第3話

 奨学金が入れば、進学に伴う家計の負担はない。しかし、自分が働いて家計収入を増やせないのが気がかりだった。

 少年は、飼い犬のチャッピーを散歩に連れて出ると、しばらく公園の中を歩き回った。チャッピーは、ボーダー・コリーの雄犬で、父親が亡くなる前から飼っていたので、随分年老いていた。犬は、誰よりも少年になついており、彼の指示には従順だった。

 チャッピーは人の心が読めるのか、家族の誰かが風邪を引いていたり、ケガをしていたりすると、悲しそうに気遣うような目つきでじっと見つめていた。

 少年はこの犬の先祖たちが、牧羊犬として活躍していたという、イギリスの羊の放牧地での様子を想像した。頭の中で美術の教科書に出てくるバルビゾン派のミレーやコローが描く、羊飼いの姿と重ね合わせていた。

 生前、父親は子犬の頃のチャッピーを抱き上げて

「こんな犬に、羊飼いと同じ仕事ができるとは……」と、目を細めていたのを思い出した。

 チャッピーは毎日、外に連れ出すと嬉しそうに尻尾を振り、指示に従っていた。

 現代人が動力にしているもののうち自動車=馬車、警備システム=番犬、耕運機=農耕馬、照明=鯨油など、動物の力が、長年にわたり役立っていた。

 チャッピーを見ながら、牧羊犬たちが放牧地を縦横に走り、羊たちの群れをまとめている光景を脳裏に浮かべると、少年は複雑な心境になった。チャッピーの先祖は、人間の仕事のパートナーだった。それが途方もない事実を物語っていた。

              ※

 少年は、省吾や明日香に誘われて電車に乗り、中央図書館にでかけた。館内は大勢の人がいるのに、シンと静まり返っていた。

 本に使われる紙は、木材などの植物繊維を原料にして、生成されたパルプ紙だ。少年は、想像力の翼を縦横に広げて、周囲を見渡すと、中央図書館の書棚には、数多くの本が並べられており、まるで知識の森を探索しているかに思えてきた。

 中央図書館は、中学校図書室に比較して圧倒的な蔵書数があり、背の高い本棚が並べ置かれていた。少年は、図書館の狭い通路を潜り抜けながら、冒険気分に浸っていた。

 館内では、総記、哲学、歴史、社会科学、自然科学、技術、産業、芸術、言語、文学に十分類されていて、書架・目録サインが本を選ぶ目安になった。少年には、それが道路標識や、地下街を案内するサイン・プレートに似て見えていた。

 サイン・プレートを見ながら、知識の森を散策するのは少年には、何よりも楽しかった。知りたい情報は、十分類のジャンルにまたがっていた。

 省吾や明日香は、図書カードを作ると、文学コーナーに移動し、人気小説の貸し出し予約をしていた。

 少年の興味は、社会科学、自然科学を中心に、歴史、技術、産業にまで及んでいたので二人とは別行動をとった。しばらく、友だちと協調的な行動をとらず、一人で本を物色した。二人への気遣い以上に、エネルギー問題への好奇心が勝っていた。

 書架の間を渡り歩くと、いくつものジャンルで興味のある本を見つけた。歴史書を通読していると、日本では十九世紀に石炭と出会うまでは、主要なエネルギーは樹木だったのが分かった。

 住居や寺社仏閣などの建築物だけではなく、船や橋のような構造物まで幅広く木材が使われていた時代に、主要な燃料も木材が使用されていた。現代においては、森林伐採を主力とするエネルギー供給は困難となっていた。

 本を開くたびに、少年の世界観は広がって行った。図書館の蛍光灯は、家庭照明に比べて照度を高く設定しているので、目に負担がかからなかった。

 蛍光灯は、ガラス管内部に水銀ガスを封入し、フィラメントを設置した構造でできている。フィラメントに電流を生じさせると、高温になり熱電子を放出する。熱電子が電場で加速されると、水銀ガスに衝突し紫外線が放出される。さらに、紫外線が蛍光体に当たると可視光が発生し、部屋を明るく照らしていた。

 科学は、魔術に似ているという。蛍光灯一つ調べても、ガラス管の中で様々な化学反応が生じていた。

――学問とは、何と幅と奥行きの広いものなのか――と思うと、時間を忘れて夢中になって本を貪り読みふけった。

 数多くの本を読み漁るうちに、少年は『沈黙の春』の著者であるレイチェル・カーソンの存在を知り、深く感動した。カーソンは、農薬・殺虫剤の大量使用による皆殺し的な手法ではなく、生物学的防除事例として、不妊化技術、誘因剤、天敵、微生物、細菌などの利用を呼び掛けていた。

 カーソンは「生命への畏敬」を説き、化学薬品の使用による汚染を避けて――自然そのものの力を利用して、害虫防除の工夫をする――という施策の必要性を伝えていた。

 カーソンの提言は、少年が関心を持つエネルギー問題にも、当てはまっていた。発電所でも、CO2の有効活用による――炭素循環型社会――の実現を望む声が、各方面から囁かれていた。

 図書館からの帰り道に、少年がエネルギーと環境汚染問題について熱弁を振るうと、明日香は

「大切だけど、難しい問題ね」と、呟いた。

「人間の本能に食欲、性欲、闘争本能や承認欲求だけではなく、自然環境を守ろうという環境欲のようなものがあれば、環境汚染も戦争もなく、平和な世界になるのになあ」と口にすると、省吾は明日香の方を見た。

「僕には省吾が言う、環境欲が芽生えている気がする」

「珍しい欲望ね。皆、そうだと良いのに」

 三人は図書館で借りた本を抱えていた。少年は八冊の本をカバンにしまうと満足そうに「今日は、豊漁だった」と、二人に見せびらかした。

「研究熱心なのはいい」と、省吾は茶化した。「しかし、ほどほどにしないと、勉強に悪影響が出る」

「科学者になるための道は険しい。僕の冒険は、図書館の探訪から始まる」

「二週間で八冊は多くないかな?」

「これぐらい読まないと、僕の環境欲は満腹にならない」

 二人は、先に図書館の出口に向かって歩き出した。

「現在の科学の知識を持って、未来へと飛び立とうとしている気分だ」

「そうなの?」

「でも、科学文明がもたらした弊害を国民の自助努力だけで解決できるものじゃない。特に、僕ら中学生にできるのは限られている。解決手段も、科学的に証明していかないとダメだ。だから、僕は必死になって……」

「もういい」

「話は、それぐらいにしておけ」明日香が呆れ顔で話を遮ると、省吾も調子を合わせた。

「わかったよ。胸の内に留めておく」

「話はくどいけど、夢があっていいね」

「くどいかな?」

「ああ、明らかにくどい」

 図書館からの帰り道、夕焼けが西の空を搾りたてのオレンジ・ジュースの色に染めていた。中心にある太陽は、ふやけた大人の睾丸のごとく、不格好に薄ぼんやりと、少年の目に映っていた。

       ※

 少年が登校し、教室に入るとすでに半数の生徒が席について教室の中はざわついていた。

「好きなのでしょ。雄大君が……。はっきり、彼に伝えた方が良いと思う」少年が席に着くと、近くの席から有麻が明日香を問い詰めている声が耳に届いた。

「受験前だし、好きとかどうとか、言っている時期でもないし。私はどっちでもいいのよ」

「好きなら、雄大君に伝えなさい」

 有麻は、少年が自分の席に着くのを見届けると口を噤み、何事もなかったような表情をした。

 授業中、後ろを振り向くたびに、明日香と視線が合うのを彼は知っていた。改めて、明日香の自分に対する好意を意識すると、少年の胸の奥は熱くなり、微かな痛みすら感じた。さらに、恋愛は神秘な森の樹木であり、日の光や水の恵みがなければ、すくすくと育たないのではないか――と漠然とイメージすると、恐ろしさを感じた。

明日香のふっくらとした頬が洋菓子のスポンジ生地に、大きな黒い瞳が那智黒石に、光沢のある下唇が一房のみかんのごとくに思えると、いつまでも顔を見ていたくなった。

 厳密に言うと――自分の明日香に対する好意は、友情とも恋愛感情ともどちらとも判然としなかった。胸の奥にちくちくと感じる痛みや、淡いムードへの憧憬の念が恋心とも考えられた。が、明日香の前で同性の友人に対するのと同様に振舞った。

 軽率に――好きだ――と告げると、明日香の戸惑う様子が少年にはリアルに想像できた。

       ※

 人間が原野で暮らさなければならないとしたら――、少年は考えた。風雨にさらされて風邪をひく。病院もなければ、医師も存在しない場所は、不安しか感じられない。それに、野獣と闘わなければならないとしたら? そう考えると、自分たちは幸運だった。

 少年は、冒険家たちの果敢な挑戦に憧れた。反面、嵐に脅かされ、波に飲み込まれるのは恐ろしかった。冒険家の負けじ魂は、どこから来るのか? 人間は、あらゆる苦難に耐えうるほど、強く逞しい存在なのか? 彼は考え続けた。

 少年は、原始時代の人々の生活に興味を持ち、彼らの自然の中の暮らしを想像した。さらに、文明社会の恩恵は、自然の中で暮らす不自由を経験してこそ分かる――と考えた。

 室生浩平とは、小学校、中学校を通じて一度しか同じクラスになった経験がなく、部活も違っていたが、三年生でクラスメイトになると登下校時に話すようになり、親しくなった。

 浩平は「俺のバイブルだ」と、カバンの中からマーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』を取り出した。物語の中のトム・ソーヤは、親友のハックルベリー・フィンと共に、ミシシッピ川をいかだで下ったり、洞窟探検をしたりという、冒険をしながら、楽しく毎日を過ごしていた。

 少年も、トム・ソーヤの年齢と同じ十歳の時に『トム・ソーヤの冒険』を読み、感銘を受けていた。

「トム・ソーヤは最高のやんちゃ坊主だ」

「雄大。お前がハックルベリー・フィンで、俺がトム・ソーヤだな。それとも、逆かな」

「僕はどっちでもいい」

 浩平が手にした本は、何度も読まれたからなのか、ぼろぼろになっており、少年が開いてみると、何か所も線が引かれていた。

 省吾は「いくら友達の雄大の頼みでも、親に嘘をついてまで、そんなところには行けない」と、反発し「無茶はやめておけ」と、目つきを鋭くしていた。

 明日香に「卒業前の思い出になるような冒険にでよう」と、告げたところ、彼女は「雄大君と一緒に行けるのなら」と賛成してくれた。

 校舎の屋上や講堂の窓から、北側に視界が開け六甲の山並みを見渡せた。緑の樹木が生い茂る山の稜線は女体のようにくびれていて、剛直さよりも柔和な雰囲気をイメージさせた。

 少年と明日香は、リュックサックを背負い、浩平の家に集まった。昼食は、浩平の家で、ご馳走になった。三人とも、親には――学校の野外授業でテント泊を体験する――と、口裏を合わせていた。

「財布は? スマホは? 雨具は? 下着は?」浩平は明日香に向き合うと、所持品を確認した。

「下着?」

「ああ、着替えのパンツとかシャツだ」

「ふつう、女の子に聞くかな?」

「聞くよ。雄大、お前はどうだ?」

「僕は全部、揃っている」

「私も……、全部ある」

 浩平のリュックは、テントが入っているので二人の物よりも大きくて重く見えた。三人は、荷物を分け合うと、阪急宝塚駅に向けて出発した。

 宝塚駅を出て、塩尾寺までは住宅地を歩き、大谷乗越からは急な上り坂となった。浩平は登山に適したキャラバン・シューズを履いていたが、少年と明日香はバスケット・シューズだった。

 一月の寒空の下を三人は、白い息を吐きながら、六甲の山道を歩いた。寒気で震えていた体が、徐々に温まると、少年は山中の景色を見る余裕ができていた。

 浩平は「足を滑らさないように、注意深く歩け」と、二人に命じた。途中、船坂峠で休憩をとり歩き出した。しばらくすると、鎖場に出くわした。少年と浩平は無難に登り切ったものの、明日香は足を滑らせそうになりながら、二人と同じ場所にたどり着いた。

 狭い道を上の方へ登り、森を抜け出すと、自動車が行きかう幅の広い舗装道路に出た。六甲の登山道の大半は、土や岩でできた地面を進むものの、至るところで開発が進んでおり、豊かな自然と人工構造物とが混在していた。

 冒険気分はアスファルトの路面に出ると中断され、樹木に囲まれたコースに戻って土の地面を歩き出すと、再び輝きを取り戻した。

 三人は、喘ぎながらも坂道を登り切り、ようやく六甲山最高峰に到着した。最高峰からは、広範囲に視界が開け、阪神間の民家や商業ビルが立ち並ぶ街並みの向こうに、紺碧の海があり、海岸線まで眺望できた。

 山の中は樹木や草いきれの自然の香りが漂い、そよ風が心地良かった。木の葉が黄や赤に色づき、美しい光彩を見せていた。

 最高峰で三人は休憩をとり、チョコレートを食べ水筒の水を飲んだ。

 明日香は、仰向けに寝そべると空を見上げて「天国って、どんなところなのかな」と、両手を頭の上に伸ばした。

「どうして、そんな風に思ったの?」

「空が澄んでいるので連想が広がったのかな」

「私ね。子どもの頃に天国に憧れて、死んだらどこへ行けるのかと、考えていた。それをお兄ちゃんに言ったら『死ぬのは辛くて、悲しいから二度と口にするな』と叱られたの」と打ち明けた。

「僕は小さい頃から、死ぬと意識を完全に失うから、何も考えられなくなると思っていた」

「夢がないね」

「俺はお父さんに『死ぬとどうなるの?』と尋ねたら、すぐに『ああ、あれは相当痛い。ものすごく、痛いから今考えなくてもいい』と、教えられた」

 浩平が言い終わると、明日香は声に出して笑った。

 明日香が笑顔を見せると、両頬は丸餅のごとく膨らみ、艶やかで健康的な雰囲気が誰よりも魅力的に見えた。

 出発から四時間が経過していた。先を進み、ガーデン・テラスを越えると、みよし観音像のところで足を止めた。

 浩平は、観音像に近づくと碑文を読み上げた。

「自らの命のかけがえに 人につくすことほど 崇高な行為はない この行いの内にこそ 人間の眞の勇気と 美しさと輝きがある 紅蓮の炎に消えた 一人の若い娘が身をもって明かしたものはそれだった 詞 石原慎太郎作」

 浩平が読み終えると、三人は、碑文の右横の石碑に記された――みよし観音の由来――に、目を移した。

 そこには、昭和三十九年の航空機墜落事故の際に、当時二十一歳だったスチュワーデスの女性が、沈着かつ冷静に七人の乗客を救助した後、航空機が爆発炎上する中で殉職した事実が明記されていた。ついさっき、死ぬとどうなるか――という重たい話を三人でしたばかりなので、奇妙な偶然に少年は身震いした。

「考えさせられるね」明日香が小さく呟いた。三人は誰から始めるともなく、観音像の前で、深々と頭を下げて合掌した。

 そこからどんどん進み、六甲山ホテルの前の車道を通り、三国池分岐を過ぎると、トイレの設置された杣谷峠に着いた。三人は小用を済ませ、摩耶山を目指した。しばらく、なだらかな道を歩き続けた。途中で立ち止まり、西の空に映る夕日の残照を三人で眺めた。

「まるで別世界に見える」

「俺は何度も来ているけど、意見は同じだ」

「私は……」と、明日香は少し考えたそぶりをすると「仁徳天皇が高い山に登って――国の中に釜戸の煙が出ていない。国中のものは皆、貧窮している。だからこれから三年の間、すべての人民の課役を免除しよう――と言った話を思い出した」

「『古事記』に、書かれている話だ」

「こ・じ・き?」

「山から見下ろすと、人々の暮らしが小さく見える。だけどね、どこか愛おしいの。だから仁徳天皇は優しい気持ちになって、国民の税金と苦役を免除したと思う」

「そういう偉人がいたから、国が栄えたという話なのか?」

「ああ、でも遠い昔の話だね」

「俺には、難しすぎて分からない。でも、税金が高いと景気が悪くなるから、免除するという話のところは、俺にだって分かる。でも、本当にあった話なのか?」

「史実かどうかは、確かめられていない」

「私は、本当にあったと思う」

「やっぱり、難しい話だな」

 三人は再び、歩き出した。太陽が地平線に隠れると、周りが薄暗くなり、頬に当たる風が冷たく感じられた。

 アゴニー坂を登ると、摩耶山天上寺を通り過ぎ、掬星台に着いた。時刻は午後七時三十分になり、周りはすっかり暗くなっていた。掬星台の展望台から見える景色は、日本三大夜景の一つに数えられる一大パノラマで、眼下に広がる街並みは光の明滅の絶佳だった。

 掬星台から、三十分歩きやっとキャンプ地にたどり着いた。三人は到着と同時にテントを設営し、持参したおにぎりを分け合った。

「俺は、成績が良くないし、家も兄弟が多くて大変だから、中学を卒業したら工場で働くつもりだ」と、浩平が話し出した。

「偉いのね」

「俺が馬鹿だからだ。偉くなんかない」

「君は、自分の進路をちゃんと考えている。そこが偉い。それに、浩平はいい奴だと思う」

「本当に、いい奴よね」明日香は「くすっ」と、小さく笑った。

 少年は、浩平が登山中、地図を開きコンパスを確認しながら、先頭に立ってここまでたどり着けたのに感謝していた。彼なくして、今回の登山は成功しなかったと、胸の内で感慨に耽っていた。浩平は誰よりも利口な親友だった。

 六甲山の自然の中にいて、少年は石炭や石油が太古の生物からできているのを心の奥で感じていた。

 図書館で調べたとき――シダ類の老木が倒壊し、地中に埋もれ石炭になったプロセスや、動植物の死骸が堆積し、脂質が炭化水素に成り、地層の影響で石油鉱床やガス田になった変化過程――を思い出した。自然に包まれながら、現代人が過去から現在に至る様々な生物たちに命を支えられているのを感慨深く印象した。少年の目の前の自然は息づき、煌びやかに輝いていた。

 一方で、現在では世界の四割を占めるという、熱帯雨林、熱帯モンスーン林、熱帯山地林、熱帯サバンナ林、マングローブ林などは、年間合計で十七万キロ平方メートルの割合で地球上から消失している。

 熱帯林の減少は、焼畑農業、燃料や木材資源としての伐採、放牧地への転用等々が原因とされていた。熱帯林が減少すると、大気中の二酸化炭素の濃度の上昇、異常気象、動植物の絶滅に影響していた。

 六甲山は、自然と人工構造物が混在しているが、少年の冒険気分を満たしていた。

「身体を拭いてから、下着を着替えるから二人とも外に出てくれる?」

 明日香は尋ねるように告げると「早く、早く」と二人を急き立てた。

 山の中は、夜になると驚くほど寒くなり、シュラフの外に出るとガタガタと肩が震える辛さだった。アップ・ダウンのある道を長い時間歩いたので、ふくらはぎに痛みを感じていた。

 少年は中で明日香が着替えているのを想像すると、甘酸っぱいものが内側から込み上げてきて、喉につかえを感じるとどきどきした。

 浩平は落ち着かないのか、身体を温めようとしているのか、それとも見張りの役目を果たそうとしているのか、テントの周りを何回もうろうろとした。

 男二人に対して、一人だけ女の子がいるのはテントの中では、酷く違和感があった。少年には、明日香の髪の毛は艶やかで美しく、肌も滑らかに見えた。

 明日香は、男二人の間にリュックを三つ並べ置くように願い出ると、テントの真ん中にロープを張り、衣服で目隠しを作った。明日香が安心して、身体を横たえているとき、少年は隙間から様子が覗けるのに気づいた。が、次の瞬間、背中を反対側に向けた。

 浩平は少年のシュラフに手を伸ばすとくすぐり始めた。少年も仕返しをすると、二人ははしゃいだ。

 明日香は僅かに怒気を含んだ声で「いい加減、静かにしてね」と叱声を浴びせた。

「はいはい、分かりました。明日香、お嬢様」浩平がふざけて言うと、明日香は間にあるリュックをのけて、隣に寝ている少年の脇腹を突いた。幸いにも、浩平は気づいていなかった。少年は、明日香を誘ったのを後悔していた。が、それと同時に三人で登山できたのを喜んでいた。

 ランプを消灯すると、テントの中は真っ暗になった。

「おやすみなさい」と、少年が声に出すと「おやすみなさい、雄大君」と明日香が答えた。

「俺におやすみなさいは、なしなのか」と浩平がぼやくと、明日香は仕方なさそうに「おやすみなさい」と反応した。

「ああ皆、おやすみなさい」

 夜中に風が不気味なうめき声をあげて、テントをパタパタと揺らした。少年は目を覚ますと、明日香との間にある目隠しを手で開き様子を見た。明日香はシュラフの中で目を閉じて眠っているのがうっすらと分かった。テントの中の閉塞感は、片手でつかみ取れるほどだった。木々の間を吹き抜ける風の音を聞きながら、少年は再び眠った。

 翌朝、シュラフから這い出すと、空気はひんやりとしていた。テントの中は相変わらず狭苦しく、体臭や吐く息で淀んでいて、息が詰まった。

 外に出ると、高地の朝の爽やかな空気には濁りけがなかった。少年が周囲を見回すと、木々は朝露で輝き、前日にも増して眺めが素晴らしかった。少しの間キャンプ場の周辺を散策し、三人で協力してテントを畳んだ。

 朝食のパンを齧り、三人は摩耶山を出発して帰路に就いた。午前八時にキャンプ地を出ると、市ヶ原で小休止をとり、布引ノ滝に着いたのは十一時だった。

 下山したのは十一時三十分だった。街に着くと、人混みでザワザワとしていた。空腹を満たすため、三人はラーメン屋で昼食をとった。心地よい疲れのせいなのか、少年は舌を刺激する塩ラーメンの味が、いつもより数段旨く感じられた。登山中はおにぎりやパンやチョコレートでしのいでいたので贅沢な食卓だった。

「胃袋にしみるね」

「だしの味が良いと思う」

「雄大君たちは、分かってないわね」明日香が真剣な表情で、少年の肩をつかむと、声を出して笑った。「私が一緒にいるからじゃない?」

 食事をすませると、三人は歩道を進み、カラオケ店やコンビニ、蕎麦屋の横を通り、神戸三宮駅に着いた。

「とても素敵な時間を過ごせたね」

「俺はもっと冒険したかった。物足りない。満腹感がない」

「満足感だろ? 明日から、学校だな」

「ずっと冒険できれば、楽しいのになあ」

「毎日が冒険だよ」少年は冷めた口調で呟いた。冷や冷やハラハラする冒険が、ずっと続きそうな気がしていた。 

 駅は人込みで混雑していた。三人の中学生の男女が、リュックを背負い電車に乗り込むと、人目を引いた。少年は、大人たちの冷ややかな視線に、すっかり気持ちをかき乱されていた。三人は小声で話し、お互いの胸の内を察し合った。楽しい祝祭が終わったのを直感した。

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