1:血を吸う獣

「セオドア、覚えておけ。私たちルベル家の者は死ねばこの獣に血と魂を奪われる。それが力の代償だ」


 僅かな腐臭が漂う血の匂いは、魔物特有のものだ。

 激しい雷雨が吹き荒れる外界から帰ってきた黒衣に身を包んだ一人と一匹は、雨でも流しきれない血を全身に浴びていることがわかる。

 当主に相応しい人物に受け継がれるという赤みを帯びた白金プラチナブロンドの髪は血にまみれ、外で光る雷鳴に照らされてぎらりと光る当主たる証である鮮血の宝玉飾赤い宝玉が嵌め込まれたピアスと青い瞳は、僕を一瞬だけ睨み付けたが、その視線はすぐに外れた。

 父上は気の利いたことを言えない僕に呆れたのだろう。鼻を鳴らしながら、持っていたサーベルと杖を使用人に手渡す。それと同時に、玄関の大扉が閉めらた。

 数人の使用人を連れ立って父上は浴室へと向かう。


「……」


 この場に取り残されたのは、血を吸う獣ヴァンパイアと僕のみだった。

 獣はというと、父上の足音が聞こえなくなると、両腕に嵌められた黒い鎖をじゃらりと鳴らしてその場に座り込んだ。

 恐らく、自分を地下牢へ連れて行く使用人のことを待っているのだろう。

 元々は子爵程度の地位しかなかった先祖が侯爵今の地位になれたのは、どうやら血を吸う獣ヴァンパイアが我が家に従属してかららしいというのは、もう亡くなった祖父から聞いたことがある。

 数百年の歴史がある我が家にずっと使えているこの血を吸う獣ヴァンパイアがなにものなのか、そしてどんな力を持つのかは、当主以外が知ることは出来ない。だから、僕もまだ、知らない。


「……」


 僕の視線に気付いたらしい血を吸う獣ヴァンパイアは、血の色をした真紅の瞳でこちらを見つめているだけで、言葉を発しない。

 白く滑らかで陶器に似た肌と、スッと通った細い鼻筋、筋肉がついたしなやかで長い四肢だけ見るのなら神殿に飾られている彫刻のように美しい。

 それでも、父も母もみんな……アレを穢らわしい獣だと呼ぶ。ボロボロでところどころほつれた貫頭衣なんかではなく、ドレスだって似合うだろうし、腰まで伸ばされた宵闇の空で染めたような髪だってきちんと結えばきっと誰もが見とれるくらい美しくなると思っているのだけれど。

 そんなことを考えている間に、血を吸う獣ヴァンパイアは僕に興味を失ったようでいつのまにか視線を外されていた。その代わり、背後からカツカツという冷たい音が近付いてくる。


「ぼうっと突っ立っている暇なんてないはずです。部屋へ戻りなさい」


 ヒュッという風切り音と共に背中がカッと熱を持ち、少し遅れてから痛みがじわじわと広がっていく。継母おかあ様が手に持っている枝むちが振り下ろされたのだ。


「申し訳ございません」


 表情を歪めてはいけない。次期当主に相応しくないともう一度むちで叩かれる回数が増えるだけだと理解している。

 だから、うやうやしく頭を下げ、膝を着いて謝罪をする。顔を上げずに、自分の靴先だけに目を落として、どうか彼女の機嫌が悪くありませんようにと祈っていると、継母おかあ様は、気が済んだのか「わたくしがいじめてるみたいじゃない」とだけ言って僕の腹を思いきり蹴飛ばすだけでその場から去って行った。

 むちで叩かれた傷はすぐに治るし、蹴られた鳩尾もたいして痛くはなかった。

 だが、嫌悪感に満ちた瞳を見ると頭のてっぺんから爪先までが冷たくなって、凍ってもいないのに美味く動けなくなる。

 それに、平気な振りをしていると更にキツい折檻が待っているから……僕は尻餅を着いたまま顔を俯けていた。

 継母おかあ様の足音がすっかり聞こえなくなってから身体を起こして、服に付いた埃を払う。

 溜め息を一つだけ吐いてから自室へ戻ろうとした。


「坊ちゃん」


 低く、柔らかい声が唐突に聞こえて、金縛りに遭ったみたいに動けなくなる。

 ざりざりと全身の内側を軽石で削られたみたいに全身がぞわりとして胸が早鐘のような速さで脈打った。

 聞いたことの無い蠱惑的な声に急に襲われた僕は、思わず動きを止めて声が聞こえた方向へおそるおそる視線を向ける。


「俺にドレスは似合いませんよ」


 心の中を言い当てられて焦るよりも先に、顔がカッと赤くなった。

 この時、僕は初めて血を吸う獣ヴァンパイアの声を聞いたのだ。そして、僕がずっと淡い恋心のようなものを覚えていた存在が「彼女」ではなく「彼」だと知った。

 薄い唇の片側を持ち上げた時に、人間のものよりも少し細く、鋭く尖った犬歯が見えた。妖艶な笑みを浮かべた血を吸う獣ヴァンパイアを見てから胸が苦しくなり、耳も頬もまるでむちを打たれたみたいに熱くなった理由を、当時の僕はよくわからなかった。

 慌てて自室へ戻ってしまったので彼があの後どういう顔をしていたのかは見れなかった。しかし、アレはきっと化け物のきまぐれのようなものなのだろう。

 血を吸う獣ヴァンパイアは人間ではない。言葉は通じるが決して信用をしてはいけないというのは祖父からも聞いていたからだ。

 しかし、少し後から、アレが令嬢たちがよくうつつを抜かしている恋というものなのだと知った。

 それから何度も何度も、仕事帰りの父と、血を吸う獣ヴァンパイアに城内で出くわしたが、今までと同様、血を吸う獣ヴァンパイアが僕に話しかけてくることはなかった。

 だから、きっと、アレは継母おかあ様に蹴られた時の痛みで一瞬だけ見た幻なのかもしれない。

 それに、家に仕える獣に恋をするものなど当主に相応しくないに決まっている。髪色だけで次期当主に選ばれた無能の子と継母おかあ様からもよく言われていた。

 少し身体が丈夫で、夜目が利くだけの僕は、そう言われても仕方が無いだろう。赤毛や栗色だったとしても弟たちの方が僕よりも当主に相応しいかもしれない。

 しかし、父上が僕を次期当主に相応しくないと言わない限り僕は努力し続ける資格があるのだ。

 だから、今はがんばるしかない。

 すぐにそう思い直した僕は、彼への気持ちを必死に押し隠しながら当主になるための勉学に励むことにしたのだった。

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