第17話

──無心に祈りを捧げていた私は、そっとドアをノックする音で我に返った。


「……どなた?」


「メリナでございます」


「いいわ、入って」


「失礼致します。……リヴィアお嬢様、少しでもお休みのお時間を挟んでくださいませ。朝食の後からずっとお祈りなされて……もう午後も3時になりますわ。お身体に障ります」


気遣わしげにメリナが話す。ここのところ、毎日のように続いているやり取りだった。確かに疲労感で身体が重い。しかし、それ以上に心が重くて仕方ない。


「……そうね。お茶でも頂こうかしら」


心配してくれるメリナに応えて休憩する事に決める。メリナは「ご気分がすっきりなさるように調合して頂いたハーブティーがございます、すぐにお出し致しますわ」と言って、一旦退室した。おそらく、私の為に懸命に考えて用意させてくれたのだろう。メリナの心配りが身に沁みた。


マリアライトが生命の樹を呼び出してから、両親の態度は一変した。マリアライトを事あるごとに褒めそやし、マリアライトは聖女なのだともてはやす。魔術に目覚める事すら出来ていない私への風当たりは厳しい。救いは皇太子様が変わらず私を信じて下さっている事だった。毎日のように私が健やかであれるよう配慮なさった贈り物を遣いの者に運ばせて来て下さる。


しかし、贈り物が私へと届けられる度にマリアライトの機嫌は悪くなり、物や人に当たり散らすのだ。特にメリナへは尖った態度で落ち度もないのに怒鳴りつけてくる。わざと聞こえるようにしているのか、私の部屋の前でメリナに言いがかりをつけて激しく叱責する声は日に日に酷くなっていた。


「──あら、それは何?」


まただ。ドアの向こうからマリアライトの高圧的な声が聞こえてきた。


「リヴィアお嬢様がお祈りを長いお時間捧げられてお疲れですので、ハーブティーをご用意したところでございます」


「ふうん……何を使ったお茶なの」


「ご気分が良くなるよう、ローズヒップを中心にリンデンやカモミール等を配合致しております」


メリナの声が固い。それもそうだろう、謂れなき叱責は単なる罵倒で言葉による暴力だ。私はメリナに助け舟を出さなければと、長時間跪いていた為に不調を訴える足を奮わせて立ち上がった。


「それ、良いわね。私ちょうど気分が優れないの、私の部屋に運びなさい」


「ですが、こちらはリヴィアお嬢様にご用意したお茶でございますので……マリアライトお嬢様には、同じお茶をリーファに運ばせ──きゃあっ!」


メリナの悲鳴、そして続いて耳にしたのは物が割れる音。一歩遅かった。私は己を不甲斐ないと焦り、慌ててドアを開けた。


そして、目に飛び込んできた惨状に言葉を失う。


トレイに乗っていたであろう茶器は全て床に落ちて砕けており、その場にうずくまるメリナは熱いお茶を浴びせられたのか服の胸許に大きな染みが出来ている。一刻も早く脱がせて冷やさなければ、メリナに消えない火傷痕が残ってしまう。私はメリナに駆け寄ろうとして、けれど長時間跪いていた為か足に力が入らず、メリナの前に頽れた。


「──リヴィアお嬢様!」


「私は大丈夫よ、それよりもメリナ、早く下がって手当てを……マリアライト、あまりにも横暴だわ、なぜこのように残酷な仕打ちが出来るの!」


「あらお姉様ったら廊下に這いつくばって情けないお姿ですこと。その融通の効かない無能なメイドと合わせてお似合いですわ。はしたなく声を荒らげておいでですけど、ご自分の立場がまだお分かりにならないの? メイドが無能なら、それを使う主も大概無能ですわね。この私に意見しようなどと身の程知らずだわ」


悪意に満ちた言葉を次々と投げつけられ、私は顔面蒼白した。このような扱いを受けた事がなかった為か、衝撃で咎める言葉も浮かばない。


「マリアライト……あなた……」


「大体、国王陛下も国王陛下よ。さっさと私こそ聖女だとお認めになればよろしいものを、幼いから時期尚早ですって?──冗談じゃないわ! 大事なのは年齢なんかじゃなく実績よ。お姉様みたいに魔術にさえ目覚められない出来損ないが、のうのうと皇太子様の婚約者の座に居座るだなんて厚かましい!」


話しているうちに鬱憤が爆発してきたのか、マリアライトはあろう事か国王陛下まで誹謗し始めた。いくらまだ子供でも、この発言が外部に漏れたらマリアライトもただでは済まない。とにかく彼女を落ち着かせなければ、この家門まで危うくなる。


「──誰か、リーファ、ショーン、早く来てちょうだい!」


私は声を振り絞った。だが、震え上がった声は力がなく張りもない。


マリアライトは私を見下ろしながら嘲笑い言葉を続けた。


「本当にお姉様は無様ですことね、こんな情けない者に婚約者扱いで貢ぐ皇太子様も大概だわ。私はこの世を憂いて生命の樹を呼び出した身ですもの、聖女不在の状態をだらだらと続ける国の未来が嘆かわしい限りよ!」


国王陛下に飽き足らず、皇太子様まで貶める発言をするとは、どれだけ己を過信しているのか。確かに13歳で生命の樹を呼んだ事実は大したものなのかもしれないが、思い上がり過ぎだ。ここにウィルドでもいいから居てくれたら、マリアライトの暴言を止めてくれるであろうに。


それに、そもそも皇太子様は私の事を思って贈り物と言う形で助けて下さっているのだ。その真心を口汚く罵られ、蔑まれて私の心に怒りが湧いてくる。


──だが、魔術にさえ目覚められない出来損ないと言う言葉は私が自覚する以上に私の胸に刺さった。思うように言い返せない原因には、それが大きい。


どれほど祈りを捧げてきただろう?


なのに、暗中模索で力に目覚めるという感覚さえ掴めないのだ。マリアライトとの関係が正常な家族として成り立っていれば、目覚めるきっかけになる何か予兆等を聞けたかもしれない。けれど、それは到底望めない事なのだ。


「──マリアライトお嬢様、リヴィアお嬢様、いかがなさいましたのですか!?」


散々に罵詈雑言を浴びたところで、ようやくショーンの声が聞こえた。思わず目頭が熱くなる。滲みそうな涙を堪え、唇を一度強く噛み締めてから私はショーンに口を開いた。


「メリナが熱いお茶を浴びせられてしまったの。ショーン、どうかメリナに早く手当てを受けさせてあげて」


「メリナ、──ああ、お茶を浴びた範囲が広すぎるわ。立てる?」


「……私は大丈夫です、それよりもリヴィアお嬢様を……マリアライトお嬢様から酷いお言葉を……きゃっ!」


瞬間、メリナがマリアライトに胸許を蹴りつけられて床に倒れ込む。マリアライトは激昂して「一人前に告げ口じみた真似をするつもり? 何て躾のなってないメイドなの、使用人ごときが私を貶めるとは!」と喚いた。


「マリアライトお嬢様、メリナには私から良く言って聞かせますので、ここはお収めくださいませんでしょうか?──次代の聖女様でございますもの、どうか広いお心でお許しくださいませ」


「次代の聖女、ね……私が聖女になるのは当然の事だけれど、ショーン、メリナには両手に20回の鞭打ちを受けさせなさい。それが条件よ。──私は狭量ではないから、火傷の手当てをした後で良いわ。許してあげる」


あまりにも惨い。この人を人とも思わない高慢で残酷な態度は、何をどうすればマリアライトがそれで平然としていられる所以になるのか。


「マリアライト、鞭打ちなどやり過ぎだわ。メリナは既に火傷を負っているし、あなたはメリナの火傷している胸許を蹴って罰したわ。これ以上、何の折檻が必要だと言うの」


「──お姉様はお黙りくださいな、私はショーンに命じましたの。ショーン、良いわね?」


……この時、屋敷でマリアライトに逆らえる者はとうに存在しなくなっていたのだ。マリアライトの願いで教育を任されたモルダウ夫人でさえ、既に匙を投げて太鼓持ちに成り果ててしまっていた事は後から知るが──この時は、ただその事をまざまざと見せつけられて、私は奈落に落ちてゆく心地を味わっていた。


「……かしこまりました、マリアライトお嬢様。さ、メリナ、いらっしゃい」


「……はい……」


うなだれたメリナがショーンに連れて行かれる。ショーンの事だ、火傷の手当てはきちんと受けさせてくれるだろう。しかし、お茶を浴びせられてから時間が経っている上に足蹴にまでされている。私に仕えてくれているメリナが、それによって酷い事をされるのは胸が潰れるようだった。


マリアライトは、勝ち誇った様子で「では、失礼。お姉様はご自分で立ってお部屋に戻るとよろしいわ」と言って、つかつかと靴音を鳴らして立ち去った。


酷い有り様の廊下に残された私は、通りかかった他のメイドが声を上げて駆けつけてくれるまで、そこで打ちひしがれていた。


おそらく、退るにも進むにも、地獄が待ち受けている。そんな事をぼんやりと思いながら。現実味をもって痛感するには、茫然自失に陥り過ぎていたのだ。


──ああ、それでも祈らなければ。皇太子様のご期待に恥じないように。あのお優しいお方を裏切らないように。


力に目覚めなければ、ならない。


そう思う思考も、どこか遠い。だが、その思考こそが唯一残された救いであり灯火だった。


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