも、だからといって、虐殺のような光景を見過ごすのは、彼女にとって苦痛だったのである。





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【Castle】


 朽ち果てた古城が、月の光を浴びて輝いている。

 それは昔、月影城と呼ばれた城であった。

 人里離れた土地にあり、そこを知る者は少ない。それに、貴重な宝物のたぐいは、すでに持ち去られてしまっていたため、わざわざ訪れに来る者は、皆無に等しかった。

 朽ちているとはいえ、神聖な雰囲気を、その城はたたえていた。

 亡霊のように照らされており、はかなさと耽美たんびさがある。

 幻想的な光景。

 まるで、メーゼの訪問に呼応したかのように、空にはオーロラも広がっていた。

 城門を抜け、敷地内へと入る。

 噴水があったが、もちろん水は流れていない。彫刻だけが、魂を失ったままの状態で、凍りついたかのように飾られていた。ところどころ欠けており、頭部のないものが多かった。

 建物の中に入る。

 回廊かいろうがあり、床にはカーペットが敷かれていた。

 壁には肖像画が並んでいる。歴代の王を描いたものだろうか。

 荒らされていない部分も多かった。

 シャンデリアなどは、そのまま吊されていた。

 今の時代、芸術品が価値を持たなくなっている。水や食糧のほうが、はるかに貴重だ。だから、よほどの品を除き、荒らされていないのだろう。

 城はかなりの大きさで、無数の部屋、無数の扉が存在した。彼女は時折、道に迷ってしまいそうになった。

 幾つかの抽斗ひきだしを開け、中を確かめてみる。そこには綺麗なドレスが、それなりの数入っていた。大半は虫に食われて穴だらけだったが、保存状態が良いものもあった。

 純白のドレスを取り出し、月の光にかざしつつ、彼女はじっくり眺めてみた。

 表面がきらきらと輝き、とても美しい。

 しばらくの間、メーゼはドレスに魅入みいられていたが、思い直して、元の場所へと片付けた。

 ――自分は、そんな服を着るに値する存在ではない……。

 否定的な感情が、自分のどこから湧いてきたのか、彼女自身にも説明がつかなかった。ただ、彼女にとって、そうした人間的な行為は、遠くから眺めるものでしかなかった。自分がそれを試すのは、どうにも相応ふさわしくないという観念が、心に根を張っていたのである。

 若かりし頃だったら、たぶん、そんなこと考えもしなかったはず……。きっと自分は、あまりにも重年ちょうねんし過ぎてしまったのだろう。


 メーゼは気分を切り替え、探索を続けた。

 大きな螺旋階段らせんかいだんがある。

 彼女は下に降りてみることにした。

 地下には武器庫があった。

 戦闘のための数々の道具がしまわれている。

 びているものが大半であり、びた空気が漂っていた。

 メーゼはランプを持ちつつ奥まで進むと、広い空間に出た。

 円形の部屋。

 壁には、いくつもの甲冑かっちゅうが並べられている。

 壊れかけているものがほとんどだったが、ひとつだけ、まるで新品同様に磨かれている個体があった。

 なぜ、こんなに綺麗なのだろう。

 メーゼは慎重に近寄ってみた。

 甲冑の隙間から中をのぞいても……空洞くうどうだ。中に人はいない。

 こんな状態で保たれているのは、魔法によるものだろうか。

 彼女はそっと、表面に触れてみた。

 すると……その甲冑が、動き始めたのである。

 彼女は即座に距離を置き、武器を構えた。

 甲冑はゆっくりと立ち上がり、それから頭を左右に動かして、周囲の様子をうかがう。瞳にあたる部分が、オレンジ色に光っていた。

 その視線が、メーゼのほうに向けられる。

 彼女は見つめ返した。これは、いったい何なのだ。

 問いを発するよりも先に、甲冑のほうから声が聞こえた。

「えっと、これはどういう状況でしょうか?」

 青年のような声がそこから聞こえた。

 場にそぐわないような、明るめの声であった。

 メーゼは拍子抜ひょうしぬけして、力が一瞬抜けてしまった。


 ☆


「なるほど、触れた途端とたんに動き始めたのですね。僕のほうは、魔力を感じたので、作動したというわけです」

「つまり、私が魔法使いだから、あなたは動いたということ?」

「そういうことになりますね」彼は気さくに応えた。

「ずっと眠っていたの?」

「城の様子を見る限り、そのようです……」と彼は言った。「最後の記憶は、城で式典があったときです。平和記念のパレードがあって……その際に片付けられたと記憶しています」

 彼は魔導人形であった。

 魔導人形、それは魔力で動く人形である。

 卓越した魔導師によって設計され、造られた人形は、意識を宿すと言われていた。魔力を与えるだけで高度な仕事をおこなってくれるため、様々な場で活用された。

 いわば、ロボットようなもの。

 しかし、今の時代に魔導人形が残っているのは、珍しいことであった。

 彼の場合、甲冑が〝肉体〟の役割を果たしている(魔導人形は甲冑だけでなく、さまざまな物体を〝肉体〟にすることができる)。

「そういえば、あなた、名前は?」

「名前ですか? 特にないですが、しいて挙げるなら……」彼はそう言うと、胸に当たる部分を、メーゼに見せた。

 そこには〝nocturne〟と書かれていた。

 ノクターン。夜想曲という意味である。

「ところで」と彼はいった。「せっかくですし、この城を案内しますよ。まだ、隅々すみずみまで見ていないのでしょう?」

 メーゼは彼に案内されるまま、城内を見て回った。

 隠し通路であったり、裏道であったり、内部の構造を知り尽くす者にしか分からないような情報も教えてくれた。

 王の部屋、そこには玉座があった。

 金メッキはがれていたが、それは荘厳そうごん厳粛げんしゅくだった。

 背後の垂れ幕には、破れかかった国旗が掲揚けいようされている。

「でも……これだけの歳月が流れているのを知ると、なんだか悲しくなりますね」ノクターンはしみじみと言った。「あのころの人たちは、もう、どこにもいないわけですし……」

「この国が滅んだ理由を知らないの?」

「少しは推測が付きますが、わかりません。僕はずっと、眠っていたようですから」

「それにしても、あなたは綺麗な状態で残っていたけれど、どうして盗まれなかったんだろう?」

「たぶん、魔道人形だと気づいて、起こしてしまったら危険だと考えたのでしょう。泥棒だって、リスクを計算しますしね」彼はそういうと、玉座を見上げた。「ところで……どうです、玉座に座ってみませんか?」

「え?」

「せっかくの、何百年、いや、何千年ぶりかのお客さまなのですから、もてなしぐらい、ちゃんとやりたいと思いまして」

 メーゼは彼に勧められるまま、玉座へと座った。

 正面の壁には大きな窓があり、そこから下界を一望できるようになっていた。遠くの風景まではっきり見通すことができ、一枚の絵のようだ。

「おお、まるでお姫様みたいです。似合いますよ」

「ふむ……」彼女は脚を組み、肘掛けに腕を乗せ、頬杖をついた。

 まあ、なかなか悪くない。

 自分が偉くなったみたいだ。

 たしかにこうして高い位置から、大衆にモノを命じてみるというのも、けっこう面白いのかもしれない。

「あ、そうだ」とノクターンは言った。「ちょっと待っててくださいね」

 彼はそのまま、どこかへと行ってしまった。

 その場でしばらく待っていると、彼は木箱を抱えて戻ってきた。なにやら重そうなものが入っているらしく、足取りは遅かった。

「これ、もしかしたらと思って、食料庫まで探しに行ったら、残っていました。たぶん飲めると思いますよ」

 それは年代物のワインだった。

 びんほこりをかぶっていたが、中のアルコールは綺麗な色をしていた。良い按配あんばい熟成じゅくせいしていそうである。

 メーゼはお酒を飲むような性格でも体質でもなかった。まったく酔わないため、飲んでも意味がないのだ。

 しかし、断るのも無粋ぶすいだと思い、一本だけ飲むことにした。

 グラスにそそぎ、ゆっくりと飲んでいく。

 甘味と苦味が絶妙で、素直に美味しい。

 ……なんだか不思議な気分だった。

 世界から忘却された、朽ち果てた古城で、月の光を浴びながら、人形とおしゃべりしている。

 私は亡霊のような存在であり、玉座でくつろぎながらワインをすする、一国の姫……。

「ねえ」メーゼは言った。「あなたはこれから、どうするつもり?」

「さあ……また、この城の地下で、眠りにつこうかと」

 少し考えたあと、彼女は口を開いた。「良ければ、私といっしょに来ない? 魔力ならあるし、簡単な修理だってできると思う。だから……」

「それは駄目です」彼は応えた。「僕は、この城と共にあります。ここを離れることなんて、できません」

「でも、いつか魔力が完全に切れて……壊れてしまったら、もう元には戻らないんだよ」

「わかっています。でも、他に誰もいなくとも、ここが、僕にとっての居場所なんです。わかっていただけますか?」

 そう言われては、言葉を返すことができなかった。


 ☆


 夜が明けた。

 朝焼けの空が広がる、城門の前。

 柔らかな光を浴びた二つの影。

 森からは、鳥のさえずりが響いてくる。

「それじゃ、行くわ」メーゼは言った。「お元気で」

「こちらこそ、あなたの幸運をお祈りしています」

 彼女は別れを告げると、振り返らず、そのまま歩き去った。





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【Assassin】


 激しい雨が大地に降り注いでいる。

 雲は厚く、雷鳴がとどろく。

 落下する雨粒のひとつひとつが、メーゼの身体を打った。徐々に体力を奪っていくようだ。

 服はもう、びしょ濡れである。

 あいにく、雨宿りできそうな場所もない。

 ここは平原であり、森までかなりの距離がある。

 歩けるうちに、なるべく歩いておきたい。

 野宿をするのはためらわれた。宿でも見つけ、温かいベッドでゆっくり眠りたい。

 彼女は懐中時計を取り出し、今の時刻を確認しようとした。

 すると、その銀色のふたに、人影が映った。

 顔を上げ、周囲を見回す。

 五人の、黒いローブを着た人間たちが、彼女を囲んでいた。

 気配なく、はじめからそこに立っていたかのように。

 男三人、女二人。

 剣、槍、弓、を持っている者が、それぞれ一人ずつ。残りの二人は杖を持っている。

 メーゼは警戒し、剣を現出させて構えた。

 いったい何者だ?

 彼女はこの集団に見覚えがなかった。

 強盗? 山賊? 

 それにしては、武装が堅牢すぎる。まるで私の力を知っているかのようだ。

 殺気も漂っているし、手練てだれに見える。

 交渉する余地もなさそうだ。

 疲弊ひへいした体を奮い立たせる。

 相手の技量は分からないが、気を抜いたら死ぬ。それは確かだった。

 先に動いたのは、敵であった。

 弓使いが矢を放つ。

 メーゼは反射で矢をかわし、一番近くにいた剣の男に斬り込んだ。

 男はそれを刃で受けた。

 つばり合いは不利だと分かっていたため、すぐに後ろへ跳ぶ。

 その瞬間、槍が彼女を突こうとした。

 体をひねりつつかわす。

 しかしその間にも、再び矢が発射されていた。

 避けきれない。

 手をかざし、魔法で静止させる。

 そのタイミングを狙ったように、二人の魔法使いが攻撃を仕掛けてきた。

 地面から、鋭い無数の刃が伸びる。

 上空からは大量のひょう。きっと、雨粒を集めて氷結させたのだ。

 メーゼはローブで全身をくるんだ。そして、布を硬化させ、その攻撃を弾く。

 ローブに包まれたまま転がるようにして、その場から退避し、間合いを置いた。

 ずっと囲まれていては、らちが明かない。

 どうする。

 先に誰を片付けるべきか、メーゼは考えた。彼らは連携しており、なかなか隙を見せない。

 各個撃破は難しい。まとめてやるしかない。

 とはいえ、環境依存型の強力な魔法だと、あの二人組の魔法使いによって無効化されてしまう恐れがある。

 試行錯誤……彼女はいくつものパターンを考えた。

 そして、一番確実な方法を選択する。

 それは、自らの肉体に負荷をかける、反動の大きい魔法だった。使用後は、魔力が尽きて、数日間ろくに動けなくなってしまうたぐいの……。

 意識を集中させ、彼女はその魔法を発動させた。

 周囲の雨粒が、まるでスローモーションのように緩慢になった。

 敵も、まるでカタツムリのようにノロノロしている。

 人間は極限状態において、脳が過活動を起こし、時間がゆっくりに感じられるほど情報処理能力が向上することがある。

 メーゼはそれを強制的に発動したのだ。

 そのまま、敵のほうへと駆ける。

 まずは二人の魔法使いへ近づいた。彼らは魔法で応戦したが、反対魔法ですぐに無効化した。

 剣を使って胴を斬る。横に。

 もうひとりは斜めに斬り上げた。

 死角から矢が飛んできたが、すぐに気づいて避ける。

 そのまま、懐から短刀を取り出し、剣士へと投げた。

 額に突き刺さって倒れる。

 前傾姿勢のまま、飛ぶようにして槍の男へ。

 心臓をえぐるように繰り出してきた槍を叩き斬って、それから腕を斬り落とした。

 苦しまないうちに頭を潰して絶命させ、次に弓使いへ向かった。 

 弓使いは女性であり、腰を抜かしていた。戦意を既に喪失している。

 メーゼは足払いをし、相手の姿勢を崩したあと、地面に組み伏せて、刃を喉元に当てた。

「誰の命令?」

 端的に訊く。

 弓使いは呼吸が荒くなっているようで、応えるまでに時間が掛かった。「あなたの、よく知る人物……緑色の瞳をした……」

「エメラルダ?」

「そう……」弓使いは応えた。「もし、尋問されるようなら、こう言えと命じられた。『これ以上わたしを追跡するなら、悲しいけれど容赦はしない』と」

「それは……」

 その時だった。弓使いは急に目を見開いたかと思うと、そのまま動かなくなってしまった。

 呼吸が止まっている。

 彼女はすばやく、弓使いの身体を、透視能力を使って検分する。

 案の定、それはすぐに見つかった。

 首元に、指輪のようなものが埋め込まれていた。これが特定の言葉に反応して、毒を放出したのだろう。

「…………」

 メーゼはうつむいたまま、つかを握りしめた自分の手を見つめていた。





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【Fish】


 とある村を訪れたメーゼ。

 川近くの村であり、住民の数は少なかった。

 それなりに活気があったし、数少ない店先には、野菜や穀物も売られている。

 しかし、彼らの表情には曇りのようなものがあった。

 彼女は気になり、ベンチに座っていた男性に尋ねる。

「最近、何かあったのですか? 人々の表情が、こころなしか暗く見えますが」

「あんた旅人さん?」

「ええ」

「なら知らないか……。実はな、ちょっとした不作があって」

「不作?」

「いや、不漁と言うべきかもな。この辺は水が綺麗だろう? 川の水質がとても良くってな、魚たちも多く生息していて、本来この季節なら、もっと多くの魚がれるはずなんだよ。でも、最近はぜんぜん獲れなくてなぁ」

「何か理由が?」

「うーん、この辺りには工場もないし、見ての通り、水質も悪くない。だけどな、ちょっとした噂があって……」

 彼が内容を話し掛けたとき、道の向こうから、ひとりの男が歩いてきた。

 とても太っており、体中に金ピカの装飾品そうしょくひんを身につけている。

 その金ピカは、メーゼと男のほうに歩いてきた。

 男は即座に、金ピカに頭を下げた。

 金ピカの背後には、いの人間たちがいて、堂々と列を作っている。

 彼らは横柄な態度で、道の向こうへと過ぎ去っていった。

「あれは?」

「このあたり一帯の大地主だよ。何でも最近、事業に成功したとかで、ますます調子づいてやがる。本当は頭なんて下げたくないが、目を付けられたら面倒だからな」

 男はため息をついた。

「……それで、うわさって?」メーゼは先ほどの話の続きをうながした。

「ああ、それで……なんとも上流のほうに、デカい魚がいるらしいんだ。幾人いくにんかの村人が見掛けた事があるらしくてな。そいつは呪われているらしくて、だから魚の数が減ったとか……」

「退治すれば良いじゃない」

「簡単にできりゃ苦労しないよ。その大魚……『川の主』は、人が近づくと、すぐに逃げちまうらしいんだ。困ったもんだよ」


 ☆


 メーゼは川のそばまで行き、水面を見つめた。

 指サイズの小魚なら、たくさん泳ぎ回っている。

 水に毒があるわけでもなさそうだし、やはり、呪いは本当なのだろうか?

 とにかく、その「川の主」とやらを、捕まえるしかあるまい。

 彼女は川の主がいると言われている、上流へと行ってみることにした。


 ☆


 上流は川の流れが速かった。

 傾きが急なところも多い。

 ところどころ、池のように、穏やかに水がまっている場所もあった。魚がいるのはこういう場所だろう。

 彼女は透視能力を使いつつ、川の主を探した。

 そして、数時間が経過したころ……川の対岸付近に、人間ほどの大きさがある、大きな魚を発見した。

 淡水魚にしては大きすぎる。

 川の主は、確かに実在したようだ。

 ここからはやや遠い。上流とはいえ、それなりに川幅は広かった。

 彼女は気配を消して、近づこうとした。

 しかし、そちらへと歩み寄った瞬間、川の主は一目散に逃げ出した。

 ものすごいスピードであった。流れに乗って、ロケットのような勢いで、どこかに消えてしまった。あまりにも速く、メーゼは虚をつかれた。彼女でさえ、見失ってしまうレベル……。

 おかしい。

 気配は完全に消していたはずなのに……。

 それに、あの距離から私に気づくなんて、そんなことあり得るのだろうか。

 彼女はしばらく考えた。

 そして、ある可能性に思い至り、別の方法を試してみることにした。


 ☆


 メーゼは「川の主」のそばまで近づいていた。

 奴はまだ、気づいていない。

 先ほどとは状況が違う。

 というのも、彼女は気配だけでなく、姿も消していたからだ。透明になって、見えないようにしていたのである。

 水面に波紋はもんを立てないように、浮遊しながら真上まで来る。

 それから、杖を振った。

 杖の先からあみが放たれた。網に、川の主が引っ掛かる。

 奴はしばらくジタバタしていた。魚の口から、大きな刃物のようなものが出てきた。それは電動ノコギリであり、網を切ろうと試みている。

 しかし、網は特殊な素材でできており、傷一つ付けることができなかった。

 メーゼは、川の主が証拠隠滅しょうこいんめつをはかるまえに、電撃を放って、動きを止めた。

 それから念動力で、川の主を浮かせ、それを岸まで運ぶ。

 彼女はその魚をよく検分けんぶんしてみた。

 道具を使って解体し、内部を調べた。金属製の、巨大な体のなかには、大量の生きた魚たちが閉じ込められていた。

 彼女は内部に残されていた指紋を採取さいしゅして、満足げにうなずいた。これで、証拠はそろった。

 川の主……それは、ロボットだったのである。


 ☆


 メーゼは川の主を村まで運んだ。

 それから中央広場に、それをほうった。

 何事があったのかと、村人たちが集まってきた。

「私は川の主を捕まえました」とメーゼは言った。「川の主はロボットであり、魚たちをみ込むことで、乱獲らんかくし、数を減少させていたのです」

 村人たちから驚きの声が上がる。

 それらの反応を気にせず、彼女は言葉を継いだ。

「上流に近い木々には、いくつも監視カメラが取り付いていました。それで人々を監視し、誰かが近づいてきたら逃げるよう操作したのでしょう。川の主が今まで捕まえられなかったのは、それが原因です。そして……」

 メーゼはおもむろに、村人を見回した。

「幸運にも、ロボット内部の部品、そして監視カメラの一部に、何者かの指紋が残っていました。これは重要な証拠です。さあ、誰がこんなことをたくらんだのか、知りたくはありませんか?」


 ☆


 後日、とある人物が逮捕されることになった。

 それは、あの大地主であった。

 彼は、土地を貸すことでもうけたお金を活用し、技術者たちにロボットを造らせた。そのロボットで、魚を乱獲していたのだ。

 地主は村人にバレないよう、別の地域まで魚を運び、そこで売りさばくことで、莫大ばくだいな利益をあげていた。

 最近、羽振りが良かったのは、そのおかげということだ。

 しかし彼は仕事に関することで、妙に吝嗇けちになってしまう傾向があった。従業員への給与を出ししぶり、借地人しゃくちにんに料金を催促さいそくするのがほのかな楽しみであった。

 ロボットの製作時も予算を抑え気味であった。そのため、徹底した情報共有がなされず、品質管理もあまく、設置や検査の過程で、技術者などの指紋が付着してしまったというわけだ。

 

 村人たちは原因を突き止め、激怒した。そして彼らは団結し、地主を捕らえることに成功したのであった。

「まさか、『川の主』だけでなく、『土地の主』まで捕まえちゃうとはな……」ベンチの男はつぶやいた。「たいしたもんだよ」

「……さあね」

 メーゼはそう答えると、川に向かって石を投げた。





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【Kidnapping】


 メーゼが街中を歩いていると、突然見知らぬ女性に呼び止められた。

 女性は深刻な顔をしており、青ざめている。

「あなた、もしかして、魔法使いさん?」

「ええ」

「お願いがあるのです。もし良ければ、聞いていただけますか……」

 メーゼは女性に連れられ、喫茶店に入った。

 女性はあわてているようだった。頼んだアイスコーヒーを、すぐに飲み干してしまった。

「実は……」

 女性はメーゼに顔を近づけ、ひそひそ声で話し始めた。


 ☆


「それで」とメーゼは言った。「念のため、受け渡しの様子を監視して欲しい、と」

「そうです」女性は応えた。「そういうわけで、警備兵はてにできません。あなたを魔法使いだと見込んでのお願いです」

「しかし、いま、あなたが私と話しているところを、犯人たちに見られていませんか?」

「大丈夫です。かなり警戒して周囲は確認しました……。それに、あなたはただの子供に見えますし、すぐに別れれば問題ないでしょう。わたしはそれよりも、あの子の安全が気掛かりなのです」

 それはこういう事情だった。

 学校からの帰り道、ひとり息子が誘拐された。

 誘拐犯は、子供の両親……彼女とその夫に手紙を出した。

 内容は、身代金の要求である。

 手紙には、警備兵には絶対報告するなと書かれていた。もしもそのことがわかったら、子供の命は保障しないぞ、と。

 女性は言った。「犯人が見張っているとしたら、自宅付近か、警備兵の建物のそばでしょう。このように混雑しているところでは、逆に監視が手薄なはずですし、万が一見つかっても、あなたのような子供が話し相手なら、何とでも言い訳できます」

「どうして私が魔法使いだと?」メーゼは疑問を口にする。

 メーゼはそのとき、いつもの格好をしていなかった。

 今日はたまたま、服をクリーニングに出していて、平民のような目立たない格好であった。もしも、メーゼがいつもの格好をしていたら、この女性は話し掛けなかったかもしれない。旅人の服とはいえ、ローブ姿では犯人を警戒させてしまう恐れがある。

「わたしも少し、魔法が使えるのです」女性は言った。「とても初歩的なものだけですが。それで……あなたから強い魔力を感じたので、話し掛けたというわけです」

「なるほど」

「それで、受け渡しのさい、ちゃんと息子が帰されるかどうか、そこをしっかり見守っていただきたいのです。もしものときは、間に入っても良いですから……」

「お金は誰が用意を?」

「うちは貧乏なので、私の兄に借りました。兄は不動産屋の社長で、かなり裕福ゆうふくなので……。普段はお金を恵んでくれませんが、いまは状況が状況なので、助けて頂きました」

「ふーむ」メーゼは眉間みけんしわを寄せた。「もしかしたら、それを見越しての犯行かもしれませんね」

「ええ……」

「犯人に心当たりはありますか?」

「それは……ちょっとわかりませんね。兄は仕事柄、普段から多くの人に会っていて、とても顔が広いので……」

「それもそうですね」メーゼはうなずく。「ちなみに、受け渡しは誰が?」

「夫です。明日の早朝に」

「場所はわかりますね」

「はい。お教えします」

「わかりました。静観せいかんして眺めていますが、もし悶着もんちゃくが起こり、息子さんの身に危険が迫ったら、割り込んで、犯人たちを拘束したいと思います」

「ええ、どうかよろしくお願いします」

 女性はそう言うと、深々と頭を下げた。


 ☆


 メーゼは翌朝、受け渡しの場所に向かった。

 そこは林の中であり、道路から少し外れた場所だ。

 車が二台止められている。

 ひとつは犯人のもので、もうひとつは人質の父親のものだ。

 彼女は透明化している。そして、魔力を使い、聴力を高めていた。この状態なら、遠くでの会話も、簡単に聞き取ることができた。

 空き地に、犯人の一人が出てきた。もう一人の犯人は、車に乗ったままだ。

 父親のほうも車から降り、アタッシュケースをさげたまま、その犯人へと近づいた。

「ようモーリス、元気してたか?」犯人は言った。それは砕けた口調だった。

「ああ」父親が応える。「それで、息子は?」

「眠ったままさ。ゆっくりオネンネしてるぜ」

「手は出していないだろうな」

「当たり前だろ、俺とお前の仲なんだぜ。そんな真似はしないさ。それに、俺は子供が好きなんだ」

戯言たわごとは聞きたくない」

「で、金はどうする?」

「お前に全部預けるよ。こっそり持っていたら、バレる恐れがある。受け渡しのあとは、警備に連絡しないと、逆に怪しまれるからな」

「俺が持ち逃げしないか、怖くないのか?」

「持ち逃げしたら、お前の情報を、洗いざらい話してしまうだけさ。そしたら困るのはお前のほうだろう? しかもその場合、お前は、俺の関与を示せない。……いま、録音してないだろうな?」

「まったく、食えない野郎だぜ」犯人は笑い、両腕を上げた。「俺の体も調べてみるか?」

「……いや、いい。お前がそういう奴じゃないことは分かってるさ」父親は溜息ためいきをつく。「それじゃあ予定通り、二ヶ月後、ウェストタウンの酒場で落ち合おう」

「ああ」

 もう一人の犯人が、眠った子供を抱えて、父親の車に乗せた。

 それから父親が、アタッシュケースを犯人に渡した。

 犯人は中身をよく調べてから、満足げにうなずいた。

 父親は子供の体をたしかめ、怪我がないのを確認すると、車に乗って帰っていった。

 犯人たちも車に乗り、林道の中を、反対方向へと走り去った。


 ☆


 二ヶ月後。

 父親と犯人たちが、酒場でお金の配分についてやりとりしていた最中、警備兵が彼らの身柄を拘束した。

 犯人たちは誘拐の容疑で、父親は共謀の容疑で、それぞれ逮捕されることになった。

 その事件は話題となり、誘拐詐欺としてニュースで取り上げられた。

 女性は夫と離婚した。

 そして、犯人たちが盗んだお金は、女性の兄へと返金されることになった。

 また、事件の解決に貢献したということで、メーゼにも報酬が支払われた。

「それにしても」と女性は言った。「実の子供を……わたしの息子を危険にさらしてまでお金を得ようとした、夫の気持ちがわかりません。なぜ、あんなことを……」

「深く考える必要などないですよ」メーゼは応えた。「それよりも、助かったお子さんの未来について、真剣に考えるべきです。あなたはこれから、一人で、その子を育てなければいけないのですから」


 女性はその後、兄の助力を得ながら、子供を育てていくことに決めたらしい。

 ときどきは、違う格好をしてみるのも悪くないかな、とメーゼは思った。





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【Guardian】


 メーゼはとある街のレストランで昼食を取っていた。

 パスタ専門店であり、彼女はスパゲッティを選んで食べ始める。

 料理はかなり美味しかった。

 絶妙な味加減であり、量もちょうど良い。

 彼女が入ったときはいていたが、今は混み始めている。ちょうど良いタイミングで、店に入れたというわけだ。

 そして、彼女が食事を食べ終え、席を立とうとした時……

 二つ前のテーブルに座っていた老人が、胸を押さえ、うめき声をあげたあとに倒れたのである。

 周囲のお客さんが、彼の周りに集まった。

 店員の方も困惑している。彼らは電話で救急隊を呼んでいた。

 メーゼは老人に近付いた。

 呼吸が止まっている。

 心臓発作か?

 彼女は魔法を使い、素早く蘇生法をこころみた。

 幸い、老人は息を吹き返した。

 しかし、まだ意識は失ったままだ。

 救急隊が到着し、彼を担架たんかに乗せ、車まで運んでいった。


 ☆


 メーゼは発作に立ち会ったということで、病院まで連れて行かれることになった。

 店にいた老人の家族も、すでに集まっている。

 メーゼを含め、彼らは医者の待つ部屋へと呼び出された。

 医者はすでに診断を終えていた。

 老人は、いちおう容態が安定していたものの、まだ意識を失ったままであった。

「それで、回復の見込みはあるのでしょうか?」

 親族のひとりがそう訊いた。

「かなり不安定な状態です」医者は応えた。「心臓発作に伴って動脈閉鎖がおこり、それが原因で脳虚血になり、昏睡こんすい状態へとつながりました。若ければ回復することもあるのですが、患者さんはそれなりのご高齢ですし、もしかすると、状態が悪化するかもしれません」

「なにか、対処法はないのですか?」

「ありませんね……このまま安静にして、幸運を待つほかありません。正直に申し上げますが、意識が回復する可能性は、二割か三割程度かと……」

「そんな……」

 そのとき、老人の息子にあたる男が、医者に向かって大声でいった。

「俺は建築業で、莫大な財産を持っている。その、なんだ、本当に手はないのか? 金ならいくらでも出す! 特効薬かなにかについて、何も知らないのか?」

 医者はしばらく考え込んでいた。そして、こめかみ辺りを指でいた。

「とある薬品があり、それが昏睡状態に効果的だと言われています。調合法もあります」

「なら、そいつを使えば良いじゃねえか」

「それが残念なことに、調合するための薬草が、もうどこにもなくなってしまっていて……。昔、世界的に刈り尽くされてしまい、絶滅したとも言われています」

 その薬草は黄色い花を咲かせ、特効薬の調合には、花弁の部分が必要とのことであった。


 病院を出たあと、さっきの男に呼び止められた。

「嬢ちゃん、魔法使いなんだろ?」

「そうですが」

「さっきの話、聞いてたと思うんだが、その、特効薬の花を探してきてくれないだろうか?」

「私が?」

「礼は払う。多額でだ」彼は言った。「応急処置のことは、もちろん感謝している。さらにお願いする形になってしまい申し訳ない。多くの人間に依頼したいとは思っているが……特にあんたなら、信用できる気がしてな」

「…………」

「どんな手段を使っても良い。それで損失が出たら、埋め合わせたうえで報酬を払う。どうか、頼まれてくれないか?」


 ☆


 メーゼはその依頼を受けることにした。

 とはいえ、どこを探したら良いのか見当もつかない。

 図書館で、その花について調べてみた。涼しい気候の地域で、山のふもとに咲いていることが多いと書いてある。かなり昔の本であり、今でも当てはまるとは限らないが、だいたいは一緒だろう。

 だが、やはり情報が少なく、見つけられる自信はなかった。

 報酬は後払い。

 今は依頼されただけ……。

 やはり、諦めるべきだろうか。

 そう思い始めたころである。たまたま立ち寄った薬草の店で、黄色い花について尋ねてみると、思いも寄らぬ情報が入ってきた。

「そうさね……もしかしたら、あそこなら生えてるかもしれないねぇ……」薬草屋のおばあさんは、目をつぶりながら言った。「ここから少し離れたところに、メイルの谷、という場所があってね。お嬢さんは知っているかい?」

「いえ、はじめて聞きました」

「その谷の奥深くに、花々の咲き乱れる花園があるらしいんだよ。もう、最後に聞いたのはずっと前のことだけど……伝説みたいなものだねぇ」

「そこに、生えているかもしれないと?」

「うん。でも、そこは恐ろしい場所でね……花園へとおもむいて、帰ってきた人はひとりもいないと言われているんだよ。かつて大勢の調査班が向かったこともあったらしいけど、一人も帰ってこなかったらしく、そのうち誰も訪れなくなってしまった……もう、知る人はそんなにいないけれど……」

 メーゼは彼女から、メイルの谷の位置について、詳しく教えて貰った。

 確かに危険かもしれないが、行ってみる価値はありそうだ。

 もしかしたら〝妹〟に関する手掛かりも得られるかもしれないし……。


 ☆


 準備を整え、翌朝メーゼは出発した。

 いくつかのとうげを越え、目的の谷までたどり着く。

 そこは、鬱蒼うっそうとした木々でおおわれていた。

 道という道はなく、木々の根っこが張り巡らされ、段差になって歩きづらい。

 下り坂で傾斜もあるため、何度か転びそうにもなってしまった。

 注意しつつ、どんどん奥まで入り込んでいく。

 風の音も何も聞こえず、日光はほとんど射し込んでこなかった。

 生き物の気配もない。

 本当にこんな場所に、花園なんてあるのだろうか?

 自分がどの方角から来たのか、不安になってきたころ、目の前に大きな門が現れた。

 岩でできた、巨大な門だ。

 自然に形成されたものではない。紋様もんようが刻み込まれており、確実に、誰かの手で造られたものだとわかった。

 門の先には道があり、それが曲がりくねって遠くまで続いていた。

 この先に花園があるのだろう。

 疑念は確信に変わる。

 彼女は歩調を速め、門を通り過ぎた。

 そのときである。

 急に、空気の流れが変わった。

 張り詰めた緊張が体を駆ける。

 ――何かがいる。

 メーゼは剣を取り出し、警戒した。

 地響きがする。

 それはだんだん近づいてきて……

 そして、道の先に、大きな影が現れた。

 石像だった。

 彼女の身長の十倍はありそうな、巨大な石像が歩いてきたのである。

 近くにあった大木と、同じくらいの高さであろうか。

 手には斧を持っており、それも岩でできている。

 石像は彼女へ近づくと、その斧を勢いよく叩きつけてきた。

 即座に回避。

 メーゼは木陰に隠れた。

 斧が大地を削る。

 攻撃を受けた周囲の地面は、まるで爆発したかのように、大穴に変わっていた。

 あんな攻撃を直接受けたら、いくら防御していても、間違いなく命に関わるだろう。絶対に直撃してはならない。

 石像は次に、メーゼの隠れていた木を斜めに両断した。

 石像は目でなく、魔力を使って周囲を探知しているようだった。

 これでは隠れていても意味が無い。

 大きく迂回うかいして、戦闘を避けて進もうか。

 だが、石像はなかなか素早い。一時的に逃げられても、ずっと追ってくるだろう。

 花園にまでついてこられたら、黄色い花を探す時間も取れない……。

 ふと地面を見ると、近くには骸骨があった。

 腕が欠けている。どうやらここで倒されたようだ。

 仕方ない。覚悟を決めよう。

 メーゼは頭上に大きな光の矢を作った。

 集中し、なるべく大きくする。

 そして石像を引き付けてから、その矢を放った。

 矢は、石像の表面を砕いた。

 そのまま中へと入り込み、内部で炸裂さくれつする。

 像は音を立て、破裂した。バラバラに崩れ去って、その場には大量の岩が残された。

 彼女は近づいて、よく眺めた。内部には大きな宝石が埋め込まれていて、それを動力にして動いていたらしい。

 宝石はエネルギーを失ったようであり、砕けてしまっていた。


 ☆


 道を進むと、開けた空間が現れた。

 そこには花園が広がっていた。空気がんでおり、空も見える。

 良い香りが充満していた。

 柔らかな陽射しのもとで、咲き乱れる花々。

 彼女はその中を歩いていった。

 中央には石碑せきひがあった。

 文字が彫られている……古くてうまく判別できなかったが、ここは、とある魔法使いのお墓らしい。

 ウサギやリスなどの動物たちも、花園の中を走り回っていた。

 動物はメーゼのことを恐れていなかった。ここには脅威となるような外敵が存在しないのだろう。

 しばらく探すと、目的の黄色い花が見つかった。

 わずかであったが、それらは誇らしげに咲いていた。

 全部は取らず、数本だけ採取する。

 一本ずつびんに入れてふたをした。

 あの石像は、この楽園の番人だったのだろう。

 彼女の心に罪悪感が芽生える。

 もう、守り手はいなくなってしまった。

 でも……きっと私が何もしなくとも、ここもいつかは砂漠に変わってしまうのだろう……。

 それまでの間、どうか綺麗なままで……人々から忘れ去られた、美しいままであって欲しいと、メーゼは思った。





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【Pilgrimage】


 旅を続けていると様々な人に出会う。

 中にはメーゼと同様、旅をしている者達もいた。

 その一族とは森の中で出会った。

 彼らは旅の途中であり、その場所でキャンプをしていたのである。

 本来なら素通りするところであったが、彼女は疲れており、何か食事を恵んでくれないか期待して、その集団に話し掛けたのだった。

 一族は、メーゼを受け入れてくれた。

 温かいスープを彼女に提供し、テントのひとつも貸してくれた。

 メーゼは彼らに感謝した。

「ところで」メーゼは彼らの一人に話し掛けた。「あなたがたは、どこへ向かっているのですか?」

「私たちは『蒼穹そうきゅうとびら』を目指しているのです」

「蒼穹の扉?」

「ええ。私たちは巡礼じゅんれいの旅をしていて、その最後の目的地が、そこなのです。扉を目指し、もう五年も旅を続けてきました」

「そこに着くまで、あとどれくらい掛かりそうですか?」

「もう、間もなくです」彼女はこたえた。「ほら、木々の隙間すきまの向こうに、大きな山が見えるでしょう?」

 メーゼは、彼女が指差す方向を見つめた。

 そこには大きな山があった。

 かなり標高が高く、山頂付近には雪が積もっている。

「あそこに、その扉があるのです。だから、皆の気分が明るいのも、終わりが近づいているからだと言えますね」

 蒼穹の扉なんて、彼女は一度も聞いたことがなかった。

 それは、その一族だけが知っている事柄であり、選ばれた者だけが、巡礼の旅への出発を許されるとのことだった。

 メーゼは彼らについていくことにした。

 旅の終わりがどのようなものか、見届けてみようと思ったのである。


 ☆


 激しい吹雪だった。

 斜面は雪で覆われていて、一歩一歩踏みしめるたびに、ブーツが深く沈んだ。

 もう、かなりの高さまで登ってきていた。

 この辺りまで来ると、天候の変化が激しく、風も強い。

 一族は、お互い助け合いながら、上へ上へと登っていった。

 メーゼも魔法を使いつつ、彼らを手助けした。

 そして、体力が尽きかけた頃……。

 吹雪はやみ、彼らは山頂付近に到着した。

 近くには巨大な氷があった。

 それは、壁と呼んでもつかえないほどの大きさであり、太陽の光を浴びて青色に輝いている。

 透明で、美しい。

 そこに映る自分の姿は、乱反射して、いくつもの虚像を生み出している。

 奥へ進む。

 高い氷壁に囲まれた、部屋のような場所。

 入ってきた方角とは反対の壁に、人が通れるほどの道ができていた。

 壁と壁との間隙かんげき

 その入り口には、文字が刻まれたプレートが埋めこまれていた。

「ここが蒼穹の扉です」と女性は言った。「ここから先、わたしたちの一族は引き返せません」

「見送ってもよろしいですか」メーゼが訊いた。「もし、駄目なのでしたら、ここで帰りますが」

「構いません」彼女は応えた。「ただ、何があっても、向こうでおこなわれる儀式の邪魔をしないこと……守れますね?」

 メーゼはうなずいた。

 彼らは列を作って、その道を歩いていった。

 だんだんと、壁と壁との幅が広がってくる。

 周囲も明るくなってきた。

 そして道が終わり、そこには扇形おうぎがたの開放的な空間が現れた。

 地面は氷。

 空間の真ん中には、剣が突き刺さっている。

 向こう側は、絶景だった。

 壁がない。

 天空。

 辺りの景色が一望できるほど高い。

 そこは崖の上であった。

 雲は眼下の低い場所を漂っていて、ここが空に浮かんでいるように錯覚させられる。

 確かに「蒼穹の扉」という名前に相応ふさわしい見晴らしだ。

 メーゼがその絶景に気を取られているうちに、一人の男性が剣のそばまで近付いていった。

 そこで彼は、祈りの言葉を捧げた。

 そして、顔を上げ、何かを決意するような表情を浮かべると……

 崖から飛び降りたのである。

 メーゼは咄嗟とっさに駆け寄りそうになった。

 この高さから落下したら、絶対に助からない。助かるはずもない。念動力を使えば、止めることが……。

 しかし、動くことができなかった。

 女性の手が、メーゼの肩に優しく触れた。

「これで良いのです」女性は言った。「私たちは、神へと身を捧げるため、ここまで旅をしてきました。こうすることで、私たちは祝福されます……一族全体に、平和がもたらされるのです」

「…………」

「これが、私たちの存在意義……。理解して頂けますね」

 彼らは順番に祈りを捧げ、崖へと身を投じていく。

 そこに苦悩の様子はない。

 安らいだような、柔和にゅうわな表情をした者もいた。

 メーゼと言葉を交わしていた女性も、微笑ほほえみながら飛んでしまった。

 残されたのはメーゼだけ……。

 彼女には、彼らの行為が正しいのか間違っているのか、判断することができなかった。

 飛ぶ前の、幸せそうで、穏やかな様子。

 涙を流す者は誰も居なかった。

 少なくとも彼らには、生きる理由があった。

 そして、念願の夢を叶えることができたのである。

 複雑な想いを浮かべながら、彼女はひとり、山を降りていった。





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【Arena】


 砂漠を歩いていると、街が見えてきた。

 その街は巨大だった。大河の付近に作られたようであり、にぎわいがある。

 ちょうど、飲み水を欲しいと思っていたため、タイミングが良かった。

 彼女はそちらに進み、街の中へと入った。

 大通りは、多くの人々であふれかえっていた。

 この時代にこれだけの人間が集まるのは珍しい。

 あまりの喧騒けんそうにメーゼはくらくらした。

 騒がしい場所だと、五感の鋭敏さが頭痛を生む。

 魔法で、体の周囲に見えないまくを張り、音量を低減ていげんさせた。

 それにしても……どうしてこんなに活気があるのだろうか。まるで何かを目的にして、この街に集まっているようだった。

 そのまま大通りを進む。

 そして、彼女の疑問は氷解した。

 そこには大きな闘技場があった。

 メーゼは気になり、チケットを買って中に入った。

 客席はほぼ満員である。

 中央の、へこんだ楕円形のステージ。そこで、男たちが武器を持って、戦っていた。

 剣闘士たちは剣と盾を用いて、相手を叩きのめそうと闘志を燃やしている。

 魔法使いはいないようだ。彼らは皆、普通の人間であり、自らの肉体と原始的な武器だけで戦っている。

 文明崩壊後の世界で、このような見世物が再び現れたことは噂に聞いていたが、実際にそれを見たのは、今回が初めてだった。

 彼女は席に座って、その様子をしばらく眺めていた。

 ひとり、ものすごく強い男がいた。

 筋肉隆々であり、群がる敵をなぎ倒していく。

 今回の試合は2チームに分かれていたが、一番活躍していたのはその男で、おそらく五人か六人は倒していた。

 片方のチームが全滅し、ラッパが鳴る。

 その男は、不思議な表情を浮かべていた。とても哀しげな瞳をしていたのである。周りに観客がいることさえ忘れている様子で、舞台裏へと帰っていった。

 それは勝利に安堵あんどする、他の剣闘士たちとは違っていた。


 ☆


 真夜中。

 空は曇っていて、星の光はない。

 ランプだけが静かに灯されている。その暗闇の中、メーゼはこっそり、あるところへ行ってみることにした。

 それは、剣闘士たちが寝泊まりしている宿舎だった。

 剣闘士には自由が許されていなかった。彼らは、裕福な資産家の所有物であり、基本的に行動を束縛されていた。

 外界との接触は断たれている。

 だから、忍び込むしか手はなかった。

 メーゼは姿を消し、音を立てずに内部へと侵入して、例の男を探した。

 街の住民から、男の名前は聞いていた。

 ヨーゼフという名前であり、彼は二年前からこの闘技場で戦っているらしい。

 それは剣闘士のなかでも、かなり期間の長いほうであった。弱い者だとすぐ倒され、亡くなってしまうからだ。

 男の部屋を見つけ、扉をノックする。

 内側で物音がした。

 彼女は中に入り、それから姿を現した。

 驚いたようにこちらを見つめる男。

 彼はすぐに気を取り直して、身構えた。「お前は誰だ?」

「観客のひとり」メーゼは応えた。「少し気になって、話しに来たの」

「守衛はどうしたんだ?」

「私が眠らせた」

「どこかのお偉いさんってわけか?」彼は困惑していた。

「いえ……ただ、ちょっと噂を聞いて。それで質問なのだけど……あなた、本当に、ここでの暮らしに満足しているの?」

「……満足もなにも、俺は奴隷みたいなものだよ。選択権は、俺にない」

「でも、ここまで生き抜いてきたのは、何か目標があってのことでは?」

「目標か……」男はうつむいた。「ああ、もちろんある。でも、叶えられるか、自信が無い」

「それは?」

「俺はもっと、南の地方で暮らしていたんだ。狩猟とかして暮らしてた……。あの頃は貧しかったが、平和だった」

「…………」

「妻と子供もいた。俺は彼らを養っているだけで精一杯だった。だけどあるとき、ミスをやらかしてな。狩猟に出掛けたとき、無法地帯に足を踏み入れちまった。ちゃんと地図を見ていなかった俺が悪い……それで」

「捕まえられてしまった、と」

「そうだ。他にも奴隷はいたが、彼らは工場や炭鉱に売り飛ばされたな。俺は狩猟をしていたし、戦闘のセンスもあると見込まれた。それで、この闘技場へ送られることになった」

「逃げだそうと考えなかったの?」

「けっ、そんな簡単に行くわけないね。見張りは何人もいる。街の外へ出るのだってひと苦労だし、そこから砂漠を越えなきゃならねえ。相当な準備をしないと、不可能だな」男は視線をあげた。そこにはトロフィーが飾られていた。

「それに」男は言葉を継いだ。「あと五回優勝すれば、俺は自由になる。しかも、多額の報酬も貰えるんだ。ここまできたら、最後までやるしかない。他の連中だって同じさ」

 彼はそう言うと、静かに息を吐いた。


 ☆


 三日後に試合があった。

 その日、ヨーゼフの様子はおかしかった。

 うつろな表情をしており、覇気はきを感じられない。

 どうやら、何かの病気にかかっているようだった。

 しかし、棄権きけんすることはできなかったのだろう。

 その日はチーム戦ではなく、個人個人のバトルロイヤルだった。

 彼は自分を奮い立たせるようにして戦い続けた。

 結果……彼は勝ち抜くことができた。

 大きな歓声が闘技場を包む。

 しかし彼は、担架たんかに乗せられたまま、舞台から去っていった。

 戦闘の途中、右脚を負傷してしまったのである。


 ☆


 メーゼは再び、宿舎を訪れていた。

 男はベッドに横になって、天井を見つめていた。

「よう、お嬢ちゃん」と彼は言った。「また来たのかい?」

「怪我はどう?」

「うん……あいにく筋は切れていなかったようだが、それなりに傷は深いな。縫合ほうごうしてもらったが、ちゃんと動かせるようになるには、ある程度掛かりそうだ」

「次の試合はいつ?」

「一週間後さ」

「その試合には出ないといけないの?」

「そうだ」男はうなずいた。「どんな怪我でも、予定通り出場する義務が課せられている。休場して療養りょうようなんて、あり得ない話さ」

 彼女はしばらく考えてから、男に言った。

「ねえ、ここから出してあげようか?」

「え?」

「私は魔法使いで、あなたをここから出すくらい造作ぞうさもない。それに、私は旅立つ準備をしている。あなたの故郷へ立ち寄るくらい、簡単なこと……。どう、私と一緒に来て、ここから逃げ出さない?」


 ☆


 メーゼは彼につけられていたくさりを外して、入ってきた道をたどり、外へと出た。

 平民の服を着せ、首につけられていた焼き印も消した。

 彼を馬に乗せ、それから彼女も乗った。

「いま、あなたの顔を一時的に変化させている。言葉は喋れないということにするから、なにも声を出さないこと。良いわね?」

 彼女がそう言うと、ヨーゼフはうなずいた。

 メーゼたちに注目する者は誰もいなかった。

 たとえ近くから眺めても、彼らはただの旅人にしか見えなかっただろう。

 門の近くで通行証を見せ、それから駱駝らくだに乗り換えた。

 食糧は多めに用意していた。

 そのままメーゼたちは砂漠を進み続けた。

 もう、あの街からかなりの距離が空いている。

「きっと今頃、街は大騒ぎだろうな」ヨーゼフは言った。彼の顔は元通りになっている。「闘技場のスター選手が、こつ然と消えたなんてさ」

「ええ」

「追って来ないだろうか?」

「まさか検問を通過して、街の外に出たとは思っていないでしょう。今頃、市内を捜索していると思う。それに、仮に追ってきても、撃退できる」

「ずいぶん自信があるんだな」

「自信じゃない。客観的評価」


 男が地図で指し示すとおりに、二人は進んでいった。

 そして、約二週間後、大きなオアシスが見えてきた。

 その周囲には村があり、人々の姿もまばらに見られる。

「あれが俺の故郷だ……。向こう側にもっと進むと、砂漠が終わって森になっている。狩猟はそっちでやってたんだ」

 彼の目は輝いていた。

 数年ぶりの故郷。怪我が治っていないというのに、自力で駱駝から降り、脚を引きずりながらも彼は駆けていった。

 赤い屋根の家。

 その扉を彼はノックした。

 中から女性が出てきた。

 男は一瞬驚いた顔をしたが、彼女と話し始めた。


 ☆


 その女性はヨーゼフの姉であった。

 彼が居ない間、家を管理してくれていたのである。

 家は男の自宅であったが、もう、妻はいなかった。

 妻は彼が居ない間に、病気で亡くなってしまったとのことだった。

「…………」

 男は椅子に座り、天井を見つめていた。

「どう、お墓参りでも行く?」と姉が訊いた。

「ああ……でも、今は少し考えさせてくれ……まだみ込めていないんだ」

「そういえば、お子さんはどうしたんですか?」メーゼは姉に訊いた。「お一人、いらっしゃると聞きましたが……」

「そうよ!」彼女は言った。「もうすぐあの子が帰ってくるわ。ヨーゼフ、あんた、出迎えてあげなさい。あの子もまだ覚えている……きっと喜んでくれるわ」

「ああ、そうだな」彼は近くのタオルで、顔をいた。「悲しむのはあとで良い……あの子がまだ生きてたことを、俺は喜ばなくちゃならん。子供の前で、暗いところは見せられないしな」


 ☆


 その後、彼の子供が帰ってきた。

 カバンを背負った十歳くらいの女の子である。

 彼らは抱き合って、再会できた喜びを噛みしめていた。

 もう男の顔には、悲しみの表情はなかった。


 ☆


 人々が寝静まった頃。

 メーゼが庭のベンチに腰掛け、月に照らされた砂漠を見つめていると、後ろから声を掛けられた。

「その、今回は、どうもありがとな。感謝してもしきれない……。きっとあのままとどまっていたら、俺は間違いなく死んでいただろう」

「ええ……」

「ところで、あんたは一体、何者なんだ。魔法使いだってことは知っている。でも……」

「私のことはどうだって良い」彼女は応えた。「あなたには知る必要のないこと」

「……そうか。すまなかったな……」

「…………」

 二人は黙って景色を眺めていた。

 遠くのほうで、星々がまたたいている。

「ところで」メーゼが口を開いた。「あなたはこれから……?」

「俺か……俺は、そうだな。墓参りして……それから、大きくなるまであの子の面倒をみて……」

 男はそう言うと、頬杖ほおづえをついた。

 少し、考えているようだった。

「俺はそのあと……あの子を育てきったあと、あの街に戻ろうと思うんだ」

「どうして?」

「色々考えたんだが、あの……闘技場なんてものは、とても間違ったもんだと思うんだ。うまく説明できないが、あれはおぞましいものだ。俺だって、戦いたくて戦ったわけじゃない」

「…………」

「選手は奴隷みたいなものだし、あの制度に反対している者だって大勢いる。だから俺は、せっかく残されたこの命を使って……仲間をつのって、闘技場をぶっ潰そうと思うんだ。昔の俺みたいに、奴隷として捕まえられる人間が、少しでも減るように……」

「外部と関わらず、最後まで、静かに生きることだって出来る。本当に、あなたはそれで良いの?」

「ああ」男は応えた。「きっと俺は、何かを変えるために生まれてきたんだ……そう信じたいからさ……」


 ☆


 十数年の月日が流れた。

 メーゼは風の知らせで、とある街の闘技場が破壊されたことを知った。

 反乱が起き、既存の体制はくつがえされた。その都市の行政システムは、大きく変わったそうだ。

 周辺地域で暗黙に認められていた奴隷商人たちは、監獄へと入れられることになった。

 その反乱を主導した人物は、志半ばで戦死したが、英雄として、今もたたえられているとのことだった。





------------------------------



【Reading】


 草の枯れた丘の上に、荒廃した建物がある。

 それはかつて、多くの人々がかよっていた巨大図書館であった。今ではすっかり廃墟はいきょに変わり、ボロボロになっている。老朽化ろうきゅうかが進んでいて、いつ崩れるかも分からないような状態。

 メーゼはその図書館へと近づいていった。

 彼女は知識を求めていた。わずかでも良い……エメラルダに関する何かしらの情報を手に入れることができれば……。

 壊れた窓から中に進入する。

 廊下はところどころ底が抜けていて、側面には草が生えていた。転ばないように気をつけながら、通路を歩き、資料の置いてある場所を探した。

 戸を開ける。

 中は吹き抜けになっていて、とても広い空間が広がっていた。

 割れたステンドグラスから光が射し込み、壁を覆い尽くす本棚に色彩を与えていた。

 メーゼは中を探索し、人造人間に関する資料を探していると、

「動くでない!」

 と大声が聞こえた。

 階上の欄干らんかんから身を乗り出すようにして、威圧いあつある風貌ふうぼうをした老婆ろうばが、こちらをにらんでいた。

「少しでも触ったら、ただじゃおかないよ!」

 メーゼは両手を上げた。敵意がないことを示すために。「あなたは誰ですか? ここは無人だと思ってやって来たのですが」

「あたしはここの管理者さ! 許可なく立ち入って検分するなんて良い度胸じゃないか……どうせあんたも、貴重な書物を盗みに来たんだろう!」

「違います、私は閲覧しに来ただけで……。用が済んだらすぐ立ち去りますので」

 老婆は階段を降りてきて、メーゼの前までやって来た。

 杖をついており、腰は海老えびのように折れ曲がっていた。髪は真っ白で綿菓子を連想させる。眼鏡越しに映る斜視気味の瞳は、片方が濁っており、にぶい光をたたえていた。

 肌には無数のしわきざまれており、どうやら年齢は九〇歳……いや、それ以上だと思われた。判然としない。

 その老婆について色々想像をふくらませていると、老婆は唐突とうとつにこう言った。

「もしかして……あんた、魔法使いなのかね」その顔は驚きに満ちていた。

「はい、そうですが……」

「まさか、いや……しかし……」驚愕きょうがくが困惑へと変わっていく。「あんた、前にここを訪れたことは?」

「いえ、今回が初めてです」

「ほ、本当に? 嘘はついておらぬよな?」

「本当です」

「そうか……だけどこの魔力は以前にも……忘れもしない……ずっと昔に……。いや、だがあの少女は緑色の瞳を……」

「もしかして――それはエメラルダという名前ではありませんでしたか?」

「悪いが、名前は思い出せないのう……」老婆は言った。「とにかく、あんたが魔法使いとなれば話は別だ。向こうに応接間がある……そちらで話を聞こうかね……」


 ☆


 メーゼは自分が『エメラルダ』という〝妹〟を探していることを老婆に伝えた。

 エメラルダは人類を滅ぼそうとしており、それには人造人間が関わっている可能性が高い。そのため、少しでも情報を集めるため、この図書館を訪れに来たのだと……。

「なるほど、確かにあの少女は、人造人間について調べていた気がする」老婆は紅茶を飲みつつ言った。「何か強い意志のようなものを感じた……覚悟とでも言うべきかな……深い哀しみを奥底に仕舞っており、それをはねけんとする強靱きょうじんな意志が……」

「彼女が読んでいた資料はありますか?」

「いや、残念ながら、なくなっておるよ」

「なぜ?」

「あの少女は、本を持ち去ったのだ……むかしはまだ、この付近に街もあったし、貸し出すことができた。もうあれから、何百年も経っているからの……」


 その老婆は魔女であった。

 魔族の家系に生まれた彼女は、科学が台頭たいとうした後も、世界の辺境で誰にも気づかれぬよう細々と暮らしていた。

 しかし、彼女は人間界に憧れた。

 定期的に魔法で容姿を変えながら、職を転々とし、最終的に落ち着いたのが、この図書館の館長であった。

 世界中から本を集め、それを巨大図書館に貯蔵していった。大戦後の、国家が解体された現在において、そうした資料庫は貴重なものであった。

「あたしは世界中のすべての本を守りたかったんだよ。そして、そのすべてを読もうと心掛けてきた。人は死んだら無に消えるが、情報はいつまでも現実に堆積たいせきする。森羅万象を閲覧し、アカシックレコードへの門扉もんぴを開ける……それが、若い頃からの夢だったのさ……」

 そして彼女は、魔力のすべてを肉体に注ぎ込み、長生きできるように心掛けた。可能な限り、長く、図書館を管理したいという想いがあったからだ。

「正確な年齢は分からないが……今はもう、五百歳を超えているはず」と老婆は言った。「だが、あたしもそろそろ限界だね。肉体をむしばむ病からは、逃れられそうにない」

「どこか悪いんですか?」

「向こうのタオルを見ておくれ。茶色く染みがついているだろう? あれは今朝、吐血とけつしたぶんさ。どうやらがんが進行しているようだが……無理に寿命を延長した結果だよ……治療法はないし、受け入れるしかないね」

「………」

「もし、探しものするんだったら自由にするといい。だけど、無闇に本に触らないでおくれよ。もろくて、形が崩れちゃうからね」

 メーゼは老婆の許可を得て、今度こそ自由に図書館を調べることができた。

 かなり大きな建物だ。いくつもの空間、いくつもの世界が内包されているようであった。

 悪い状態の本もある。文字はかすれ、読めなくなっている。たしかに、ほんのちょっと触れただけで崩れ去ってしまいそうな書物もあった。風化して塵芥じんかいへ変わっていく途上の。

 人造人間に関する本はたしかに見つからなかった。そこの本棚だけ歯抜けになっていて、意図的な操作を感じられる。

 エメラルダはここを訪れていた。

 しかも、はるか遠い昔に。

 長い歳月を生きていると、時間の感覚が摩耗まもうしてくる。自分がどのくらい生きているのか、年齢さえ分からない。遠い記憶は曖昧あいまいで、それが実は夢だったのではないか、と思うこともある。現実と夢との境界なんて、ほんとうは判然としないのだろう。

 彼女は別の書架を回ることにした。今度はクローンに関する本を探す。

 兵器として利用されるはずだった私達姉妹は、ルーシー・ムーンライナーの複製体だ。その過去を振り返るため、エメラルダがその情報を閲覧した可能性はある。

 メーゼは生物学の棚の前で、片っ端から目を通し始めた。

 そして、一冊の本を手にとったとき、その隙間から紙片が落っこちた。

 しおりだろうか……いや、それにしては少し大きい。

 表面は真っ白で、何も描かれていなかった。

 だが、何かしらの違和感をおぼえる……まるで、こうして探し出されることを待っていたような……。

 この違和感は……指先から微力な魔力を感じる……もしかして、これはあぶり出しではないか?

 彼女は自分の魔力を、その紙片へと注ぎ込んだ。

 すると表面に、文字が浮かび上がってくる。


『姉様、わたしを探さないでください。思い出のぬくもりこそが、唯一の希望なのです』


 この筆跡はエメラルダのものだ。

 私が発見することを見越して、書き置きを残したようだ。

 …………。

 自分は本当にエメラルダを止めるべきなのだろうか。ずっと傍観者ぼうかんしゃのまま、遠くの位置で成り行きを見守っていたほうが良いのかもしれない。だけど、きっと放置していたら、大きな戦争が起こるだろう。彼女は人類を恨んでいる。

 エメラルダは『レムナント』を離れたあと、人造人間アンドロイドたちに拾われたらしい。そしてそこで、彼女は育っていった。しかし、アンドロイドを脅威だと考えていた人間たちによって、彼らは虐殺のき目にう。アンドロイドは、キメラやクローンなどと違って、あまり個体数を増やせないようだった。だから人間にとっては、殲滅せんめつするのが簡単だったというわけだ。

 アンドロイドは独立自治と自由・平等権を獲得するため、平和的なデモをおこなっていたらしい。しかし、その願いは聞き遂げられることもなく、鎮圧ちんあつされてしまったのである。

 その惨劇を、エメラルダは生き延びた。クローンである自分と同じような存在――アンドロイドたちが眼前で殺されていく様子を見て、彼女はいったい何を思ったのだろうか……。そのことを想像すると、憂鬱になる。私はそのころ、何も知らなかった。主要都市からは距離をおいていた。

 結局の所、姉妹の中で生き延びられたのは、私とエメラルダだけだった。他の姉妹は、私が調べた限りによれば、皆亡くなってしまっていた。

 不老不死という能力は、普通人にとっては魅力的に映る。だから、その能力を奪おうと、ルーシー・クローンを狩る者もいたらしい。今ではもう、魔法や超能力という存在自体が風化しているため、知る者はほとんどいないはずだが……。

 メーゼは溜息ためいきを付き、その紙片をポケットにしまった。

 きっと遠い将来、彼女と戦う羽目になるのかもしれない。本当は説得で、言葉によって彼女を止めたいけれど、仲間を虐殺され絶望を味わった彼女に対し、理想論を口にしたところで通じることはないだろう。

 彼女の想いがわからないわけではない。

 だけど私は、だからといって逆襲を認めるわけにはいかない。

 きっと自分は、まだ、人類に絶望していないのだ。絶望せずに済むような、様々な人々に、運良く巡り会えたから……。


 ☆


 老婆の部屋に戻ると、彼女はき込んでいた。

 吐血。床が赤く染まっている。

 老婆は苦しげにうめき、なんとか立ち上がろうとしていた。

 メーゼは慌てて駆け寄り、彼女を椅子に座らせ、タオルで口元を拭いてあげる。

「本当に、哀れだね……」老婆は額に汗をかきながら、背もたれに身体を預けた。「あたしもとっとと逝っちまったほうが良い気はしているのさ。だけど、心の中の読書欲が、魂をこの世に引き留めている。きっと執念に囚われているんだよ。自己満足に過ぎないと分かっていてもさ」

「いまは……なにを読んでいるんですか?」

「とある船乗りたちの話だよ。船が沈没して、そこで生き残った船乗りたちのね。彼らは無人島にたどり着くんだけど、島には食べ物がほとんどなく、必死でいかだをつくる。その筏に乗って故郷に帰ろうとするんだけど、どっちへ進めば良いのか分からず、異国の地に迷い込んでしまうのさ。こうした物語はよくあるんだけど、この小説は文体が見事でねえ、彼らの悲愴感ひそうかんがしっかり伝わってきて、のめり込んでしまうのさ。だけど最近は目も見えなくなってきたし、このように咳もするし、血も吐くし、頭痛やら眩暈めまいやら関節痛やらでなかなか読み進められなくて、体力気力を振りしぼって読んでいるのさ」

「それにしても、わざわざ図書館に住まう必要はないと思います。誰かに管理を任せ、あなたは病院で療養しながら過ごしたほうが、寿命も伸びるはず」

「けっ、あんた、なにもわかっちゃいないんだね。あたしの居場所はここしかないんだよ。それに、大半の輩はここにある書物の本当の素晴らしさを何も理解しちゃいないんだ。しっかり管理してくれるわけないさね。そもそも、あんただって知ってるんだろう? この世界が終局に近づいていることをね」

「…………」

「遠くの病院に居たって、ここに居たって同じだろう? 終わりは誰にでも平等にやってくる。そもそも、あたしは強欲で、長く生き過ぎてしまったからね……だからあたしは、最後までここで暮らすのさ……。みじめだと思うかね?」

「いえ」メーゼは首を振った。

「むしろあたしは、こうして死に場所がきっちり決まっているからこそ、幸せなのさ」老婆は言った。「あんたには故郷があるかい?」

「たぶん、一応は……思い出深い場所、という意味でなら」

「あたしの故郷は正確には、人里離れた森の奥さ。魔族だと気付かれないようにこっそりと生活していた。でも、いまのあたしは、この図書館こそ自分の唯一の故郷であり居場所だと信じている。それは人とのつながりよりも、あたしにとっては大切なものなのさ。あんたみたいに彷徨さまよっている、根無し草の旅人には分からないだろうけどね」

「…………」

「目当てのものは、見つかったかい?」

「少しだけ、痕跡こんせきは見つかりました。たぶん、これ以上探しても同じなので、明日の朝にはここをとうと思います」

「そうかい。もっとゆっくりしていってもいいんだがね……」

 メーゼは老婆の部屋を出て、離れにある小屋へと向かった。今はそこを寝床として貸してもらっていた。

 ここから見ると、やはり図書館の大きさが際立つ。いったい何冊の本が貯蔵されているのだろうか。そしてそれらの作者のほとんどは、遠い昔に亡くなっているのだろう。読まれることのない情報が累積し、そしてだんだん朽ち果てていく。彼らの注いだ情熱は、虚無へと吸い込まれていくのだ。創造的行為の終末を容認できないからこそ、あの魔女は本を読み続ける。読者が一人でもいる限り、それは意志を伝え継ぐ。

 彼女は紙片をめつすがめつ眺めたあと、眠りへと落ちた。


 ☆


 メーゼは叩き起こされた。

 かなり大きな揺れがベッドを跳ね上げていた。

 地震。

 それも微弱なものでない、天地を揺るがすような大地震だった。

 彼女でさえ、魔力を使わなければ、怪我をしていたかもしれない。防御膜で身を包み、揺れが収まるまで部屋の隅で待った。

 小屋の内部はめちゃくちゃだ。ここでさえ、こんな始末なのだから――

 メーゼは外に出て、図書館を眺めた。

 建物は崩れていた。ここを訪れたときでさえ既に廃墟のような状態だった。しかし今は、原型が分からなくなるくらい滅茶苦茶になっている。

 老婆の姿が頭をよぎる。今すぐ彼女を見つけなければ。

 瓦礫がれきと本でできたうず高い山を、魔法を使ってかき分けていく。

 見取り図は覚えていたため、老婆がどの辺りで寝起きしていたのかは分かっていた。しかし、それでもなかなか見つからなかった。

 老婆を発見したとき――彼女はまだ生きていたが、息も絶え絶えな状態だった。

 大きな柱が腹を貫いている。魔力によって出血を抑えていたようだったが、それももう限界に近かった。

 老婆は苦しげにあえぎながら、メーゼに声を掛けた。

「さいごに……ひとつだけお願いがある……。どうか、あの本を……昨日言っていた小説の最後を、あたしに読み上げてくれないかね……。たぶん、この近くにあるはずだから……」

 メーゼは急いでその小説を見つけ、ページをめくった。

「最後の数ページだけでいい……結末を教えておくれ……」

 メーゼは老婆の指示に従って、結末部分を読み上げていった。

 船乗りたちは協力しあって、無事に故郷へ帰ることができた。旅の道中、幾人かの仲間を失ったが、彼らの想いは日記によって、家族へと届けられる。そんな結末だった。

「そうか、彼らは辿り着いたんだね……」老婆は涙をにじませた。「良かった……本当に良かった……」

 満足げな微笑を浮かべると、彼女は息を引き取った。


 ☆


 メーゼは彼女の遺体を幾つかの本と一緒に埋め、それから図書館を旅立った。

 ちぎれた紙片が、風に乗って空へと飛んでいく。





------------------------------



【Letter】


 メーゼは砂浜を歩いていた。

 近くで波が押し寄せては、また引いていく。

 静かな海だった。

 それに、この辺りは綺麗であった。

 透明な青さ。

 たぶん人が減るたびに、綺麗になっていくのだろう。

 柔らかな潮風が頬に当たる。

 帽子を外しており、ローブも脱いで身軽な格好。素足で、砂の感触を確かめていた。

 岩陰にはカニの姿も見えた。彼女が近寄ると、気配を感じて隠れてしまう。

 そこから離れると、また表に出てきた。

 二本のハサミを使いながら、湿った砂に埋まったプランクトンを食べているのだろう。

 とても器用に操っていて面白い。彼女はしばらく見つめていた。

 振り返ると、自分の足跡が遠くまでつづいていた。

 それなりの距離を歩いてしまったらしい。

 一部は波でかき消されていたが、それは蛇行だこうしたまま、道のようになっていた。

 きっと最後には、すべて消えてしまうのだろう。

 それはなんとなく、人の一生に近しい気がした。

 靴を履き、丘のほうに上がっていこうとしたとき、波打ち際に、きらりと光る物体を見つけた。

 それは瓶であった。

 ガラスの容器が光を反射させていたのだ。

 彼女はそれを拾い上げた。

 コルクでしっかり栓がなされており、中には何か入っている。

 それは紙切れだった。

 彼女は栓を外し、紙を取り出した。

 中にはぎっしり文字が詰まっていた。

 インクはにじんでおり、判別できない箇所が多かったが、読める部分もあった。

 以下がその内容である。


 ☆


 …はこれを、どこかの………………ている。

 ………で、……だった。けれど私は、………………………………………………。………と思うから、それが一つの指標として……………である。

 たとえば、………なら、かなりの準備をしないといけないし、それは大変難しく……………。

 私はこの無人島に辿り着いてからというもの、毎日、自分が生き抜くために…………であり、……だが、それと同時に穏やかな気持ちになっているのも事実だ。

 昔は船乗りとして、さまざまな地方に出掛けたものだった。西の………では、今では絶滅種に指定されている魚をご馳走されたもんだった。ありゃ、たまげたね。それに………………………………。

 …………い貴重なインクで、もうここまで書いてしまった。

 何もせずにはいられなかったというのが、正直な……であろう。それは祈りのようなもので、名前も知らない誰かに…………、…………もんだ。

 誰かがこれを読んでいるころ、私が生……いるかどうかは分からないけど、それでも、自分が存在したということを、伝えておき……………。

 ……でいる誰かさんに頼みがある。ノースシティの……キ…公園、正面から見て右から三本目の木の根元に、私が小さい頃、……………で埋めたタイムカプセルが残っ………はずだ。

 もし良ければ、掘り返…て、貰ってくれないか?

 中のモノは好きにして良い。

 そうすることで、何かが繋が…ような…………からだ。

 読ん…くれてありがとう。

 よろしく頼む。


                 ……ワ…ト


 ☆


 紙切れに書かれた情報を元に、メーゼはその街、ノースシティを訪れてみることにした。

 もう無人になっていたが、建物や敷地は残っていた。

 公園は少なく、目的の場所はすぐに分かった。

 枯れ木の根元を掘り返してみる。

 それなりに深い場所に埋まっていたが、見つけ出すのは簡単だった。

 銀色の箱。

 表面には、オズワルトという名前が書かれている。

 ふたを開ける。

 中に入っていたのは、茶色いクマのぬいぐるみ……。

 ほこりで汚れてはいたが、保存状態は良かった。

 彼女はそれをよく洗ったあと、乾かして、ほつれている部分を針でってから、カバンの中へと入れた。





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【Rescue】


 メーゼが旅を始めて、あまり歳月が経っていなかった頃の話である。

 彼女は放浪中であり、特に目的がなかった。

 ただ、気の向くままに、行きたいところへおもむいていた。

 知り合いに再会できるとは思えなかったし、何かに期待を寄せることもなかった。

 彼女は悲観的であり、どんなに努力しても、きっと良いことは起こらないだろうという予感があった。

 仮にあったとしても、それは偶然の産物。

 すがるものは何も無かった。

 何かしらの執着しゅうちゃくこだわりは、彼女の中に存在しなかった。


 そんなある時、彼女はとあるホテルに泊まる。

 古い建物であったが、暖房やシャワーも完備されていて、とても居心地の良いところであった。

 しかし翌朝、彼女はけたたましいベルに起こされることになる。

 廊下では従業員が大声で呼び掛けていた。

 どうやら、建物のどこかで火事が起こったらしい。

 メーゼは三階の部屋に泊まっていたため、外に出るのは簡単だった。

 非常階段で下り、表に出た。

 建物の周囲には野次馬が集まってきていた。彼らは頭上を見上げている。

 彼らにならって、メーゼも顔を上げた。

 高い場所、十五階かそこらのフロアから、激しい火焔かえんがあがっていた。

 ホテルは二十階建てである。どうやら、火が出ている階より上の階の宿泊客で、まだ避難できていない者がそれなりにいるらしい。

 消防車は到着している。

 水圧の高いホースで水を散布している。しかし、火はいっこうに弱まる気配がない。

 消火活動をおこなっている方々とは別に、救出に向かった隊員たちもいたようだが、やはり、十五階より上には行けないようだった。

 どうやら、階段が焼け落ちてしまっているらしい。

 メーゼは建物の中に入った。

 それは一つの義務感であった。

 何かを救える力を持ちながら、それを活用せず、ただ傍観ぼうかんしているだけの無関心さを、彼女は持つことができないのだ。

 階段を上がっていき、魔法で体を防御してから、炎上しているフロアまで移動した。

 冷却魔法で、燃えない道をつくる。

 それから耐熱性の縄梯子なわばしごを、上の階から下の階まで降ろした。

 これで階段を使わずとも、安全に避難ができる。

 メーゼは一つ一つの部屋を回り、残された人々に呼び掛けていった。

 彼らは順路に従って、どんどん移動していった。

 そんな中、とある一室に、逃げ遅れていた子供がいた。

 まだ五歳かそこらの女の子であった。

 かたわらには母親らしき女性が倒れている。メーゼは彼女を確かめた。呼吸が止まってから、しばらく経ってしまったようだ。もう手遅れであることがメーゼにも分かった。

 その場を離れようとしない少女の手を引いて、下へと降りていった。


 ☆


 メーゼのおかげで救われた者は多かった。しかし、残念ながら犠牲者は出てしまった。

 家族を失った者はそれなりにいた。

 ただ、子供だけのこされてしまった……孤児になってしまったのは、例の少女、ジェニファーだけだった。

 保安局は孤児院に預けようとしたのだが、そこの定員は満杯であり、受け入れ体制が整っていなかった。順番待ちであり、すぐには入れない。もしも彼女の入居を優先して認めてしまえば、不平等になってしまうのだ。

 彼女は保安局にある収容ルームに入れられることになった。

 そこは独房のような部屋であり、食事はきちんと得られるものの、自由は制限されていて、まともな教育は受けられない。

 里親が見つかるまで、そこで暮らすことになった。

「どのくらいで見つかりそうですか?」メーゼは職員に訊いた。

「わかりません。最近は引き取り手も少ないようですし、長い期間掛かるかもしれません。それに、里親になろうとする方は、孤児院のほうにおもむく可能性が高く、ここを訪れる可能性は少ないです。もちろん、我々も呼び掛けていくつもりですが」

 メーゼには時間があったし、それまで請け負ってきた仕事によって、多額のお金を保持していた。

 いろいろ考えた末、彼女はその少女を引き取ることに決めた。


 ☆


 家を借り、そこで養子を育てることにした。

 子供をどう育てるかについては、一応の知識があったし、貯蓄のおかげで仕事をしに出かける必要もなかったため、ずっと家で見守ることができた。

 自信があるわけではなかったが、不安も特になかった。

 図書館で借りてきた本で空いた時間を潰しながら、ジェニファーの世話をした。

 衣食住に満ち足りた環境を、彼女に提供した。

 数年後には学校へと通い始め、勉強に取り組むようになっていった。

 メーゼと少女とのあいだに、ある程度の距離感はあった。

 少女は、自分の置かれた状況を理解しているようだったし、誰に対しても心を閉ざしていた。

 初めのうちは、ほとんど言葉も交わさなかった。少女がメーゼに甘えてくることはなかった。自分で出来ることは、なるべく自分でおこなおうとしているようだった。

 だが、その距離は、ずっと平行線だったわけではない。

 食事を作ったり、看病したり……日常における、ひとつひとつのメーゼの行動が、少女の氷を溶かしていったのである。

 数年後、少女は普通に会話できるようになり、元気も取り戻し始めた。

 引きもりがちだったのが、散歩もするようになった。

 ただ少女は、自分の実の母親について、メーゼにたずねることは一切なかった。その記憶は、触れないほうが良いものとして、彼女の中で分類されているようであった。


 ☆


 引き取ってから十五年ほどが経過する。

 彼女は就職し、メーゼのもとを離れて暮らし始めた。

 業務内容は、技術の必要な難しいものであった。彼女は必死に勉強し、専門の資格を取得したのである。

 その後の数年間は、彼女にとって最も充実した日々だったかもしれない。

 仕事はうまくいっていたようであり、給与も良く、天職と呼べるほど適していたらしい。

 しかし二十代後半で、彼女は退職することになった。

 検診で、がんが見つかったのである。


 ☆


 手術をし、悪性の腫瘍しゅようができている箇所は切除された。

 だが、数か月後に再発が確認される。

 全身に転移しており、手術することはできない。

 抗癌剤こうがんざいの量は増えていくことになった。

 闘病生活は苛酷かこくであった。

 抜け落ちる髪、荒れゆく肌、頭痛と恐怖の日々、痙攣けいれん、味覚障害、幻聴……。

 食事をするたび吐くようになってしまう。胃が食事を受け付けないらしい。

 点滴てんてきに切り替え、寝ては起きるだけの生活が始まる。

 いつが昼でいつが夜なのかも、だんだん分からなくなっていった。

 個室。

 脇には白いテーブルがある。

 瓶に差してある花は、いつの間にか変わっていた。

 この前は赤だった気がする……でも、今は黄色だ。

 鏡を見る勇気はなかった。

 自分の体は、皮と骨だけになって、変わり果ててしまっているのだろう……。

 窓の近くで揺れる木陰こかげを、彼女は見つめていた。


 ☆


 容態は悪化していった。

 一日の大半をずっと眠っていた。

 意識が戻るのは時々……。医者ももう、余命がわずかしかないことを、分かっているようだ。

 あらゆる感覚が失われつつある。

 そんな中、彼女はとある存在に気がついた。

 それは枕元で、こちらを見ていた。

 金色の髪、月のように……黄色い瞳をした少女……悲しげな顔をしている……。

 誰だろう……。

 彼女は記憶が混濁こんだくしていて、メーゼと共に過ごした日々を、思い出せないのであった。

 ジェニファーは、かたわらの少女へ手を伸ばした。悲しげだったので、なぐさめてあげようと思ったのだ。

 その、せ細った手を包み込むように、少女は優しくにぎり返した。

 かすかなぬくもりが、手のひらに広がる。

 穏やかな気持ちでたされていく。

 痛みや苦しみが、溶けていくようだった。

 目をつむる。

 まるでゆりかごの中にいるみたいだ。

 気持ち良く眠れそうだと、彼女は思った。


 ☆


 草原に白い墓が並んでいる。

 メーゼはその一つに近寄ると、花を添えた。

 顔を上げ、しばらく空を眺めたあと、その場を去る。

 遠くのほうで、教会の鐘が鳴っていた。





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【Clown】


「その道化師どうけしのところに行くとね、会えるはずのない人に、また会えるんだって」

「ほんとに? 例えば、もう死んじゃった人も?」

「うん。死者でも、空想上の人物でも誰でも良い。会いたい、と思った人に、会いに行ける。『心から願えば、距離なんてない』って言うのが、彼の口癖くちぐせらしいよ」

「そうなんだ。わたし、行ってみようかな」

「でもね、彼に会ったら、もう戻ってこれないんだって」

「なにそれ、怖い」

「でしょでしょ。もしかすると、別の世界に連れて行っているのかも……」


 ☆


 メーゼはとある道化師のうわさを耳にした。

 それはいわゆる都市伝説のようなものだろう。本当にいるはずがない。

 彼女はそう考え、しばらくは気にも留めなかった。

 しかし、その噂を信じて、道化師に会いに行きたいと考える者が少しずつ増えていった。

 いつの間にか、その噂の広まっている地域で、人口が減少していったのだ。

 家族や友人を残したまま、失踪しっそうする数々の住人たち。

 この不可思議な現象に関与している者は、やはり、本当にいるのかもしれない。

 もしかすると、どこかの魔法使いが、何らかの目的で人間を集めているという可能性も……。

 メーゼは考えを改め、本格的に調査することに決めた。


 ☆


 夕暮れの寂れた街角。

 遠くには廃墟の屋敷が見える。

 オブジェと化した電柱が立ち並び、長い影を道路に投げかけている。

 カラスの鳴き声。

 近くには公園があった。

 風でブランコが揺れている。

 シーソー、ジャングルジム、鉄棒、滑り台、動物の形をしたバネの乗り物……。

 彼女は、電灯がついている公園の柱に背中を預け、懐中時計を眺めながら、そのときが来るのを待った。

 しばらく経過する。

 すると、通りの向こうから人影が現れた。

 奇天烈きてれつな衣装に身を包み、先が二つに割れた布製の帽子をかぶり、顔には化粧がほどこされている。

 色鮮いろあざやかな格好。

 そして満面の笑顔。

 彼は一輪車に乗りながら、ボールでジャグリングしていた。

 道化師は彼女の近くまでやって来ると、口笛を吹き、一輪車から降りた。

 帽子を外し、深々とおじぎをした。

「あっしはサンチョと申すものです。あなたも、誰か会いたい人を求めて尋ねてきたのですね」

「ええ」メーゼは応えた。「その通り」

 彼女には考えがあった。とりあえず、お客のフリをして根城ねじろまでおもむき、そこで彼の本性を見極めようと考えたのである。

 道化師はそんなメーゼのことを、まったく疑っていないようだった。

「さあ、行きましょう。あっしに付いてきてください」


 ☆


 着いた場所は、町外れから遠くに見えていた、あの廃墟の屋敷だった。

「以前は使われていなかったんですが、あっしが中を改装したんです」と彼は言った。「見た目は廃墟のままですが、中は綺麗ですよ。どうぞ、入ってください」

 事実、中はとても綺麗であった。

 隅々まで掃除されており、備品も整理されていて、開放的になっている。

「家政婦でもいるの?」

「いえ、自分で掃除しているんですよ。そうした作業が好きなので」

 磨き上げられた回廊かいろうをわたり、とある一室へと招き入れられた。

 そこは、立方体の大きな部屋であった。

 壁は真っ白に塗りたくられ、遠近感を掴みづらい。

 部屋の中央には、大きな椅子が置かれていた。

 背後には機械があり、そこから金属製のアームが伸びている。アームの先には、ヘルメットが取り付けられていた。

「あなたはどうやら、いささか疑念を抱いているようです」道化師は言った。「しかし、無理もありません。体験せずに、それを信じるのは難しいですから……。今まで訪れたお客さんも、はじめは疑っておりました。しかし、一度、心で感じてしまえば、そこから逃れるのは困難です」

「この機械がそうなの?」

「ええ。ですが、これは試作機のようなもの。本当の装置では、もっと極上の体験ができるんですね」

 道化師はメーゼを招いた。

「さあ、ここに座ってください」

 メーゼは言葉に従った。

 今は相手を油断させ、情報を得ることが大切だと思ったのだ。

 それに……少しだけ、彼女も興味があったのかもしれない。

 椅子に座り、ヘルメットをかぶった。

 気分を楽にして、瞳をつぶる。

 するとそこには、別の風景が見えてきた。

 どこまでも続く綺麗な草原。青い空。

 色鮮やかな景色が広がっている。

 視界には砂漠もない。今では絶滅してしまった植物も、近くに生えていた。

 遠くでは動物たちが駆け回っている。

 その中には、かつて共に過ごしたワイバーンのような竜もいた。

 背後を振り返ると、そこは丘になっていた。小川が流れ、水音を立てている。静かに回る風車。そよ風が頬をでた。

「メーゼ」

 彼女は呼び掛けられた。

 低く、渋い声色。何百年……何千年かぶりに聞いた声だった。忘れるはずもない、その響きは……。

「エルダー……」

 思わず、彼女は返事をした。

 銀色の髪とひげをした初老の男が、ベンチに座ってメーゼを眺めていた。

 無表情だが、どことなく優しい瞳をしている。

 それは、遠い記憶として残っていたままの風貌ふうぼうであった。

「エルダー……どうして、そこに……」

「さあ、わしにも分からんよ。だが、こうして会えたのは、嬉しいことだな」

 メーゼは彼に近付こうとしたが、思い直して立ち止まった。

「あなたは、やはり、道化師の見せている夢にしか過ぎないの……?」

「ここが現実でないと?」彼は訊き返した。「今いる世界が、現実か夢かなんて、自分自身で決めることだろう?」

「……ええ、その通り。たしかにあの人なら、そんな風に言ったはず」メーゼは彼を見つめる。「きっと機械は、私の記憶を元に、一時的な理想世界を創り出しているのでしょうね」

「そうだろう」

「そして私は、私の望んでいた答えを、ここで自由に導くことができる。あの日、あの時、何も出来ないまま終わってしまった数々の出来事を……選択を、再びやり直すことができる」

「うむ」エルダーはうなずいた。

「こんなものがあるって、噂には聞いていたけれど」メーゼは周囲を見回した。「実際に体験してみると、なかなか、悪いものではないわね」

「でもきみは、こうした世界のむなしさについて、充分過ぎるほど理解しているのだろう?」

「ええ……その通りです。エルダー」

「きっとこの世界自体は、道化師が操っているわけではないだろう……。わしは昔の理想のまま、投影されているのだろうな」彼は言った。「わしは覚えている。きみが何を目指していて、何を成し遂げようとしたのかを。正しさとは何であり、自由とはどういうことかを」

「…………」

「目的は、達成できそうかね?」

「いえ、まだです。私はあの世界で、やるべきことが残っています」

「うむ」

「その決断は絶対です。だから……私は、あなたを……」

「わしは何も言わぬさ」エルダーは応えた。「きみが望み、きみが信じたとおりに行動しなさい。どんな道を選択しても、失われてしまうものがある……それを恐れてはいけない。夢も記憶も、何もかも、最後には消えてしまう運命にある。だから、積極的に虚無を受け入れるのだ。その先に、次なる道が開くのだから」

「…………」

「メーゼよ……またいつか、夢の中で会おう。影はいつでも、我々と共にある」

「……はい」

「そろそろ時間かな」彼はベンチから立った。「では、わしは行くよ」

 エルダーはそのまま、草原の中を歩いていき、風に吹き消されるように、静かに消失した。


 ☆


「いかがでしたか?」

 目が覚めると、そばに立っていた道化師が、こちらをのぞき込んでいた。

 彼は瞳を輝かせ、好奇心で満ちているように思われた。

「ええ、悪くなかったよ」

「そうですかそうですか」道化師はうなずいた。「そう応えていただき、あっしも嬉しい限りです」

 彼は部屋を歩き回ったあと、「それで」と言葉を継いだ。「それで、このまま、あっしと契約を結びませんか?」

「契約?」

「あっしはあなたから、あなたの身体を貰い受けます。その代わり、あなたは永遠に、甘美かんびな夢を見ることができる」

「身体を貰う?」

「そうです。あっしは現実で、機械を管理し続けなければなりません。そのためには、どんどん身体を乗り換える必要があるのですよ」

「乗り換える?」

「そう……。つまり、顧客こきゃくの精神と肉体を切り離すことで、肉体は不要のものとなります。その肉体を、有効活用しているのです」

脳髄のうずいだけを取り外そうってこと?」

「ええ」道化師は愉快ゆかいそうに笑った。「それに、そのほうが脳の働きも良くなって、夢の質も上がるんですよ……寿命も数倍に伸びますし。さあ、早く始めましょう。準備はもう整っています」

「残念だけど」メーゼは応えた。「私、寿命には困ってないし、甘美な夢もこれ以上は必要ない。お断りして、帰らせていただくわ」

 道化師は笑顔を崩さぬまま「そうですか」とつぶやいた。「それならば、仕方ありませんね」

 彼はそういうと、部屋の外へと駆けだした。

 そして扉が閉まる。

 じょうの掛けられる音。

 その金属製の分厚ぶあつい扉以外には、出入口がなかった。窓一つない閉鎖へいさされた部屋。

 すぐさま天井からガスが噴出ふんしゅつした。

 おそらく睡眠薬だろう。

 彼女は息を吸わないようにしつつ、扉へと近づく。

 熟達じゅくたつした魔法使いにとって、この程度の扉など、開けるのは簡単だ。錠を解除する必要もなく、粉微塵こなみじんに破壊し、部屋の外に出た。

 道化師は廊下の先にいた。

 こんなに早く脱出するとは思わなかったのか、驚いているようだった。

 彼は自動小銃をこちらへ向ける。

 構わずに突進する。

 放たれた無数の弾丸はことごとくメーゼを避けていき、壁に穴を開けた。

 彼女は道化師の前まで来ると、銃を叩き落とし、脚を払って転倒させたあと、剣の切っ先を首元に向けた。


 ☆


 彼女は道化師から色々訊きだした。

 階段をくだり、地下室へと向かう。

 そこには大量の、等身大の人形が置かれていた。

 金属でできた、華奢きゃしゃな人形たち。

 数百体以上もあって、それらのひとつひとつからは、無数のコードが伸びている。コードの先には機械があり、電力で動いていた。

「彼らはここで夢を見てるのさ」道化師は言った。「あっしは嘘はついてない。人形に埋め込まれた脳髄たちは、夢幻の世界で暮らしている。彼らは意識を持ちながら、苦しみから解放されているんだ」

 更に奥の部屋に進むと、そこは冷凍室になっていた。

 部屋全体が冷凍されていて、中には人々がつるされている。

 しかし、それらの肉体は、もうがらであった。

 頭部にはバッテンの切り込みが入っており、そこからすでに、脳が摘出てきしゅつされてしまっている。

 状態は綺麗であり、表面が凍りついているのを除けば、肉体の細胞自体は生きているようだった。

「たとえ、あなたが魔法使いでも、彼らを元に戻すことはできませんよ」

「そうかもしれない」メーゼは応えた。「でも、あなたには責任を取って貰う」

 彼女はそういうと、道化師を引っ張っていき、椅子へとくくり付けた。

 それからヘルメットをかぶせると、幸福指数ダイヤルを、反対方向へと限界まで回して……それからスイッチを入れた。

 期間はエンドレスであり、第三者が止めるまで、目覚めることはない。

 夢の内容は、とびっきりの悪夢。

 あとの裁きは、近隣きんりんの住人たちにゆだねよう……。

 彼女はきびすを返すと、屋敷の外へと出て行った。





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【Monk】


 道を歩いていると、一人の青年が座り込んでいた。

 彼の前には器が置いてある。

 そこにはいくつかの小銭が入っていた。

 乞食こじきだろうか、と推測する。

 しかし、身なりはそれなりに整っていたし、瞑想めいそうをしているようで、姿勢も正しかった。

 きっと、道行く人の喜捨きしゃを求める、どこかの修行僧なのだろう。

 こんな暑い陽射しの中、表情も変えずにひたすら耐えて、頑張っているようだ。

 メーゼはそこを通りすぎたあと、離れた場所から彼をしばらく観察した。

 水も飲まず、じっと目をつぶっている。

 そのまま数時間が経過する。僧はまだ、動こうとしなかった。ひたいから汗がれていたが、にもかいさぬようだった。

 ぼんやり眺めているうち、メーゼのなかで小さな悪戯心いたずらごころが芽生えた。

 道を引き返し、青年の前まで来ると、器の中に大量の札束を入れた。それは、数年間遊んで暮らせるほどの大金だった。

 メーゼはしゃがみ込んで、青年に顔を近づけた。

 彼は目を開けない。

 尋常じんじょうでないことが起こっていると感じ取ったようだが、彼女がそこを離れるまでは、そのままでいるようだった。

 メーゼは再び遠くまで離れ、木陰から、彼の反応をうかがおうとした。

 しかし、そこにはもう、青年の姿はなかった。

 振り返ると、すぐ近くに彼がいた。

 息を切らしているようで、メーゼのほうを見つめている。彼の手には札束が握られていた。

「何なんですかこれ」彼は叫んだ。「この札束は、どういうわけですか?」

「偽物か疑っているの? 本物だよ」

「だとしても……こんなに、りませんよ! いったい何を考えていらっしゃるんですか」

「でも、どれだけほどこしをするかは、自由なんでしょ。だったら、ありがたく受け取れば良いじゃない」

「僕は修行のために托鉢たくはつをしているんです!」彼は応えた。「精神的な成長を、成し遂げなければなりません。このような形で、その精神を馬鹿にされたのが、たまらなく頭にきてるんですよ!」

 青年はそう言うと、札束をメーゼに投げつけた。

 そして、荒々しい足取りのまま、先程さきほどのところまで戻っていった。


 ☆


 目の前の、短期的な利益に飛びつかない青年の姿に、メーゼは感心した。

 少しだけ、彼のことが気になってしまった。

 メーゼは彼を追跡した。

 青年は、日暮れの道を歩いていき、とある寺院へと入っていった。

 体を透明化して、彼女も敷地内へと入った。

 せっかくの機会だ。数日は、ここにこっそり泊まりつつ、僧たちの様子でも観察することにしよう……。

 好奇心から、彼女はそうすることに決めた。


 ☆


 修行は厳格で、規則正しいものだった。

 掃除そうじ暗誦あんしょう座禅ざぜん瞑想めいそう武闘ぶとう祈祷きとう……。

 内容は多岐たきにわたっていた。

 昨日の青年も、他の僧に交じって行動している。

 なんとなく、俗世ぞくせから隔絶かくぜつされた感じがするな……とメーゼはボンヤリ思っていた。

 肉体的な煩悩ぼんのうから解放され、悟りの境地に達するのが、彼らの宗教の目指しているところらしい。

 確かに……この世界に、そのように無欲な人が多かったら、もっと違う有り様をしていたのかもしれない。

 結局のところ、戦争が起こるのは、人間の欲望に直結している部分があるからだ。他者を排除してでも、自分の利益を確保するような……。

 メーゼは考えを巡らせながら、屋根裏のような場所で寝起きしつつ、彼らを眺めていた。

 そして、三日目の晩、奇妙なことが起こった。


 寺院の前に、たくさんの人々が集まっていた。

 彼らは僧でなく、俗人だった。

 派手な格好をしていて、裕福そうに見える者が多い。

 彼らは門をたたき、僧たちに呼び掛けている。

「ヴェルモンはいるか? 彼を連れてきてくれ! ヴェルモンはいるか?」

 と繰り返している。

 僧たちは、互いに話し合ったあと、一人の男を寺院の中から連れ出した。

 それは、メーゼの施しを突っぱねた、あの真面目な青年であった。


 ☆


 青年はヴェルモンという名前で、家を飛び出し、僧になるため寺院へと入ったらしい。

 父が不明の母子家庭だった。長年、母と一緒に過ごしていたが、彼女が亡くなったことが、ヴェルモンの転機となった。

 彼はこの世の無常を悟り、宗教の道に進んだ。

 しかし、五年後のその日、彼は自らの生まれを知ることになった。

 彼の父親は、その地域の王様だったのだ。

 王様には、何人ものめかけがいて、そのうちの一人が、ヴェルモンの母親だったらしい。

 母親は王のもとを離れ、素性すじょうを隠したまま、ひとりでヴェルモンを育てることに決めたそうだ。

 本来は、彼は王族から黙殺されるはずだった。

 しかし、王国の正当な跡継ぎが、皆亡くなってしまったとのことで……だからといって、次の王を決めないわけにもいかず……必然的に、王の血を引くヴェルモンが選ばれることになった。

 最初は断っていたが、半分脅されるような形で、王を継ぐことを決心させられた。

 彼はそれまで、倹約けんやくな生活を送っていた。そのため、王の座につきながら、奢侈しゃしに流されることもなく、つつましい毎日を過ごし始める。

 知識も豊富であり、賢かった。

 その優秀さによって王国は安定し、かつてよりも平和な国になった。質素で謙虚な振る舞いは、家臣の信頼を得ることに繋がり、王政に不満を漏らす者もいなかった。

 ヴェルモンはそのうち結婚し、子供を数人作った。

 彼らは健康に育っていき、いつしか大人になった。

 厳格な教育をおこなったため、子供たちも慎み深く育ち、体制が崩れる恐れもなかった。

 ある程度の期間が過ぎ、自らのおとろえを感じ始めた頃、彼は王位を譲り渡し、自身は城の奥で隠居いんきょをはじめた。

 もう、数十年が経過していた。

 ヴェルモンは塔から、城下町を見下ろしている。

 ――私はこの国のために、できるだけのことはした。貧困問題も解決したし、仕事も行き渡らせた。今の生活は落ち着いていて、欲しい物で、手に入らないモノはない。衣食住、すべてが快適で、毎日天国のような暮らしをしている。だが……

 彼はどこかに、満ち足りなさを感じていた。

 幸福も平和も、すべてを手に入れたはずなのに……どこか、むなしかったのである。


 ☆


 メーゼが道を歩いていると、一人の老人が道端みちばたに座っていた。

 かなりの高齢だ。こんな暑い日に、大丈夫なのだろうか。

 彼の前には器が置いてある。

 身なりはボロボロであった。服は破れ掛かっており、いくつも染みができている。

 乞食かな、と思ったが、それにしては姿勢が良いし、どことなく気品がある。

 メーゼは彼の前まで来ると、小銭を器に入れた。

 そのまま通り過ぎようとしたとき、後ろから声が掛かった。

「そなたは、以前とまったく変わらないのだな」しわがれた声だが、そこには意志が宿っている。

 メーゼは一瞬で、すべてを理解した。「ええ。わたし、歳を取らない体質なの」

「修行でも、したのかな?」

「さあ……でも、毎日が修行かもしれない。旅を修行と呼べるならね」

 老人の顔には微笑が浮かんでいた。「事情は知らないが、幸運を祈るよ、お嬢さん」

「ええ、あなたこそ……。ちょっと風変わりな王様さん」

 メーゼはそのまま、道の先へと歩いていった。





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【Penalty】


 街中に、指名手配の紙が貼り出されていた。

 緊急事態に思えてくるほど、あわてた様子である。

 メーゼは気になり、近くの人にいてみた。

「明日、死刑を執行されるはずの囚人が、脱走したんだとさ。警備の沽券こけんにかかわるとかで、とにかく一大事ってことよ」

「凶悪犯なのですか?」

「いや、そういう訳でもないらしいが……」

 逃走してから、そこまで経っていないらしく、まだこの付近に潜伏している可能性が高いとのこと……。

 報酬も貰えるようだし、ここは少し、社会貢献でもしてみようか。

 彼女はそう考え、犯人を捜索そうさくすることにした。

 牢獄ろうごくへと向かい、逃走犯の部屋を調べさせて貰った。

 身体的な特徴を訊き、それから、彼の思念の残滓ざんしを確認する。

 メーゼの視界にうっすらと、霊気のような光が浮かび上がった。

 犯人は切羽せっぱまっていたらしく、思念はかった。その光は尾を引いて、街中へと続いている。

 帯のようにつづく光を、彼女はたどっていった。

 そして、街外れの暗い路地裏で、紙束にくるまるようにして座り込む、ひとりの男を見つけた。

 男は顔をうずめており、人相にんそうを確認できなかったが、思念はそこへとつながっていた。

 メーゼは彼を軽く叩いた。

 男は驚いたように顔を上げる。

 そして後ずさった。

「だ、誰だおめえ!」

「私は賞金稼ぎよ」メーゼは応えた。「このまま拘束して、保安局にでも引き渡すわ」

「その杖……もしかして魔法使いか」男は震える声で言った。「そんな……頼む、待ってくれ」

「私が待つような性格に見える?」

「ひっ」男はたじろいだ。「わかった。おとなしく連行されるよ。だから、その前に、少しだけ話を聞いてくれないか……俺の、家族に関することなんだ」

 その様子は、とても切実に見えた。

 半信半疑であったが、とりあえず、男の言い分を聞いてあげることにした。

 彼は労働者として若い頃から働いていた。

 だが、仕事は苛酷かこくであり、反動のような形で、酒におぼれるようになったらしい。

 ある日のことだ。

 彼は酒場からの帰り道、喧嘩けんかをしてしまう。

 理由は瑣末さまつなものであった。肩がぶつかったかどうか、足を踏んだかどうか……その程度のくだらない悶着もんちゃくが切っ掛けである。

 からんできたのは相手のほうであり、先に手を出したのも相手だった。

 彼は反撃しただけだった。

 だが彼は、酔っていたせいか、力を抑えることができなかった。

 相手の青年は、殴られ、転倒した。

 その際、縁石えんせきへと頭をぶつけ、青年はそのまま亡くなってしまったのである。

 いくら理由があるとはいえ、れっきとした犯罪である。彼は監獄へと入れられることになった。

 本来ならある程度、情状酌量じょうじょうしゃくりょう余地よちがある事件だ。しかし状況が悪かった。その地域の法律は、治安の悪化にともない厳罰化されていたのである。

 裁判の末、死刑が決まり、そして間もなく執行されるところだった。

「判決は判決だ。だから、もちろん罰は受けるつもりだ……だけど、俺は、どうしても会いたい人がいるんだ。せめてその人に会うまで、俺は死にきれねえ」

「誰なの?」

「母ちゃんだよ」男はいった。「母ちゃんは遠くの街に住んでた。だから、俺が捕まったことも、死刑を受けることも知らないだろう。もう何年も連絡を取ってない。だからその前に、せめて顔だけでも……」

「じゃあなんで、そんなところでうずくまっていたの?」

「それが……どこかに越したらしくて、居場所が分からなくて……」

「では、あなたはお母さんに一目会えたら、執行される覚悟を持てるというわけね」

「ああ……。俺はこんな状態だから、聞き込みもできなくて」

 彼の中に邪悪さは見出せなかった。

 メーゼは迷っていたが、男を手伝うことにした。


 ☆


 メーゼは情報を収集し、母親の居場所を突き止めた。

 山を二つ越えたところの街。

 母親は、そこの洋服店で働いているようで、裏で仕事をしていた。

 ミシンやアイロンなどを手に、黙々と仕事をおこなっている。

 その様子は真剣であり、表情を変えることなく、次から次へと服を仕立てていった。

 メーゼと男は、その様子を草むらからうかがっていた。

 男はじっと、母親のほうを眺めていた。瞳の奥に、その姿を焼き付けるかのように。

「どうするの?」メーゼはいた。「仕事のあと、会いに行く?」

「…………いいや」男は応えた。「やはり、邪魔するわけにはいかないよ。このまま、ムショへと帰るさ」

 彼らは道を引き返していった。

 山の稜線りょうせんが、夕陽で赤くふちどられている。

 鳥の鳴き声が、こだまになって響いていた。

「なあ」男が言った。「ひとつ、お願いがあるんだ」

「なに?」

「借りてた家に、ずっと飾っていた絵画があるんだ。俺が芸術家を目指していた頃描いたものさ。金になんねえはずだし、物品は押収おうしゅうされてないと思う。大した出来じゃないが、思い出の品だ。それが母ちゃんのところにちゃんと行くか、確認してもらいたい」

「……わかった」

 メーゼはうなずいた。


 ☆


 死刑執行の日。

 男は牢屋ろうやで、その時が来るのをじっと待っていた。

 しかし、いつまで待っても執行人は来なかった。

 代わりにやってきたのは、燕尾服えんびふくを着た男であった。

恩赦おんしゃが出た」と燕尾服は言った。「死刑ではなく、お前の罰は終身刑として扱われることになる。命がつながったことに、感謝するんだな」

 男は驚き、すぐには口がきけなかった。「で、でも、どうして……」

「あんたの母親が、保安官と遺族に頼み込んだのさ。きっと、相当な額を積んだんだろうな……」

 燕尾服はそのまま、面会室から出て行った。

 奇妙な感覚だった。

 絶対に、自分は死ぬと思っていた。

 怖いのではなく、その非現実性に、思考がうまく働かず、ぼうっとしていた。

 必ず振り下ろされると思っていた刃が、消えてしまった。

 母親は俺の罪を知らないと思っていた。

 それは間違いだったのだ……。

 指名手配のビラを見て、それで知ったのだろうか。

 いずれにせよ、よっぽど頼み込んだはずだ。

 きっと何度も頭を下げ、罪を犯した不甲斐ふがいない息子のために、お願いしてくれたのだ。

 感謝してもしきれない……。

 彼はいつの間にか、涙を流していた。


 ☆


 罰が軽くなったからといって、罪が消えるわけではない。

 自分の犯したあやまちは、生涯しょうがい背負い続けなければならない。

 男はその後、何十年も刑務所で過ごした。

 長い歳月さいげつが経った。

 彼は一度も反抗することなく、模範囚として毎日を送っていた。

 そんなある日のことだ。

 彼のところに、仮釈放を認める通知が来た。

 監獄での礼儀正しい振る舞いが、刑期を縮めたのである。

 それは滅多めったにないことであり、知らせを聞いたときには驚いた。すぐにはみ込むことができなかった。

 彼にとって、監獄こそが、世界のすべてになっていたからだ。


 数日後、男はへいの外へと出た。

 平原に道が続いている。

 彼は歩いていった。

 目的地は決まっている。

 今も、住所は変わっていないはずだ。

 山を越え、その街に着く。

 そして、目指していた家へとたどり着いた。

 庭には一人の老婆ろうばがいて、椅子に座りながら編み物をしていた。

 かなり歳を取っていた。数十年もの歳月は、彼にも、彼女にも、深い陰影いんえいを与えていたのである。

「母ちゃん……」

 男は老婆に呼びかけた。

 老婆は顔を上げる。

 驚いたような表情を浮かべ……それから、静かに涙を流す。

 老婆は立ち上がり、男のほうへ近付いていった。

 風が洗濯物を揺らしている。それらは白く輝いていた。





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【Ark】


 強い吹雪ふぶきが吹きすさんでおり、体力を奪っていく。

 積雪は深い。

 一歩踏みしめるごとに、脚が埋まってしまいそうだ。

 厚い服が寒気を防いでくれたが、それでも厳しい気候には変わりなかった。

 どこかでひと休みしたい。

 しかし、途中に休めそうな場所はなく……。

「頑張ってください。もう少しです!」

 後ろを歩いていた青年が、メーゼに声を掛けた。

 彼女はうなずいて、再び進み始める。

 杖をつきながら、転ばぬようにゆっくりと……。

 遥か向こう……前方には、巨大な黒い壁があった。

 壁。

 しかしそれは、城壁のように何かを防ぐためのものではない。

 とある構造物の一部が地面に露出ろしゅつし、壁のように見えているのである。

 大き過ぎて、遠近感が掴めない。

 黙々と脚を動かし続け、数時間が経ったころ、ようやく間近な距離まで来た。

 壁には扉があった。

 それは斜めになっている。構造物全体が傾いているため、扉も斜めになっているのだ。

 人が入れるほどの隙間が空いている。そこから二人は内部に入っていった。

「いつもこんなに暗いまま作業を?」

「いえ、明かりはあります。あとで付けましょう」

 ランプを使い、奥へと進む。

 質素しっそつくりであり、装飾そうしょくたぐいはほどこされていない。

 白塗りであり、機能性を保持するためだけに設計されたようだった。

 廊下を歩き、ひとつの部屋に入る。

 机や椅子が置かれていて、暖房もあった。それらの調度品は、外部から持ち込まれたものである。

「吹雪が少ない時期は、ここまで乗り物で来れるんです。そのときに、色々持ってきたのですが……」青年はそう説明し、暖房のスイッチを入れた。

「それで、研究は順調?」

「ええ」青年は近くの鍋で湯を沸かし始めた。「様々な文献と照らし合わせましたし、解読は進んでいます。機構について全容を把握するのも、あと数年で済むかと」

「大方掴んでいるということね」

「そうです」

 彼は熱湯を使ってコーヒーを作ると、マグカップへと注いだ。片方をメーゼの近くに置く。

 メーゼは一番気になっていることを口にした。

「それで、この船は動きそうなの?」

「たぶん……動くと思います。何かが壊れている、というわけではありません」

「つまり、問題は……」

「ええ、エネルギーです」青年は、カップで指を温めていた。「これだけの大きさです。莫大ばくだいなエネルギーがなければ、起動しないでしょう」

「動力源に必要なものは?」

「複数使えます。燃料は何でも構いません。変換するだけの技術が備わっていますので」

「ロケットに使われている燃料でも?」

「構いません。ただ、それを、この辺境まで運ぶための手段が、今はありません。原子力も視野に入れましたが、それを管理するだけの技術も失われています」

「これが……結局使われなかったのは、当時もそれほどのエネルギーがなかったから?」

「違うと思いますね。きっと、船とは別に、どこかで燃料も保管していたはずです。それが、きっと持ち去られてしまったのでしょう。あるいは、船を使う前に内乱が起こった……とか。そもそも、必要性がなければ、起動しようとはしないでしょう。そのうちに、氷の中へと埋もれ、忘れ去られてしまったというわけです」

「やはり、特別な宝石でないと?」

「ええ、厳しいかと思われます……。メーゼさんは、クリスタルの在りかを?」

「いや、まだよ。いまだに調査中。『妹』より先に見つけ出したいと考えているけれど……なにせクリスタルは、ほとんど伝説上の宝石。存在を示す文献は残っているけれど、本当にあるのかどうかさえ確定できない。だから私はそちらより、『妹』の追跡を優先させている。彼女を止めたほうが早いから……」

「『妹』というのは、エメラルダさんのことですね」

「そう」

「僕にはよく分からないのですが……話し合って、解決できる相手ではないのですか?」

「それができたら苦労しないよ」彼女は応えた。「あまりにも長い期間、離れ離れになってしまった。違う体験を経て、違う思想が組み立てられた……。だから、お互いの持つ価値観が、全く異なってしまっている……正義の形が違う」

「でも、お互いに、争い合う必要はないはずです。だって……」

「いえ……もう遅すぎたのよ。でも、もしかしたら、はじめからそうなる運命だったのかもしれない。私たちは、コピーとして造られた存在。オリジナルじゃない……そもそもの起源から、うつろだから……」

「…………」

 スープがあったので、それも作って、二人で食べた。

 部屋はだいぶ暖かくなっていた。

 壁の外側と内側で全然環境が違う。断熱されており、中は静寂せいじゃくそのものだった。

 いてあった簡易ベッドで一晩寝た。

 まだ、外では吹雪が続いている。

 この様子だと、あと数日は荒れた天気のようだ。

「せっかくですし、船内を案内しますよ」青年は提案した。「いちおう、隅々すみずみまで確認していますし、危険はありません。それに、少し動いたほうが、気晴らしにもなると思います」

 船内はとても広く、迷宮のようだった。

 プレートがあらゆるところに取り付いていて、矢印で様々な場所を示していた。

 内部はどれも自動ドアであり、近づくと反応して開く。

 薄いモニターが壁に埋めこまれている。今は電源が切られているが、船が起動したら情報が表示されるのだろう。

「こっちが食堂です」

 青年は広い部屋を指し示した。

 長テーブルがいくつも置かれている。壁には出っ張りがあって、そこにはボタンがついていた。

「壁の向こうに食糧庫しょくりょうこがあって、ボタンを押すと、自動で機械が作ってくれるらしいです。メニューは無数にあって、基本となるいくつもの素材を組み合わせて、料理するとか」

「腐ったりしないのかな?」

「特殊な素材なのでしょう。栄養があり、食感、味付けも自由に調節できる。それに食糧庫とは別に、新たに素材を作れる場所もあります」

「栽培・培養する環境ね。自給自足には申し分ない、か」

 今度はホールのような場所についた。

 いくつもの椅子が並べられており、真ん中には丸い機械がある。天井は、球面のようにカーブしていた。

「これは……プラネタリウム?」メーゼは訊いた。

「よくご存じですね。でも、これはちょっと特別です」

 彼は近くのスイッチを押した。

 すると、座席が床ごと降下していき、それから天井が、花弁のように外側へと開いていった。

 そして、中央の機械が光を放つ。

 光は壁へではなく、空間上へと投影とうえいされた。

 立体映像として現れたのである。

 映し出されたのは、無数の星々。

 銀河系が、そこには浮かび上がっていた。

「綺麗……」メーゼは思わず口にした。

「僕もはじめて見たときは驚きました」青年は、宙に浮かぶ、ひとつの光点を指さした。「ここが、僕たちの太陽系です」

 ダイヤルを調整すると、そこが拡大される。

 太陽系が空間全体へと広がる。公転する地球も視認できた。

 地球の周りでは、くるくると月が回っている。

「ねえ」とメーゼが言った。「人は死んだら、どこに行くと思う?」

「えっ」青年は困惑した。「さあ……あの世とか……」

「私、いつか月に行ってみたい。きっとそこは死後の世界で、なにもかもが綺麗なまま、保管されているの」メーゼは月の映像を眺めていた。

「月には、なにもありませんよ。ただ、地球の周りを回っているだけ……太陽の光を反射した、岩石の星です」

「そんなことは分かっている。ただ、私が言いたいのは……そういうことじゃなくて……」

 立体映像が消え、部屋には明かりが戻ってきた。

 天井は閉じ、床が上昇する。

 元通りになって、機械の駆動音も止まった。

「なんでもない……。さあ、行きましょう」

 メーゼはそういうと、部屋の外へと出た。


 ☆


 数日後、吹雪は去った。

 視界一面、雪原だけが広がっている。

 銀世界。

 柔らかな陽射しを反射して、まぶしく感じられる。

 白狐が遠くを駆けているように見えたが、それは気のせいだった。

「帰りは、送らなくて良いですか?」

「大丈夫」彼女は応えた。「寒い地域のほうが、私には向いているわね」

「どこもかしこも、人の住める場所は少なくなりました。やはり、終末は近いのですか?」

「あと、五百年もすれば……たぶん、人の住める場所はなくなるでしょう」

 彼女はしゃがんで、雪に触れた。

 少しすくって冷たさを味わった。手のひらで溶け出し、水へと変わる。

「だから……」メーゼは言った。「いつか、その日が来たときのために、整備をしておいて欲しい。必要になるときが、きっと来る」

「了解です」青年はうなずいて、鼻をすすった。「それじゃ、メーゼさん、お元気で……」

 彼らは別れを告げた。

 青年は船に入っていき、メーゼは雪原を歩いていく。





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【Despair】


 無人の都市を歩いていると、たまたま、ビルの屋上に立っている女性を見つけた。

 彼女はへりに立っている。

 風で服が揺れる。ちょっとでも前に踏み出せば、落ちてしまう位置にいた。

 何をしているのだろう……。

 そう思った次の瞬間、女性はそこから落下した。

 足を踏み出し……自発的に、自らの意志で。

 メーゼは走っていき、ビルの真下まで来た。

 そして魔法を唱える。

 すると、落下していた女性の速度が、だんだんとゆるやかになっていき、しまいには宙に静止した。

 メーゼは念動力を使ったのだ。そのままゆっくり女性を降ろし、地面に寝かせた。

 女性は気を失っていた。

 メーゼは彼女を背負い、近くの公園にあったベンチへと寝かせる。

 しばらくすると、彼女は目を覚ました。

「こ……、ここは……」女性はつぶやいた。

「私が助けました」メーゼは言った。「あそこで何をしていたの?」

 女性はしばらく黙っていた。

 まだ少し、混乱しているようだった。


 ☆


「わ、わ、わたしは、その……う、う、うまく、しゃべれなくて……」

 彼女の名前はミーシャと言った。

 うまく喋れないらしく、何度も言葉がつっかえさせながらも、事情を説明してくれた。

 ミーシャはやはり、自殺を試みていたらしい。

 普通の街中だと迷惑がかかると思い、あえて無人都市を選んで、死ぬことに決めたのだそうだ。

「わ、わ、わ、わ、わたしには、吃音症きつおんしょうがあ、あります。それで、う……うまく意思疎通いしそつうができなくて……」

「それで、絶望したの?」

「こ、こんな話し方じゃ、や、や、雇ってくれる人がなかなかいません。いまは、ひ、ひ、比較的声が出ていますが、もっと緊張している、と、と、ときは、もう、本当にひどくて……」

 どうやら吃音きつおんという声の障害が原因で、いじめられたり、差別を受けたりしたことがあったらしい。

 以前、何とか掴み取った仕事も、理不尽な理由で辞めさせられた。

 そうした障害を理解してくれる人も、もちろんいる。

 しかし、世の中、寛容かんような人ばかりではない。事情を理解せず、罵声ばせいを浴びせたり、嘲笑ちょうしょうしたりする人も、それなりにいるとのことだった。

「も、も、も、もう、疲れてしまったのです。わ、わたしはもう、楽になりたい。こ、こんなことで、悩んでいたくないんです。毎日が、不安の連続で、い、い、い、いつ喋れなくなるか、いつ怒られるか……そうした色々なことに、おびえている毎日がつらくて、こ、これ以上嫌なんです」

 メーゼはその気持ちが、すべてではなかったが、何となく理解できる気がした。

 普通に生きられないという状態は、心に暗い影を落とす。

 ただの、当たり前の幸せさえ、掴み取ることができない。平凡な喜びを味わうこともできない。

 普通の人々と比較し、自分がみじめに思えてくる。

 どうして、自分だけがこんな目にうのだろう。

 どうして、人よりも苦しまなければならないのだろう。

 世の中の不平等さ、不条理さに、ひどく落ち込んでしまう。

 おとぎ話のように、誰かが救い出してくれるわけではない。

 きっと、死ぬまで苦しみ続けなければならないのだろう……という、落胆と寂しさがある。

 悩みも共有できず、ずっと孤独に……。

 …………。

 正直、こうした問題に関しては、メーゼも答えを出すことができなかった。

 明確な悪者がいるわけではない。

 生きていくための気力は、自分で作り出していかなければならない。

 それはつまり、自分自身と戦って、乗り越えていくようなものだ。

 死にたいという気持ち……。

 メーゼ自身も、ないわけではなかった。

 ただ、彼女の場合は目的があったから、その選択を取ろうとは思わなかったのだろう。


 ☆


 しばらく黙っていた。

 そして考え続けた。

 自殺すること自体が、悪いかどうかは分からない。

 だけど……苦しんで、ひとりで無力に消えていくのは、何かが間違っていると感じた。

 日が傾き、夕暮れの光が長い影をつくりはじめたころ、メーゼは言った。

「詳しいことはわからないけど……でも、しばらく休んでみても良いんじゃないかな、と私は思う」

「…………」

「あなたは多分、真面目過ぎるところがあって、それで思いつめちゃっているのだと思う。仕事は、世の中にたくさんあるし、何度も試行してみたら、いつか、自分に適した場所が見つかるかもしれない」

「…………」

「もし、今は疲れ切っていて、死にたいほど苦しいのなら……そうやって結論づけちゃう前に、回復するまでしっかり休んで、それからまた、考えれば良いんじゃないかな。もちろん、ずっと休んでいることは、現実が許してくれないのかもしれないけれど……現実逃避して、翼を休める時間が必要なのだと思う。私はそんな気がする」

「う、うん……」

「この世に対して絶望するには、まだ早いと思うよ。あなたは今いくつ?」

「に、二十四です」

「まだ若いじゃない。どうしてもつらいなら、せめて三十歳になってから判断するとか、そういうふうにして捉えてみたらどう?」

「そう、かもしれない……」ミーシャは足で、砂に文字を書いていた。「た、た、たしかに、ちょっと休んでみる、べきなのかも」

「時間が解決してくれることが、世の中にはたくさんある。経験則だけど、悪い状況がずっと続くわけではない……波のようなもの……」

「あの……あ、あ、あなたは何者なんですか? わたしより、わ、若いように見えますが」

「私? 私はただの旅人です」

 そういうと、メーゼは静かに空を見上げた。

 摩天楼まてんろうの向こうには、うすぎぬのような星空が広がっている。


 ☆


 街の片隅に、教会があった。

 その教会は古びていたが、何度も修復されているようで、一種の調和を生み出していた。

 教会の前には広大な花畑が広がっている。

 今はまだ、手入れの時期であり、花は咲いていなかったが、草が茂っていた。

 手入れをしているひとりの老婆がいた。彼女は黙々と雑草を抜き、うねを整えていた。

 鐘の音が鳴る。

 彼女は作業をやめ、建物へと戻っていく。

 建物の前には人々が並んでいた。祈祷きとうをする者、懺悔ざんげをする者、悩みがある者、勉強する者……様々な目的で、彼らは教会にやって来ているのだ。

 修道女である彼女は、彼らの案内をしたり、話を聞いたりしていた。

 どんな小さな悩みにも真摯しんしに向き合い、誠意ある答えを出そうとする彼女の姿が、そこにはあった。

 時には柔和にゅうわな表情を浮かべ、訪問者の緊張をほぐしている。

 熟達した彼女の振る舞いには、他の修道士たちも一目置いていた。尊敬の念を、彼らは抱いていたのである。

 休憩時間。

 彼女は中庭に出て、椅子に座った。

 彼女……年老いたミーシャは、空を見上げた。

 私は、いまだに話すのが苦手だと思う。

 でも、本当につらいときは……しっかり休んで心を整えれば、なんとかなるということを、あの日に学ぶことができた。

 これまでの人生は、決して楽ではなかった。

 いろいろな試行錯誤があった。

 でも、今振り返ると、そんなに悪くもなかった気がする。

 毎日同じことを繰り返しているようで、少しずつ、何かが変わっていく。その変化した部分は、すぐには分からないけれど、後から振り返ると、とても大きなものだと気づく。

 あのとき、私を救ってくれた少女は、どこにいるのだろうか。

 今も元気で暮らしているだろうか……。

 そうであって欲しい。

 もう会うことはできないだろうけど、幸せでいてくれることを願う。

 雲ひとつない、清々すがすがしい青空に、彼女は祈っていた。





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【Festival】


 その地域では、百年に一度のお祭りがあった。

 ストリートにはたくさんの屋台やたいが出ており、人々でにぎわっている。

 美味しそうな匂いも立ちこめていた。

 中央広場ではダンスがおこなわれている。音楽が掛かっており、辺りに響いていた。

 きらびやかな光。活気ある歓声。

 家族やカップルが多く見られる。

 メーゼは群衆の中を歩いていた。

 たまにはこうして、ゆっくり楽しんでみようと思ったのだ。

 様々な衣裳に身をふんした人々とすれ違う。

 そんな中にあっては、彼女の魔法使いの格好など、まったく目立たぬものであった。

 そもそも……いまや魔法なるものの存在は、世界から忘却されてしまっていた。

 科学も魔法も、ますます衰えつつあったのだ。


 料理を買って、空いていたテーブルで食べた。

 不思議な味がした。でも、マズくはない。遠い昔に、これと似たものを口にした覚えがあるが、上手く思い出せなかった。

 子供たちがストリートを駆けていく。

 彼らは噴水まで来ると、その周囲で遊び始めた。

 水鉄砲で遊んでいるらしい。こんな暑い夜には、それも気持ち良いのだろう。

 暖かい雰囲気に思えた。

 ここには、空虚な影がない。

 苦悩や恐怖を一時的に忘れ、夢の中に埋没まいぼつしようとする意志が。

 いつか終わってしまうことを知りながら、それでも信じようとする姿勢なのだろうか。

 ときどき、自分の居場所が分からなくなる。

 自分はどこに居て、なにをしているのか。

 記憶のすべてが朧気おぼろげに感じられる。

 楽しかったこと、嬉しかったこと……それらは本当に、実在したことなのだろうか。

 美しい記憶ほど、あっという間に過ぎ去って、薄れていく。溶けていく。消えていく。

 そうした思い出だけでいっぱいだったら、どんなに素敵だろうか。

 叶わないことは分かっている。

 だからこそ、願わずにはいられない……。


 高台から景色を見ると、街がシルエットのように浮かび上がっていた。

 星の光と、街の灯が、上下に映し出されている。

 時計台のそばには、月が昇っていた。

 彼女が街を観ていると、とある建物が目に入った。

 それは病院だった。

 そこだけが祭りから隔絶かくぜつされており、暗く静かにたたずんでいた。

 メーゼが気になってしまったのは、その建物の窓に、一人の少女が映っていたからだ。

 窓の向こうにはベッドがあり、そこで上半身を起こし、街の様子をじっと見つめる一人の少女。

 表情はよく見えない。

 しかし、どことなく寂しそうに感じられた。


 ☆


 ドアをノックする。

 中から小さい声で、「どうぞ」と聞こえた。

 メーゼは静かに扉を開け、中に入った。

 看護師の方だと思っていたのか、少女は少し驚いていた。

「あなたは誰?」と彼女は言った。

「私は……」メーゼは少し考えてから言った。「私は妖精よ」

「妖精?」

「そう、あなたにしか見えない存在」

「妖精さんが、どうしてわたしのところへ?」彼女は首を傾け、メーゼのほうを見つめていた。

「今日はお祭りでしょう? だから、姿を現すことができたの」

「……そうなんだ」

 少女はいちおう納得してくれたようだ。

「でも、わたし、街を歩くことができないの」少女は言った。「病気でうまく歩けなくて、だからずっと、ここからお祭りを眺めていたの」

「お母さんやお父さんは?」

「家に居るよ。今日もお見舞いに来てくれたの」彼女は花瓶かびんを指さした。そこには花がしてあった。「弟も、いつの間にか大きくなってた」

「弟さんがいるの?」

「うん、まだ三歳だけど……」彼女はそう言うと、少し暗い顔をした。

「どうしたの?」メーゼは訊いた。

「あのね……わたし、パパとママが、弟のほうが好きなんじゃないかって、ちょっと疑っているの。上手く言えないけど……だって、弟はわたしよりも元気で、優秀で……。わたしなんか、ずっと寝ていることしかできないから……」

「……ううん、そんなことないと思うよ」メーゼは言った。「今日だって、お見舞いに来てくれたんでしょ?」

「うん。でも……パパもママも、弟ばかりに構っている気がして……。それに、会話の中身だって、いつも同じに思えるし……」少女はそう言うと、うつむいた。「わたし、忘れ去られるのが怖いの。わたしを置いて、勝手に世界が進んでいって、自分だけが、この病室で、孤独に消えていってしまうのが……」

「……あなたは孤独じゃない」メーゼは言った。「少なくとも、今は私がいる。お祭りが終わって、私が消えてしまっても、私はあなたを覚え続ける……。それに、あなたのお父さんやお母さんだって、心の底では、あなたのことを大切に思っているはず。きっと、表面上は明るく振る舞って、病気を気にしてないように見せているだけ……。私はそう思う」

「…………うん」

 窓から風が吹き込んで、カーテンを揺らしていた。

 月の光が射し込み、床に影を作っている。

 部屋の灯りはついていない。外の光が、より輝いて見える。

「ねえ」メーゼは呼びかけた。「あなたに、プレゼントがあるの」

「プレゼント?」

 メーゼはカバンから、ぬいぐるみを取り出した。クマのぬいぐるみ……以前見つけてから、ずっと持ち歩いていたものだった。

 少し色褪いろあせていたが、修繕しゅうぜんしたり、布を取り替えたりしていたため、新品同様の綺麗さであった。

「これ、良ければ、どうぞ」

 メーゼは手渡す。

 少女はぬいぐるみを受け取り、感触を確かめつつ、眺め回した。「いいの、これ?」

「もちろん。遠慮しなくて良いよ……今日はせっかくのお祭りでしょ?」

「……ありがとう、お姉さん」

 少女はぬいぐるみを抱きしめた。

 中にはたくさん綿が詰まっている。きっと、柔らかく受け止めてくれるだろう。

 何かを手放すのは、メーゼにとって苦ではなかった。それは、長い時間を生きてきたことで、すでにたくさんのものを失ってきたからかもしれない。

 しかし、それだけではない。

 自分が苦労したり、努力したり……小さな行為をすることで、誰かが喜ぶ……それを確認できるのが、何よりの幸せに思えるからだ。

 たったそれだけの、単純な理由……。

 外で大きな音がした。

 二人は外を見た。

 街の上空に、花火が打ち上がっていた。

 大きな花を咲かせている。

 いくつもの色が、夜空に散る。

 宙で弾けたときの振動が、ここまで伝わってくる。

 街中の、すべての人が見上げているようで、花火の音以外、何も聞こえない。

 彼女たちの病室からは、丁度良くその光景を眺めることができた。

 光の尾を引きながら、燃焼していく七色。

 二人とも、ただ見とれていた。

 一瞬が永遠へと引き伸ばされ、世界がどこまでも輝くようだった。

 綺麗で、純粋で、透明な。

 鼓動だけが、時間を刻む。

「きっと、良くなっていく……」メーゼはつぶやいた。「あなたはきっと元気になる。だから、心配しなくて良い……」

 その声が、少女に聞こえたかどうかは分からない。

 でも、これで良いのだと、彼女は思った。





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【Boogyman】


 度重たびかさなる失踪しっそう事件によって、討伐隊が組まれることになった。

 そして、今回の事件は大ごとだった。村の住民が、全員いなくなってしまったのだ。

 民家はそのままであり、災害を受けたわけでもない。

 しかし、何者かと戦った痕跡が、そこかしこに残されていた。

 敵が何者かは分からない。

 確かなのは、それが無差別に人々を襲ったであろうということだ。

 メーゼはその討伐隊に、自ら志願したのであった。


 ☆


「ブーギマン?」

「そう」男は返事した。「俺たちは犯人のことを、ブーギマンと呼んでいる。民間伝承から取ったのさ。名前があると、なにかと便利だからな」

「失踪事件が始まったのはいつ?」

「そうだな……だいたい二年前ぐらいからか。初めのうちは、森へ散策にでた人間が、一人か二人居なくなる程度だった。しかし、だんだんと規模が大きくなっていき、本格的に調査を始めるか検討していたところに、今回の事件が起こったということさ」

 メーゼたちは馬車に揺られながら話をしていた。

 村を越え、その先の、目標の森へと入ろうとしていた。

「こちらから探して、見つかるかしら?」メーゼは疑問を口にした。

「向こうのほうからやって来るさ。奴は俺たちのことも、獲物だと考えているはず。なにせ、無差別だからな。武装しているかどうかは、問題じゃない」

 馬車が止まった。

 目の前には林道があり、それ以上、車では進めないようだった。

「ここからは徒歩だ。荷物を持て」

 隊長の声がした。

「森が一番、失踪確率が高い」隣の男はささやいた。「やっこさんはきっと、ここを住処すみかにしているはずだ」

 隊列を組み、道を歩いていく。

 ここの森は明るく、陰気な感じはしなかった。

 むしろ、鳥の鳴き声や動物の姿も見えて、平和にさえ思えてくる。

 ブーギマンは人間しか襲わないのだろうか。

 そもそも人間を襲って、いったい何をしているのだろう……。

「隊長!」と前方で声がした。「隊長、これを!」

 その青年は、林の奥を指さした。

 そこには布きれが引っ掛かっていた。

 近づいて、よく確認する。破れていたが、それは間違いなく人間の衣類であった。

「やはり、ここに……」誰かがつぶやく。

 メーゼもその衣類を眺め回した。

 断面はギザギザだ。刃物で切られたわけではなく、引き裂かれたようである。

 丈夫な繊維せんいでできているし、素手で引き裂いたとしたら、相当の怪力だ。

 敵は、人間とは思えなかった。

「やはり、動物の仕業だろうか?」男が言った。「俺は見たことないが、例えばクマという生き物は、かなり凶暴で、これくらい容易たやすくできると聞く」

「分からない」メーゼは言った。「ただの動物なら、ここまで人を襲ったりしない。この森には充分な食糧がある。危険を冒してまで、人に手を出すとは思えない」

「そのくらいの知性はあるってことか」

「ええ」

「じゃあ、俄然がぜんわからないな。食糧目的じゃないとすれば、愉快犯なのか?」

「いえ、違う……。おそらくは……」

 メーゼはそこで口をつぐんだ。憶測おくそくで意見を言うには、早いと思ったからだ。

 そのまましばらく歩き続けると、前方に谷が現れた。

 見晴らしが良いが、そこに突っ立っていたら、向こうからも丸見えで危険だ。

 彼らは茂みや木陰に隠れ、周囲の様子を窺う。

 谷には川が流れていて、ごうごう音を立てていた。

 双眼鏡をのぞき、観察する隊員たち。

 メーゼは目視で警戒していた。

 すると、ひとりの隊員が手で合図した。

 全員がその方向に視線を向ける。

 河原の向こう……地面に草が生えた、木がまばらな場所。そこに、いくつもの死体がぶら下がっていたのだ。

 腐敗は進んでいないようだ。捕らえられてから、あまり時間が経っていないことを示している。

 そして、吊り下げられた死体たちの間を、一匹の生き物が動いていた。

 動物ではない。

 人間のような形をしていたが、皮膚ひふは暗色で、にぶい輝きを放っている。腕や脚が太い。体長は、普通の人間の三倍はあるだろう。

 そいつは、吊り下げられた一体の死体を取り外した。

 片手でそれを持ち上げ、口許くちもとへと運ぶ。

 大きく口を開き、それからムシャムシャと食べ始めた。

 乱暴にかじりつき、み砕いていく。

 気づいたときには、奴は食べ終えていた。

 体についた血液を、手でぬぐっている。

「うっ……」

 隊員のひとりが、あまりの気味悪さに吐いてしまった。

 それ以外の隊員も、滅入めいってしまっているようだ。

「遠距離から攻撃するしかあるまい」隊長は言った。「奴が食事を終え、動きが鈍くなった頃を見計らい、鉛玉を撃ち込むのだ」

「しかし」と一人が抗議した。「もしも仕留め損なったら……」

「余計なことは考えるな。全員で一斉に撃ち込めば、必ずひるむはず。づくのは早いぞ」

 とはいえ、その不気味な生き物によって、士気が下がっていたのは事実だった。

 キメラだろうか……。

 だが、それにしては挙動が狂いすぎている。

 メーゼを含めた全員が、次の行動を検討している間に……事態が動いてしまう。

 その生き物……ブーギマンは鼻をひくつかせ、しばらく静止したあと……突然、こちらに向かって駆けだしたのだ。

 隊員たちは崖の上にいた。距離も遠い。だから油断していた。

 ブーギマンは、断崖をものともせず、壁面を素早く登ってきた。まるで飛ぶような、軽やかな身のこなし……。

 唐突に接近してきたその怪物に、隊員たちは驚愕きょうがくした。

 まず、一番近くにいた男が、腕で殴りつけられた。

 そのまま側方へと吹っ飛ばされ、木に叩きつけられる。

 別の男は銃を撃って応戦したが、効き目が無かった。宙にほうり投げられ、そのまま崖下へと落ちていく。

 全員が剣を取り出した。

 メーゼは後方で「光の矢」を展開させていた。

 隊長が怒号をあげながら斬りかかる。

 しかし、その攻撃は弾かれた。

 奴の腕がグニャリと曲がったのだ。まるでゴムのように伸び、ねじ曲がり、弾力性を帯びながら、白刃の攻撃を受け流したのだ。

 奴の左手が隊長を捉え、頭を砕いた。

 絶命。

 他の隊員たちは、呆然ぼうぜんとしている。

「逃げなさい!」

 メーゼは呼び掛けた。

 そして、単身でブーギマンへと対峙たいじする。

 異様な眼差まなざし。

 黒い体表に、にごった瞳がくっついている。

 舌は長く、真っ赤に染まって、大きな口から垂れ下がっていた。

 さて、この人喰い怪物とどう戦う?

 特に計画はなかった。

 彼女はまず、光の矢を発射させる。

 奴はんだ、

 かわすように。

 いくつかの矢が突き刺さったが、あまりダメージを受けていない。

 木のみきを足掛かりにして、奴はメーゼのほうへと突進した。

 剣を取り出す。

 彼女は切っ先を直線上に向けた。

 そのまま狙いをつけ、不動の姿勢で待ち構える。

 眼前に迫るブーギマン。

 奴は到達直前に、その口を大きく開いた。

 牙が見える。

 そのままメーゼを千切ちぎるつもりだったらしい。

 動きは予測していた。

 彼女は腕をずらし、体をらせつつ、切っ先を口蓋こうがいへと叩き込んだ。

 剣がブーギマンの頭を貫く。

 ぐえっ、と声にならない叫びをあげたあと、怪物は力尽きた。

 しばらく蠕動ぜんどう運動……生命の残滓ざんしとして震えていたが、ゆっくり収まっていく。

 危険な戦闘だった。反射神経が悪かったら、上半身を失っていただろう。

 彼女は立ち上がって、異形を見下ろした。

 外側は硬かったが、内側もそうだとは限らない。だから、口の中を狙ったのである。

 それにしても、こいつは一体……。

 服についたほこりを払う。

 周りにはもう、隊員たちの姿は無かった。


 ☆


 彼女はその怪物をよく調べた。

 皮膚が異常に硬く、人工的だ。構成している細胞が特殊なのだろう。自然発生では起こり得ない体組成。

 また、奴が住処にしていた場所も発見した。

 洞窟どうくつであり、奥が深い。深奥しんおうのスペースには、人が入れるほどの、大きい、カプセルのようなものが置かれている。外側には機械が取り付いていたが、すでに壊れているようだった。

 誰かが、ここまで運んだのか……。あるいは、見つからないように隠しておいたのか。

 きっと、どこかの研究所から持ち出されたのだろう。いや、盗まれたという可能性のほうが、高いかもしれない。

 あの怪物は実験体であり、満足な知能を得られていなかった。不完全なまま製造された失敗作。

 人間だけを狙って食べていたのは、自分の身体を保つため……? 

 特殊な栄養摂取。つまり、それ以外の食事は、有効でない証拠。

 機械に書かれた「Prototype-4Ω」という文字列。

 やはり、これは人造人間だ。

 メーゼには見当がついていた。

 この計画に関わっていると思われる、彼女のことを……。





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【Pianist】


 とある街を訪れたメーゼ。

 そこは無人のようだった。

 人の気配はなく、静まり返っている。

 しかし……それにしては、やけに綺麗だった。

 計算されたように、整然とした配置。

 彼女は試しに、一つの民家をのぞき込んだ。

 秩序だって家具が並べられており、逆に生活感が感じられない。

 普通、長い期間開けられているのなら、もっと汚れていてもおかしくないのだけれど……。

 それに、通りに植えられている木々や花々も、手入れされているようだった。

 誰かがいる。

 しかし、それが何なのかが分からなかった。

 街自体が生きている……?

 そうした妄想が、頭の中に湧いてくる。

 スーパー、床屋、服屋、銀行、駅、時計塔、病院、薬局、学校、酒場、映画館、おもちゃ屋、交番、役所、ホテル、カジノ、書店、花屋、劇場、お菓子屋、郵便局……。

 街にあってしかるべき、と思われるような建物は、すべてそろっていた。


 街の中央まで来た。

 環状交差点になっていて、そこから道が放射状に伸びている。

 中央には噴水があった。天使たちの彫像が水瓶を持っていて、そこから水が流れ出ている。

 飛沫しぶきが舞っており、月光を受けて輝く。

 明かりはそれだけではない。

 ところどころ、街灯も付いていた。

 電気が供給されている……?

 そして、わずかに地響きが聞こえた。行進しているような……。

 数々の疑念が湧く。

 しかしその謎は、自力で解く必要もなかった。

 いつの間にかメーゼの周りを、何百体ものロボットが取り囲んでいたのだ。

 機械であるせいか、気配を感じ取れなかった。

 中には動物型や多脚型のロボットもいたが、ほとんどが人型ロボットであった。

 彼女は身構えた。私を捕らえるつもりだろうか……?

 しかし、そのロボットたちから、攻撃の意志を読み取ることはできなかった。武装したロボットもいるが、構えを解いていて……念のため武器をたずさえている、という様子であった。

 彼らのひとり……とても人間に近い、アンドロイドと思われるロボットが、メーゼのほうに歩み寄った。

 彼は両手を横に広げており、敵意がないことを示している。むしろ、歓迎しているようにも見えた。

「ようこそ、われわれの街へ」と彼は言った。「お客さんが来るのは、久し振りです」

「お客さん?」

「そうです。われわれは、どんな人でも歓迎いたします。そのかたが、敵対しないと思われる限りは」

 たぶん嘘はついていないのだろう。

 もし危害を加えるつもりなら、普通、わざわざ話し掛けたりしないからだ。

「それで、何の用?」

「貴女様を、演奏会にお招きしたいと思いまして……」

「演奏会?」

「ええ、よろしければ、ですが。お断りして頂いても構いません。こうして集団を作っていたのは、ホールへ向かう最中だったからです。週に一度、あの子の演奏を聞くのが、われわれの日課でして」

「あの子……? 誰かヒトがいるってこと?」

「詳しい話は、あとに致しましょう」ロボットは時計塔を見上げた。「開演まで、あまり時間がありません。さあ、一緒に行きましょう。きっと楽しめると思いますよ」


 ☆


 メーゼは彼らに付いていき、大きなホールへとたどり着いた。

 中に入り、通路を通って椅子に座る。

 二階建ての、かなり大きいホールだった。

 その広大な空間へと、ロボットたちが入場し、次々と席についていく。

 よどみなく、流れるような動作であり、短時間で着席が完了する。

 ロボットは、やはり数が多かった。

 街中の人型ロボットが、皆集まっているのかもしれない。満席ではなかったが、ずいぶんな数が埋まっている。

 いったいその演奏者とやらは、どんな人物なのだろうか?

 これだけの数のロボットをべる存在だ。只者ただものではないのだろう。

 もしかすると、統率者もまた、ロボットなのかもしれない。

 メーゼが想像をふくらませていると、ブザーが鳴り、照明が暗くなっていった。

 幕が上がる。

 ステージは静謐せいひつに輝いており、ひとつのグランドピアノが鎮座ちんざしていた。

 そして、ステージの端から、一人の人間が現れた。

 それは少女であった。

 十歳かそこらであろうか。

 白いワンピースを着ており、すそがひらひらと揺れている。

 黒髪が長く、ほおが少し赤い。華奢きゃしゃな体つきであり、どこかもろはかなげな印象を残す。

 そして、何より印象的だったのが、顔に巻きついた包帯だ。

 白い包帯が、ちょうど目を覆うように、横に巻きついていたのだ。

 後頭部で結ばれており、その包帯の端は、床すれすれまで垂れ下がっている。

 彼女は何も見えないはずなのに、迷わずピアノへと向かい、お辞儀じぎをしてから椅子に座った。

 姿勢正しく、丹精たんせい容貌ようぼう

 鍵盤けんばんのうえに指が置かれ、演奏が始まった。

 …………。

 不思議な光景だった。

 昔の演奏家は練習などのため、よく目隠しをして、ピアノやオルガンを弾いていたらしい。

 しかし、それにしても、彼女にはまったく迷いがなかった。

 視覚に頼らず、からだ全体をひとつのセンサーにして、周りの様子を読み取っているようだった。

 なめらかな指使いであり、音色は柔らかい。

 その曲名をメーゼは知らなかったが、こころよい気分になってきた。

 音符が弾け、宙を舞う。

 リラックスの海の中、彼女は思った。あの少女も魔法使いだろうか、と。

 感覚をませば……なんとなく魔力を持っているようにも思える。だが、それは微弱なものであり、少なくともこの距離では分かりそうもなかった。

 天使のようなその姿に見とれているうちに、演奏は終わってしまった。

 周りのロボットたちは、人間のように拍手はくしゅした。

 少女は立ち上がると、再びお辞儀し、ステージから退場する。幕が下がり、照明が戻った。

 

 ☆


「あの子は目が見えないのです」

 ロボットたちは言った。

「われわれは、住民亡きあとも、この街を守り続けてきました」

「そんなある日のことです。この街を、ひとりの女性が訪れました」

「彼女は弱り果てており、たどり着いたのが奇跡のようでした」

「女性は乳児を抱えていました」

「産まれてから、半年も経っていないようでした」

「われわれは女性を介抱かいほうしましたが、命の灯は消えかけておりました」

「彼女は、亡くなる前に言いました。『この子をお願いします』と」

「われわれはロボットです。ヒトの命令には逆らえません」

「その指令……遺言ゆいごんを守り、われわれは子どもを育てることに決めました」

「乳児は健やかでした。発育に支障はありませんでした……ある一点を除き」

「あの子は目が見えなかったのです」

「正確には、光に弱いと言うべきでしょうか。昼間は出歩くことができません。活動できるのは、このような夜の間だけ」

「瞳を痛めないように、いつも包帯を巻き付けていなければなりませんでした。そうでないと、激しく痛むようで」

 ――あの子は、自分の状況を理解しているの?

 メーゼはたずねた。

「いえ」

 ロボットたちは応えた。

「本当のことは教えていません」

「われわれのことを、自分と同じ人間だと思っているはずです」

「われわれ全員が、彼女の親なのです」

「適切な教育を施し、礼儀正しい人物に育てあげました」

「優しく、慈愛じあいの精神を持った……」

「また、あの子が望むことは、なるべく実現させようと試みました」

 ――親がたくさんいたら、混乱するのでは?

「いえ、あの子はそれが普通のことだと思っています」

「あの子が悲しまないための嘘……それは構わないと考えているのです」

 ――最後まで、嘘を貫き通すつもりなのですね。

「その通りです」

「仮に、母親が生きていたら、そのことを認めていただいたはずですから……」


 ☆


 メーゼは許可を取り、少女のもとを訪れることにした。

 部屋に入ると、ソファーに座っていた彼女が顔を上げた。

「だれ?」

 部屋は暗かった。

 照明は、オレンジ色の微弱な電灯と、蝋燭ろうそくの火。

「お客様です」執事に当たるロボットが応えた。

「今日の演奏会に来てくれた方ね!」少女は喜んでいるようだった。高く弾んだ声。「気に入ってくれたかしら?」

「とても綺麗な音色でした」メーゼは応えた。「何度も練習を?」

「はい。たいへんでしたが、先生が指導してくださったおかげで、うまくいきました」

「努力家なのね」

「いえ、そんなことは……」はにかむように頭をく。「ところで……少しお話を聞きましたが、お客さんは旅人なのですか?」

「ええ。長い間旅をしています。この街は、たまたま立ち寄って……」

「素敵ですね……」少女は言った。「わたしはこの通り、目が不自由で、ひとりでは満足に生活を送れません。パパたち、ママたちの助力で、何とかやってこれました。ですから、自分の力だけで、そうして生きてゆける姿が、とうとく思えます」

「いえ、私は決して、自力で生き延びたわけではない……ずっと昔は、私だって、様々な援助を受けることでしのいでいました。今の状況は、成り行きでそうなっただけ……」

 自分は、立派でも偉くもない。

 ただ、そうしなければならないと思ったから、そうなった。

 あるいは、いつの間にかそうなっていた。

 たったそれだけのこと……。

「それにしても」少女は言った。「こうしてあなたと巡り会えたのは、何かのえんですね」

「縁?」

「そうです。偶然に見えて、どこかで約束されていたような、他者との関わり合い。わたしは、そうした縁を持てて、嬉しいんです」

「…………」

「あの、余計な詮索せんさくかもしれませんが、もしかして、何か御用ごようがあって来たのですか?」

「え?」

「こうして、お客さんが直接、わたしのもとを訪れるのは、珍しいことなので」

「用事……たしかに、あるのかもしれない……」メーゼは曖昧あいまいな言い方をした。ロボットたちの視線を感じつつ。

 彼女は、とある考えを抱いていたのである。

「もしかしたらですが」メーゼは意を決して言った。「あなたの瞳を治せるかもしれません」


 ☆


「……つまり、私は魔法使いであり、その程度の病気なら簡単に治せます」

「…………」

「もちろん決めるのは貴女あなたです。……この能力を黙っていることも考えました。しかし、治せる力を持ちながら、それを隠しているのは、私の信念にそむく行為です。だからお伝えしました」

「突然、言われても……」

 少女は困惑しているようだった。

 幼い頃からずっとできなかったことが、突然可能になると言われても、実感が湧かないのは当然だろう。

 ロボットたちも、少女の未来を思えば、単純に反対できるものではなかった。

 メーゼは彼らに時間を与えた。

 そして三日後の夕方ごろ、治療を依頼されることになった。

 暗室で、メーゼは宝石を取り出した。魔力を高めつつ、手のひらを少女のまぶたにのせた。

 呪文を唱え、青い霊気を現出させる。

 光のまくが揺らめき、あふれたかと思うと……それは掻き消えた。

 部屋に明かりを灯す。

 少女はゆっくり瞳を開いた。

 初めは、何が何だか分からないようで、しばらく周囲を見回していたが……ロボットたちやメーゼの姿を認め、少女は微笑ほほえんだ。

 もう、包帯ほうたいは必要ない。

 んだ双眸そうぼうからは、涙がこぼれ落ちていた。

 

 ☆


「ねえ、もしも……生みの親がいるとしたら、彼らを探したい?」

「いいえ」少女は首を振った。「わたしにとっては、あのロボットたちが、大切な家族なの。ヒトであるかどうかなんて、関係ない……大した問題じゃない。パパやママたちとずっと一緒にいられたら、それで良いんです」

 何も応えず、メーゼはうなずいた。


 ☆


「われわれも、いつかはここを離れなければなりません」ロボットは言った。「この街のエネルギーも、そのうち尽きるでしょう。ですからその前に、できるかぎりの荷物を持って、新天地を目指す必要があります」

てはあるの?」

「わかりません。せめて、あの子が大きくなるまでは、持ちこたえて貰いたいものですが」

「きっと、大丈夫だと思う。あの子には、耐え抜くだけの英気がある。何とかなると、私は信じたい……」

 空が明るくなり始め、東の地平線が白む。

 街の建物がシルエットをつくり、その上空を鳥たちが滑空していた。





------------------------------



【Reminiscence】


 遠い昔のことだ。

 メーゼはまだ幼かった。

 仲間たちを殺され、独りになった彼女は、廃棄都市の中を彷徨さまよい歩いていた。

 彼女は不老体質であるため、歳を取ることはない。

 しかし、食事でも魔力でも、何らかのエネルギーを取らなければ、いずれはち果ててしまう……消滅するのは確実だった。

 体力も気力も底をついた。

 彼女は崩れた廃墟はいきょの上で座り込んだ。

 そのまま、横になる。

 真っ白な世界……。

 空からは雪が降っていて、辺りに積もっていた。

 空も地面も建物も、何もかもが白い。

 色を喪失そうしつしたようだ。

 冷たかった。

 眠たかった。

 そして、何より寂しかった。

 こごえるような大気のなか、彼女が身につけていたのは、体を覆う襤褸衣ぼろぎぬだけだった。元々は綺麗なローブだったが、もはやそれは残滓ざんしであった。

 体の震えも徐々に収まってくる。

 自分はここで、誰にも記憶されることなく、孤独に死んでいくのだ。

 壊れて、動かなくなった身体。

 恐怖は麻痺まひし、感覚は摩耗まもうしている。

 何も考えたくなかった。考えられなかった。

 目をつぶり、静かに意識が消えるのを待った。


 ☆


 気がつくと、彼女はベッドの中にいた。

 暖かな衣類に包まれており、具合も良かった。

 腕からはチューブが伸びている。その先には袋があって、液体が入っていた。点滴てんてきのようだ。

「…………」

 何も言わず、周囲を見回す。

 近くでは火が燃えている。

 それは暖炉だんろの火であった。まきがパチパチと音を鳴らす。

「大丈夫か?」

 低い声がした。

 初老の男が椅子に座っていた。

 灰色の髪とひげが特徴の、手脚の長い人物。顔の彫りが深く、彫刻を思わせる。

 茶色のコートを着ていて、白い手袋をはめていた。

「資材集めに都市へと寄ったのだが、まさか、人が寝ているとはな……驚いたよ。ほそっておったし、目も覚めぬから、点滴をつけておいた」

「ここはどこ?」

「廃墟のひとつだ。民家のようだが……あまり崩れていなかったのでな。基地まで運ぶのは大変なので、ここに寝かせた」

「頭が……痛い……」メーゼはつぶやいた。

「しばらく休んでいると良い。この辺りは危険がないようだ。わしは資材集めで、また外に出る。何かあったら、トランシーバーで連絡してくれ」

 彼はそう言うと、部屋から出て行った。

 テーブルのうえには、果物とミルクが置かれている。腹が減ったらそれを食べろということらしい。

 頭痛が収まるまで休んでから、それらを食べた。やけに美味しく感じられた。


 ☆


『待ってください、エルダー。この高度では自信がありません』

『自分を信じるのだ。いざという時は、脱出すれば良い。パラシュートで降下できる』

『でも機体は……』

 無線は既に切られていた。

 メーゼは諦め、指示に従うことにした。

 高度を下げていき、それから、目印にした塔の上を通過したあと、一気に上昇した。

 ほぼ垂直に、空を駆けのぼる。

 重力が体を締め付けるようだった。

 そして今度は反転し、そのまま落下するように降下した。

 ツバメが滑空するように、機体をスライドさせていき、それから体勢を安定させる。

 前方にはバルーンがあった。それは練習前に取り付けておいたものだ。

 機銃で掃射。

 破裂するバルーン。

 中から紙吹雪が舞う。

 その近くを通過し、第二、第三のバルーンにも弾を飛ばす。

 命中。

 炸裂さくれつ

 発砲音とエンジン音は、心地よく風切り音に混じり合った。

 残りは第四のバルーンだけ。

 左に旋回せんかいしつつ、標的を狙った。

 トリガーを引く。

 しかし、偏差射撃へんさしゃげきむなしく、弾丸はれていき、背後のビルへと当たった。

 上方に離脱りだつし、そのまま基地へと帰投きとうする。

 ゆっくり降下していき、着陸した。

 操縦桿そうじゅうかんを離し、手袋を脱いだ。

 キャノピーを開いて外に出る。

 タラップは使わず、直接、翼から飛び降りた。

 滑走路のアスファルトから空を見上げると、別の戦闘機が降りてくるところだった。エルダーの機体である。

 地上の風に乱されることなく、悠々ゆうゆうと着陸した。

 メーゼは梯子はしごを持っていって、彼の機体に立て掛けた。

 彼はコックピットから降りてくると、ヘルメットを外した。

「いくつ落とした?」

「三つ。最後のは外しました」

「そうか」彼はうなずいた。「楽しかっただろう?」

「いえ、やはり私には面白さが分かりません。何を好んで、こんなことをしなくてはならないのか」

「遊びというものはだな、危険を伴うからこそ、面白いのだ」彼は顎髭あごひげでた。「スリルがあるから、喜びも増す。安全な状態は、死んでいるのと同義どうぎだ」

 彼はそう言うと、ポケットからウイスキーを取り出し、喉をうるおしながら建物へと歩いていった。


 ☆


 彼は名前を教えてくれなかった。

 とはいえ、何らかの呼称こしょうがないと、いろいろ不便ふべんである。

 そのためメーゼは、彼を「エルダー」と呼ぶことにした。それは年長者という意味であった。


 ☆


 エルダーは奇妙な人物だった。

 と言っても、その奇妙さをどう表したら良いものか、とても難しい。

 一日に三回シャワーを浴びるとか、フライトのあと必ずお酒を飲むとか、犬猫合わせて二十匹飼っているとか、基本的に菜食主義であり、自家農園で野菜を作っているとか、毎日哲学書を読みふけっているとか……。

 変わり者でありながら、実力と叡智えいちがあった。

 魔法のような、特別な能力があるわけではない。

 だが、彼の飄々ひょうひょうとした生き方や、独特の超然ちょうぜんとした雰囲気に、あこがれを抱いてしまった。

 自分と異なっているからこそ、かれてしまったのだろう。

 生活に充足感を抱くことができた。

 長い間同じ土地で暮らしたのも、それまでの人生では珍しい経験だった。

 普段は、戦闘機を整備したり、周辺地域を監視したり、魔術を磨いたり、料理を作ったり、勉強したり、洗濯したり……とにかくやることでいっぱいだった。

 もちろん、いつも平穏なわけではない。

 時には、基地を奪おうとする敵の襲来もあった。

 その際は、遠隔操作のロボットで倒すか、戦闘機に乗り込み、機銃を掃射しつつ撃滅げきめつするかのどちらかだった。

 バルーンで練習を積んだせいか、対処は簡単だった。

 狙って撃って離脱する。

 それを繰り返しているうち、終いに敵は全滅する。

 幸いなことに、基地が辺境にあるせいか、軍隊のような大規模な集団が攻めてくることもなかった。


 基地には様々な乗り物があった。

 飛行機だけでなく、自動車、バイク、ヘリコプター、モーターボートなど……。

 それらの運転もエルダーから習い、楽に乗りこなせるようになった。

 操縦が上達する際の心地良さには、形容できない満足感がある。自らの内側に成長を覚え、別のものへと変化していく感覚。

 より大きな肉体を操作し、支配しているような……。

 しかし、いろいろ教えてくれる割には、彼は乗り物に執着が無いようであった。

 あるときは「わしにはこのほうが向いている」とつぶやきながら、なえに水を与えていた。

 彼が愛用していた本に、メーゼがコーヒーをこぼしてしまった時も、まったくあわてていなかった。

 怒ることもなかったが、笑うこともなかった。

「わしには趣味がない」と言うのが、エルダーの口癖だった。

 メーゼは尋ねた。「それなら何故、様々な活動に取り組んでいるのですか?」

「単なる暇つぶしだよ」彼は即答した。「時には楽しさも感じられる。だが、それらを趣味と呼べるほど、満喫できてはおらぬ」

「戦闘機も、読書も?」

「そうだ。楽しいという感情は、錯覚のようなもの。それを感じた次の瞬間には、もう消え去っている」

 迷いもよどみもない受け答えであった。

 即興そっきょうつむぎ出される演奏のように。

 彼の発言することは、体系的に捉えれば、矛盾だらけだったかもしれない。

 しかし、その時その時で妙に納得できることを、彼は口にするのであった。


 ☆


 基地での生活が、ずっと続いたわけではなかった。

 燃料が底をついたのである。

「もう、ここも終わりだな」エルダーは呑気のんきに言った。「さあ、別の場所を見つけるとしよう」

 それは突然のことで、メーゼは少し気後きおくれしていた。

 長年、基地において、不自由なく過ごしてきた。

 旅に出るということは、苛酷かこくなことだ。

 理屈では、出発の必要性を感じていたが、幾許いくばくかの恐怖があった。

 しかしエルダーは、そうした不安を一切見せなかった。

 それどころか、余裕そうに、落ち着いて煙草を吸っている。

「何が怖いのだ?」彼は訊いた。

「未知なることが、怖いんです。エルダーは不安は無いのですか? 基地に未練もないのでしょうか?」

「未知なることは、良いものだ。予想できない未来だからこそ、学びを得られる。不安もまた、喜びと同じようにまぼろしだ。感情は反射的なものだよ。基地に未練はない。むしろ、飽きていたところだ」

 彼は息を吐く。

 紫煙しえん幾何学模様きかがくもようを描き、空間に溶けた。


 ☆


 放浪生活は、思ったより労苦が少なかった。

 様々な村や町を転々とした。

 立ち寄った場所で仕事を見つけ、その都度つどお金を稼ぎ、安い宿に泊まる。

 あらゆる仕事を体験した。

 農場や牧場を手伝ったり、工場で働いたり、商売の手伝いをしたり、配達の業務をおこなったり……。

 時には不当な方法で荒稼ぎすることもあった。

 エルダーはイカサマが得意だった。賭博場で、まるで相手の手の内を見透かすように次々と勝っていき、賞金をかっさらっていった。

 稼ぎ過ぎた場合は、なるべく早くにその町を離れ、禍根かこんを残さないよう気をつける。

 また、賞金稼ぎの仕事を初めておこなったのも、この頃だった。

「空気を感じ、気配を摑むのだ。そして相手を見つけたら、躊躇ためらわずに撃て」

「何かコツはありますか?」

「撃たれる前に撃つ。それだけだ」


 ☆


 野宿することもしばしばあった。

 その日は、川のほとりにキャンプを張り、そこで一夜を過ごすことになった。

 食糧はあったが、少ない。

 エルダーは竿ざおを使い、魚を捕っていた。

 長い時間、視線を動かさないまま浮きを見つめ、わずかな振動に反射し、竿を引く。

 魚は次々にれた。

 メーゼも真似してやってみたが、一向に釣れないため、飽きてやめてしまった。

「釣りというのは、糸を垂らす前に勝負が決まっている。流れを見極め、適切な場所にえさを置く。後は待つだけの簡単な遊戯ゆうぎだ」

 彼はそう言うと道具をしまった。

 で魚をあぶり、塩をつけて食べた。

 何の魚かは知らなかったが、とても美味しい。

 ずっとこんな生活が続けば良いのに……。

 このまま世界を旅して、いろいろな場所を巡っていたら、仲間たちにも再会できるかもしれない。

 そしたらエルダーを、彼らに紹介するんだ。

 彼女の心には、ほのかな希望があった。


 ☆


 平穏な日々は唐突に終わった。

 エルダーが地雷を踏み、脚を失ったのである。

 二人は街から逃げ出している最中だった。

 街中での戦闘をさっし、いち早く抜け出してきたのだが、その道中、地雷を踏んでしまったのである。

 街はすでに火の海だった。

 軍隊が入り乱れ、激しい戦闘をおこなっているようだ。間断なく、発砲音や爆撃音が、ここまでも響いてくる。

 エルダーは怪我をしていたが、病院へ連れて行くことも、その場で休ませることもできなかった。

 もっと離れないと、巻き込まれてしまうだろう。

 メーゼは彼を背負い、黙々と進んでいった。

 荒野を歩き、岩山まで辿たどり着く。

 岩に囲まれた窪地くぼちまで来て、彼を降ろした。

 応急手当はしていたが、包帯は真っ赤に染まっている。

「ここも、避難してくる人々で、いっぱいになるだろう……。あるいは、敵兵が捜索に来るか」エルダーは言った。「もっと遠くまで離れねばならぬ」

 彼は青ざめており、生気を失っていた。

 傷口を堅く縛っていたが、止血には不充分だった。

 これ以上、無理に動かしたら、余計容態が悪化するのは目に見えている。

 メーゼは座り込んだ。

 仰向あおむけになったエルダーの顔が動く。

「何をしている?」

「無理です……。せめて、誰かが来るのを待ちましょう」

「誰かが来て、それでどうする。わしはもう駄目だ。お前も分かっているのだろう?」

「分かりません」メーゼは応えた。「私は一体、どうすれば……」

「逃げるのだ」エルダーは言った。「この荒野を抜ければ、森がある。そこまで行けば、隠れられるだろう」

「あなたを置いていけと?」

「そうだ」

「…………」

「何を迷っている?」

「怖いんです。このまま立ち去って……もう二度と、会えないのが……」彼に拾われる以前を思い出しながら、メーゼは言った。

「お前はもう、ひとりで生きていける。そのための知識はたくわえたはずだ。何も問題はない」

「でも……」

「孤独が怖いのか?」するどい瞳で彼は訊いた。

「…………はい」

「人は皆、孤独だ。例外はない……生まれるときも、死ぬときも。そして、この世で得た全てのものは、失われる運命にある。失うことを恐れるな。過去を忘却ぼうきゃくするのだ」

 しかし、メーゼは動くことができなかった。

 すぐに割り切れるはずもない。

 彼の視線に抵抗するように、じっとしていた。

「メーゼ」それまでとは異なる口調で、エルダーは言った。「ひとつお願いがある」

 彼は首からげていた、銀色のペンダントを外し、彼女に渡した。「それを届けて欲しい。座標ざひょうは、Eの731……そう遠くない場所だ」

 メーゼは戸惑とまどいつつ、ペンダントを見つめる。

 軽い金属でできていて、普段からみがかれているようだった。

「頼まれてくれるな?」

 エルダーは念を押すように言う。

 そのようにお願いされては、断れるはずもなく……。

 彼女はペンダントをにぎりしめ、それからうなずいた。

「さあ、くのだ。手遅れにならぬうちに」

 彼の声にかされ、メーゼは岩山を降りていった。


 ☆


 その座標は、砂漠の真ん中であった。

 近くには何もない。

 流砂が風で動いているだけで、見渡す限り、虚無が広がっている。

 彼は咄嗟とっさに、デタラメな座標を口にしたのだと、メーゼは悟った。


 ☆

 

 数年後、あの岩山を訪れてみた。

 その窪地くぼちには、たくさんの骸骨がいこつが転がっていた。

 逃げてきた民間人を、敵の兵士が虐殺したのだろう。

 エルダーの遺骨がどれであるか、見分けが付かなかった。

 メーゼは無言で、その骸骨たちを集め、穴を掘って埋葬した。

 かつての街は黒焦げになり、完全な廃墟と化している。

 誰も居ない公園。

 ブランコに座り、彼女はゆっくりいだ。

 崩壊したビルの隙間から、月が静かにかおのぞかせていた。





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【Moongazer】


 砂漠をひとりの少女が歩いている。

 体中のいたるところに包帯を巻いていた。地肌が見えるところは、ほとんどない。

 三角帽子をかぶっており、ローブを着用している。

 ふらふらしていて、杖をつきながら、なんとか前に進んでいた。

 しかし、もう限界のようだ。

 音もなく、その場に倒れる。

 うつ伏せのまま動かなくなった。

 風が砂を運び、彼女は徐々に埋もれていく……。


 ☆


 目が覚めるとベッドの中に居た。

 白い部屋に、白いカーテン。

 そこは病室のようであった。

 彼女は体を起こし、そのまま歩き出そうとした。

 しかし、脚がうまく動かない。

 足がもつれ、床に倒れてしまう。

 彼女の様子に気付いたのか、看護師が慌ててやって来る。

「大丈夫?」

「ここは……?」

「まだ、安静にしていて。とても歩けるような状況じゃないわ」

 彼女はベッドに寝かされた。

 そして何日も経過する。

 食事を定期的に与えられ、休養を取っているうちに、彼女は体力を回復していった。

 巻いていたはずの包帯は、すでに取り払われている。

 言葉も次第しだいに喋れるようになってきた。

 入院した最初のうちは、口も充分に動かせなかったのだ。

 ある時、名前を訊かれた。

「メーゼ」と彼女は応えた。


 ☆


 まだ脚は動かせなかったが、手や腕の感覚は戻ってきた。

 車椅子で、メーゼは病院を探索することにした。

 五階建てで、部屋数は多い。

 しかし、患者は多くないようで、空室も目立っていた。

 屋上まで行き、見晴らしの良い場所から、景色を眺めた。

 まず目にまったのは、大きな白い塔。

 天までそびえ立つような、巨大な塔であり、そこから同心円状に建物が並んでいる。

 街はかなり広かったが、一番端の建物の向こうに、砂漠が見えた。

 屋上を一周しつつ風景を見て、街が砂漠の真ん中にあることが確かめられた。

 砂漠の中に位置しているというのに、街の内部には緑が目立っている。

 様々な種類の植物が生えていたのだ。

 どうやら、地下水をみ出す施設によって、街の隅々まで水が提供されているようだった。

 メーゼは悟った。

 ここが、ずっと探していた目的地であることを……。


 ☆


 リハビリを終え、メーゼは歩けるようになった。

 そして退院したあと、倒れていた彼女を発見した人物のもとを訪れた。

「きみは砂漠で倒れていたんだ」男は言った。「てっきり、死んでいるかと思ったよ。ほとんど砂に埋もれていて、危うく見逃しそうだったけど」

 メーゼはお礼を言って、それから質問した。

「ここは、どこでしょうか?」

「どこ?」男は訊き返した。「ここはここだよ。『街』であり、それ以上でもそれ以下でもない。きみは『外世界』で遭難そうなんしたんだろう?」

 メーゼは何も応えなかった。

 そして確信を深める。

 彼の発言は、「この街が外界との接触を何百年も試みていない」ということを、明確に示していたからだ。

 メーゼは男の所を離れ、噴水近くのベンチに座った。

 所持品は病院で保管されていた。

 無くなったものはない。

 杖もローブも、元通り返却された。

 彼女はカバンから色褪いろあせた写真を取り出し、周囲の景観けいかんと比較した。

 確認が済むと、今度は塔のほうに歩いていく。

 塔は巨大で、桁外けたはずれだった。

 白くまっすぐな柱が、空に向かって伸びている。

 ここからだと頂点は見えない。

 蒼穹そうきゅうの向こう側へつながっているように錯覚する。

 しばらく歩き、やっと到着した。

 近寄って、壁面に触る。

 周囲を回るだけでも時間が掛かる。

 一周するうちに、扉を見つけた。

 押しても引っ張っても微動だにしない。鍵穴だけがついている。

 塔の近くには、地下への階段があった。

 そこを降りると地下道があり、少し進むと、大きな空間が現れた。

 ちょうど、塔の真下だ。

 かなりの深さまで掘られていて、大小さまざまなパイプが、無数に伸びていた。

 その管は放射状に広がり、壁の中へと差し込まれている。

 その様子は、根が四方へと伸びているようだった。

 しかし、その役割は、根とは〝逆〟なのだろう。

 吸収ではなく、供給。

 そのために、塔は存在するのだ。


 ☆


 地上に戻り、彼女は次の行動に移った。

 メーゼはこの街の管理者に会う必要があった。

 つまり、街を統制する、一番偉い存在だ。

 街の人々に話を聞くと、どうやら中央管理局に「チーフ」と呼ばれる存在がいるらしい。

 メーゼを病院に入れるよう判断した責任者も、そのチーフであるとのことだった。

 彼女は管理局に向かった。

 その場では許可は降りなかったが、至急の用件があることを伝え、それからしばらく待つことにした。

 図書室で本を読みながら、お茶をすすり、暇を潰す。

 そして数時間が経った頃、面会が許可されたとの報告を受けた。

 武装兵たちに囲まれながら、階段を登っていく。

 両開きの扉を二つ越え、入った先は、白い円形の広い空間であった。

 室内でありながら開放的だ。明るく、柱がほとんどない。

 物々しい椅子に、老人が座っている。

 かなりの高齢であり、覇気はきを感じられなかったが、瞳が青く輝いていた。司祭しさいのような格好をしており、神聖な雰囲気をかもし出している。

「何の用かな?」チーフは問うた。

「伝えたいことがあって来ました」メーゼは応える。「この街は、大きな脅威にさらされています」

「そなたは、『外世界』から来たのであったな。その事との関係かな?」

「その通りです……ところで、あなたも魔法使いですね」

「……うむ、いかにも。街に結界を張ったのは、わしの先祖じゃ。わしはその結界を、管理し続けている。以来、この街には平和がたもたれている。わしが許可した者以外は、絶対に入ることができない」穏やかな声で、チーフは言った。

「今までは、そうだったのかもしれません」彼女はうなずいた。「しかし、今回は違うのです」

「違う?」

「もう、あなたならお気づきかもしれませんが、この領域を除いて、人類は皆、死に絶えてしまいました。エネルギーが尽き、そのうえ『彼女』の侵攻があったのです」メーゼは一息ひといきついてから、言葉を継いだ。「ルーシーという人物に、聞き覚えは?」

「数千年前に実在したと言われている、魔法使いのことだろう? しかしそれは神話の人物だ。まさか、その存在が攻めてくるとでも?」

「似たようなものです。『彼女』は〝ルーシーの複製体〟なのです。つまり、この街の結界など簡単に破れるほどの、莫大ばくだいな力を保持しています」

 チーフは溜息ためいきをついた。「仮に、その話が本当だとしても……わしにできることは何もないだろう……。別に、疑いたいわけではない。だが、実際問題、わしには街を管理する程度の力しかないのだよ。結界だって、塔のエネルギーに依存しているのだ」彼は目をつぶり、眉間みけんしわを寄せた。「そうか……つまり、その敵は、塔のエネルギーを狙っているのか」

「まさにそうです。彼女……エメラルダは、塔を狙っているんです。塔を失えば、エネルギーが尽き、結界はなくなり、水も供給できないでしょう。人類に、本当の終焉しゅうえんが訪れます」

「ふーむ、するとエメラルダは、何を目的にしているのだ?」

「彼女は、既存の生命体を葬り去ろうとしています」メーゼは言った。「つまり、今の人類を滅ぼして、〝新たな人類〟を生み出そうと計画している……。『NEO-SEEDネオシード』と呼ばれる人造人間……その製造には、塔のエネルギーが必要なのです」

 メーゼはそのあとも、エメラルダについての情報を、彼に話し続けた。

 これまでの遍歴へんれきから、自分の出生に関わることまで、知っていることは全部打ち明けた。

 チーフは深刻な表情で、内容に耳を傾けていた。

「話は分かった」彼は言った。「それで、我々はどうすれば良い?」

「戦うのです」メーゼは言った。「街中の、戦える人間を集め、できるかぎり敵を殲滅せんめつするしかありません」

「しかし、魔法を使える人間は、わしを除いて誰もいない……そんな相手に、刃向かえるのかな?」

「銃や剣でも戦えます」メーゼはりんとして応えた。「彼女は『影虚えいきょ』と呼ばれる幻影兵を引き連れていますが、一体一体は、近代的な武器でも撃退させることができる、凶暴な動物のようなもの。そして、私が『影虚』に邪魔されない状態を、街の皆さんでつくって頂きたいのです。その間に、塔を狙おうとするエメラルダを、私が一人で迎え撃ちます」

「……メーゼよ、おぬしは本当に、そのエメラルダとやらを倒せるのか?」

「私はそのために、これまで旅を続けてきました。絶対に、負けるわけにはいかない。準備は万全です」

「でも、幼い頃、共に過ごした姉妹なのであろう? 説得は無理なのかな?」

「それができたら、苦労しません」

「……すまない。余計なことを訊いてしまった」チーフは立ち上がった。「分かった。これから緊急の集会を開き、街の人々に伝えよう。いつ、敵が攻めてきても、対処できるように……」


 ☆


 人々は召集しょうしゅうされ、戦いの訓練が開始された。

 メーゼは彼らを指導したが、なかなか上手くは進まなかった。

 彼らは生まれたときからこの街に住み、平和な時を過ごしてきたのだ。脅威が迫ると言われても、ピンとこない者がほとんどだった。

 とはいえ彼らも、敗北が死に繋がることは理解しているようで、真剣に取り組もうと心掛けていた。


 ☆


 夕暮れの中、二人の男女がベンチに座り、会話をしている。

「もうすぐ、敵が攻めてくるんだとさ」

「わたしたち、本当に勝てるのかしら」

「さあ、俺には分からないね。チーフや、メーゼとかいう女の子が、倒してくれるんじゃないか?」

「本当に戦争になれば、犠牲者が出る。おとなしく降伏して、エネルギーを譲ったほうが良いんじゃないかしら?」

「駄目だよ。それだとすぐに野垂れ死んじゃうさ。水が飲めなくなるからな」

「でも……人類は、滅びるべきかもしれない」

「どうしてだい?」

「だって、人類は不完全だから、いままで何度も戦争を繰り返して……文明が崩壊し、滅亡寸前になっているわけでしょう。根本原因は、わたしたちの側にある。それだったら、より完全な新人類に、地球の未来をたくしたほうが、はるかに合理的に思えるわ」

「きみは、敵を支持するのかい?」

「ううん……。ただ、わたしたちって本当に、このままで良いのかしら……?」

 そうした会話は、様々な場所、様々な家庭でおこなわれていた。

 住民たちは歴史を学んでいたし、人類の不完全性についても熟知じゅくちしていた。

 その不完全性から逃れるための、小規模な共同体こそが『街』であったからだ。

 外世界での絶滅についても、大きな波紋を呼んだ。

 様々な想いが、彼らを駆け巡る。

 だが、複雑な心境を抱えつつも、各人は訓練にはげんだ。

 その理由は、子どもたちにあった。

 大人たち自身は、もう、それなりに生きてきたから、戦いに負けてしまっても諦めがつく。

 しかし、子どもたちまで危険にさらされているならば、抵抗しないわけにはいかない。

 順調ではなかったが、彼らは徐々に強くなっていった。


 ☆


 訓練がないときには、メーゼは街の仕事を手伝った。

 街での生活は、平和な日常そのものだった。

 規則正しく時間が過ぎ、鐘の音とともに区切りがつく。

 全員が、何らかの仕事に従事していて、その内容は手軽なものだった。

 格差や貧困などの問題は、もちろんなかった。小さな共同体だからこそ、家族のように助け合う精神が、はぐくまれていたのである。

 農作業をしたのは久し振りだった。

 土をならしたり、芽を植えたり、水をやったり……。穏やかで地道な作業が、かえって新鮮に感じられる。

 徐々に育ち、実をつけ、収穫されたあとは枯れていく。その循環の一端を、確かな形でになう。

 時は過ぎていく。

 時間の流れが、外とは異なるように感じられた。

 人々も、どこか機械的に見える。

 話しかけると答えてくれる。

 しかしそれは、ただの反射に思えてしまう。

 子供たちは違った。彼らはまだ、可能態デュナミスとしての伸びしろを持っていた。

 彼らと遊ぶこともあった。彼らはメーゼを、同じ子供だと思っているようだ。

 ボールを使った単純な遊戯だったが、彼女にとっての息抜きにもなった。

 独りでいるときは、街を散歩した。

 結界の内側を、黙々と歩き続ける。

 薄く輝くヴェールの向こうには、砂漠が広がっている。

 まくの外に出て、振り返ると、そこには何もない。

 不可視の街にふさわしい、消失具合であった。


 ☆


 ある日、街の外で監視にあたっていた住人たちが、怪我をして帰ってきた。

 彼らは十数人で出かけたのだが、帰ってきたのは三人だった。

 そのうちの一人は怪我を負っている。

「黒い影のような生き物に、突然襲われたんだ」彼らの一人は言った。「そいつらは形を変えながら、次々に仲間を呑み込んでいった。俺たちは銃で応戦したが、数が多くて……慌てて逃げ帰ってきたんだ」

「それはきっと、『影虚えいきょ』のはず……奴らの斥候せっこうに遭遇したのね」メーゼは言った。「エメラルダもこれで、私達の居場所について、おおよそのところはつかんだはず」

「つまり……?」

「戦いは近い。すぐに戦闘態勢に入りましょう」

 部隊が編成され、それぞれの区画に、兵士が配置されることになった。

 子供や老人は、地下の避難所に退避させた。

 メーゼや、街のおさであるチーフは、塔周囲の中央広場で、そのときが来るのを待ち構えていた。

 いつもは夜でも輝きを放っていたこの街が、今日は暗い。

 星々が、嘘みたいに綺麗だった。

 雲ひとつなく、空気は澄み切っている。

 東の空からは満月が昇っていた。

 メーゼは月を見つめる。

 今まで、長い時を生きてきた。

 様々な出来事があって、様々な思い出が過ぎ去っていった。

 あらゆるものが変化し、多くのものを失ってしまった。

 でも……少なくとも月だけは、ずっと昔から変わらないまま、この世界を照らし続けている。

 きっと月の世界では、すべてが凍り付いていて、何もかもが永遠なのだろう。

 時間も空間も超越し、たとえ世界が終わっても、わたしたちのことを覚え続ける。

 それは何の根拠も持たない、虚構であり、妄想なのかもしれない。

 けれど、たとえ個人的な願望に過ぎないのだとしても……それは彼女にとって、夢を見させてくれる幻想として、静かに形成された観念なのであった。

 何の音も聞こえない。

 深淵しんえんを思わせる静寂せいじゃくちている。

 そして、意識が暗黒へと呑み込まれそうな真夜中、結界に亀裂きれつが入った。

 それは唐突だった。

 ガラスが弾けるような音が街全体に響き、それから影虚たちが、街の中へと侵入してきた。

 兵士たちは応戦した。

 剣や銃、槍や斧、各自が手慣れた武器を使い、化け物たちと相対する。

 影虚の数は尋常ではなかった。

 そして、不気味な異形をしていた。

 大きさはヒトと同じくらいであったが、ありの大群のように、それらは雪崩なだれ込んできた。

 戦況は五分五分であった。

 影虚はあくまで、動物のようなものであり、知能が高いわけではない。近くの生命体に反応し、襲い掛かるようになっている。

 不意を打たれたら致命的だが、武装して準備すれば、立ち向かえないわけではない。

 住民たちは訓練のかいもあって、押されながらも、何とか撃滅げきめつしているようだった。

 メーゼは、その戦いには加わらなかった。

 固唾かたずを呑んで見守る。

 彼女はできるだけ、魔力を温存する必要があったのだ。

 足元の袋には、今まで集めた大量の宝石が入っている。

 これだけあっても、不安には変わりない。

 おそらくエメラルダは、人のエネルギーを吸収している。だから宝石に頼らずとも、力を発揮することができるのだろう。

 目をつぶり、精神を集中させた。

 その時を待つ……。

 こちらが疲弊ひへいした頃、彼女は現れるはずだ。


 ☆


 乱戦が続き、人間も影虚も、その数を減らしていった。

 兵士たちが倒しそびれた影虚が、何十体か中央広場まで入り込んできたが、それらはチーフが撃退した。

 そして、夜が一層、その闇を濃くし始めたころ……広場の奥に、光の柱が現れた。

 まばゆい閃光。

 そこから、一人の少女が出てくる。

 金色の長い髪に、華奢きゃしゃからだ

 それはメーゼとそっくりの容貌ようぼうをしていた。

 質素しっそな灰色の服を着ていて、何も持っていない。

 彼女は辺りを見回し、メーゼの姿を認めると、静かな足取りで歩いてきた。

 チーフは攻撃しようと試みたが、それをメーゼは制止する。

 彼に、避難所を守るよう頼んだあと、メーゼは再び相手を見据えた。

 二人は、少し距離を置いて対峙たいじする。

 それは、姉妹というより双子であった。

 服装と所持品を別にすれば、見た目に違いはない。

 たった一点異なっているのは、瞳の色だ。

 彼女……エメラルダの瞳は緑色で、美しく輝いている。

 表情は心なしか、明るいものに思えた。

 一方メーゼは真剣な眼差しで、相手を見つめ返している。

「お久し振りですね」エメラルダは言った。「こうして直接顔を合わせるのは、いつ以来でしょうか」

 敵意すらも感じさせない、落ち着いた声。

 声色は、メーゼと変わらない。

「ここまで来るのも大変でした。結界を破るために、力を蓄えなければなりませんでしたから」

「お喋りをするつもりはない」メーゼは口を開いた。

「いえ、私にはあるのです」悲しげな表情を、エメラルダは浮かべた。「手遅れになる前に、お話ししましょう。お願いです……降伏してください。わたしも、あなたとは戦いたくありません。それに、このまま戦闘が長引けば、住民の多くが犠牲となるでしょう」

「それなら、今すぐ影虚を消しなさい」

「『クリスタル』を渡してくれたら、今すぐにでも、わたしはここを立ち去ります」

「あなたは、塔のエネルギーを持ち去ろうとしている。それを、認めるわけにはいかない」

「姉様、あなたも分かっているのでしょう? エネルギーは無限ではありません。いつかはここも、滅びてしまいます。要するに、早いか遅いかの違いだけ……。地球上に生命体を存続させたいのなら、できるだけ早く、『新人類』の製造に入らなければならない……これは至急を要することなのです」

「でも、あなたはそれで、ここの人々を犠牲にしようとしている」

「わずかな犠牲は仕方ありません。姉様、これは我々の使命なのです。今の人類は不完全であり、仮にエネルギーが増えたとしても……無造作に際限なく子を増やし、格差や貧困を生み出して、争いを繰り返します。もしもこのまま放置すれば、『ヒト』そのものが、地球から、永遠に滅び去ってしまいます。わたしはなんとか、それを食い止めたいのです」

「確かにあなたは、合理的かもしれない」メーゼはうなずいた。「この星は枯渇して、死に掛けている。『ヒト』を存続させるための唯一の道は、調和に満ちた、完全な生命体を造り上げること……」

「そこまで分かっているのなら、どうして」

「……それでも私は、あなたのやり方を認めることができない。少数の犠牲の上に成り立つ未来なんて、あってはならない。それは、私の考える正義ではない」

「でも、それ以外に方法がないのですよ。あなたは、ヒトが滅びても構わないのですか?」

「ええ」メーゼは応えた。「生きるか死ぬかより、もっと大切なものが、この世にはある。それはヒトとして、踏み外してはならない道のこと……。塔に頼らず、別の方法を探しなさい。それが私の返答よ」

「姉様は、理想が高すぎるのです……」エメラルダはうつむき、寂しげに言った。「わかりました、それでは仕方ありません」彼女はそう言うと、顔を上げた。「わたしは、わたしの信じる正義を、貫かせてもらいます」

 次の瞬間、大きな地響きが起こった。

 激しく地面が揺れる。

 エメラルダは空に浮かび上がって、片手を上げた。

 街に建てられた、建物という建物が、すべてもぎ取られていく。

 それらすべてが宙に浮かび、星空の中で回転している。

 凄まじい念動力だった。

 それらの建造物は、速度を上げていき、それからメーゼのところへ降り注いだ。

 メーゼはすでに、宝石を砕いていた。

 体中にみなぎった魔力で、メーゼは押し寄せる物体の津波を押し返した。

 それらはせめぎ合う念動力によって、異様な形に膨張し、宙で弾けた。

 岩のあられとなって、街中に降り注ぐ。

 メーゼは大地を蹴って、飛翔した。

 あられを避けつつ、エメラルダのほうへと接近しながら、無数の光の矢を展開させる。

 それらは発射され、一斉にエメラルダへと飛んでいく。

 エメラルダは、霊気でできた青い剣を現出させた。

 左右にぎ払う。

 すると近付いていた光の矢がすべて破裂し、花火のようにその場で爆発した。

 メーゼは次に、杖へと魔力を込めた。

 杖にめ込まれた宝玉の色が変わっていく。

 彼女はその先端を相手に向けた。

 宝玉が明るく輝き、次の瞬間、閃光が生まれた。

 まるで流れ星のようにまばゆい光線が、空間に真空を生み出しながら、一直線にエメラルダへ向かったのだ。

 それは分厚い光の束だった。輝く帯が空を染める。

 しかし、エメラルダは動じない。

 何かを呟くと、彼女の前に、不思議な物体が現れた。

 輪郭りんかく曖昧あいまいで、四次元立方体のような形をしている。

 透明な盾が浮かぶようでもあった。

 立方体は、メーゼの光線を受け止めると、一部を空へと弾き、一部をメーゼに跳ね返した。

 メーゼは素早く宙を移動して、反射光をかわした。

 それから目の前に、淡く光るまくのようなものを展開させた。それは痛撃つうげきを緩和するシールドであった。

 メーゼは次に、近距離での攻撃に切り替えた。

 剣を取り出し、相手へと向かう。

 エメラルダは、先程の青い剣を持ったままだ。

 メーゼは剣に稲妻いなずままとわせつつ、斬り込んでいく。

 剣が触れるたび、衝撃波が生まれた。手がしびれ、感覚がなくなっていく。

 双方とも致命傷こそ受けていなかったが、ひとつひとつの打撃が、互いの体をむしばんでいった。


 戦闘は長きにわたった。

 影虚は既に、街からいなくなっていた。その魔力を、エメラルダが回収したのである。

 生き残ったわずかな人々は、空を見上げていた。

 人間とは呼べないような、二つの超越した存在が、空を飛びながら激突している。

 火花が舞い、閃光が何度もほとばしった。

 耳をつんざく剣戟けんげきの音。大地は鳴動めいどうし、空気は震える。

 何度もぶつかり合う稲妻。

 しかし、次第に威力は弱まっていった。

 

 お互い、宙に浮かんだまま、相手を見つめている。

 双方とも消耗していた。何度も肉体を切り裂かれ、その度に魔法で回復した。

 魔力も底が見え始める。

 このままではまずい、とメーゼは思った。

 メーゼは宝石を使い果たしていた。

 一方エメラルダには、供給するてがある。彼女は、地上で生き残った人々を吸収することができるのだ。

 それに、塔を守れたとしても、これ以上犠牲者を出したら、負けたに等しい結果であろう。

 次で、終わらせるしかない。

 たとえこれで、自分の身が朽ちたとしても、為さねばならない。

 メーゼは覚悟を決めた。

 剣をさやに収め、杖を腰回りに差し込む。

 自由になった両手を近づけ、強く念じる。

 するとメーゼの頭上へ、光り輝く霊気が立ち昇り、それは空中で膨張していった。

 霊気は形を変え……一体の、竜の姿になった。

 赤く輝く、魔力でできた竜だった。それはかつて、彼女が共にした、ワイバーンの姿をしていた。

 途轍とてつもない大きさで、空の半分ほどを覆い隠した。

 それに呼応こおうするかのように、今度はエメラルダが念じ始める。彼女もこれが、最後の一撃になると悟ったようだ。

 霊気は形を変え、青白い光を放つ、一匹のくじらとなる。

 鯨も同様に大きく、残りの空を覆い尽くした。

 夜空に召喚された、二体の巨獣。

 並び立つ、対照な色の幻影。

 それらは激しくぶつかり合った。

 衝突し、お互いがお互いを破壊しようとした。

 神話の生き物が相剋そうこくしているような、凄絶せいぜつな光景。

 争闘の果て、鯨は竜を呑み込もうとした。

 しかし、その開口を狙い、竜は灼熱しゃくねつの火を噴いた。

 火炎の渦。

 暴風が吹き荒れる。

 鯨は弱り、溶解していった。

 そのままうすれ、見えなくなっていく。

 エメラルダは一瞬、意識を失いかけた。

 その瞬間を、メーゼは見逃さなかった。

 彼女は即座に、相手のふところへと飛び込み、

 帯電させた剣で、エメラルダの体を両断した。

 落ちていく……、

 そしてそのまま、地面へと。

 メーゼは息を整えたあと、降下していった。そして、彼女のもとへ近づく。

 この辺りは草原だ。上半身だけの姿で、エメラルダは仰向けに倒れていた。

 流血が激しく、精気が薄らいでいる。

 息も微弱になっていた。

「結局……最後まで、あなたには勝てなかったようですね……」エメラルダはつぶやいた。「ああ……星がこんなにも綺麗です……」

「…………」

「……あなたに見つめられると、まるで、二つのお月様が、わたしの前に浮かんでいるようです……それに、今日は満月ですね…………お月様も、姉様に味方したのでしょう……」

「さあ、どうだろう……私にはわからない」

「こうしていると、昔を思い出します……わたしは、とある公園にあった、古びた滑り台が好きでした……上まで階段でのぼって、そこから月を眺めていると、いつでも、姉様や、他の姉妹のことを思い出しました……離れ離れになって、もう会えないと思っていたとき、あの、月の光だけが、私たちを繋ぎ止めているようで…………」

「………………」

「姉様……最後にひとつだけ、頼んでもよろしいですか?」

「……何?」

「わたしの遺体を……レムナントの故郷に埋めてください……勝手なお願いで、申し訳ありませんが……」

「…………わかった」

「……わたしは、今までの生涯を、少しも悔いていません。たとえ周りの人間に……そしてあなたに、どう思われようとも……。あなたが信念を貫いたように、わたしも、自らの信念を貫きました。数々の……無数の記憶を受け継いで……。やるだけやって、駄目だったのですから……諦めもつきます。心残りはありません……」

「………………」

「あなたの手で、終わりを迎えられて、嬉しいです……」彼女は微笑んだ。静かに輝く、緑の瞳。「さよなら、姉様……」

 エメラルダは目を閉じる。

 もう、動くことはなかった。


 ☆

 

 たくさんの死体が街にあった。

 兵士のほとんどが戦死した。

 生き残ったのは、わずかな人々。

 避難所にいた子供や老人と、後方で援護えんごしていた女性たち。

 その数は百人にも満たなかった。

 チーフさえも、避難所を守ろうとして、命が尽きていた。

 時間だけはあった。協力して穴を掘り、亡骸なきがらを埋めていく。

 献花けんかほどこされ、祈りがささげられた。

 人々は、一通りの作業を終えたあと、広場に座り込み、今後について話し合うことにした。

 街の建造物は、塔を除いて破壊されていたため、生活できる状況ではなかった。

 年長で、頭の切れる老人が、代理のチーフとして議長を務めた。

 様々な意見がったが、何の進展も得られなかった。

 彼らの一人が、新たな結界を作って欲しいとメーゼに頼み込んだ。

 メーゼは首を振る。

 彼女はもう、魔法を使えないのであった。

 あの戦闘で、体を酷使こくしした。無理をしすぎた。二度と魔法が使えないほどの、代償だいしょうを支払うことになったのだ。

 それだけではない。彼女の体は、徐々に衰弱すいじゃくしつつあったのである。

 意識はあり、身体は動く。言葉も喋れる。

 でも、だんだんと、自分が消えていくような気がした。

 現実が薄れていくような、そんな感覚。

「しかし、それではいったい、どうすればよいのだろう……」

「資源のある街なんて、われわれは知らないし……」

 誰かが呟いた。

 皆、暗い表情である。頭を抱えている者も居た。

 沈黙を破るように、メーゼは立ち上がった。

「ひとつだけ方法があります。しかし、これは難しい決断です。私が話を終えてから、相談してください」

 それは、北の大地にある『方舟はこぶね』のことだった。

 メーゼはかつて、その方舟を調べたことがあった。

「塔の中には、エネルギー源となる宝石があります。その宝石を、方舟へと運び、燃料にして起動させるのです」

「起動させて……それでどうなるの?」

「地球を旅立つのです」メーゼは応えた。「『方舟』は、はるか昔、科学力が絶頂に達していた時代、人類が造り上げた宇宙船です。その船に乗り、地球を去って、別の惑星を探すのです。居住に適しているような……」

 メーゼは方舟のことを詳しく説明した。

 宇宙船とはどういうものであるか。そして、別の住める星を見つけるのが、どれほど難易度の高いものであるか。

 それに、宇宙を旅するには、気が遠くなるほどの時間が掛かる。冷凍睡眠コールドスリープを使っても、精神的に過酷なのは確かだ。

「本当に、この星には、他に資源が残っていないのかい? それに、塔の宝石で、別のものを動かしたり……」

「塔の宝石を生み出した人々と、方舟を建造した人々は、実は同じなのです。古文書から、私たちは解読しました。そのエネルギーを有効に活用できるのは、その船だけです。この星で使い続けても、いつかは尽きてしまうでしょう……」

 人々は逡巡しゅんじゅんした。

 しかし、ここに居ても、状況が変わるわけではなかった。

 塔から伸びる管は破壊されており、このままでは、街を復旧させる前に、皆亡くなってしまうだろう。

 彼らは、地球を旅立つ決断をした。


 ☆


 メーゼは鍵を使い、塔の中に入った。

 白い螺旋階段らせんかいだんと、白い内壁。

 気が遠くなるほど上り続けると、広い空間が現れた。

 中央に台座があり、光り輝くクリスタルが浮かんでいる。

 彼女はそれを、そっと取り出した。

 この世のものとは思えないほど、美しい宝石だった。

 魔力が自分に流れ込んでくる。

 少しだけ、衰弱した体が回復するような気がした。

 彼女はそれをケースに入れると、階段を降りていった。


 ☆


 人々は支度したくをし、荷物を車に詰め込んだ。

 旅が始まった。

 メーゼは道案内の役割を果たした。

 地図を使わなくとも、世界中の隅々までの地形が、頭の中に入っていたのである。

 気温は下がっていき、積雪も多くなっていく。

 食料も減ってきた。

 道中、亡くなってしまった者も数名いた。

 しかし、その旅の果て……彼らはたどり着いた。

 ビルを横倒しにしたような、巨大な方舟。

 そこに人々は乗り込んでいった。

 メーゼは彼らに、船の情報をできるだけ伝えた。内部には学習装置もあるし、これ以上の説明は要らないだろう。

 エンジンに、そのクリスタルをめた。

 数々の機械に動力が行き渡った。

 部屋中の電灯が一斉にともる。

 エネルギー残量を見た。

 宇宙を旅するのに必要なエネルギーは、充分残っていた。


 ☆


「もうすぐ、出発の時間ですよ」

 一人の女性が、外で座っていたメーゼに話し掛けた。

 メーゼはボンヤリしていて、女性の声が聞こえていないようだった。

 虚空こくうを見つめている。

 その表情からは、何の感情も読み取ることができなかった。

「メーゼさん……もしかして、船に乗っていかれないのですか?」女性は尋ねた。

 メーゼは静かに頷いた。「最後に、やることがあるのです」足元の棺桶かんおけを、視線で示す。「それに、彼女が製造していた人造人間たちを、破壊しなければなりません」

「でも……ここに残って、それを終わらせたあと、どうなさるおつもりですか?」

「分からない。その後のことは、そのときに考えます」

「……メーゼさん、わたしは……いえ、わたしたちは皆、あなたが一緒に来てくださることを、心から望んでいるのですよ。お願いです、一緒に来てください。出発を遅らせることもできますし……」

「いえ、出発を遅らせても、私は方舟に乗りません。私はもう、自分に残された時間を分かっているのです……。乗っても意味がありません」

「ですが……」

「お願いです。独りにさせてください……私はここで、船が旅立つのを見守っています」

 女性は悲しそうな顔をした。

 しかし彼女は、この、黄色い瞳の少女が、自らの意志を変えないであろうことを理解していた。

 彼女はメーゼを、しばらくのあいだ抱きしめた。

 涙をこぼしつつ、女性は船へと戻っていった。


 船は反重力を駆使くしし、空へと昇っていった。

 小さくなり、点になって……そして見えなくなる。

 青空に吸い込まれたようだった。

 彼女はその様子を見届けてから、最後の旅に取り掛かった。


 ☆


 最初は研究所を目指した。

 研究所の場所は、見当がついていた。

 メーゼたちが、複製体として生成された、始まりの場所。

 以前、破壊された施設であったが、長い時を経て、エメラルダが再建したのである。

 研究所の内部……地下深くの深奥では、たくさんの〝シード〟が、培養液ばいようえきひたされて眠っていた。

 彼らは、クリスタルのエネルギーで成長するはずだった、可能性としての存在だ。

 ひとつひとつのカプセルを、彼女は見て回った。

 胎児たいじくらいの大きさになっている個体もあった。

 彼女はそこに、生まれる前の自分の姿を重ねていた。

 メーゼは施設に火をつける。

 燃料を隅々まで散布し、徹底的に焼き尽くした。

 あらゆる未来、あらゆる可能性が、炎の中に消えていった。

 白い建物が炎上し、崩れていく。

 その光景は、やけに美しかった。

 彼女は枯れ木に背中を預け、燃えゆく様を眺めていた。


 ☆


 レムナントの故郷……とっくの昔に廃棄されており、汚染区域に入っていたが、メーゼは迷わず進入した。

 そして、崩れかけの建物を見つける。

『姉妹』が育てられた場所であった。

 庭に、彼女はひつぎを埋めた。

 陽の光が墓標ぼひょうを照らし、斜影しゃえいを地面に投げかけた。

 柵の向こうには海が見える。

 ここなら、魂も安息を得られるだろう。

 メーゼは淡い思い出に浸り、その都市を離れた。


 ☆


 彼女は砂漠を歩いていた。

 目的地はなかった。

 いくつもの起伏を越え、しばらく進むと、そこに聖堂があった。

 屋根のない、むき出しの建物。

 朽ち果てており、柱と梁、崩れかけた外壁、それから……わずかな窓枠だけが残っている。

 彼女は近くまで来ると、地面に座った。

 背中を柱に預け、体を楽にする。

 この世界に残されたのは、彼女だけだった。

 もう、他に誰も居ない。

 独りきりになってしまった。

 聞こえるのは、風の音だけ……。

 空を見上げる。

 そこには青空が広がっていた。

 雨上がりのようで、虹が出ている。

 それは、とても美しい光景だった。

 しばらく虹を見つめていた。

 ペンダントを外す。

 手のひらに載せ、握りしめた。

 心地よい静けさ。

 透明に、澄みきっていて……。

 息を吐いた。

 少しずつ、力が抜けていく……。

 すべてが終わったのだと、彼女は悟った。

 何もない、空っぽになった世界。

 でも……やっと、帰る場所を見つけられた。

 瞳を閉じる。

 様々な思い出が、彼女の中を通り過ぎていった。

 いくつもの面影が浮かぶ。

 穏やかで、柔らかな感覚。

 それは懐かしいようで、どこか寂しかった。

 自分の体が溶けていく……、

 輪郭が消え、徐々に形を失っていき……、

 最後に心に浮かんだのは、遠い昔のぬくもりだった。



























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ムーンゲイザー 柚塔睡仙 @moonmage

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