この世界の暖かさ

 東矢との通話を切ると世界は再び柔らかな安息に包まれた。

『藤友君は嫌がってない』

『外に出てもやりたいことがない』

 それも確かに事実には違いない。

 アンリには見透かされているのだろう。俺の生活は不運に毒され、逃げ出したいと心の底から願っている。だから一見、不運が訪れない花子さんを心の底からは嫌がっていない。そして俺に長らく訪れることのなかった平穏をもたす花子さんの中を、確かに快適には感じている。

 ここはとても生ぬるい。危険なものは何もない。花子さんは俺を大切にしている。正直なところ平穏をもたらす花子さんに、今では俺も少しばかりは好意を抱いていることは否定できない。ここにいれば安全だ。平穏だ、そう感じ始めている。

 俺が最も求めているのは平穏だってことを、アンリは知っている。

 

 そっと手を伸ばせば、たまご色の壁はふよふよと後ずさる。

 なんだか、優しくて心地がいい。外部刺激も何もない、やわらかな空間。こんな安らぎはいつぶりだろうか。

 ここ十年ほど、平穏なんて俺の生活には影も形も見当たらなかった。

 俺は恐ろしく運が悪い。

 道を歩けば物は落ちてくるし車は突っ込んでくる。人間関係はすぐこじれるし、脅されたり襲われるのもいつものことだ。変なことに巻き込まれないよう注意に注意を向けて、それでも不運に見舞われる。一瞬でも注意を怠れば命がいくつあっても足りない。

 けれどもここにいる限り、おそらく花子さんが守ってくれる。

 いいことも起きないだろうが、俺の人生にはもともといいことなんて起きない。思えばまともな好意を向けられるのも随分久しぶりだ。まともが何かというのはさておき。ここにいれば何も心配することはない。腹も減らなさそうだし、困ることもなさそうだ。何も。

 だが。

 次第に霞がかかってくる頭を振りかぶる。

 俺が求めている平穏はそういうことじゃないんだよ。

 組んだ手の甲に爪を立てる。ギリリと唇を噛む。味わい慣れた痛みと血の味は、随分久しぶりなものに感じられた。このは兆候は危険だ。まだ捕まって半日ほどのはずなのにすでに時間の感覚もあやふやだ。


 ふいに怒りが湧き上がる。俺は決して認容できない。してはならない。

 平穏な暮らし?

 ああ、求めているとも。俺が一番に欲するものだ。

 けれどもそれは被害者として加害者から与えられたいものじゃない。与えられたものはいつ取り上げられるかわからない。そんなものには寄って立てない。

 将来を任せる? そんなことは唾棄すべき行為だ。

 俺の求める平穏は、俺が選んで自分でつかみ取る。

 俺の人生は俺が切り開く。

 不運に屈しないと決めたとき、俺はそう決意した。

 意地とか、プライドとか、矜持とか、他人には大して意味がないものかもしれないが、俺が俺であるためには必要だ。そうでなければとっくにあきらめて、既にその辺で野垂れ死んでいる。


 アンリは魂が欠けている。

 俺の意思には興味がなく、結果にしか目を向けない。

 面白いと思ったのが一番だろう。そして善意で俺をここに突っ込んだ。話は全く噛み合わないが、アンリは通常以上の善意は持ち合わせている。

 その独善は、俺の意思を考えるなどという発想もなく、アンリの考える俺の幸せという結論を俺に押し付け、いいことをしたと満足している。そんなことはわかっている。

 つまり、アンリはもともと俺の味方ではなく、俺にとってはその圧倒的幸運の矛先を制御しなければならない最も強大な敵なのだ。そして今、その意思は俺の意思を押しつぶそうとしている。

 つまり今となっては、ことこの現象においてはアンリは明確な敵だ。

 要するに覚悟の問題だ。俺は俺の敵を許さない。アンリが俺をここに押し込めようとするのなら、無理やりここを出るまでだ。俺が俺であるために。


 愚痴はここまでだ。俺はここを脱出しなければならない。

 ならばその算段をつけよう。

 現状の分析からだ。口元を手で隠し、思考を保つために唇に爪を立てる。俺はこのままここを出られるか。


 最初に対象の特定だ。

 花子さんが『学校の怪談』であることは確定とする。

 何故なら花子さんは学校から出られない。それに、花子さんたちと話した結果、花子さんたちには名前等の個別識別名称も設定以外の背景・過去の記憶も有していなかった。つまり学校の怪談としての要素以外持ち合わせていない。

 次は『学校の怪談』の消滅要件だ。

 東矢の推論だと、学校の怪談は学校というフィールドが展開される限り維持される。ただし学校の怪談といっても都市伝説の類と同様な噂を起点にしているものだろう。そうするとおそらく噂がなくなれば消滅するだろう。

 それから『学校の怪談』である以上、学校に存在しないものや不自然なものは成立できない。桜の木が切り倒されたりプールがなくなれば『桜の下で首を吊った女子』や『プールで溺れて死んだ男子』は消滅するだろう。この学校に本物の『トイレの花子さん』がいないのは、おそらく高校のトイレに小学生がいるのはおかしいからだ。

 結論は否。仮に出られるとしても随分先だろう。

 こんな先の、起こるかどうかわからないことを期待するのも難しいし現実的じゃない。何より俺の精神はもうそれほど保たない。このままではその遥か前に平穏に溺れて魂を失う。


 自然的な解決が不可能なら外部要因の検討をする。

 俺を閉じ込めているのは『学校の怪談』だが、その理由というか原因はアンリの命令だ。

 アンリに俺の感情が見透かされている以上、『俺が外に出たほうが幸福である』という方向で説得を試みるのは不可能だ。そうすると、俺がここにいる方が不幸であればいい。せっかく安全だと思って花子さんに突っ込んだのに、かえって俺が危機的状況に陥る。結果は何も残らない。

 そんな状況ならばあるいは、アンリにとって期待外れだろう?

 だからやってやろうじゃないか。不幸は俺の隣人だ。俺はもともと不幸で、幸福に満ちたこの地獄を俺は抜け出す。

 このパターンは気が進まないが、仕方ない。

 一か八かなんて糞食らえだが、仕方がない。

 そして俺はアンリの暴力的な幸運を、俺の不幸と同じ程度は信じている。つまり、仕方のないこの結果は、俺が不幸から逃れられないようにアンリも幸福から逃れられないのだ。そしてその相克は、いつも少しだけ俺が打ち負けている。つまり、仕方がない。

 よし、やろう。


 東矢にメールを飛ばす。

 登校時に持ち込んだカバンから充電用ケーブルを取り出しシャツの長袖をまくり、左上腕をきつく縛る。ペンをケーブルに絡めて捻り、より硬くひき絞る。すぐに血流は悪化し腕から先は重くなり、すぐに冷たくなってくる。ハンカチを用意する。他はいらない。

「花子さん、手をつないでいいかな」

『て』

 手を伸ばすと、壁は逃げなかった。

 その表面がにゅるりと飛び出て人の手の形を作る。

 握手する。どことなく人肌より少し暖かいくらいだな。硬度はある。

「花子さん、俺はね、花子さんのこと結構好きだよ。でも、外に出してはくれないんだよね?」

『ここがいいです。わたしはハルくんをまもる』

 花子さん、いいひとではあるんだな。常識は違うんだろうけれど。アンリはさらに常識が異なるわけだが。

 花子さんは一時的にでも俺に平穏をくれた。確かにここが嫌いなわけじゃない。でも、俺はここにはいられない。だからこの時間はもう終わらせる。


 GPSで東矢が隣にいるのを確認して電話をスピーカーにする。

「花子さん、守ってくれてありがとう」

 ポケットに忍ばせていたツールナイフを開いて左前腕に突き立てる。ここにいれば俺が不幸になる。ここにいれば俺は死ぬ。ここにいれば俺は守れない。そんなアンリの目的とかけ離れた行為は花子さんを拘束しないはずだ。

 破れた静脈から鼓動に合わせてどくりどくりと血が吹き出る。傷口にハンカチを押し当て心臓より上へ持ち上げる。応急手当なんて基礎の基礎だ。どうすれば死に難いかなんて熟知している。

 花子さんがわたわたと慌てる様子を感じる。

「花子さん、ここ、血がでているんだ。中身が出ないようにギュッと押さえてて。東矢、すぐ救急車呼べ。花子さん、俺、このままだと死ぬ、ええと、壊れるからさ。200数えるくらいの間、強くおさえた後に外に出して。外の東矢がなおしてくれる人のところまで連れて行ってくれる」

 それから。

 だめだ。朦朧としてきたな。耐えろ俺。

「東矢、外に出たら出血部位を強く押さえて止血しろ。傷は心臓より上をキープするんだ、あとは……」

「藤友君!? なにがあったの!? すぐ救急車よぶから!」

 通話が切れたところで俺の意識は薄らいだ。

 左腕を押さえる花子さんの手は温かく、予想以上に力強かった。

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