井戸の底の星空
黒猫は僕の返事にうなずけば、近くによってきて僕の手をひっかいた。
痛っ。
そしてぽとり、と僕の血が水面に落ちた瞬間。
奇妙なことが起こった。
僕の血は水面に落ちたところから、僕を中心に黄色や黄緑の蛍光塗料のような色を帯びて、まるで床の上に薄い油膜が張るようにゆっくりと部屋全体に広がっていく。そして波紋のように部屋の端まで到達すると、一瞬水面全体がぱっと眩しく光ったあと、その光は固まってガラスが割れるように砕けてそのままばらばらと粉のように辺り一面に飛び散り、床の底に吸い込まれた。
そのたくさんの光が足の下で瞬いている。
まるで星空が広がるような光景に思わず息を
黒猫はこつこつと水面をたたき、星空の下に
『口だけ女』……。
それは確かに、ナナオさんが言った通りの姿をしていた。
まるで口の中だけをひっくり返してあらわにしたその姿。ひっくり返った肉色の粘膜はテラテラとした透明な唾液に塗れ、唾液が
まるでぐちょぐちょとした音が聞こえてくるようだ。真上からだから手足は見えないけど、そのおぞましさは僕を戦慄させるのに十分だった。
にゃあ、と黒猫が鳴く。
人と怪異は相容れぬものではないのか。僕が求めているのはこれとの意思疎通だぞ、と。
同意するしかない。水面の下にいた存在はまさに化け物。虎や狼なんかの猛獣ともさらに異なる世界に生きる存在。洞窟の床で隔てられた異なる世界に住む、まさに相容れない、もの。
実感として、明確に感じた僕の事実。
その大きな『口だけ女』は僕に気づき、ゆらりゆらりとゼリーの海を泳ぐように水面、つまり僕の方に近づいてきた。その大きく暗黒に開いた口腔に僕を飲み込むために。
思わず後ずさる。もはや恐怖しか浮かばない。
ごめん、ナナオさん、これは無理だ。
そう思った時、背後からダンッダンッと何かを蹴る勢いの良い音がして、バチャッという水が激しく跳ねる音がした。
まさか。
「ボッチーどこだっ!? 大丈夫か!?」
「ナナオさん!? なんで来た!?」
ナナオさんは僕の声と床に散らばる星空の灯りを頼りに、一直線にこちらに向かって走ってくる。
黒猫は慌てたように、にゃぁ、と鳴いてナナオさんの方に向かう。
危険かも!
「ナナオさん入ってこないで!」
黒猫の様子からまずいと思ってそう叫んだけど、すでに遅かった。ナナオさんは部屋の入り口で突然、とぷり、と床に沈んだ。まるで、突然海に落ちたように。
「なん……これ……」
慌てて駆けつけたけど手が届く寸前にナナオさんは頭の上まですっかり床の下に沈んでしまう。手を伸ばしても透明な床に阻まれて、ナナオさんに届かない。全身の血の気が失せる。体が全部氷になったようだ。
ドンドンとナナオさんが落ちた床を叩いても表面でピチャピチャと水が跳ねるばかりで、星空の下には届かない。ナナオさんはブクブク言いながら、床の下からこちらに手を伸ばす。僕らの指先は接する間際で床の表面に弾かれる。
「ねぇ、なんで!? なんでなの!? なんで届かないの!?」
僕は焦って黒猫に怒鳴った。何とかできるのは黒猫だけだと思ったからだ。けれども黒猫は首をふるばかり。
そのうち大きな『口だけ女』は泳ぐようにぶくぶくゆっくりナナオさんのほうに近づいて来る。
「ナナオさん! 逃げて! 反対側に!」
声が届くのかはわからない。けれどナナオさんも『口だけ女』に気づいて表情をこわばらせた。反対方向に逃れようともがく。でも液体の粘度が高いのか方向転換もままならない。
急いで『口だけ女』の上に移動してどんどんと床をたたいて注意を引き付けようとした。けど『口だけ女』は僕なんかには見向きもせずに、ナナオさんにゆっくりと近づいていく。
冷たい床は何度叩いてもアクリル板のように僕の手を固く跳ね返し、びくともしない。それでも僕ができることは、必死に床をたたくことしかない。僕の焦りと行動は何の意味もなく、ただ時間が過ぎていく。過ぎて、『口だけ女』は次第にナナオさんとの距離を詰めていく。
ぐるおお、という低いうめき声が聞こえ、ナナオさんの表情が絶望に染まった。
「ねぇ! お願いだから何とかして! 僕にできることならなんでもするから! お願い!」
僕は黒猫に向かって声を張り上げる。
黒猫はふと、即身仏のほうをみた。
その後、にゃお、と僕に言った。
本当にいいの?
僕にはそう聞こえた。僕は大きくうなずいた。
その瞬間、黒猫の姿は床をすり抜け、星の瞬く闇にとけた。そうして床の下の星空のきらめきがすぅと消え去り真っ暗になった。
その瞬間、僕とナナオさんを隔てていた透明な床ははらりとほどけて繊維状に拡散し、僕の体に何重にも絡みつく。それと同時に僕も粘度の高い液体の中へどぼんと落下した。
ちょうど、『口だけ女』とナナオさんの中間あたりに。真っ暗なのに、不思議とその液体の中では周囲の状況がよく把握できた。
「その手紙を遠く投げよ」
唐突に頭に声が響く。手紙!?
ナナオさんを振り返ると手に何かを握りしめている。それを奪い取ってなるべく遠くに放り投げた。そうすると『口だけ女』はふよふよと手紙に向かって漂っていった。
その後、どうどうという大きな何かが動く音がして、僕らの体はふわりと浮き上がり、僕は意識を失った。
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