思い出したくない過去(2)
***
「お疲れ様でした」
バイトが終わったのは、十四時だった。
土日は、お母さんも妹も家にいない。
真っ直ぐ家に帰ろうと思えば帰れるけれど、今日は家にいたくない。かといって、公園に行くのも気が引ける。千聖くんに合わせる顔がないからだ。
コンビニでおにぎり一つ買ってお昼は適当に済ませた。
いつもは通らない道を無心に歩いた。
「はぁーあ……」
大きな橋がかかった川に出て、橋の上でたたずんだ。下を流れる川は、次から次へととめどなく水が流れる。みんな同じ方へと向かってゆく。目的は同じ場所。
一年前の過去、そこまでは私たち三人は同じ目的地を目指していた。けれど、私だけが川から外れてべつの場所へ流れてしまった。そこからどんどん脇道へと逸れて、今では住む世界すら違っているように思えた。
〝また一緒に遊ばない〟?
その誘いにのればあの頃と変わらず楽しく過ごすことができたのだろうか。一緒に笑い合うことができたのだろうか。
──ううん、そんなはずない。きっと私だけ。私だけが劣等感や虚無感を感じて、日々を過ごす。表面的に笑顔を貼り付けるだけで心はちっとも楽しくない。
「……そんなの嫌だ」
これ以上、私を苦しめるのはもうやめて。
私はこれ以上、苦しみたくないし誰かを妬んだりもしたくない。
そのために日陰で過ごし、目立たぬよう生きるしかない。
──それとも。
「……ここから飛び降りたらこの苦しみから逃れられることがてきるのかな」
柵に手を置いて、川を見下ろす。
橋の上からは、川しか見えない。とめどない水が次から次へと流れる。冬の川はとてつもなく冷たい。痛い。
前に理科の授業で聞いたことがある。川に飛び降りたらコンクリートのように硬くて、死ぬこともあると。
「私……」
柵を、ぎゅっと握りしめる。
川から冷たい空気があがり、途端に恐怖を感じる。
でも、苦しみから逃れられるなら。
「──あれ、美月?」
ふいに、聞き覚えのある声が聞こえて、ハッとした私は顔をあげる。
「……千聖、くん」
──ドクンッ、胸が嫌な音をたてる。
今は。今だけは、会いたくなかった。
「美月の家ってあっち側じゃなかった? ここの橋通るなんて意外だね。何か用でもあったの?」
一歩ずつ私へと詰め寄るから、
「あ、えっと……」
突然現れた彼の姿に戸惑って頭の中が白く抜け落ちて、言葉が出てこない。
「それとも、俺に会いに来た?」
とっておきの秘密話を打ち明けるみたいに、ぱあっと表情を明るめたあと「なんてね」と冗談だよとでも言いたげな声で笑う。
私が一方的に距離をとったのに、それを感じさせないほどに人懐っこい彼の眩しさに、思わず目を逸らしたくなる。
「今日バイトだったの?」
今度は冗談を言うつもりはないらしく、私の隣へやって来た彼は言った。
「……う、うん」
怪しまれないように顔を逸らし、遠くの川を見つめる。
「今日は終わるの早いね。いつもの時間じゃなかったんだ?」
「土曜日は午後中が多いから」
「へえ、そうなんだ。知らなかった」
おどけたように笑ったあと、「じゃあ美月とすれ違うところだったなぁ」と付け足した。
「……え? な、なんで……」
「今日バイト終わりに押しかけようと思ってたんだ。最近、美月俺と会わないようにしてるみたいだし」
まるで嫌味のように告げられた言葉に、う、と言葉を詰まらせていると、「ほらやっぱり」と口元に弧を描いた千聖くん。
何もかも私の考えていることが手にとるように分かるのか、
「俺、なんかした?」
ううん、千聖くんはなにも。
「……してないよ」
「じゃあ、なんで?」
その問いに答えられずに「それは」と口ごもる。
身体の熱を風が奪う。
私が答えられずに唇を固く結んでいると、
「俺は、美月のことまだ全然知らないけど、何か悩んでるんだろうなってことだけは分かるよ」
流れるように私の耳へと入り込む。
千聖くんは鋭い。だから、こうして簡単に心を読み解かれてしまう。
けれど、それに答える言葉を持ち合わせていない。答えられない。だから私は、何も言えなくて目線を下げる。
「美月と出会ったあの日、どうして美月が屋上にいたのか。多分、それと関係してるんじゃない」
次々と的確に的をついてくる。
一歩ずつ距離を詰める彼の言葉に、最後は答えにたどりつけられるんじゃないかと焦って、鼓動はざわざわと波だって。
「一人で悩まずに俺に話してみない?」
千聖くんは、優しい。きっと私が思っているよりも、ずっとずっと。
でも、だからこそ言えなくて。
ぎゅっと柵を握りしめた、私は。
「……千聖くんには、関係のないことだから」
突き放すように距離を取る。それ以上は踏み込まないように、線を引いて。いつだってそうしてきた。クラスメイトにも、家族にも。
そうしたらいつのまにかそれが当たり前になって、私はひとりになる。一人ぼっちで、孤独で、寂しくて。
心の奥底で膝を抱えてうずくまる私は、今にも泣き出しそうな子供のようで。
「──関係あるよ」
彼の声が落ちてきて、「え」弾けたように顔をあげた私の視界の先に、吸い込まれそうなほどに透き通っていた真っ直ぐな瞳がぶつかって。
「一度関わった人のことを俺は、無関係だとは思わない。他人だなんて思わない。だからそんなこと言うなよ。悲しくなるだろ」
なぜか私よりも泣きそうに顔は歪んでいた。
〝一度関わった人は他人ではない〟
きっと、言葉ではどうとでも言える。思ってもいないことでも、彼にとってそれは息をするのと同じように容易くて。
「だって実際……赤の他人でしょ」
だから私は、突き放す。
血の繋がりなんてない、正真正銘の他人。
知り合ってそんなに日は経っていない私たち。この関係は家族でもなければ友人でもなくて。
私たちの間に深い関わりなんかない。
それを人は〝無関係〟だという。
「そんなことない!」
力強く否定した千聖くんの声に驚いていると、
「美月と俺は友人同士。出会った日数とか関係ないし誰が何て言おうが、俺がそうだって言ったらそうなんだ。美月は一人じゃないんだよ。孤独だって思うな。俺がいる。いつでも俺がそばにいてやる。だから、頼っていいんだよ」
まくし立てるように告げられる。
その言葉は、白い息とともに消えてなくなる。はずだったのに、私の耳にひどくこびりついて離れない。
鮮明に、耳に残る。
私を、包み込むように。
けれど、私は何も言えなかった。拒絶することも、肯定することも。何一つできなかった。
北風は、心を凍らせるように冷たくて、身体の芯まで冷えてくる。手も足も、耳も鼻先も。全てが凍りついたように痛くなる。このまま眠ってしまえたら、どんなに楽になれるだろうか。
「美月」
優しい声で、私の名前を呼ぶ。
「やめてよ……」
心の内側に踏み込んでこないで。土足で、心に、入ってこないで。
「……私たちは、赤の他人で無関係で……だから、そうやって知ったような口、聞かないでよ……っ」
私の言葉に驚いて目を白黒させた彼は、「え」と声を漏らしながら固まる。
今まで優しくしてくれたのだって、くれた言葉だって、全部私にとってはまやかしにしか過ぎなくて。
「もう話しかけないで」
イライラ、もやもや、渦巻いて。黒い感情が魔女鍋のようにふつふつと煮えくりかえる。
「美月、なに、言って……」
どこまでいったって私たちが交わることはない。
それに。
「……私と千聖くんは、住む世界が違うの」
表現するならば、千聖くんが〝陽〟で私が〝陰〟。日向と日陰の存在だ。
きっと、千聖くんとはどこまでいっても分かり合えるはずがない。
「なにそれ、意味分かんない」
それなのに彼は、言った。
そして、続けてこう一言。
「同じ空気吸って同じ場所にいて、しゃべって名前だって知ってるのに、住む世界が違うってなんだよ。俺たち一緒のこの世界にいるじゃん」
私なら絶対に言わないし思わない。そんな言葉を彼は、なんの迷いもなく淡々と告げた。
だから、思った。
千聖くんとは、どこまでいったって分かち合うことは不可能だろう。
マフラーを貸してもらって、優しく接してくれて、こんなことを言うのは、相当意地が悪いと思うけれど。これ以上、限界だ。自分のペースで話しかけるし、距離を詰めてくるし、これ以上そばにいられたら土足で心の中を踏み荒らされそうになって困る。
だったら初めから突き放せばよかった。
「……そんなのいらない」
──いらない、いらない。
「……私は、この学校で誰かと馴れ合うつもりなんて、初めからないの。友達だっていらないし、悩みだって話すつもりない!」
屋上で死ぬつもりと尋ねた彼には、文字通り私が死にそうに見えた。
だから千聖くんは、あの日私に声をかけた。
──それは、ある意味同情で。
「この学校にだって来たくなかった……!」
吐き捨てるように声を荒げたあと、視界に映り込んだ彼は、困惑したような悲しそうな表情を浮かべていた。
──だから、思った。
傷つけて、しまったのだと。
言ったことを後悔してしまうのは、まさしくこのことで。
けれど、今さら時を巻いて戻すことなんかできない。
「この学校に来たくなかったってなに?」
彼の固く結ばれていた唇が緩まって、薄く開かれたそこからは少しだけ低い声が漏れる。
「……言いたくない」
誰にも、教えたくない。
これ以上、自分の傷を広げるのだけは避けたかった。
「……千聖くんには、関係ない……っ」
困惑したように揺れた瞳は、私を見つめたままで。
──もう後戻りはできない。
けれど、これでいい。
「……もう、私に構わないで……」
静寂な空気の中、打ち据えるように言った。
そのあと背を向けて、走った。
走って走って、息が苦しくなった。
息を吸うたびに冷たい空気が肺に入り込んで、凍りそうなほど痛かった。
それでも走り続けた。
彼から、逃げるために。一歩でも多く離れるために。
「ハア…っ、ハア…っ」
競り上がる息が、苦しくて痛くて。
どれくらい走っただろうか。覚えていないほどにひたすら足だけを動かした。
膝に手を当てて息を整えたあと、一度振り向くけれど、彼の姿はどこにもなくて。私のあとをついてくる彼の姿はいつまでも見つからなくて。
私に呆れたのかもしれない。
でも、それでよかった。
彼との縁を切ることができて。
「……これで、よかったんだ」
空を見上げて、泣いた。
広がっていた景色は、灰色の雲が厚く覆われて今にも雨が降り出しそうな空だった──。
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