第4話
僕は自分の考えを熱心に主張しようとしたが誰も気づかず、軽妙洒脱な僕の声や言葉が周囲では理解できない様子なので居心地が悪くなり、また一人で表に出た。つまり、二歳児は大人とともにいると、孤独な時間を意識せざるを得なくなる。ところが、今回は僕が外に出たのにママが気づいてしまい、五分歩いたところで見つかり、すぐに家の中に連れ戻された。夢野も翠明の姿もすでになかった。
パパは春うららかな気分に力を得たように、テレビの前でソファーに座り居眠りをしている。日の光は玉田邸の立派な屋敷にも、お粗末な我が家にも公平に照り付ける。アルミサッシの窓越しに暖かな日差しを浴びて、パパは心地よさそうな表情だ。ママは洗濯物を中に取り込むと人心地つくためにリビングルームの椅子に腰かけた。
実はママの頭頂部には真ん丸な禿がある。それをうまく誤魔化すために、他の髪をそこに乗せているが日の光や蛍光灯の光があたると透けて見える。
パパは目を覚ますと「なるほど、なるほど、女でも禿になる」と、感心したように告げる。「まあ、それほど気にならないけど」
「結婚する前から禿があるのなら騙された」
「あなただって、鼻毛が伸びているし、鼻毛や眉毛に白髪が混じっているじゃないですか。禿がみっともないのなら、鼻毛はもっとみっともない」
「女の禿は遺伝する。何故、結婚前に頭部をしっかりと見せておかない」とパパはからかい半分に攻撃の手を緩めない。
「いったい、どこの国に頭髪の検査や試験で人の優劣を判断するところがあるの」
「男の禿げ頭は愛嬌があるが、女の禿はひたすらみっともないだけだ。まあ、頭のてっぺんの禿だけなら許せるが、お前は貧乳の代表のように胸が小さい」
「それなら何故、私と結婚したの? 貧乳かどうかは見た目で分かるじゃないの」
「もっと発育すると思っていた」
「馬鹿な……。いくらなんでもそこまで、とぼけないで」とママは身体の向きを変えて近づき、怖い表情で睨みつけている。
玄関のチャイムが鳴り「御免ください」と大きな声がする。
ママは口喧嘩の勝敗を決するのを後に譲り、玄関に出てすぐに戻るとパパに名刺を手渡した。名刺には佐々木小三郎と書かれている。
「ここまで呼んでくれ」とパパが許可した。
佐々木は室内を鋭い目つきで見回した。僕はすました顔でソファーに腰かけていた。佐々木は僕を見下ろすと苦々しい表情をした。
パパは僕をヒョイと持ち上げると、横に押しのけて「そこで大人しくしていなさい」と命令した。
「さあ、ここに腰かけて。久しぶりだな。いつ上京した?」と質問した。
佐々木は「昨日、東京に着いたばかりなので、連絡が遅くなってすまなかったな」
「十年以上になるので、見違えたよ」とパパは懐かしそうに、目を細める。
佐々木はダンヒルのスーツに洒落たネクタイ姿で、髪は綺麗に七三に分けている。どうみても、パパの旧友とは思えない身なりだ。
「ところで、さっきのお子さんはいくつかな」
「いくつか忘れたが、多分二歳か三歳だ」
「相変わらず呑気だな。記者は多忙を極めていると思ったが、雇われ人の方が気楽だよな」
「記者は毎日、足を棒にして取材している。よく、取材先から怒鳴りつけられる。君なら三日も持たないよ」
「まあ、僕の方は企業を経営していると言っても、まだまだ規模が小さい。大企業の潤沢な資金力には太刀打ちできない」
「僕は学生時代から打算的な男は嫌いだった。実業家は計算しかできない。義理も人情も、頓智も分からない可笑しな連中ばかりだよな」と実業家を目の前にして、言いたい放題だ。
「実業家は恥も外聞もなく、ライバルを出し抜けて、やっと一人前だ。ある人の話では、金の延べ棒と心中する覚悟がないと務まらない」
「そんな戯言をほざく奴は、余程の馬鹿だ」
「いや、立派な経営者で超有名人だ。君も知っている。この先に住んでいる玉田社長と言えば、知らない人の方が珍しい」
「玉田だって? どうせ。つまらない男だ」
「ひどい剣幕だけど、何があった? 金の延べ棒は、ジョークだ。それほどの覚悟がないと大成しない」
「金の延べ棒と心中してもらいたいけど、それは別として、あそこの奥さんは顔がでかすぎる。態度が横柄で感じの悪い女だ」
「奥さんか、あれはあれで良くできた人だよ」
「だいたいあの女にはユーモア精神がなく、ただ強欲なだけの愚か者だと一目で見抜いたね。頓智や諧謔を理解できないほど無粋はなく、人間が小さいものはいない。無理解と性悪は一致するし、疑心と慢心しかない了見の狭い者は、罪悪そのもの、悪人そのものだ」とパパは憤慨した。
憤慨するのは分かるが、僕にはパパの言葉が思い付きの出鱈目を並べ立てたようにしか聞こえないのが残念だ。
「そんな理屈が通るのか」
「佐々木君、君は曽呂利新左衛門を知っているか」
「生憎、そんな男の名前は知らないね」
「曽呂利新左衛門は豊臣秀吉のお伽衆として仕えた男で、これがなかなか大した人物だ。ある日の事だ。新左衛門は秀吉の御前でおならをして、お仕置のために笏で叩かれた時だ。とっさに新左衛門は『屁を放りて、国二ヶ国を得たりけり、頭はりまに尻はびっちう(びっちゅう)』と、歌を詠んだ。それを面白がった秀吉から、備中、播磨の二つの国を加増された。また、別の日の事だ。新左衛門は秀吉から褒美をやろうと言われたときに『殿様のかぐわしい耳のにおいを毎日嗅がせてくれませんか』と願い出て、諸侯の前で口を秀吉の耳に寄せるようにした。それを見て、並み居る大名は陰口を言われていないかと不安になり、新左衛門に山のような贈物を届け続けた。僕としては新左衛門ほど、ユーモアが理解できる男にこそ大実業家になってもらいたい。また、それを理解できる秀吉の器量の大きさはどうだ。あんな玉田夫人とはレベルが違いすぎる。当然、ご亭主の方も大した男ではない」
「僕のように毎日、忙しく仕事をしていると、歴史だ、文学だと取り組むのは難しい。それに、その方面はあまり関心がない」
「君は顔の横幅が広い女を信用できるのか」
「可笑しな質問だよな。他人を顔や身なりで判断してはいけないのなら分かるが……。人相学には疎くて、想像もできないよ」
「最近の研究では、顔の幅の広い人物ほどサイコパス傾向が強い事実が判明している」
「例外もあるだろ」
「勿論だよ。しかし、あの女は様子からしておかしい」
「うーん、どうかな? あまりにも顔にこだわり過ぎじゃないのか」
「君のように人の顔に無頓着なのも困った」
「それも、そうかも知れないが、実は……今日ここに来たのは、神田翠明の実情を知りたくてね。それで、ここを訪ねた」
「婚約とか、結婚の件じゃないか」
「まあ、そんな感じの話を玉田邸で聞かされた」
「先日、あの大きな顔が一人で訪ねてきた」
「玉田夫人も同様の話をしていたよ。頓馬さんから話を聞こうとしたら、夢野が居て余計な馬鹿話を言うから、何が何だか分からなくなったと聞いた」
「大きな顔をするから悪い」
「何も君を責めるつもりはない。夢野君が邪魔をするから肝心な話が聞けなくなった。それで、僕によく聞いてきてくれと依頼があった。もしも、当人同士がまんざらでもないのなら纏め役としても遣り甲斐がある――そう思って来た」
「それは、ご苦労だ」とパパは冷ややかに答えたが、当人同士の言葉に気持ちが動いたのが分かる。パパにしてみれば大きな顔をする女も、ご亭主の打算的な人物も不愉快だが、当人同士には無関係だと考えていた。そこで、二人の真相を確かめようとするように「玉田家のご令嬢は、翠明との結婚を真剣に考えていそうなのか? 玉田何某も巨顔さんもどうでも良いが、本人の気持ちはどうだ」と尋ねた。
「多分だが――、まあ――、あのう……、ご令嬢は翠明君との結婚を考えていると思う」
佐々木君は自信がなさそうだ。僕は佐々木君が両人の意向を確かめずに、玉田社長夫妻から指示されたままに訪ねてきたのが分かった。大人は誤魔化せても、鋭い二歳児の目は騙せない。
「いい加減な言い方だな。単なる憶測ではないのか」パパも疑問を抱いたのか、追及せずにはいられない。
「玉田夫人の話によると、令嬢は翠明君と結婚したがっている。理由は分からないが、時々は翠明君に対する不満を口にするらしいがね」
「あの娘が翠明を罵倒するのか」
「まあ、そうだ」
「母親に似て、偉そうな女だな」
「いや、どうも相手が好きだからこそ、欲求水準が高くなり不平不満を言っている」
「そんな馬鹿な話はない。結婚前から不満を口にしているようなら、長くは続かない」とパパは自説を主張した。
「しかし、そんな馬鹿な話があるところが現実の面白いところだ。実際に玉田夫人もそう考えている。翠明の顔を“生焼けの餃子”みたいだとか、“ひょっとこに酒を飲ませたような表情”をするとか、“半人前の板前みたいな性格”だとか、色々と罵るので、胸の内では恋焦がれていると分析している」
パパはこの不可解かつ理不尽な解釈と、令嬢の思いがけない表現に驚いた様子で、黙って佐々木君の顔を穴が開くほど見つめた。
「まあ、財産や容姿から考えて、あの令嬢なら縁談が無数にあってもおかしくはない。翠明君の嫁にやる――、選択肢以外の選択肢も多い。本人に気がなければ、僕にまで探るように、両親が頼むのは変だと思わないか? 間違いなく、本人たちは相思相愛だ」と佐々木君は、さも当たり前のように断言する。早く話を進めたいと、あせる様子も見られた。
「だからな。玉田夫妻の話では、財産や名誉よりも人柄が大事だ。酒色におぼれる愚か者なら玉田家の敷居を跨がせるわけにはいかない。君からも酒や遊びはやめて学問に専念するように説得してもらえないか? 酒は一滴も駄目だと指示している。玉田夫人も君を信頼しているから言っていると思う」
パパの神経回路は、単細胞生物とあまり違わないように思える。お世辞を言われた途端に表情が明るくなり、嬉しそうに承諾した。
「分かったよ。今度翠明にあったら、酒と遊びを一切やめて学問に精進するように勧めてみるよ。まずは、本人が玉田の令嬢と結婚するつもりなのかどうか確かめておきたい」
「確かめるのも良いが……、むしろ、翠明君が警戒しないように雑談のついでに、さりげなく伝えてみてくれ」
「それは、それで難しい」
「構える必要はない。ただし、夢野を真似て、茶化して邪魔をするのは避けてほしい。今度、翠明君と話すときは、夢野君の言動に注意していてもらいたい。夢野に煽られると君の言動までおかしくなるそうじゃないか」と夢野に対する批判が続いていたところ、噂をすれば陰のことわざ通り、夢野がやってきた。
「いやあ、こんなところで珍しい男に会ったな。久しぶりだね。僕のようにいつも会っていると、頓馬君も丁重にもてなさない。君も、忘れたころに訪ねてくる方が大事にされる。この和菓子はいつものよりもうまい」と、佐々木君の手土産の「笹屋伊織のどら焼き」を頬張っている。
佐々木君はうろたえているように見える。
パパは二人の様子を見て、うす笑いを浮かべている。
夢野は口を動かし、食べるのに夢中だ。
しばらく、沈黙が空間を支配していた。僕は何故か、仏教の「維摩経」にある維摩一黙を思い出した。だが、この短い間の沈黙をどら焼きを食べ終えた夢野が破った。
「君は生まれながらの根無し草の風来坊だと思っていたが、また東京に舞い戻るとはなあ。長生きすれば、今回同様に……、また驚くような偶然や奇跡に出くわせる」と揶揄した。
夢野のジョークは、パパに話すのと同様に辛辣だ。
「君の言動には傷つくよ。自分が可哀そうになる」と、佐々木は落ち着きのない素振りをしている。
「君は海外旅行に、何度行った?」とパパは佐々木君に唐突に聞く。
「海外には二年間住んでいた。ビジネスのためにニューヨークに滞在していた。旅行なら月に一度のペースで何十か国行ったか覚えていない」
「それは、侮れないな。僕も海外旅行は、僅かにした。最近では国内旅行や、この周辺の界隈旅行が主体だな。昨年は家族で日光東照宮へ一泊二日で行った。あれは良かったよ」
「君の頓智は相変わらずだな。しかし、旅行は気分転換にもなるし、出かけて損はない。国内旅行も良いがね」
「僕は地球を三周回る予定にしている。月旅行も悪くはないと思う。その点、頓馬君は哀れだ。旅行はいつも、一泊か半日の界隈旅行だからな」と、もう一つどら焼きを無遠慮につまむとパパの方を見た。
パパも一つ取り上げると、美味しそうに食べ始めた。
「夢野は大学時代から夢想家だったな。法螺話か非現実的な話ばかり続ける」
「あの頃の僕は、ファンタジー小説の大作を書いていた。日本中の女子学生たちは、僕が描くフェアリーテイルに魅了される予定だった。君がいつも、下世話なつまらない話ばかりするから書けなくなった。君のいかにも頓馬な物語よりも、よほど見事なものを創作できたのになあ。ああ残念だ。残念だ」
「僕にも夢野君の話は、真実味があるとは思えないよ」と佐々木君も指摘する。
「君のファンタジー小説は、一つも完成しなかったじゃないか」
「仕方がないじゃないか。君は僕を評してこう言わなかったか? 僕らの志は天にも届くほど高く、豪壮だ。ただ、それに見合うだけの頭脳が備わっていないだけだ。豊かなイマジネーションや正義感では文豪、秀才、英雄、豪傑に引けを取らないから気にする必要はない。単に、頭脳が劣るだけで高潔な精神が劣るわけではない。そう言って、威張っていた」
「なるほど、なるほど、夢野君のユニークな個性が出ていて面白い言い方だな」と佐々木君は、本人が居ない時と違って、楽しそうに話している。これが世渡り上手な人の特徴かも知れない。
「ちぇっ、つまらない昔を思い出して……。まったく面白くないね」と、パパは少しだけ語気を荒げた。
「それは申し訳ない。だからこそ、妖精の尻尾だけではなく、蓬莱の玉の枝、龍の首の珠のような珍宝を見つけ次第、君に進呈しようと思っているじゃないか。そう怒らずに首を長くして待っていれば良いよ」
「君はいつも、珍宝どころか手土産も用意せず手ぶらで来る。そのくせ、うちに来てお菓子やお茶を飲んで帰る。悪い癖だよ。まったく」
「いや、いつも珍宝に勝る情報を用意してくるだろ? お菓子やお茶など、情報料だと思えば安い、今日の情報は安くない。君はあの翠明が断酒宣言をしたのを知っているか? 今後は大学院後期課程を修了した大先生、つまり博士として学問に専念する覚悟だ」
佐々木君は翠明の話題が出たため、パパが余計なことを言わないように目配せした。ところが、鈍感なパパには目配せの意味が通じない。それどころか、ウインクに対してウインクで応じては首を傾げている。
「断酒宣言の話は本当なのか」佐々木君の合図など、意に介さないように身を乗り出して質問する。
「疑い深い男だなあ。酒や遊びにうつつを抜かさず、多次元宇宙論と、やじろべえを研究し、大顔夫人が驚くような実績にするつもりだ」
夢野が岩石さん(玉田夫人)を「大顔さん」と大声で呼ぶたびに、佐々木君は表情を曇らせている。夢野はまったく気にならないかのように平気で話し続けている。
「大きい顔について調べてみたが、人相学的には親しみが持てるし愛嬌があるから良い。だが、一方で女の顔の魅力をAIで数値化したところ、やはり大顔は不人気だ。美学的観点から見ると気の毒だ、今度、会ったらスマホで撮影してやろうと思う」と、思いつくがまま悪口を吐く。
「だがな。令嬢の方は翠明に気がある。すぐにでも嫁入りしたい意向だ」と、パパは佐々木君から仕入れたままの情報を伝えると、佐々木君は不愉快そうに目で合図するが、パパはまったく意味を理解していない様子だ。
「不思議だな。あんな図々しい女の娘が恋をするなんてなあ。厚顔無恥な愛に恋だ。翠明にも、今すぐに会いに来いと命令していそうな気がするよ」
「厚顔無恥な女でも、少しは良いところもある。翠明が気に入って嫁にするのなら、妨げられない」
「君は翠明の今回の縁談には、大反対だった。急に態度を変化させるのはどうなのか。僕には納得できないね」
「僕は自分の態度を軟弱に変化させたりはしない。しかし、よく考えると……」
「よく考えてみてどうした。なあ、佐々木君、君にも言っておきたいが、玉田何某の娘と、好男子代表の神田翠明とでは釣り合いが取れない。まさに、月とスッポン、鶴と豚だ。無論、月や鶴が翠明で、スッポンや豚が玉田家のご令嬢様だ」
「威勢が良いのは、学生時代と同じだな。君は稚気を忘れないところが偉い。社会に出ると君みたいには、蛮勇をふるえなくなる」と佐々木君はあくまでも平静を装う。
「それは偉いに決まっている。ギリシャの二大都市、つまりスパルタとアテネが明暗を分けたのは、君も知っている通りだ」
「ペロポネソス戦争なら、高校世界史の授業で習った記憶がある。紀元前五世紀にギリシャの二大ポリスの対立で起こった戦争だろ? 三十年近くに及ぶ戦争で、アテネの全面降伏で終戦した。その後、コリントス戦争でスパルタは海上覇権をアテネに譲り、レウクトラの戦いでギリシャ全土の覇権も失う」
「随分、詳しいじゃないか。君の言い方だとまるで、スパルタの方がアテネよりも優れて聞こえるが、実情は違う。厳しいスパルタ教育は兵士の人格に異常をもたらしたのに対して、アテネ教育はソクラテス、プラトン、アリストテレスと続く、偉大な哲学者を登場させている。プラトンのアカデメイアとアリストテレスのリュケイオンは今日の世界の大学教育に大きな影響を残している。つまり、玉田のような蛮勇をふるう人間と、アカデミックな翠明君とはレベルが違う」夢野は得意げに言い立てる。
「なるほど、そんな風に言えなくもない。君は蛮勇をふるうだけではなく、アカデミックな面もよく理解している」と佐々木君はうまく調子を合わせる。
「何かと思ったが、明暗とは教育的側面か? 君の牽強付会には恐れ入るよ。ただし、明暗を分けるは、表現としてあまり名案だとは言えないな。物事は君が思うほど分かりやすく出来てはいない」パパは夢野の能弁に対して呆れ顔だ。
「僕がさっきから言いたいのは、情報こそ珍宝、知識こそ珍宝、神田翠明こそが珍宝だ」と吹くのを聞いて、パパは黙ったまま目の前の菓子皿とコーヒーカップを夢野の方へ押しやった。
佐々木君はなす術もない様子だ。ついさっきまで、パパに向かって夢野を批判していたのを思うと、ここで本人を前にして批難すると二人を敵に回す。佐々木君はパパや夢野よりも人間が出来ている。無難に切り抜ける意図が、僕にはよく理解できた。
佐々木君にとっては、直情径行の口舌の徒を相手に、大立ち回りをやる必要性はなく、人生の目標に向かって大局的にどう動くのが得策かを考えて、言動を慎むのが成功の秘訣だ。だが、佐々木小三郎君は夢野のような強敵を目の前にして依然として困惑の表情を浮かべていた。
「画家のフィンセント・ファン・ゴッホの絵画は、現在では百億円を超える金額で売買されているものもあるが、ゴッホの生涯は貧しいもので、生前に売れた絵はたった一枚だったそうじゃないか。小説家のフランツ・カフカは、プラハの保険協会に勤めながら執筆していたが安アパート暮らしを強いられていた。今では世界的な文豪といえるカフカも生前は無名に近かった。貧しくても志の高い偉人はいる。玉田のような金満家で大きな顔をする連中とはわけが違う」
「貧しいのが、高潔だと考えるのは難点がある。『清く貧しく美しく』の言葉を崇拝していると、世の中に金の回りが悪くなり、不幸な人間が増えるだけだ。その点に関しては、玉田社長夫妻の味方をしても良い。僕は翠明君が豊かな暮らしをするのを妬むものではないと思う。なあ、佐々木君」と促す。
佐々木君はとばっちりを避ける意図なのか、二人の大人の男を見ながら「君たち二人は、相変わらず考え方が若々しくて楽しかったよ。僕も昔を思い出したよ。それじゃあ、僕はこれから用事があるので、この辺で失礼する」と椅子から立ち上がる。
夢野も「僕も一緒に行くよ。途中まで話しながら歩こう」と促した。
佐々木君は少し迷惑そうな様子だが、仕方なさそうに「それもそうだな」と、二人で家を出て行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます