第16話 過去
「無事商品が発売になったので、アトリエ訪問は今回が最後です。」
「えー!」
菫の報告に蓮司が不満そうな声をあげる。
「別に…仕事で会わなくてもいいじゃないですか…。」
菫が言った。
菫は相変わらず仕事帰りや土日に予定が合えばアトリエに来ているし、あれから何度かここに泊まっている。二人で出かけたこともある。
「仕事で会うと、スミレちゃんがそうやっていじらしく敬語使ってるのがかわいいんだよね。」
菫が赤くなる。
「そういうの!社長に怒られるからやめてください!社長は知ってるから、ただでさえ毎週会社出るとき妙に気恥ずかしいんですよ…。」
「まーた明石さん。」
蓮司が少し不機嫌になる。
「でも今日は社長はお休みしてます。」
「何?体調不良?」
蓮司の質問に、菫は首を横に振った。その表情は妙に嬉しそうだ。
「社長と
菫は香魚子から来たLIMEのメッセージと生まれたばかりの子どもの写真を見せた。
「へぇ、おめでたいね。」
「女の子だって。超〜〜〜かわいいですよね。」
「え、うん、普通に。」
二人をよく知る菫と、香魚子には会ったことすらない蓮司のテンションには当然ながら差がある。
「出産祝い何がいいかな〜。あの二人、センスの塊みたいな夫婦だから贈り物は毎回緊張しちゃうんですよね。まぁなんでも喜んでくれるんですけど。それにしてもかわいいなぁ。」
自分のことのように喜ぶ菫に、蓮司の頬も緩む。
「お祝いになんか描こうか?家に飾りやすい小さいやつ。」
蓮司が言った。
「だってアユさんて、一澤 蓮司の絵が好きなんでしょ?」
「え!本当に!?それ絶対喜ぶと思う!」
「お祝いだったら花がいいかな。何が好きかわかる?」
「ミモザ!」
菫が即答する。
「ミモザって会社の名前じゃん。」
「うちの社名って社長の名前にも由来してるんですけど、二人ともミモザが好きなんです。」
「わかった、ミモザね。」
蓮司は笑って了承した。
「あ、でも…ちょっと悔しい…」
菫が
「他の人のために描くから?」
「ううん、香魚さんを喜ばせるのが私じゃなくて蓮司だから。」
菫は唇を尖らせた。
「何それ。スミレちゃんと付き合ってなかったら描かないけど。」
蓮司は苦笑いした。
「これ、あげる。」
帰り際、蓮司が菫に渡したのは鍵だった。
「これ…?」
「
(合鍵…)
「…うれしい…ありがとう!」
信頼されている感じがして嬉しい。
「このお
「ああ、ここ?ここは元々俺のじいちゃんのアトリエ。画家だったんだ。高校生の頃からサクラとここに住んで絵描いてたよ。いい空間でしょ。」
「うん。最初は少し寂しいかなって思ったけど、今は暖かい感じがして気持ちいい。」
「…だとしたら、スミレちゃんとスマイリーのおかげだね。」
そう言った蓮司の
菫は思わず蓮司を抱きしめた。
「いいの?仕事中なんじゃないの?」
「今日は最後だからいいの!」
「理由になってないけど。」
蓮司は困ったように笑って、菫を抱きしめ返した。
菫は蓮司と付き合い始めて、蓮司の心に空いている穴のようなものを感じていた。
時々、過去のことを思い出して哀しげな
人懐っこいようで、初めて会った日のようにどこか他人を推し量るような距離の取り方をする。
(穴みたいな…心に
『正直、あの時の個展はあんまり良い思い出じゃないんだ』
(どうして?)
『…俺は初めてじゃないし』
(誰に泣かされたの?)
『あー…学生の頃にちょっとね』
(学生の頃に何があったの?)
好きになる前は気にならなかったことまで気になってしまう。
(蓮司の過去…。年下なのに人生経験のレベルが違いそうだからなぁ…気にしない方が良いのかな。)
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