春は萌えているか

綾波 宗水

第1話

 彼女の頬は素直に興奮を表すかのごとく、いくらか赤みを帯びていた。メイクや夕焼けの効果もないわけではないものの、一方でまっすぐとこちらを見据える瞳には、何の混じり気もない一徹の心が読み取れた。むしろ吸い込まれるように開かれた大きな両目には、困惑の表情を浮かべる僕の顔さえ映している。彼女の網膜から脳内へと伝達された僕の情報は、いったいどのような語彙と感性によって肯定されているのだろう。

「もう逃がさない」

 人がこの言葉を言われるのは大抵三つの場合だろう。万引き常習犯を捕まえた店員。イタズラ小僧を捕まえたオバサン。散々小娘が逃げ回り結局行き止まりに来てしまった時の悪役。語尾は変わるだろうが、シチュエーションなど往々にしてこれらの派生。

 しかしながら、特に拘束されていたり、もしくはナイフなどの凶器を向けられている為に太刀打ちできないという訳でもない青年が、自分より小柄で年下で武道経験もない幼気な少女からそう言われ、なるほど年貢の治め時かと観念しているのはどう考えてもおかしい。しかしそれには理由がある。いかに少女とは言えども、大学3年の青年を制圧するのは可能なのだ。

 ところで、彼女を僕は知っている。バイトで僕が担当していた、櫻木さくらぎ霧江きりえさんなのはまず間違いない。彼女が高3の夏に入塾すると同時に文系の担当に塾講師バイトの僕が付き、二ヶ月前に志望校に合格。その後は、それまでとは打って変わって、大学での備えの為に、細かな文法事項の復習授業を週に一回、そしてつい一週間前に卒塾。

 ノルマのような課題がバイトに課せられていないように、卒塾後にも交流が継続することもなかった。

 だが今まさに彼女は、仰向けになった僕の上にまたがっている。これは決してHな暗喩などではなくて、むしろ彼女の身体の置き場よりも、問題にすべきは彼女の両手の在りかである。当然、断っておくが、僕のシャツの中でもなく、そしてベルトを外そうとしてもいない。無論、場所もホテルや雑居ビルではなくて、あれ、ここどこだ。ピアノの鍵盤を彷彿とさせる櫻木さんの色白な指は、すべからくこちらの視界から外れ、ファラオの首飾りよろしく、僕の首元にぴったりと収まっていた。

「あ、えあ」

 苦しいという発音すらままならない。呼吸も同様であるはずなのに、妙だが思考はなかば空回りさえしている。いや、正常じゃないのだから、妙とは断言できないか。おそらくもう少し強く、そして長く締められると、走馬燈へと至り、骨が折れるか天に召されるかのどちらかである。

 視界がとうとう彼女の顔だけに狭まった時、ついに彼女は堪えきれなくなったように、不意に笑みをこぼした。堪えきれないのはこっちだけど…………。

「『いのちがけで事を行うのは罪なりや』」

 開放感と共に一気に新鮮な空気と、リップグロスが艶っぽく照る唇から出た彼女の吐息と不思議な言葉を肺へと取り込む。

 力なく睨むと、短い舌で僕の右目とまぶたを上から下へ舐めた。とんだ仕返しがあったものだ。かろうじて左目を閉じないよう頑張った。さもなくば服従の意と捉えられかねない。

「いい加減、プライドなんて捨てちゃいなよ」

 ここは彼女の自宅だった。成人かつ卒塾したとは言え、おそらくはご法度ものだ。

「だって海斗かいとさんずっと頭の中で独り言いってそうだし」

 彼女はいつからだったか『村雲むらくも先生』ではなく名前で僕を呼ぶようになっていた。社員さんに一度、実は付き合ってるんじゃないかと釘を刺す意味も込めていじられたこともあったな。

「決心してください。理性もとろとろにして」

「理性もってなんだよ」

 記憶が曖昧なほどにずっと彼女のターンだったが、ようやっと反論できる余裕がうまれてきた。あとASMR台本みたいなこと言ってると同性からの評判わるくなりますよ。

「プライドだけじゃなくてって意味」

 彼女は誤解している。傲慢であることは確かに各々の宗教や道徳、倫理が指摘するように美徳なるものとは距離を経ている。だけども、プライドを抱くことは悪徳ではない。自尊の心なくして如何なる利他がなせようか。故に理性もプライドも彼女に言われるがままに脱ぎ捨て吐き出すわけにはいかない。

「もう私を好きになっても犯罪じゃないです」

「正確には手を出しても、だけどな」

「感情は罪じゃないってことですか、ロマンチストですね」

 相変わらず表情に大きな変化はない。それはそれで怖いものだ。好意を見せつつ、彼女は今しがた僕を殺めようとした。これはまごうことなき事実であり、その以前以後も酸欠がみせた幻覚ではない。

 ちなみに、今の彼女は見慣れた制服姿ではなく、私服だった。スカートなので本当に僕の理性が危ぶまれるものの、より印象深いのはそれがいわゆる地雷系ファッションだということ。

 比較的物静かで、性格にもさしたる難はない記憶がある。授業でも熱心に話を聞いてくれていた。だが、それは仮面ペルソナの一部で、私生活ではこの通り。

「太ももフェチ?」

「違う!」

 それにフェティシズムというのは元来、物に興奮することであって、マニアックな性癖を指す言葉じゃない。ちなみに僕は眼帯フェチだ。もし地雷系ではなくゴスロリ眼帯だったら理性もプライドもとろとろ、どころかあのまま息をひきとっていたかも。

「海斗さん、私に監禁されてください」

 これまでとはまた違ったベクトルでの率直さに、再び面食らう。

「何を言ってるんだよ、君は」

「だから言ったじゃん、もう逃がさないって」

 そう、彼女はこの言葉に何の暗喩も込めてはいない。

「もうすぐ高校卒業だし、ラストJKを楽しみたいの、海斗くんと一緒に」

「だったら」

「二人きりで」

 ぐいっと顔を近づけられ、思わず再びソファーに身を任せてしまう。

「大学入学まで親は海外出張なの。だから安心して?」

「いったいどこに安心要素があるんだよ」

「詳しくはホームページに」

 間違いなくそれは詐欺サイトだ。年下の気心の知れた………と思っていた、それなりに否、わりとかなり美少女とひとつ屋根の下だとは言え、彼女の好意の表現はやはり常軌を逸していて、とてもじゃないが恋人ナシ男子大学生でも万歳で喜べるものじゃない。

 仮に。もしもの話だが、彼女の申し出を受け入れたとすれば、期間は約一ヶ月前後だろう。なおこの間に櫻木さんの両親のいずれかでも帰宅した場合は逮捕ならびに懲役刑でより長期間の拘禁が約束されてしまう。

「いい加減に…………」

 だがしかし、この世が必ずしも天国と地獄、善と悪という二元論で成立していないように、イエスorノーばかりが選択肢ではない。人は常にオルタネイトな何かを求め続けてきたのだ。

 今度は僕が彼女の事を掴みかかろうとした時、雑念がよぎったのは確かである。

 もしかすると、櫻木家は親子仲がドライなのでは。

 早くも自身の場合の記憶は曖昧なのだが、高校の卒業式、それも女子となると親も来ていそうなもの。大学入学式には間に合うスケジュールで帰国するのだろうか?

 確かに半年以上、彼女の担当だったが、仕事が忙しいとかで、入塾以来、一度も彼女の親と面談はしていない。もっぱらメールでの報告や連絡だけ。

 育児放棄という事も櫻木さんとのそれまでの様子や会話からして無いだろうが、18歳の女子、それも友人と離ればなれになるこの時期、誰かと一緒に過ごしたいと思うのは案外、道理に合った思考なのではないか。

 さほど友人のいない彼女のことだ、思案の末に僕を思い当たったが、単に僕を遊びを誘う訳にもいかず、こうして監禁…………そう言えば、今日はプリント類を整理していたら、僕の書類かメモが挟まっていたとか何とか言って、まんまとのだった。

「…………もしも」

「ん?」

「さっきみたいに危害を加えそうになったら、今度は全力で抵抗するから」

 やはり彼女は僕の言葉を真剣に聞いてはくれる。だから合格できた、とは言わないけど、そんなところも熱心さを表しているのは確か。

「約束してくれるなら、少しの間だけ、君と過ごすことにするよ」

 塾では先生先生と言われているせいだ。

「もっと理性をとろとろにしてね」

 カチャン、という音。暖房の効いた部屋でも金属は冷えているのが手首に伝わる。

「て、手錠!?」

「『いのちがけで事を行うのは罪なりや』」

 それは僕らがテキストとしてかつて使った、太宰治の『如是我聞』の一節。

 彼女は今、その言葉にこたえるという、最終試験に挑もうとしている。

 夕焼けは既に僕の角度からは窓枠が邪魔で見えてはいない。まだまだ日の短さは冬のまま。春が萌えるその日まで、僕は彼女に監禁される。

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