37 婚約者がお見舞いにやって来ました!

「クロエ! 心配したんだよ! もう体調は大丈夫なのかい?」


 愛しの婚約者が応接間に入ると、スコット・ジェンナー公爵令息は、嬉しさのあまり思わず破顔した。

 彼は侯爵令嬢が病から回復したと聞いて、王宮での用事を切り上げてまで、急いで来訪したのだ。


 クロエはマリアンに「父と同様に、スコットにも知らせなくていい」と言ったものの、「毎日お花を届けてくれていた婚約者に対して、そんな無礼な仕打ちはパリステラ家としてもできません!」と反対され、いつの間にか彼女がジェンナー家に知らせをやっていたのだった。


 クロエは婚約者を静かに一瞥してから、


「久し振りね、スコット」


 にっこりと優しい笑顔を向けた。


(本当に……久し振り……。あの日、以来ね…………)


 ――ただの、ゴーストだろう?


 またぞろ、あのときのスコットの言葉が頭をよぎった。


 氷のような冷たい視線、嘲りの内包された刺すような声。

 それらは、未だにクロエの心にこびり付いて、縛り付けるように暗く支配していた。


 そんな彼女の心情を彼は知るよしもなく、慈しむような視線を婚約者に向ける。

 高熱で意識不明だと知らされたときは、動揺で頭がどうかなりそうだった。こうやってまた、元気な婚約者の顔が見られて本当に良かった。


「君が高熱で倒れて意識不明だと聞いたときは、本当に心臓が止まりそうだったよ」


「そう。心配かけてごめんなさい」


「ずっと寝込んでいたけど、もう動いても大丈夫なのかい?」と、スコットは心配そうにクロエの顔を覗き込んだ。


「医師は問題ないと言っていたわ。平気よ」クロエは無理矢理に笑顔を作る。「マリアンがあなたが毎日お花を贈ってくれたって言っていたわ。ありがとう」


 怒りに震える右手を、跡が付くくらいに左手でぐっと強く握りしめる。

 どの面下げてやって来たのかと、罵倒して張り倒したい気分だった。


 しかし、今の彼はまだコートニーに出会ってさえもいない。

 これから起こり得る未来のことを糾弾しても仕方ないのだ。


 感情を優先して、婚約者から怪しまれるようなことは避けたい。

 今後、こちらが有利に動けるためにも、しばらくは彼とは逆行前と同様に良好な関係を築いていたほうが都合が良い。


 だから、今は……ひたすら我慢だ。


 それより、これからどう動くか。そのことをよく考えなければ。

 屋敷のことや魔法のことで頭がいっぱいで、スコットをどう闇に葬るか、具体的な計画はこれから決めるところだった。できれば、彼が愛し合うコートニーと共に沈めたい。


「そんな……。君のためなら、花なんていくらでも送るよ」スコットは柔和に微笑んでからおもむろにクロエを抱きしめた。「本当に無事で良かった、クロエ」


(おぞましい……)


 その瞬間、クロエの全身が粟立った。キンとつんざくような鋭い耳鳴りがして、身体が強張る。

 吐き気がするくらいに、気持ち悪かった。


 ――ただの、ゴーストだろう?


 それは、呪いの言葉のように、彼女を悲しみのどん底まで深く突き落としていったのだ。



「マリアン、お茶の準備を」


 クロエは、侍女に指示をする振りをして、婚約者からさり気なく離れた。はにかむような微笑を浮かべて、照れている風の演技をする。


「クロエ、病み上がりなのに、ゆっくりお茶なんてしてもいいの? 無理していないか?」


「大丈夫よ。せっかく婚約者が心配して来たのですもの。精一杯のおもてなしをさせてね」と、彼女はくすりと笑ってみせた。


 本音を言うと、すぐにでも追い返したかった。彼とはもう喋りたくないし、顔も見たくなかった。

 婚約だって、すぐにでも破棄したい。


 しかし、これまでの「クロエ」だったら、婚約者が自分のもとへやって来たら、どんなに体調が悪くとも笑顔で歓迎しただろう。だから、我慢して演じ切らなければ。


 スコットが右手を差し出す。テーブルまでエスコートをしてくれるようだ。

 クロエは不快なあまり顔を引き攣りそうになるが、気合いで笑顔を表層に貼り付けて、彼の手に自身の手を重ねた。




「……クロエ、なんだか雰囲気が変わったようだけど、どういった心境の変化なんだい?」


 お茶を飲んで一息ついたところで、スコットが遠慮がちにクロエに尋ねた。

 彼は少し困惑した顔をして、おずおずと彼女の全身を見ている。


 今日のクロエのドレスは、黒を基調として、ティアードスカートの切り替え部分に、彼女の瞳の色に似た深緑のチェック柄をあしらったデザインだ。

 それは、清楚な彼女のイメージとはかけ離れた、少し大人っぽいドレスだったのだ。



 ちょうど今日の午前中にブティックの一行がパリステラ家にやって来た。


 そこでクロエが選んだのは黒、黒、黒……。

 喪服のようなドレスの山にマリアンは顔を真っ青にして、ひっくり返りそうになった。そして今度は顔を真っ赤に変えて、猛反対を訴えクロエと喧嘩にまで発展してしまった。


 それでもクロエは、「これから女主人として屋敷を背負っていく決意表明なの!」などと頑として譲らず、結局は侍女が折れることとなった。


 マリアンは、クロエのこれまでのような楚々とした可愛らしさをなんとか維持しようと、メイドたちと相談して、明るい雰囲気のヘアメイクを心がけたのだった。


「これ?」クロエはくすりと笑う。「お父様から屋敷の管理を任せてもらえるようになったの。だから、女主人らしい格好をすることにしたのよ。素敵でしょう?」


「君は……」


 スコットは押し黙った。悲しみで胸が張り裂けそうだった。


 目の前の婚約者は、まだ母親の死から立ち直っていない。それで、無理をして大人になろうとしているのだろう。傷付いた心に蓋をするように。


 婚約者が未だ苦しみから逃れられないでいる。……そう思うと、自分がこの手で彼女を悲しみの海から救ってやらなければ、と強く決意した。


「クロエ、どうか一人で抱え込まないでくれ」


 スコットはソファーから立ち上がって、クロエの前にやって来た。


 そして、


「っつ……!?」


 またもや、愛しの婚約者をふわりと優しく包み込むように、抱きしめる。


「僕は、いつだって君の味方だから。僕だけは……絶対に」


 ――ただの、ゴーストだろう?


 あの忌々しい呪いの言葉が、再び彼の言葉と重なった。


「やめてっ!!」


 思わず力いっぱい彼を払いのける。

 勢い余って、右手でティーカップまで叩いてしまった。


 ――ガシャンッ!


 カップは床に落ち、悲鳴のような激しい音を立てて割れた。


「まぁっ! お嬢様、大丈夫ですか!? スコット様も、お怪我は?」


 放心状態の二人の間にマリアンが割って入って来た。

 激しく拒絶をして、なんて言い訳をしようかと、気まずさに耐えきれなかったクロエは、密かに胸を撫で下ろす。


「今、片付けますね」と、マリアンはメイドとともに急いで割れたカップと水浸しの床を掃除し始める。


「あ……ありがとう、マリアン」


 スコットにどう向き合って良いか困り果てたクロエは、その様子を不安そうな顔をして眺めていた。

 ちらりと婚約者のほうを見やると、彼は茫然自失と立ち尽くしていたのだった。



「いっつっ……!」


 そのとき、マリアンのくぐもった叫び声が聞こえた。


 見ると、彼女の指から血が流れている。どうやらカップの破片で切ったようだ。


「マリアン、大丈夫!?」と、クロエが駆け寄る。


「驚かせてすみません、お嬢様。慌てて掃除をしていたので、つい不注意で。でも、これくらい平気ですよ」


「ごめんなさい、私のせいだわ!」


「そんなことありませんよ」


「私に手当をさせて!」と、クロエは咄嗟に侍女の怪我をした手を持った。



 そのときだった。


「っ……!?」


 ぼわり、と霧のような白い光が繋がった二人の手から漏れた。


 一拍して光が消え去ると、


「お……お嬢様、き、傷が……!?」


 なんと、マリアンのぱっくりと割れた指先の傷が、何事も起こらなかったかのように、綺麗に元通りの状態になっていたのだ。


「………………」


「………………」


 緊張感に満たされた静寂が辺りを包み込んだ。

 皆、目を見張って動けなかった。



「聖女…………」


 しばらくして、背後に立つスコットが、ぽつりと呟いた。



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