発したものの行き先 / アールグレイ

追手門学院大学文芸部

第1話

「ねえ、ほたる、見たことある?」

 開いた窓から風と共に入る知らない虫の鳴き声が、気温の上昇を感じさせる。緑を照らしていた日が沈み、天気予報士が梅雨前線の発生を告げた。そんな中、祖母が出してくれたハッサクを食べようとした俺に、一つ年上の彼女が尋ねた。艶やかな長い髪を一つにまとめ、こちらに大きな目を向ける少女に、視覚を奪われる。

 「う、うん、近くに見られるところあるから、毎年家族みんなで見に行ってるよ」

 「いいなぁ。私ね、見たことないの」

 「そうなの?じゃあ、今年は一緒に行こうよ!お母さんもいいって言うだろうし!」

 「ほんと?」

 「うん、約束!」

 彼女と出かけられることに喜んでいた俺は、笑みを浮かべる彼女と指切りげんまんを歌った。


 ぼやけるカーテンの向こうからスズメの鳴き声が聞こえた。

 『今日の最高気温は三十五度と、暑い日々が続いていますので、熱中症には十分にお気を付けください』

 情報番組の天気予報を聞き終え、大抵の人が半袖だけで過ごすような蒸し暑い空気を全身に浴びた。こんな暑苦しい服を着ている分、まだサウナの方がマシだろう。仕事で毎日着ているとしても、汗でシャツが肌に引っ付く感覚は好きにはなれない。そのうえ今日はジャケットまで羽織っている。朝早くとはいえ最寄り駅までの道のりですら体力を削られるしんどさだ。ようやく乗れた電車の冷房は、からだの不快感を癒してくれる。しかしこれを繰り返されたら早々に腐ってしまうかもしれないなどと考えた。

 一息もついてきたころ、父親に葬儀場の最寄り駅に着く時間をメールした。俺は今日、祖母の葬儀に参列する。世話焼きで優しい祖母で、小さい頃はとても世話になったのに、就職してからはほとんど帰らず、最後にも立ち会うことができなかった。

 祖母と過ごした昔を思い出していると、車内から望む景色に背の高い建物が減り、田園の占める割合が増えてきた。近づくにつれ空を覆う雲のように、後悔が胸の内から体を重くする。

 駅に着くと、改札前で待っていた父と合流した。歩こうと言い、足早に進んでいく父についていくのがやっとだ。一言も話す素振りもなく、気づけば葬儀場に着いた。

 葬儀場では、葬儀屋の人たちが静かに準備を進めていた。雨が降り出しそうな空模様が、人々の影を濃くしていく。


 「本日は、ご多用の中、参列いただきまして心よりお礼申し上げます」

 葬儀の始まりは母の姉である叔母から告げられた。後方から様々なすすり泣く音が聞こえる。叔母も母もハンカチで鼻頭を抑え、肩を震わせている。

 家族が順に祖母との別れを惜しんでいき、俺の番が来た。

 目をつむる祖母の前で放った謝罪は、ひとり言となって空に溶けた。

  

 「本日は、誠にありがとうございました」

 叔母の挨拶が終わると、祖母との別れを惜しんでいた人々は案外あっけなく解散した。重い空の下、人々は足早に動いていく。しかし俺の体はさらに重くなっていた。

 参列者を見送った母は、まだ赤い目をこちらに向け、祖母の家の整理に行くわよと言う。さすがに早すぎないかと問うと、こうゆうのは、ずるずると伸ばしちゃダメなのよと答え、傘を閉じ車に乗り込んでいった。

 

 久しぶりに来た祖母の家は、何も変わってないように思ったが、自分の中の童心を悲しさに止められていることに気づいてしまった。まだ雨が降り続いているようだ。

 早々に不用品を処分すべく、母は祖母の部屋、父はキッチン、俺は洗面所と分担して片付ける。そのときに母が指摘した祖母のお気に入りの物以外を段ボールに詰めていく。

「ちょっと見て、あんたの写真でてきた。懐かしいねえ……あら、あの子も写ってるじゃない」

 そう言って母が持ってきた写真に目を落とす。

「もう、二十年経ってたのね……」

 母からこぼれた言葉は、懐かしさと虚しさを連れてきた。


 あの子こと一つ上の彼女は、俺が小学校三年生の秋に引っ越してきた。祖母の家の近くに住んでいて、両親が共働きの俺と、帰り道が一緒だった。

 母が迎えに来てくれるまでの間、祖母の家やその近くの公園、彼女の家などでずっと遊んでいた。かけっこやかくれんぼ、対戦ゲームもした。二人でも十分楽しかった。そして気づけば俺は、彼女のシルエットが空に移って見えるくらい、彼女を目で追っていた。今思えばそのころには恋に落ちていたのだろう。そんな最中だった。

 一学年上がり、日の入りまでの長さが体感できるようになってきたある日の夕方、正門の前で待ってくれているはずの彼女が見当たらなかった。珍しく欠席したのかと、学校帰りに彼女の家に向かい、彼女の様子を聞きに行った。インターホンを押して出てきた彼女のお母さんの顔を見て、すぐに顔をそらしてしまった。その顔は見てはいけないもののように感じた。俺は恐る恐る彼女の名前を出した。途端、彼女の母親は泣き崩れ、亡くなったのとだけ呟いた。

 それ以降、俺はほたるを見に行かなくなったのだ。


 母が場を去ったあと黙々と手を進めていた俺は、二つ目の段ボールを閉じ、母にアイスを買ってくると伝えた。

 「あれ、パッキンアイスあるのに?」

 「あ……バニラアイスの気分だから」

 湿気の残る革靴を履き、先ほどよりも快適な空気を浴びた。薄暗い雲の隙間から射す月光が、心の行き先を教えてくれる。

 T字路に着いた俺の足は、道路沿いのコンビニとは逆方向に向かう。舗装された車道の端を進み、そこから少し逸れた山道を下った。車の音が阻まれ、自分の足音と風と葉、そして水音だけになる。ここは、よく家族でホタルを見に来ていた、彼女と訪れることが叶わなかった川のほとりだ。

 人の話し声にさえもかき消されてしまいそうなせせらぎや、にじみ出る草木の匂いがあの頃の記憶を鮮明に呼び起こす。その記憶は感情までは連れてこず、別の感情を芽生えさせていた。彼女への恋心も、いつかの無数の光とともに、名残惜しく飛んで行ってしまったのだろう。水辺になびく葉の下で、仄かな光が二つ、揺れた気がした。




あとがき


今回は本で見つけた和泉式部の歌から発想を得て書きました。歌の要素ほとんどないです。終わりが書きたかっただけなのですごい難産でした。読んでいただきありがとうございました。

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