感覚でわかるかもしれない、認知のプロセスから紐解く人称のアレコレ

 先に言っておくと、これから説明することはある程度かける作者なら無意識にやってることで「何を今更?」だと思う。


 俺はこの当たり前がわかってなかったので「すごーい!」となってキャッキャして今これを書いてるが。当たり前すぎることってみんななかなか説明してくれないんだよな。


 まーなので、何を今更と思っても生ぬるく見過ごしてもらえると助かる。



♦︎



 俺が今まで書いたものは、未公開のボツや短編を除くと


 ・処女作 (プロローグのみ三人称、他一人称。17 万字書いて諸事情により難しくて放置)

 ・二作目(基本的に三人称、まれに一人称、8.5 万字)


 で、二作目に取り掛かった時点では三人称なんちゃら視点みたいな用語を知らなかったし、これを完結させて数日経ってから自由間接話法という用語を知ったくらい適当にやってた。


 完結させて手があいて俯瞰できるようになったのもあって視点に関する創作論も読んでみたのだが「おおー! なるほどなー」と思うものもあれば「なんかそれは違うくね?」と思うものもあって色々だった。


 俺は割と「ルールなのでそう書きましょう」とだけ言われると「なんでや」となるタイプだ。


 一字下げとか鉤括弧の中の最後の丸はいらんとかは、先人が「こうした方が、かっこよくね?」と積み重ねて、大多数が慣れてきたスタイルだと考えてるので、それに乗っかる合理性がめちゃあると思うので乗っかってる。

 プログラミングの作法と全く同じ理由だ。あれは会社や流派で差があったり、たまにちょっとした宗教戦争になるけど、小説だと出版社で微妙に作法に差があったりもあるかもしれない。


 この手の見た目の作法――要するに書式は、どれが正しいかより一貫性が大事だ。プログラミングで一つのコードの中でタブとスペース混ざってたら気になるが、普段慣れてるのが 2 スペースでも、4 スペースで統一されてるなら大した問題ではない。

 小説も同じで、字下げなしで統一されてるなら引っかかりを感じずに読んでる。あっ、でも全部の鉤括弧の最後に丸ついてるのはちょっとブツブツしすぎて苦手かも……


 でも、人称はそういう書式の問題だとは思えない。だから「ルールなので神視点はやめましょう」「ルールなので、◯◯は主人公のみにしておきましょう」みたいなノリで言われると「それはなんか違うくね?」なっちゃうんだよな。

 実際、カクヨムにある創作論の中には、三人称単元視点はブレさせるな、自由間接話法は主人公にしか使ってはならない。主人公以外に使った時点で神の視点になるのでルール違反ってものもあった。


 プロには自由間接話法ぽいのを自在に振り回してる作家(秋山瑞人とか)もいるわけで、その説明は端的すぎるしうわべだけな気がする。

 端的なルールを遵守させるのは、初心者には手っ取り早い事故防止法なのだろうが。


 つーか、。ついていける工夫がなされてるなら何も気づかないまま読む。逆にいくらルールが守られていても、ついていけなければ離脱する。


 俺は圧倒的に読み専だった時期の方が長いんだが、文学の知識もない読み手がだよ。「あっ、ここでルール違反した。ブラバしよ」ってならんだろ。そうはならんでしょー。

 もっと感覚的に「あれ? ここどうなって? んん?」と誤差が溜まっていって「ああ、もういっか」って離脱するのでは?


 何々視点ならこう書くのがルールで、やってはならないことはこうで……ったやつな。そもそも、なんでそういう細分化した名称がつくかというと「そのルールに則った書き方以外は認められないから」ではないと思う。ルールが先にあるわけじゃない。


 こういうのはプロレスの技名みたいなもので、技名知ってる同士なら話が捗るし、技術の伝承も捗るし、実況も解説も捗る、そういうことだと思ってる。

 技名を知らなくてもプロレスは楽しめるように、三人称なんとかを知らなくても小説は楽しめる。


 じゃあ本質がどこにあるかといえば、技としての合理性とか映えじゃね? 突き詰めていけば、プロレス技なら人体の構造とか物理とかそういうことだよな。

 合理性や映えが先にあって、それを伝えたい残したいと思う人が増えれば名前がつく。そういうのは沢山あると思う。格ゲーやネトゲなんかでもそうやって自然発生的に戦術に名前がついたりするし。


 プロレス技での人体の構造にあたるのが、小説では何かって話だ。しろーとなりに考えた結果、認知言語学あたりかなーと思う。絵を突き詰めると物理(光学)とか認知/知覚心理学(視覚)にいくのと同じ。


 結局、認知じゃね?

 どうやったらスムーズに脳――人間の習性をフックできるかってところに帰結する。脳がどうやって情報を認知にしてるかってのが、認知なんとか学なんで、まぁそのへんに行くよな。



♦︎



 で、そういう方向性で探して「これは!?」と思ったのがこれ


 自由間接話法の認知プロセス ――漫画学を手がかりに

 前編

 https://www.econ.shiga-u.ac.jp/ebr/Nenpo-vol23idehara.pdf

 後編

 https://www.econ.shiga-u.ac.jp/ebr/Ronso-411idehara.pdf


 ほわー。

 すごい。めちゃ納得感ある。

 漫画を例にあげて説明してるのでとてもわかりやすい。

(前編は途中から英文ばっかになるので、英訳きつかったら飛ばして後編でも要点はわかると思う)


 すげー雑に要点をまとめると、


 ・人間には共同注意という脳のシステムがある

 ・共同注意とは〈他者と一緒に同じものに注意を向けること〉で、これを基盤に人間は言葉を覚えたり他者に共感を抱く

 ・小説や漫画や映像において、他者の五感や内面にフォーカスさせるときは、この共同注意のシステムを効果的にフックするような仕掛けが多用される。逆にいうと仕掛けがないと読み手がついていけなくなりがち

 ・どうすれば共同注意という人間の習性を引っ掛けるかが洗練されていった結果、三人称◯◯視点であるとか自由なんとか話法であるとかそういう技、技法になる

 ・このへんをまとめて論文では〈同一化技法〉と呼んでる


 同一化技法のまとめを論文から引用すると


 > 語り手の誘導により読者の注意を特定の登場人物(およびその行為) に向けさせることで読者と語り手の間で共同注意を成立させ,さらにその直後にその登場人物の知覚(主に視界)・ 思考を提示することで読者と語り手および(疑似的に)登場人物との間に共同注意を成立させる技法


 これですよ。これ。


 論文では一人称には触れてないけど、多分同じだな。一人称であっても「一人称だから視点は自明じゃん」って共同注意を促すようなフックがない小説は、読者にはいまいち乗り切れないものになりそう。

 フックが上手ければホラーや探索もので顕著なように、一人称の主人公が焦って視野狭窄してガチャガチャやってるシーンで読者も一緒になって「ひいいい、助からん助からん」ってなるし、食べ物が旨いシーンは本当に旨そうになる気がする。


 書き手が一番知りたいのは〈共同注意のシステムを効果的にフックするような仕掛け〉が何かだよな。この点も論文では深掘りされてる。


〈共同注意のシステムを効果的にフックするような仕掛け〉を論文中では cues と呼んでいる。雑にまとめると〈登場人物が注目するものに対しての知覚・行為・判断を表す表現〉のことだ。


 cues には大まかに以下のものがある。


 ・行為表現: 何かを知覚するための行為。振り向く、顔を近づける、手を伸ばす、耳をそば立てる、などなど。

 ・知覚表現: 見る、触る、聞く、嗅ぐ、味わう、などなど。知覚に関する動詞であることが多い

 ・知覚描出: 知覚によって得られたそのもの。猫がいる。(猫が見えている)にゃーん(という鳴き声がした)

 ・判断表現: 知覚によって得られた外部刺激によって誘発された情動や内面の変化。かわいい(と思った)


 気づく、はっとする、みたいな分類が難しいものもあるけど、まぁ納得いく分け方だと思う。分けるのが大事ってより、そういうのが〈共同注意のシステムを効果的にフックするような仕掛け〉= cues になるんだなとわかればいいので。


 cues の出現順序は、行為表現→知覚表現→知覚描出 →判断表現の順であることが多い。これは人間の認知の仕方まんまだ。全て使われることはめったにないし、作者の意図や作風によって順序が変わることも当然ある。


 全体の流れをまとめると


 まず、語り手が示した cues (行為表現→知覚表現→知覚描出 →判断表現)により、読者の注意を特定の登場人物に向けさせる。

 ↓

 それにより、語り手と読者の間に共同注意が成立し、次第に登場人物と読者の間にも共同注意が成立する。

 ↓

 直後に本来客観視点だけでは得られないはずの登場人物の主観による情報や心理が提示される。cues によって読者は誘導され、登場人物と読者の間の共同注意が成立しているので、読者は自然に受け入れる。

 ↓

 完全に登場人物と読者の間の共同注意が成立してしまえば、三人称の語りの中に主語〈俺、私〉などが入ってきても自然に読者は読んでしまう。


 これは人間の本能的な認知プロセスを利用しているので普遍的なものだ。映画、漫画、小説問わず使われている原理であり、小学生でも漫画は読める。

 この現れが自由間接話法とか三人称なんとか視点とかその他諸々になる。一人称であっても cues は無意味ではなく、登場人物と読者の間の共同注意の成立はより豊かな臨場感につながるはずだ。



♦︎



 反論として、自由間接話法に代表される同一化技法の類いは英語の文法であって日本語には当てはまらないという意見がある。これについても論文は触れている。


 英語は客観視点を好む傾向が強い。だからこそ登場人物と読者の間に共同注意を成立させるためには、明確な cues や文法的の目印が必要で、それが自由間接話法とかの文型になる。


 日本語の同一化技法には英語のように明確な文法上の目印はないが、これは日本語に同一化技法が存在しないことを意味しないし、ましてや登場人物と読者の間に共同注意が成立しないことを意味しない。


 むしろ、日本語は英語に比べて主観的把握を好み、英語のような明確な目印がなくてもオーバーラップした視点に誘導されやすく、登場人物と読者の間に共同注意が成立しやすい言語だと述べられている。

 この特性上、日本語では明確な cues がない〈冒頭いきなり同一化技法〉が成立する。国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。ってやつだ。



 論文では自由間接話法について次のようにまとめている。


 > 語り手が読者に、ある登場人物に対し注意を向けさせ、さらにその登場人物の「見え」(知覚・思考)に注目させることで読者に登場人物との共感を引き起こさせようとする表現技法。その視点は、語り手(読者)視点と登場人物視点が溶け合った身体離脱ショットであるが、語り手(読者)視点が英語では前景化しやすく、日本語では背景化しやすい。


 この定義なら、従来ややこしい分類をされてきたあれこれのかなりが自由間接話法に含まれて、共同注意を原動力とした同一化技法という枠組みでみれば、一貫した運用法やコツで楽できそうだ。


 論文にて後半に展開される、身体離脱ショットに関する話も非常に興味深いのだが、長くなるし読んでもらった方が早いのでここでは取り上げない。


 論文中ではライトノベルでもこの技法が普通に使われていることにも触れられている。

 ライトノベルといえば、特に web 小説においてはとかく余分な描写を削ることが取り沙汰されるが、人間の認知の仕組みに寄り添った普遍的な読みやすさを追求するならば、適切な cues はあった方がよさそうだ。


 自閉症や発達障害では共同注意の発達が標準的なものと異なるので、共同注意を利用した同一化技法がどう捉えられるかは知っておく必要がありそうだが、ひとまず、そこらへんは今回考えないことにする。(一応、少し論文漁った感じ、ASD だと高度な言語能力により視点読み取りがカバーされるので問題なく自由間接話法を読めるらしい)



♦︎



 さて、大体わかった。(気がする)

 この辺の知識がなんもなく感覚で書いた拙作が、実際にこの原理に沿っているのか見てみる。

 俺の感覚――認知のシステムが人間として標準的なものであるなら、cues ぽいものが現れたりしてるはずだ。



// 以下引用

 くちばしで尾羽の付け根を手入れしていると土を踏む音が聞こえ、彼はくりくりと首を回した。

 三匹の二本足が尾根の上を歩いてくる。子持ちのつがいだ。幼いのと雌は花の色の毛をしていて、雄は自分の羽根とよく似た毛をしている。もう一匹、初めて見る茶色いもの。これはよくわからない。

// 引用終わり


 これは、モブでさえないその辺にいたカラスに対して、同一化技法が使われているシーンだ。でもこのシーンで「主人公以外に自由間接話法を使った! NG! ブブー!」ってなる人は少ないんじゃないかな?


 最初の cues は〈土を踏む音が聞こえ、彼はくりくりと首を回した〉の部分だろう。首を回したのは見るためであり行為表現だ。そのあとの描写はカラスの「見え方」による知覚抽出で、人間のことをオスメスとか二本足と書いている。最後の「これはよくわからない」は判断表現とも同一化技法による内心ともとれる。


 いずれにせよ、十分な cues によって共同注意が誘導されるので「よくわからない」と思ったのがカラスなのは自明になるはずだ。なってなかったらすみません。



// 以下引用

 ダレンが振り返れば、タイグも足を止めて物見櫓を見上げている。

 壁の周囲に植えられた木々が複雑な影を地に落としては揺れる。そのうちの一本は特に太く大きく、捻れながら駐車場の上にまで幹を伸ばしていた。建物も駐車場も、この大木が支配する空間を尊重したために、少々イレギュラーな形を取っている。なんと贅沢な土地の使い方だろうか。

// 引用終わり


 これもわかりやすい例だな。〈ダレンが振り返れば〉が行為表現であり、〈幹を伸ばしていた〉まではダレンの主観にオーバーラップした知覚抽出だ。


 次の〈この大木が支配する空間を尊重したために、少々イレギュラーな形を取っている〉は三人称の語り部としては主観的な感想が含まれている。

 もちろん、完全な三人称客観視点で読者の平均的な知識経験を前提としてこの手の表現が使われることはある。例えば「巨大な鶏が現れた」となんの前提もなく三人称で書かれたら、読み手の地球の常識と比較してクソでかい鶏を想像するはずだ。


 だが、このケースであれば行為表現と知覚抽出により、読者のダレンに対する共同注意が誘導されているので、イレギュラーだと感じるのはダレン個人の常識や経験によるものと捉えやすい。「うちの地元は田舎だから変な形の駐車場なんて珍しくないけど?」と突っ込む人は少ないのではと思われる。


 最後の〈なんと贅沢な土地の使い方だろうか〉は見事なほどにダレンの主観だ。三人称客観視点ではわかり得ないはずのダレンの心情だ。


 どうだろう?

 そこまで違和感なく読めてるのではないか?

 

 問題があるとすれば、〈ダレンが振り返れば、タイグも足を止めて物見櫓を見上げている〉の〈タイグも足を止めて物見櫓を見上げている〉をダレンが振り返って視野に入れたことによる知覚抽出だと理解できずに、ダレンではなくタイグに共同注意が誘導されてしまうケースが考えられる。

 すぐにいい解決法が思い浮かばなかったので書き直してはいないが、推敲の余地はあると言える。



// 以下引用

 ダレンがドアを開ける。リィンの腹が鳴る。一歩、二歩、三歩。今やリィンは審判の門をくぐった。

 振り向けば、父に抱かれた毛玉が一声鳴く。片手にそっとドアが閉められて、狭い玄関はいつもより少しだけ窮屈になった。

// 引用終わり


 これはなー。人によっては NG かもしれん。〈今やリィンは審判の門をくぐった。

 振り向けば、〉がリィンに共同注意を向ける cues になるかどうかだな。振り向けばの前に主語があれば明確なんだけど、日本語でそれはくどくなるからなー。推敲の余地はあり。


 続く〈父に抱かれた毛玉が一声鳴く。片手にそっとドアが閉められて〉がリィンの視点による知覚抽出で、〈いつもより少しだけ窮屈になった〉はリィンに共同注意を誘導された読者であれば、語り部が提供する一般的情報ではなく、リィンの体感だと捉えるかもしれない。



// 以下引用

「けだまちゃん、テレビの中に人はいないんだよ」

「もっ? ももっー」


 ダレンは毛玉の振る舞いを興味深く眺めた。前の飼い主の家にテレビジョンが無かったとは考えにくい。

// 引用終わり


 これもはっきりしてるな。〈興味深く眺めた〉が cues で〈前の飼い主の家にテレビジョンが無かったとは考えにくい〉はダレンの思考だ。論文でも、驚いた・凝視した・注意したのような注意を向ける行為表現が有効な cues になりやすいことが示唆されてる感じだったし。

 このあたりの注視系の cues の扱い方は論文中にあった漫画の例をみると大変わかりやすい。


 同じ回の中で以下のようなシーンもある。



// 以下引用

「エルシェラひめがね、すごく遠いところにいるの、リィンとてもこわい」


 リーシャは我が子の横顔を見た。不安に怯えているだけではない、意志を秘めた表情は一人の人間で。かける言葉はすぐに出ては来なかった。

 曲がリフレインして終わりに近づく。

 リィンは蕾を花開くようにリーシャに振り返り、明るい声を響かせた。


「でも、エルシェラひめのことを考えると、みんなつよくなるんだよ」

// 引用終わり


 三人称単元視点や自由間接話法の視点は同じ話の中で切り替えてはならないし主人公のみにするべきという論に従うなら、まぁ NG なやつだ。

 でも、実際どうだろう。〈リーシャは我が子の横顔を見た〉が cues になっているので、そこまで違和感なく読めると思う。むしろ〈一人の人間で。〉で切ってることの方に突っ込まれそうな気さえする。


 もちろんこれを、リーシャへの共同注意を介さずに、次のように書き換えることもできるだろう。


 リィンの横顔に浮かぶ表情は、不安に怯えているだけではない、意志を秘めた一人の人間のものだった。リーシャはそんなリィンを黙って見つめていた。


 硬いつーか、くどくない?

 まぁ、好みなんだろうが。〈不安に怯えているだけではない、意志を秘めた〉は三人称の語り部に言わせるには感傷的に過ぎる表現で、なんかくすぐったい感じがするっていうか。

 いやまぁ、気取った語り部ですごい雰囲気あるダークファンタジーとかハードボイルド書かれる方はいて、人が書いたのを読む分には好きなんだけど、自分で書くとなると何つーか、こそばゆい。



// 以下引用

 少年の呼吸は落ち着き、震えももうない。

 一旦の危機は去ったと判断して、状況について軽く精査する。


 術に術をかけるという時点で多重起動だ。大人でもできねぇ奴は沢山いる。

 リィンの魔力譲渡が成功し、起動にかかる魔力自体は少ないという探査系の特徴を活かして魔力量のゴリ押しで最小限のルーチンを起動、後から術を解析しつつオンデマンドで拡張したのだろう。


 魔力を持たない俺が、何故ここまで知っているのか。

 散々、見てきたからだ。

// 引用終わり


 これは割と強引な誘導をやってるやつだ。


 前提としてここには少年とダレンしかいない。ので最初の〈少年の呼吸は落ち着き、震えももうない〉と見ているのは語り部かダレンだ。一応、少年自身の身体離脱ショットという可能性もあるが、文脈で誤解はまずないと思われる。

 ダレン視点の知覚抽出であると考えるか、語り部の視点と捉えるかは、この時点では読者によって異なる可能性がある。


 次に〈一旦の危機は去ったと判断して、状況について軽く精査する〉と続く。判断も精査も主体性の高い行動で、明確な判断表現もしくは行為表現になっていると思われる。(少なくともこの作品の作風では語り部に主体性は与えられておらず)語り部が判断や精査することはあり得ないので、ダレンの行動であることは自明である。

 ここが cues となって読者はダレンの思考に共同注意を誘導され、以降は三人称の語り部ではなく、ダレンの口調・知識・語彙で続く。


 後半には〈魔力を持たない俺が、何故ここまで知っているのか〉で俺という主語まで出てしまっているが、ここまで来ると読者はまぁまずダレンに共同注意を誘導されていると考えて、あえて俺と言わせたのだろう。


 まぁ、書いてる時は感覚なんだが。感覚で違和感がないってことは、認知に素直な展開になってるはずなので……

 なってなかったらすみません。


 つー感じで、あたらめて自分の書いたのを見直してみると、なんもわからんで書いたものでも割とその通りの仕組みになってた。

 逆になってなくて「ここはわかりにくいかもなー」「逆順にした方がいいかもな」とかもあったな。



♦︎



 論文では、登場人物ではなく語り部との間に成立する共同注意についても触れてる。多分だけど、どこまでを既知情報とするか出してはならないかを考える時はこれも関係してきそうなんだよな。


 所謂、一人称や三人称単元視点で特定の人物に共同注意がずっと誘導されてるときは、普通、その人物の知らないことは書かない。

 が、語り部に共同注意が誘導される時には?


 語り部の存在が明確であるときは、読者は語り部が知り得る情報について考えてしまう。これによって「あのことに触れないのはご都合主義ではないか?」と不信を抱くこともあれば語り部にまんまと騙されることもある。

 語り部の意識を明確にした三人称は、面白いが使いこなすのも難しそうなので、俺は初めて三人称小説を書くにあたって、語り部から徹底的に自我を抜いた。言い換えれば語り部に共同注意を止めないようにしているというか。


 まぁ、例外もある。

 論文で言われてるところの身体離脱ショットがそう。

 ゲームで考えるとわかりやすいかも。完全な FPS 主観視点では対象の身体はほとんど見えないので、視覚以外の実感を増すのが難しい。

 そこで、対象の背後すぐであったり頭上であったりに暗黙の語り部を置いて、語り部と登場人物の視野を重ねるというやつだ。


 この場合、視野は語り部のものになるが、五感で感じられるものは対象のそれになる。(仮にゲームの操作キャラクターに透視能力があるのなら、背後視点にしても透視能力は有効なように)


 これは漫画では非常に一般的な手法で、映画や小説でも見られるものだ。

 というか、この論文の自由間接話法の定義からすると、日本語の特性によって語り部が完全に透明になってしまっても、自由間接話法は原理的には身体離脱ショットなんだろうね。


 下に引用する部分は、わりと身体離脱ショットぽいなーと思ったやつ。


// 以下引用

あの家に時々いる大きな黒い野良猫――ダレンさんは異様な存在だった。まず、滅多に話さない。たまに話しても低く荒れた声と南訛りが耳に障る。おまけに無表情だし、ガラの悪そうなアクセを沢山つけてるし、朱色の目が怖い。

 オライリーのおじさんおばさんを、父さん母さんと呼んでいるから親子であるはずだが、当時小学生だったキーラから見ても血が繋がっていないことは明白だった。何せ種族が違う。

// 引用終わり


 見えているものは語り部ではなくキーラの視点や思考だ。ダレンにさん付けだったり、オライリーのおじさんおばさんという呼び方からもそれはわかる。南訛りが耳に障ると感じたのも、朱色の目が怖いと思ったのもキーラだ。

 が、〈当時小学生だったキーラから見ても〉とキーラの主観にキーラ自身が写り込んでいる。

 

 十分に共同注意が誘導されているなら、ここを〈当時小学生だった私から見ても〉として良かったはずだ。なぜそうしなかったか考えてみると、回想シーンであることが大きい気がする。

 漫画にするなら、キーラの回想シーンにキーラ自身が映り込んでいる。回想シーンの中のキーラがこそこそとダレンを見てるのが想像できる感じ。キーラ自身、幼い頃の自分を客観的に思い出している感触があるし。



// 以下引用

 低くうなる音が響いてくる。それがボートの音なのだと気がつくのに少しの時間がかかった。あのボートがここに着いたら、この冒険のおはなしはおわりなのだ。リィンは助かり、毛玉は助からない。

// 引用ここまで


 詳しい状況は省くが〈それがボートの音なのだと気がつくのに少しの時間がかかった〉のはリィンであることが自明だ。これにより読者はリィンに共同注意を誘導される。


 なら、次の〈あのボートがここに着いたら、この冒険のおはなしはおわりなのだ〉は自由間接話法によるリィンの思考なのか、語り部の少し気取った語りなのか、どちらだろうか。これがはっきりとしないことには書いた時から気づいていた。

 何故なら次に〈リィンは助かり、毛玉は助からない〉という、客観的な雰囲気の文にリィン自身が映り込んでいるからだ。


 映像的に考えるなら、語り部がリィンの頭上に浮いてるような身体離脱ショットなのかなと思う。ここまでの cues によって共同注意がリィンに誘導され〈おはなし〉と漢字を開いていること(リィンは五歳児)によりリィンの思考のように感じられるが、続く文にはリィン自身が写り込んでいるので語り部の存在を読者に強く意識させる。


 これはこの作品の自主ルールからするとかなりイレギュラーな部分で、削るかどうか書いた時からクソ悩んだ。

 この作品ではリィンの内面は描写しないという原則を設けている。(猫動画に猫のセリフつけられるとイラッとする理論による)この原則に反しているので、語り部にどうにかして間接的に表現させたいが、語り部の自我が出てくるのも画風ではないので、折衷案でごっちゃになってる感じだ。

 理想的にはシャレードでやりたかったんだが筆力不足で断念。


 結果だけみればこうだ。

 リィンの思考であれば、五歳児のリィンらしくない諦念が見える。語り部の語りだとすれば、普段自我を出さない語り部が急に自我を出してきて、神の視点で世の真理を語ってるような雰囲気がある。

 どちらととっても雰囲気にはあっているので、原則に反するが残すことにした。


 この辺は、三人称視点だから私を使えないとか、逆に俺が出てきたから一元視点だとかそういう捉え方よりも、どの程度語り手の存在を読者に意識させるのかを考えるともっと幅広いコントロールができそう。

 ましてや「一人称の俺を全部名前に変えたら三人称一元視点になる」というのはかなり乱暴なやり方だとわかる。



♦︎



「そもそも人称をブレされたらダメでしょ」という人は書き手には多いと思う。まぁあれだな、このご時世、厳格にその手のラノベルールを守るなら、主人公以外への自由間接話法どころか三人称自体避けられがちだ。


 書き手には――というのは、読み専のときはそんなこと知らんかったからな。引っかからないなら何でも読んでた。これは今もそう。

 読み手はそこまで考えてないからね。ついていけるなら読むから。先にも出したけど秋山瑞人の作品とかすごいでしょ。

 

 その辺の是非は、これがすごく面白かったので、興味のある方はどうぞ。

https://www.koubo.co.jp/tokushu/201304_1.pdf


 まぁ、原理まで考えれば一人称を鮮やかにするのにも cues による共同注意の誘導は使えるはずなのだ。

 なのでラノベには関係ないということはないはずだし、推敲にも役に立つはず……


 一万字超えとクソながくなってしまったが、この辺で。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る