12 私の味方はいなくなりました

※若干、暴力的な表現あり※








「この盗っ人が!!」


 バチン、バチン――と、鞭の音が屋敷中に響いていた。

 痛みを堪える掠れた声と、どす黒い悪意の塊のような太い声。


(またお継母様がメイドをいじめているのかしら……?)


 クロエはもう何度も聞いた鞭の鋭い音にうんざりと頭を抱えながらも、不当に責められている者を放ってはおけず、音のもとへと早足で向かう。



 彼女は使用人たちから軽んじられても、めげなかった。


(彼らは継母や異母妹が怖くて指示に従っているだけ。それは仕方のないことだわ。誰だって痛いのは怖いもの。……それに、あんなにたくさんの優しさをくれた皆のことを、今更嫌いになんてなれないわ)


 心優しい彼女は、自分のことを邪険に扱い始めた従者たちが、継母から不当な仕打ちをされているときは、率先して庇った。彼らが困っているときは手を差し伸べて、微笑みかけた。


 継母たちのせいで辛い思いをしている彼ら。せめて自分だけは、新しい家族が来た日からずっと停滞している不穏な屋敷の空気を和らげたかったのだ。



「お継母様、なにをされているのです――マリアンっ!?」


 眼前の凄惨な光景に、クロエは目を剥いた。


 そこにはマリアンが一糸纏わずに床に打ち捨てられて、彼女は震える身体を丸ませていた。

 身体中に赤く鬱血した痕が複雑な模様のように散らばって、息も絶え絶え、静かに涙を流していたのだ。


「マリアンっ!!」


 クロエはすぐさま駆け寄って、羽織っていたカーディガンをマリアンに掛けた。


「お……お嬢さ…………」


 囁くようなマリアンの声は酷く震えて、苛烈な痛みを滲ませていた。


「もう大丈夫よ。こんな酷いこと、私がさせないわ」


 クロエはおもむろに立ち上がって、クリスを睨め付ける。


「あら、魔法も使えない娘が一体なにかしら? 侯爵夫人であるあたくしの邪魔をする気?」と、クリスも負けじと睨み返した。


「……お継母様、このような一方的な暴力はもう止めてくださいまし。あまりに酷すぎます」


 クリスはくすくすと嘲り笑って、


「一方的な暴力ですって? 使用人が罪を犯したら罰を与えるのは主人の義務でしょう?」


「罪ですか? 彼女がなにを犯したのです?」


 クロエの怒気を含んだ声音が響いた。


(お継母様はなにをおっしゃっているのかしら。マリアンが罪なんて犯すはずがないじゃない。きっと、また自分の虫の居所が悪いから、侍女に八つ当たりをしているだけなんだわ)


 すると、クリスの濃い紅が塗られたねちっこい唇が、ニヤリと三日月型に歪んだ。


「そうよ、罪よ。この女は図々しくも盗みを働いていたの。罪人は力で矯正しないといけないわ」


「盗みですって!?」クロエは目を見張る。「そんな……まさか! 彼女がそんなことをするはずがないわ!」



 マリアンはクロエが生まれたときから乳母としてずっと側にいてくれた。

 クロエが悪いことをすれば母のように叱るし、一緒に笑ったり時には泣いたりもした。

 母の死も乗り越えた。泣き喚くクロエの隣で静かに見守ってくれた。そこには主と従者を超えた絆があった。


 クロエはマリアンのことはよく知っている。

 正義感が強くて、真面目で、誰よりも人の心が分かる優しい人。そんな彼女が人のものを盗んだりするはずがない。


「証拠ならあるわよ?」


 クリスは背後にいたメイドに目配せをする。すると、メイドはハンカチに包まれた中身をクロエに見せた。


「こ、これは……!?」


 それは、クロエが持っていた高価なガラスペンだった。


 一瞬で、世界が暗転する。

 にわかに鼓動が早くなって、呼吸が荒れた。


(これは大事に机の引き出しにしまっていたはずなのに……なぜ、ここに…………?)


 凍り付くクロエを背後から抱き締めて、クリスは彼女の耳元で甘い声で囁く。


「可哀想に……。あたくしは、日頃のあなたたちの関係を見ていたから、本当は秘密裏に処理をしたかったの。だって、あなたがマリアンから裏切られたと知ったら傷付くでしょう?」


「うらぎっ……そんなこと…………!」


 そんなはずがない!


 ――と、クロエは叫びたかった。

 しかし、喉がひりついて声が出ない。微塵も動けずに、冷や汗が彼女の肌を滑るだけだ。

 嘘だと分かっているのに、裏切られたなんて物騒なことを言われたら、動揺を隠せない。


 頭の中では継母が彼女を嵌めたのだと確信している。

 どうせ手下の者を自分の部屋に忍び込ませて、そしてマリアンの部屋に置いたのだろう。


 ……でも、その証拠がない。すぐには用意できない。

 クロエがいくら反論をしても、証明できなければ徒労に終わるだろう。


(どうすれば……)


 クリスは困ったように肩を竦めて、


「本当はこんなことしたくなかったのだけれど、侯爵夫人としての責任があるから仕方ないわね。大事な娘のものを盗むなんて、母親として見逃すことはできないもの。……それに、主としてけじめをつけなければいけないわ」


(どの口がそんなことを言うの!)


 汚く罵りたい気分だが、ぐっと飲み込む。


 この状況ではあまりに不利だ。クロエの行動こそ不条理になる。

 なぜなら、優しい母親が娘の私物を盗難した侍女に怒って折檻をする……といった状況が成立しているのだ。

 侯爵家の人間として、これに反論するとなると、「侯爵令嬢は使用人の窃盗を容認する愚か者」だと喧伝していることになる。

 それは不味い。高位貴族がそんな非道徳な行いをするのは許されない。

 どこからか漏れて、家の評判に関わることもあり得るかもしれない。


「っ……!」


 クロエは黙り込む。次の一手が思い浮かばない。


(どうしよう……どうすればこの状況を乗り越えられる?)


 まだ幼く経験の乏しい彼女には、平民から侯爵夫人にのし上がった海千山千のクリスに対抗する術を持っていなかった。


 クリスは勝ち誇ったように、甘く言う。


「さぁ……どうしましょう? あたくしは旦那様にマリアンの処分を許可されているの」


 にやりと歪んだ笑いを漏らした。濃い薔薇の香水がつんと鼻を突く。


「ねぇ、クロエ。もし宜しければ、今回の件の処理はあなたに譲渡するわ。だって、マリアンはあなたが生まれたときから仕えていたんですものね。彼女もぽっと出のあたくしよりも、あなたから進退を告げられたほうが良いのではなくて?」


(負けた……)


 クロエは愕然と、肩を落とした。

 自分がマリアンを解雇するとなると、彼女の罪を認めたことになる。

 だが、それを拒否すれば、証拠があるのにマリアンを庇うことになる。

 それだったら、一旦はマリアンの罪を認めて、これまで育ててくれた恩情で騎士に突き出さずにひっそりと解雇するのが得策だ。


 クロエはぶるぶると肩を震わせた。

 息が苦しくなって、脂汗が止まらない。まるで冷たい湖の中に突き落とされた気分だ。

 怒りと悲しみが綯い交ぜになって、彼女の全身を襲った。


「わっ……」


 落ち着かせるように深呼吸をして、か細い声を絞り出す。


「わ……私があとのことは処理しますので……お継母様はどうぞ……お、お戻りください。手も痛むことでしょう」


「では、罪を犯した侍女を侯爵令嬢が直々に処分するということなのね?」と、クリスは念を押すように継子に問い掛ける。



「………………………………はい」


 クロエはこう答えるしかなかった。


「そう。じゃ、あとは任せたわ」と、クリスは高笑いをしながら出て行った。


 底冷えする部屋には、クロエとマリアンが呆然として取り残された。






◆◆◆






「マリアン……これを……」


 翌日、クロエは屋敷の裏口で静かにマリアンを見送った。


「これは、お嬢様が大切にしていた絹の手袋ではないですか! こんな高価なもの頂けません」


「いいの。受け取って。せめてもの退職金だから。売ればいくらかにはなるわ。……こんなものしか渡せなくてごめんなさい」


「お嬢様……! ありがとうございますっ……ううっ…………」


 二人は抱き合って涙を流した。互いの体温が混じって温かいはずなのに、身体はひんやりと冷たいままで、全身が重かった。



 結局、こうするしかなかった。


 あの状況を切り抜けるには、ありもしない罪を認めるしかなかったのだ。

 あのまま頑なに反抗して継母に委ねたままだったら、マリアンは今頃処刑されていた可能性もある。貴族の持ち物を盗んだ罪は重いのだ。


「あと、紹介状よ。持って行って」クロエは一通の手紙をマリアンに渡す。「未成年の侯爵令嬢の紹介状なんて意味がないかもしれないけど、もしかしたらどこか下級貴族や商家には潜り込める可能性はあると思うわ」


「このような過分な……本当にありがとうございます、お嬢様」


 クロエは首を横に振る。涙は止まらなかった。


「守ってあげられなくて、ごめんなさい……。今までありがとう……」


「私こそ、奥様の大事なお嬢様をお守りできずに申し訳ありませんでした……。どうか、強く、生きてくださいまし。奥様はお嬢様は絶対に幸福を勝ち取るとおっしゃっていましたから」


「そう……。ありがとう」




 こうして、唯一味方だったマリアンは屋敷を去った。


 クロエは一人になった。


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