暗闇の先の君へ

第1話 君と私、二人きり

 油絵の具の香りが教室に充満している。独特な油の香りは少し苦手だけど、重ね塗りをして想いのままに描ける油絵は大好きだ。私、西田真紀にしだまきは中学校入学とともに美術部に入部し油絵を始めた。始めは、仲良しの女友達四人で入部したのに、顧問の先生がやる気がないせいで『ダラダラ活動するのは嫌だ』と、一年のうちに二人が転部し、二年目にはもう一人も転部してしまい女子は私一人になってしまった。代わりに、運動部から男子が三人転部してきて『ここって帰宅部だよね?』なんて言っていた。



 私はスケッチブックに鉛筆画を描いたり、油絵を描いたりと一人でも割と充実していた。男子はルアーを作ったり、美術室に置かれた材木の切れ端や段ボールで工作をしたりと謎の活動をしていた。二年生になってから私は部長になり、副部長にはジャンケンで負けた木内実隆きうちさねたかが就任した。まぁ、役についたからと言って、特にやることもない。男子とは時々話すけど、一緒に活動することはなかった。


 三年生になって引退が近付いた七月のある日。私はいつも通り鉛筆画を描いていた。私が描くのは、主に空想の中の絵で、今日は鳥籠に捕まった女の子を描いていた。


「不思議な絵だな」


 不意に、声を掛けられて振り返るとそこにいたのは木内だった。手には作りかけのルアーを持っている。


「空想の中の絵だよ」


「へぇ」


「今日もルアー作っているの?」


「おう。今日部活に来ているのは俺だけみたいだな」


 どうやら、他の男子二人はさぼりのようで教室には私と木内しかいない。


「そのルアーで魚釣れるの?」


「まぁまぁ釣れるかな?」


「へぇ! すごいね」


「お、じゃあ、今から釣りに行こうぜ」


「え?」


「ほら、学校を出てちょっと行ったとこに川があるだろ? 時々三人でルアーを試しに行くんだよ」


「へえ。部活を抜け出して釣りなんて行ってたの……」


「運動部だって、校外に走り込み行ってるし別に問題ないだろ。どうせ暇だし」


 運動部のランニングと美術部の釣りとでは活動内容に雲泥の差があるが何も言わないでおいた。


「まぁ……暇だけど」


「だろ? じゃあ、行ってみようぜ」



 木内はあどけなさの残る少年のような笑顔を見せた。つられて私も笑ってしまった。


 私と木内は美術室の戸締まりをしてから昇降口へ向かった。


 学校の正門を出て校舎沿いを超えるとまばらに住宅があり、右手側には川が見える。私たちは川沿いを歩いた。今日はカラッと晴れていて、川が太陽の光を反射し、キラキラと輝いている。周りを山に囲まれた雄大な自然環境の地域なので、川の水が透き通って綺麗だ。


 しばらく歩くと、木内が立ち止り指を指した。


「ここ」


 指を指した先はガードレールが途切れて川まで下りられるようになっている。砂利の上に大きな石があり、ちょうど川に対して椅子のようになっていた。


「いつもここで釣りしているんだ」


 三人で見つけてきた石をここに置いて椅子代わりにしていたそうだ。木内は手にしていた木の棒に糸を括り付けてから糸の先に手作りのルアーをつけた。


「ザリガニ釣りするみたいな竿だけど大丈夫なの?」


「大丈夫。まぁ、壊れても気にしないし」


 木内は、私に竿を一本貸してくれた。二人で石に座って糸を垂らし、魚が食い付くのを待った。私は釣りをするのは初めてだ。釣りなんて待っている時間がつまらないと思っていたが、木内の隣は不思議と居心地が良くて無言でも気を使わずにいられた。


「もうすぐ部活動引退だな」


「そうだねぇ」


「俺、美術部でルアー作りしかしなかったな」


それを聞いた私は吹き出して笑った。


「そうだねぇ。でも、いいんじゃない? 楽しそうだったし。私もひたすら絵を描いていただけだったよ」


「そうか。でも、西田は絵を描いていたし美術部員としては真っ当な活動をしたな」


「そう? ありがとう」


 別に褒められたわけでもないが、嬉しくなって私はヘヘッと笑った。


「ところで、ここで何が釣れるの?」


「川魚だから、マスとかイワナとか」


 私達はしばらく魚が釣れるのを待った。煌めく川には、時折魚が泳ぐのが見えるものの私達のルアーを食いつくことはなくスイスイと泳いでいく。私は遠くに見える山を見つめた。新緑の山並みと鮮やかな青空。ここで風景画を描いたら楽しかったかもしれないと思う。


 その日は、結局何も釣れないまま下校のチャイムが鳴り響くのが聞こえた。


「残念。ダム湖なら絶対に釣れるんだけど」


「え? ダム湖まで行くの?」


 私達の学校から自転車で一時間程の場所にダム湖がある。ダム湖は週末は地元の人や釣り人で賑わう。貸しボートもあり、釣り人は手こぎボートに乗り、家族連れはアヒルボートに乗っている。私も小学生の頃に両親とアヒルボートに乗った記憶がある。


「そう。明日土曜日だし、行ってみる?」


「えぇっ」


「俺は暇だから時々行っているんだよ。明日も行くから暇だから来てみたら?」


 私は木内に竿を返して曖昧に頷いた。


「そうだねぇ。行けたらね」


 ダム湖に行くまでの道のりは、ほとんど上り坂で自転車で行くにはかなりの労力を使う。文化部で体力のない私には快諾できなかった。学校に戻ると、木内は駐輪場に向かい颯爽と自転車にまたがった。


「じゃあなー」


「うん、またね」


 木内は振り向きざまに少年らしい笑顔を見せた。



 翌日、私はおにぎりを作り、水筒にお茶を入れて、お菓子をリュックに詰めると昼前に家を出発した。私の家からダム湖までは一時間以上かかる。今日も朝から快晴で、サイクリング日和だが気温が高いせいで私は汗を流しながら必死に自転車を漕いだ。中学校を越えると、周りは住宅も減り、一層山道になる。道路沿いは土砂崩れ防止のネットが張られている。途中、丸太の加工場があるが、土曜日なので人の気配は無い。右手に見える川幅がどんどん広がっていく。川は山並みを反射して深緑色に見えた。


 やっとダム湖に到着すると駐車場は何台もの車が停められていた。私は駐車場とは反対側にある駐輪場に駐車すると階段を降りてダム湖へと向かった。湖畔は、バーベキュー場もあり、いくつかのグループが楽しそうに飲み食いをしている。湖ではアヒルボートに乗る親子や、釣りを楽しむおじさんたちそれぞれが休みを満喫していた。



 湖沿いを歩いていると、釣りをしている木内を見つけた。キャップをかぶり、Tシャツにデニムというシンプルな服装をしている。昨日とは違って、ちゃんとした釣り竿に釣り糸、バケツも持ってきている。


「木内〜!」


 木内は私を見つけると驚いた顔をした。


「あれ。本当に来てくれの」


「まあ、暇だったし。それより、釣れたの?」


 バケツを覗き込むと五匹も魚が入っている。


「わっ、本当に釣れてる! これ食べるの?」


「いや、全部リリースして帰るよ」


「そうなんだ〜。もったいない」


「お父さんと来るときは持って帰ったり、上にあるお店で調理してもらうけど、一人のときはリリースするんだ」


「そうなんだ」


「一緒に釣りする?」


「うん!」


 私は昨日と同様にルアーを付けてもらって竿をダム湖に垂らした。今日は木内のお手製のルアーではなく本物のルアーを付けている。


「せっかくだから、木内の作ったルアー付けてよ」


「え。俺のでいいの?」


「その為に来たのよ」


木内はお手製のルアーを釣り糸に付け直してくれた。


「釣れるかな」


「じっくり待つしかないな」


「そういや、木内は進学先決めた?」


「決めたよ。西田は?」


「まだ」


「まだかよ。もう絞る時期だろ」


「そうだけどね」


「なんか、もうとっくに決めてますって雰囲気なのに」


「そう?」


「そうだよ。部活では一人で黙々と描いている姿が、迷いが無いように見えるというか」


「最初は友達四人で一緒に入ったんだけどね」


「よく女子一人で続けたよな」


「入部するとき、親に大反対されたの。運動部に入れって。だけど、それを押し切って入部したからね。だから、簡単にやめられなかったの」


「なんか、部活も高校も人生を左右するほどのことじゃないのに、そういう時だけ親からのプレッシャーすごいよな」


「本当、部活くらい好きなのも選ばせてほしいよね。でもさすがに高校は人生を左右するでしょ?」


「そうかな? 俺はもう進学先を決めたけど普通科だからな。これが専門的な学科なら人生に関わるかもしれないけど、進学しても何も人生変わらないよ」


「普通科だって、人生を左右するよ」


「わからないな。その先に何が待っているのか」


「そうだね。私もわからないよ」


「お、釣れた」


 木内は竿を振り上げて、網で魚をすくい上げた。なかなか大きなニジマスがかかっている。


「わぁ! 大きい魚だ!」


「たしかに……リリースするのはもったいないな」


 木内は魚をバケツに入れると竿を横に置いた。


「そろそろお昼にしますかね」


 私に笑顔を見せるとリュックから菓子パンを取り出した。


 

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