あの場所までの軌跡
空風遊祐
第1話 のぞみのひかり
1940年代。朝鮮総督府鉄道での話。
空がオレンジ色に染まり、太陽の光が少しずつ弱くなっていく夕方、ホームの端で少女はまっすぐ続く線路とオレンジ色の空を眺めていた。少女の名前は“のぞみ”。彼女が眺める景色の中で、黒いモヤッとした線がオレンジ色の空に向かって伸びている。その根本には黒い蒸気機関車が頭と足元から煙を吐きながらこちらに走ってきていた。
「のぞみー!」
少女“ひかり”が蒸気機関車の機関室から半身乗り出して手を振っていた。のぞみも手を肩の高さで静かに振り返す。真っ黒な蒸気機関車と牽かれる客車の列車がのぞみの横をゆっくり通り過ぎる。急行列車「ひかり」が釜山桟橋駅に到着するところだ。
のぞみは後を追うように蒸気機関車の停止位置に向かう。客車からは大きな荷物を持った紳士、子供を連れた母親、日本の軍服を着た軍人、いろいろな乗客がぞろぞろ降りてきている。そんな中、小柄なのぞみは自分の背丈の2倍ほどある人の波をかわしながら機関車まで急ぐ。踏み潰されないように、乗客にぶつからないようによける。
ようやく人の波から出ると、目の前には真っ暗で巨大で,鼓動のように煙を吐く蒸気機関車があった。のぞみの背丈より高い機関室から、小柄な少女が梯子を降り、ホームにスタッと降りる。
「のぞみお待たせ!」
少女“ひかり”は顔が少しススで黒くなっていたが、それでも輝くような笑顔を見せる。
「おかえり、ひかり」
のぞみは答えるように微笑みで迎える。
「今日も異常なし。ここからはよろしく!」
「うん。ひかりもおつかれ。」
のぞみとひかりは、ハイタッチしてすれ違う。これは「急行ひかり」と「夜行急行のぞみ」が交代する時の挨拶だ。のぞみは機関室に繋がる梯子を上る。
機関車を客車の反対側に連結した後、急行ひかりと走ってきた列車は夜行急行のぞみとなって新京に向かって出発する。ひかりは列車が見えなくなるまで見送る。ひかりは昼間の急行で、のぞみは夜行急行。一緒に走ることはなく、昼と夜で交代する間柄だった。
夜の線路を蒸気機関車は力強く走る。のぞみと機関士、機関助士は、眠気対策のためよく会話している。普段は他愛のない話をする。
「俺はこの腕でパシナ形を運転したいんだ。」
機関士は前を見ながら夢の話をする。
「それって特急あじあ号っすか?」
「パシナ型って、あの大きい機関車だよね?」
機関助士とのぞみは問いかける
「そうさ。あの豪華列車を運転するのが機関士の夢ってもんよ。」
「それわかるっす。俺も運転してみたいっすね。」
「お前はまず、一人前の機関士になってからだな!」
機関士は笑いながら言う。
「そんなの、すぐになってやりますよ!」
「口だけは達者な奴だな!」
機関士と機関助士は互いに笑い飛ばす。
そんな二人を見てのぞみも微笑む。
「機関士ってそうなんだね。僕は考えたことなかったよ。」
「え、じゃあ、のぞみの望みはないのか?」
「僕の名前で遊ばないでよ。」
機関士とのぞみは笑う。そんなのぞみの望みは無いことは無かった。
「僕はお客さんをちゃんと運べれば充分だよ。」
機関士は少しがっかりした。
「真面目っすねえ。もっとこう……金が欲しいとか、幸せになりたいとか、いろいろ あるんじゃないっすか?」
「僕は列車だよ。お金があっても仕方がないし、お客さんをしっかり送り届けられれば幸せだよ」
「健気だねえ。ひかりと走りたいとかはないのか」
のぞみは少しびっくりした。そんな発想はなかったからだ。のぞみはあくまで列車である。決まった時刻で走るのが当たり前だった。
「まさか、僕とひかりの役目は別なんだよ。ムリムリ」
その時、胸が少しモヤっとした。
なんだろう、この感覚……
この疑問が分かるまで少し時間がかかった。いや、間に合わなかった。
1944年、戦況の悪化により、のぞみとひかりは廃止。のぞみとひかりは朝鮮の地から姿を消した。二人は永遠にお別れとなった。突然のことで、別れを言う間も無かった。
この時に気付いた、あの時の感覚。
のぞみはひかりと一緒に走りたかった。一緒にお客さんを送り届けたかった。
これはのぞみの“望み”なんだと……
約20年後。ひかりは東海道新幹線の開通と共に登場し、戦後の人々を希望の渦に巻いた。ここから日本は飛躍的に発展していくことになる。ひかりは大きい役割を果たした。
一方のぞみは……そんな日本、世界のことを知る由もなく、真っ暗な闇の中で目を閉ざし続けていた。音も無く、誰もいない。どこまでも続くような暗闇の中。のぞみはそっと目を閉じた。もう永遠に目を開けることはないだろう。
誰にも気づかれることなく、誰にも記憶に残らず、のぞみは消えていくと思われた。
戦争から40年程が経ったある日。
東海道新幹線では新たな新幹線列車が走り出そうとしていた。時速220キロから時速270キロに大幅にスピードアップし、東京から新大阪を2時間半で結ぶ、新型車両も用意された。新列車の名前の候補は「たいよう」、「きぼう」、「みらい」、「つばめ」「エース」の五つ。有力候補は「太陽」と「希望」だった。
最終的には「きぼう」がJR東海で内定した。「きぼう」は国鉄時代に修学旅行列車で使用されていた名前だ。
列車名を決定する委員会では、あるエッセイストの話が出る。
「一応父からの伝言なんですけど、日本の列車の名前はすべて大和言葉で付けられてきたそうです。『希望』を大和言葉にすると『のぞみ』ですね。」
のぞみは目を覚ました。
「……ん?……呼んだ……?」
遠くから呼ばれた気がした。
のぞみは目を開けた。目の前はどこまでも続く暗闇。だが目を閉じる時とは違う。少し明るく感じた。光なんてないはずの空間なのに。
のぞみは後ろを向いた。
暗闇の中にポツンと点のように小さな白い光があった。のぞみは久しぶりの光のせいか、眩しくて目を細めた。でもすぐに慣れた。恐怖を感じることもなかった。むしろ不思議と安心感があった。
呼んだのは光なのか。のぞみはまだわからない。
「新しい列車は……のぞみで!」
明らかに光から声がした。しかも新列車の名前にのぞみと、はっきり聞こえた。
「僕を呼んでいる……いかなきゃ!」
のぞみは光に向かった。暗闇の中で遠近感が全く無く、光が遠いのか近いのかわからないそれでものぞみは向かう。希望の光に向かって。
光はどんどん近くなり、やがてのぞみの目の前は白い光に包まれた。眩しくて目を開けられなかった。
眩しさが落ち着き、のぞみは目を開ける。同時に周りの音もボリュームが0から上がるように聞こえ始める。
その瞬間、バシャバシャと音がしてフラッシュが焚かれる。のぞみは反射的に目を細め、手を目にかざす。
「のぞみだ!」「のぞみが降りてきた!」
フラッシュが落ち着く。のぞみはかざした手を下ろし、周りの光景に目をやる。
足元には赤い絨毯、左横にはビシッと決まったスーツを着た初老の男の人、目の前にはこちらに向けてカメラを持っている大量の人達。右側にはピカピカの白いボディーに青色の線が入り、空気を切り裂くナイフのように鋭く尖った形をした新型新幹線車両、300系の姿があった。
1992年3月14日にのぞみ号は新型車両、300系でデビューした。今はその出発式である。のぞみは東京駅でのぞみ301号の出発式で姿を現した。周りの人達はのぞみに向かって祝福の拍手をしている。
眠っていた48年の間に、景色も文化も鉄道も知っている時代とすっかり違っていた。着ている制服も違い、ピカピカのJR東海の服。そんな新時代に降り立ち祝福される。まさかまた人を乗せて走ることが出来るなんて思わなかった。それだけでのぞみは泣きそうなくらい嬉しいことであったが、今は出発式。そんな姿は見せていられない。列車としての1ページ目だ。のぞみは深呼吸する。
「初めまして」
のぞみが喋り始めるとカメラのフラッシュが激しくなる。
「ボクは……」
報道陣のカメラのフラッシュが眩しい。そんな中、同じホームの反対側の番線に100系の回送列車が入線してきた。のぞみは声を止めた。
100系の側面方向幕には「ひかり」の文字。
「もしかして……」
のぞみは舞台から出発式そっちのけで100系を見る。100系が止まると運転席の扉が開いた。そこから自分と同じくらいの背丈の少女が出てきた。
「…………!」
見た瞬間、心臓が締め付けられ、目尻に熱を感じた。
「のぞみー!待ってたよー!」
と、ひかり手を振っている。制服は変わっているが、それ以外は変わらないひかりの姿が目の前にあった。
「ひかり!」
のぞみはひかりに向かって走る。
「ひかり、また……会えた……!」
のぞみはひかりに抱きつく。のぞみから48年分の感情が溢れて、目から頬に涙が流れる。ひかりは優しくのぞみの頭を撫でる。久しぶりなひかりの暖かさを感じる。
「私もずっと会いたかったよ。のぞみ、これからは一緒だよ。一緒に走ろ!」
ひかりはのぞみの涙を手で拭いとる。
「うん、走る。ひかりを追いかける!」
ひかりは変わらない輝く笑顔で頷く。
「あ……」
のぞみの耳元でひかりが思い出したかのように、素の声を出した。
「ごめんね。まだ出発式の途中だったね。」
ひかりはのぞみから離れる。
「え、でも……」
「話はこれからたくさんできるでしょう?今は列車の1ページを決めないとね。」
ひかりはのぞみの涙を手で優しく拭き取る。
「ほら、アナタはいっぱいいる人達の希望の列車、のぞみなんだよ?」
「……うん……」
のぞみは、出てくる涙を袖で拭いて報道陣の方に向いた。
「初めまして。ボクはのぞみです。一生懸命走るのでよろしくお願いします!」
のぞみは敬礼する。ひかりほど輝くような笑顔は出来ないが、精一杯の笑顔を見せる。涙がまだ残っているかもしれないけど、久しぶりに本心から笑顔になれた。
敬礼を下すと、隣のひかりが
「ナイス!」
と朝鮮でやっていたように片手を顔の高さに上げる。これは昔やっていたアレだ。
「ひかり、これからよろしく!」
のぞみは48年振りにひかりの手に自分の手を当てる、ハイタッチをした。これは入れ替わりのハイタッチではない。一緒に走るハイタッチだ。これはのぞみが朝鮮時代に望んだことだった。
そんなことをしている間に、のぞみ号の出発の時間が迫っていた。出発のベルが鳴る。
「じゃ、いってくる」
「うん。一番列車、しっかり走ってね!」
のぞみは300系に向かう。乗務員扉からのぞみはひかりに手を振った。
ひかりも手を振り返す。目尻から一滴の涙がこぼれたのが見えた。
その後も時は流れ、車両は700系、N700系、N700Sになっても関係は変わらない。のぞみはひかりと一緒に同じ線路を走っている。
これからも走り続ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます