第3話 涙

結局蓮司は30分ほど菫の肩を借りて泣き続けた。

ぽつりぽつりと蓮司がこぼす言葉から、このアトリエが自宅を兼ねていること、ここでサクラという猫と暮らしていたことがわかった。サクラは蓮司が長く飼っていた猫でいつも一緒にいたが、ひと月ほど前に死んでしまったらしい。

最初は静かに涙を零すような泣き方だった蓮司だがサクラについて語るうちにしゃくり上げるような泣き方になった。

(大人の男の人がこんな風に泣くの、初めて見た。…子どもみたい…。)

背の高い蓮司がとても小さく感じた。

菫の脳裏には、肩に頭を乗せられる直前に見えた蓮司の瞳が焼き付いていた。涙で濡れた茶色い瞳がガラス玉のように輝いていた。

(吸い込まれそうなってこういうことなんだ…)

その表情や泣く様子から、蓮司にとってサクラがどれほど大切な存在だったのか想像するのは容易だった。

菫は自然と蓮司の背中に腕を回し、なだめるようにさすったりポンポンと叩いたりした。

「…スランプも、サクラが原因ですか?」

菫の問いに、蓮司はうなずくような仕草をした。

「…もう描けない…」

蓮司が小さな声でつぶやいた。

菫は小さく息を吐いた。

「無理しなくて良いと思います。」

菫が言った。

「ただ…顔色があんまり良くないように見えるんですけど…、もしかして睡眠不足とか食事してないとか…そうなってしまってるんだったら…それは良くないと思います。」

「………」

「それだけ長く一緒にいたなら、サクラだって一澤さんのことが大切ですよ。立場が逆だったら、サクラにちゃんと寝て、食べて欲しいって思うんじゃないですか?」

「………」

蓮司は少し考えて、それから肩に顔をうずめたまま小さくうなずいた。

「…寝る…」

そう言うと、蓮司はアトリエの奥にある部屋へと入っていった。

「……え…」

一人取り残された菫は大人しく帰ることにした。

「ドア…鍵開けっぱなしになっちゃいますけど…」

蓮司の部屋に外から声をかけてみるが、しん…と静まりかえってなんの返事もない。

仕方なくそのままアトリエを出ることにした。

蓮司が部屋に入っていった後、菫は広いアトリエを見渡した。

天窓から差し込む光は明るいが、蓮司の絵のカラフルな色が際立つほどあっさりとして無機質な空間は独りで過ごすには寂しいだろうと思えた。


(大好きな猫がいなくなっちゃったら、寂しいだろうなぁ…)

アトリエを後にしてからも菫は蓮司の事を気にしていた。

「あ!」

歩きながら思わず声が出てしまった。

(…契約…)

その日、菫は残りの時間で店舗回りをして会社には戻らず直帰した。


翌日

「おはようございます…。」

菫は浮かない顔で出社した。

「おはようございます。ってなんだよ川井、元気ないじゃん。」

先輩社員の柏木が声をかけた。

「ちょっといろいろありまして…」

———ハァ…

菫は溜息をいた。

(“揉めないように気をつけます”って言ったくせに揉めちゃったし…っていうか契約のこと忘れて帰ってきちゃったし…ダメ社員すぎる…)

「おはようございます。」

明石が出社してきた。

「おはようございます…。」

「川井さん、昨日どうだった?一澤 蓮司。」

「あの…それが…」


———プルル…


菫が事情を説明しようとした瞬間、菫のスマホが鳴った。画面には知らない番号が表示されている。

「出ていいよ。」

菫はペコッと頭を下げて通話ボタンを押した。

「はい」と菫が第一声を言い終わらないうちに相手が喋り始めた。

『あ、スミレちゃん?昨日はごめんね!』

(ん?“スミレちゃん”?…てことは)

「一澤さん?」

明石や他の社員が菫の方を見た。

『スミレちゃん、忘れ物してるよ。取りに来てよ。』

「え?忘れ物…?」

アトリエでは鞄から中身を出した記憶がない。

『今から来てくんない?』

「今から…ですか?」

『すぐ来てくれないと捨てちゃうかも。』

忘れ物が何なのかわからないが、捨てられてしまうのは困る気がする。

菫はホワイトボードに書かれた自分の予定を横目で確認した。

(午前中は動かせる予定だけ…)

「わかりました、今から伺います。」

そう言って電話を切った。

「……“スミレちゃん”とか聞こえた気がするけど…?」

明石が怪訝けげんそうな顔で聞いた。

「一澤 蓮司の契約、揉めてるなら俺が行こうか?」

明石が言った。

「え!?いえ、大丈夫です!」

(そもそもまともに契約の話ができてないし…)

これは挽回のチャンスかもしれないと思った。

「行ってきます!」

菫は急いで会社を出た。

(でも、忘れ物って…?)

何度考えても心当たりが全くない。

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