わたしたちの関係
桐野
わたしたちの関係
第1話 最後の夜だから
「……あんた、昔からそういう所あったよね」
独身最後の夜、私の上に跨ったのは上半身裸のレスキュー隊ではなかった。海外ドラマで良く観る独身最後の夜に羽目を外すアレ。
私はすっかり呆れていた。彼女はこれに対して何も答えずに、私を硬いベッドの上に押し倒した。
長い髪が私の頬に何度も触れた。彼女の嫌いなホテルのシャンプーの香り。天然ハーブのオーガニックシャンプーの香りに散々文句を言っていたのに、結局使ったのかと思うと少し笑える。
手を伸ばして彼女の髪を耳に掛けてあげると、幾分くすぐったさがなくなった。まだしっとりと濡れた髪、髪を丁寧に乾かす時間もなかったのだろうか。いつもあんなにうるさいのに。
彼女は髪の手入れに並々ならぬこだわりを持っている。シャンプーとトリートメントは近所のドラックストアでは手に入らないものだし、ヘアオイルは日替わり。ドライヤーと櫛は目が私からすれば信じられないくらい高級なものを使ってる。
「ねぇ、何か言ってよ」
メイクを落とした彼女の顔は、ぐっと幼く見えた。昔と何も変わらない。唇をぎゅっと噛んで黙ったまま、瞳を潤ませている。
彼女の長い髪を伝った水滴が私の頬に落ちた。
彼女の髪はいつだって綺麗。髪だけではない、彼女はメイクにもスキンケアにもこだわる。昔から可愛い部類の女の子だったけど、高校生になってからは誰もが振り向くような美少女になった。
私は洗顔と化粧水、たまにパックをしていい気になっている。大学生からメイクポーチの中身はほとんど変わってない。同じブランドのものを繰り返し、繰り返し使っている。どうか変わらないでね、とパッケージが変わるたびに祈ったりして。
大好きなものはみんな変わってしまう。パッケージが変わるのは仕方ない。いつまでも同じでは飽きられれてしまう。でも、中身は変わらないでほしい。お気に入りだったシンプルなアイラアイナーが"ラメぎっしり"でリニューアルした時はしばらくアイライナー難民になった。
彼女は私とは正反対。洗顔はいつも儀式めいているほどルールがあって、化粧水、美容液、パックは流行りのものをなんでも試す。
昔から肌が弱くて、結局は信頼できるプチプラの老舗メーカーに戻ることになると知ってるくせに。
私を押し倒す際に床に落とした彼女のポーチから口紅が一本飛び出していた。今年の秋冬の新作、ずっと前から欲しがっていた限定品だった。
そういえば、私の結婚式の為に買ったって言ってたけ。新しい口紅、新しいドレス、新しい靴……他にも何か言ってた気がする。憎らしいほど楽しそうに話していたくせに。
薄暗い部屋の中、目の前には今にも泣き出しそうな歪む顔、こうなったきっかけはなんだったけ?
ーーそうだ、「これで、最後」だ。
私たちは小学生からの幼馴染。高校からは別々の道を歩いたけど、年に三回は必ず連絡を取っていた。お互いの誕生日と、年始の挨拶。会うのも年に数回、でも、それで十分だった。
交際を始めたのは大学生の頃、駅で偶然会って成人式の振袖の話をしてた。私には彼氏がいて、彼女には"恋人"がいた。私は当時、その"恋人"のことを異性だと思っていたが、今にして思えば本当の所はわからない。ただ、二人がとても順調だということは伝わった。
私たちはずっと親友だった。このまま彼女が"恋人"とどこか遠くに行ってしまいそうで、私は思わず「なんだかさみしい」と零した。
彼女は「私の方がもっとさみしかった」と、私たち以外誰もいない寂れた駅のホームでキスをした。
これがはじまり、だった気がするのだけど、彼女の方はそうでもなかったらしい。彼女は私一人では満足できなかったようで、いつも"別の人の気配"がしていた。ただの思い過ごしかもしれないが、私たちだってどうせ曖昧な距離感で、私を余計に辛くさせた。
それなのに、彼女は私が他の誰かと親しくなるとすぐに邪魔をする。そんな駆け引きじみたことに疲れた頃、別れを切り出したのは彼女の方だった。
確か、私の携帯に元彼から連絡があったから。用件なんて特になくて、ただの間違え電話だったのだけど。
彼女は子どもみたいに声を上げて泣いていた。当時の私は彼女を傷つけた事に対して謝ることができなかった。一言だけで良かった、言い訳することも出来たのに、私は彼女が携帯を盗み見たことに対してどれだけ傷付いたかを熱弁していた。別に彼女が無理にロックを解除したわけでもないのに。
私たちの関係を誰かに話したことはない。私たちは別れた翌日から今まで通りの"親友"に戻った。
一度肌を重ねたせいか、私たちはこれまでよりよく話すようになった。手を繋ぐのに遠慮もいらない、だって私たちはただの"友だち"だから。親友以上、恋人未満。曖昧な距離感でも十分だった。
結婚の報告をした時、こうなる予感を少しもしていなかったと言えば嘘になる。でも、先に私を振ったのは彼女の方。
「……いっちゃん。いかないで、さみしいよ」
ようやく発した彼女の声は涙声で震えていた。でも、今更どうすることも出来ない。
「……私はもうすぐ、"いっちゃん"じゃなくなるんだよ」
私の名字はすでに彼女の知っている名字ではないし、左手の薬指には私好みのシンプルな婚約指輪が嵌められている。
"いっちゃん"は私の一ノ瀬という名字から取ったものだ。呼び出したのは彼女だったけど、いつの間にか大人になっても定着していた。
『いっちゃん、いっちゃん』
彼女はいつでも"完璧な女の子"。だって体中から甘くていい香りがする。私は背ばっかり高くて、可愛い所なんてひとつもない。髪だって硬いし、手も指も骨張ってる。それなのに、彼女だけは私を"可愛い"と言ってくれる。
『いっちゃんは世界で一番可愛いよ』
ーーああ、違った。私にはもう一人いたんだ。
「……これが、最後ね」
滑らかな頬を確かめるように触れると、彼女の唇が私の唇を塞いだ。それ以上、私が余計なことを言わないように。
私よりずっと細い腰を少し乱暴に掴む。明日の為にと思って筋トレを頑張ったけど、彼女ほど美しいくびれを作ることは出来なかった。
ふと、彼女の喉が震えていることに気付いた。押し殺すように、静かに大粒の涙を零している。
「泣かないでよ、」
笑ってほしい、とは思わなかった。あの日、私を振った彼女のことを少なからず恨んでいたから。
これで、おあいこ。これで、おあいこ。
心の中で何度も繰り返し、私は彼女の横に何時間も座っていた。
嘘、本当は勝ったつもりでいた。貴方が私を捨てたから、他の人のものになっちゃうんだよって。
彼女はただ静かに泣いていた。泣かないでほしいのは、今更優しく抱き締める資格なんて私には無いと知っているから。
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