第2話 猫
蓮司のアトリエは平家建ての倉庫のような建物だった。コンクリート造りの室内には高い天井の天窓から光が取り込まれていて部屋が白いくらいに明るい。そして蓮司の作品のキャンバスが壁に立てかけられていたり、床に無造作に置かれている。
「作業台のとこ、テキトーに座っといて。お茶とかないから炭酸水でいい?」
「あ、おかまいなく…」
菫は蓮司の作業台兼テーブルらしい木製の長机の端に置かれた椅子に腰掛けた。一澤 蓮司の、というよりアーティストのアトリエに入るのが初めてのため辺りをキョロキョロと見回してしまう。
(レモン、パパイヤ、バラ、ラフランス、アネモネ…やっぱりカラフルでいいなぁ。あれ?でも…)
「なんか気になるもんでもあった?」
炭酸水のペットボトルとサングラスを長机に置くと、菫と長机の角を挟むように座って蓮司が言った。
「ありがとうございます。」
「飲み終わらなかったら持って帰って。捨てるのめんどくさいから。」
(自分の分もあるんだから、一本も二本も変わらない気がするけど…アーティストって変わってる…)
「で、なんか気になった絵とか、感想とかないの?」
蓮司が聞いた。
「……あの…」
「ん?」
「動物は描かないんですか?ネコ…」
———はぁっ
菫の発言を遮るように蓮司が大きな溜息をついた。
「やっぱこの話は無しだな。」
「え…」
「だってさ、スミレちゃん俺の絵に興味ないでしょ。」
蓮司が言った。親しげに名前を呼んだが声色は明らかに不機嫌だった。
「興味ない?」
「俺は基本的に静物画しか描かない。それにこの作品見たら“思ったより大きい”とか“デジタルじゃなくて絵の具で描いてるんだ”とかなんか感想言うのが普通だろ。今まで全員そうだった。」
「……それは…」
「それにあんたやっぱ無防備すぎ。」
そう言うと、蓮司は菫に触れそうなくらい顔を近づけた。
「きゃっ」
———ガタッ
菫は焦って椅子を引き、倒れそうになった。蓮司が腕を掴んで支えた。
「よく知らない男と密室で二人きりで、こんな至近距離。何されても文句言えないんじゃない?それともそれが目的?俺の絵に興味ないバカな女と仕事なんてできない。」
菫は動揺で心音が聞こえそうなくらい心臓がドキドキしていた。
「帰ってくんない?時間ムダにして気分悪いわ。」
菫の腕を離すと、蓮司は冷たく言い放った。
蓮司は作業台に背中を向けて、アトリエの奥に去ろうとした。
「む、無防備なのは…」
菫が震えた声で口を開くと、蓮司は振り向いた。
「…たしかにバカだったので、何も反論できないです。うちの社長にも、外で打ち合わせするように言われてました。でも意味を理解してなかったです…。すみません…。」
———はぁっ
蓮司が溜息を
「言いたいことはそれだけ?別に謝罪とかいらないから、さっさと帰って。その社長も部下がバカで残念だったね。」
「いえ、あの…」
「なに?」
蓮司がますます不機嫌になる。
「キャンバスが大きいのも、絵の具で描いてるのも…その…知ってたので…というか見たことがあったので…」
「…は?いつどこで?」
菫が意外なことを言ったので、蓮司は驚いた
「一澤さんの個展で見ました。青山のギャラリーで…」
「……え…」
蓮司が個展をひらいたのは4年も前で、その一回きりだった。
「あの時初めて一澤さんの絵を見たので、私にとっては一澤さんの絵は大きくて絵の具で描かれてるのが当たり前で…求められていたリアクションができなくてすみませんでした。」
「…いや、あの…え…マジか…」
蓮司は左手で口元を押さえて、“信じられない”と“ばつが悪い”と“照れ臭い”が混ざった表情をしていた。
「いや、こっちこそ失礼なこと言ってごめん。」
「動物の絵のことは…」
いつの間にか蓮司は菫の言葉に真剣に耳を傾けていた。
「個展で“自画像”って猫の絵が飾られていたので…“基本的に”静物画しか描かないかもしれませんけど…」
「………」
「それにこのアトリエ、猫がいるんじゃないですか?」
「………」
何も言わなくなってしまった蓮司に、菫は恐る恐る続けた。
「…猫のおもちゃみたいなものが…あるな、って…思ったのと…この机の脚、猫の爪の跡みたいなのがある…ので…」
菫は机の脚を撫でると、蓮司の方を見た。
(え?)
立っている蓮司の長い前髪の下、頬に光るものが見えた。
(…泣いてる…?)
「猫は…」
蓮司が口を開いた。
「…もういない」
そう言った蓮司の声は
「え…」
「…ずっとここにいたのに…」
蓮司の涙が次から次に溢れてきているのがわかる。菫は思わず立ち上がって蓮司に近寄った。
「あの、ハンカチ…」
蓮司はハンカチを差し出した菫の手を無視して、
「え!?あの…」
「サクラ…」
(猫の名前かな…)
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