第17話 恋心

 ルーナはまだ初恋の経験もない乙女である。父親と村で生活をしていた頃には歳の近い男の子と遊んだりもしたが、恋どころか異性を意識した事すらなかった。


 そんなルーナに結婚の二文字はあまりにも非現実的すぎたのだろう。だがそれなのに。


──なんで私、こんなにドキドキしているのかしら。


 大人の男性から愛しているなんて告白されれば、動揺して当たり前だとルーナは自分を納得させようとするのだが。


(オジサマなのに、もうオジサマに見えないのはどうして!?)


 ルーナの目の前にいるソレイユが、何だか別人のようにキラキラと見えてしまっているのだ。


(ワケわかんない!)


 目を回して一人ジタバタしているルーナを、ソレイユは心配そうに凝視した。


「ル、ルーナ? とりあえず落ち着こうか。今すぐ決断を下さなくていいんだよ? 今晩ゆっくり考えてみたらいい」


「そ、そうですよね!」


「ごめんよ。いきなりプロポーズなんてされたら、驚いて当然だよね」


 プロポーズ。その一言がルーナの狼狽に拍車をかけ、思わずきつく目を瞑る。


(プ、プっ、プロポーズッ! そっか、作戦とは言えこれってプロポーズなんだよねっ!)


 ルーナは自分が作戦の実行を決断した暁には、ソレイユのお嫁さんになるのだと初めて実感した。そう、お嫁さんになるのだと。


(お嫁さん──)


 するとルーナのまぶたの裏に、まだほんの幼い頃の自分が父親と母親にじゃれつく姿が浮かんでくる。

 父親がいつかルーナが誰かの嫁になる事を嘆き、母親が笑ってたしなめる。そんなありふれた家庭のありふれた情景。


『お父さん、お嫁さんってなあに?』


『お嫁さんってのはね、大好きな人と新しい家族を作り始める女の人の事だよ。ルーナもいつか、いつか……うううあ』


 幼子だったルーナは特にお嫁さんに興味を持つ事もなく、「ふーん」と頷くだけだった。だってもうすでに大好きな両親がいて家族があったのだから。


 しかしその家族はもういない……


 だからなのだろうか? 一人が急に寂しくなった。ルーナはソレイユと新しい家族になれたら嬉しいなと思った。


(あっ……)


 そう思ったら自分がソレイユの事を大好きなんだと、胸に灯った暖かい何かが教えてくれた。


(私、オジサマのお嫁さんになりたいな)


 ルーナは素直にそう思えた自分の事が、何だかとても心地よかった。


 ソレイユは深く考えの中に沈んでいるルーナの邪魔をしない様にと、静かに退室を告げてドアへと踏み出す。


「じゃあルーナ、また明日ね」


 ところがその踏み出した一歩は、ソレイユのシャツの袖を掴んだルーナの指先に遮られてしまう。


「ルーナ?」


「オジサマ……私」


 半分俯いたまま大きな瞳だけを上に向けたルーナは、自分の思いを言葉にかえてソレイユへと伝える。


「私、結婚とかまだよく分からないです。恋とかもした事なくて、私のオジサマへの気持ちが何なのかも正直分かりません」


「うん、そっか」


「だけど私……オジサマのお嫁さんになって一緒の家族になりたい、です……」


 ソレイユはルーナのその言葉が、花びらとなってその可憐な口からこぼれたような錯覚におちいった。

 我ながら頭が変になったのかと思うのだが、ルーナへのいとおしさで今はそれどころではなくなっている。


「そっか! うん、そっか!」


 三十歳にもなる中年男が、気のきいた返事も出来ずに頷くだけというのも滑稽である。

 しかしそれ以上何かを言ったら、花びらが儚く消えて失くなってしまいそうで恐かったのだ。


 だから今は万感の思いを込めて、ただ一言だけをルーナへと贈るのだった。


「ありがとう」と。




  ◇*◇*◇*◇*◇



 その日は朝から小雨が降り続き、夏の終わりを予感させる様な肌寒い日であった。

 ソレイユ辺境伯爵邸の客間では、国王の使者がソレイユとルーナに国王からの勅書を下達かたつしている。


 その様子をブロッド侯爵の次男でありルーナの婚約者でもあるダミアンが、下品な笑い顔を浮かべて眺めていた。


「以上ソレイユ伯アランはルーナ嬢保護の役目を解かれ、ルーナ嬢は婚約者であるブロッド侯令息ダミアンの元で安泰な生活が保障されるよう申しつける」


 使者が朗々と読み上げた勅書は、ソレイユが予想した通りの内容であった。格式に則り承った後、ルーナに振り向いたソレイユは別れの挨拶を申し述べる。


「ではルーナ嬢、この先も恙無つつがなくお過ごし下され」


「はい、大変お世話になりました」


 むろんこのやり取りは、初めからソレイユとルーナの間で予定されていた茶番である。しかしこれで国王の勅書に従ったという名分が立つのだ。


「おいルーナ! 帰るぞ!」


 まるで反省の色の見えないダミアンの声が、高圧的にルーナへと浴びせられた。


「しかし少し見ない間に可愛くなったじゃないか。むろん農夫の娘にしてはだがな。まあ、それなりには楽しめそうだ! ふふ」


 そう舌舐りをしたダミアンは、荒っぽい態度でルーナの腕を掴もうとした。しかしその伸ばした手はソレイユによって振り払われたのである。


「なっ? 何をするソレイユ卿!」


 目を剥いてソレイユを睨んだダミアンに、ソレイユは不敵に笑って応えた。


「ダミアン殿に決闘を申し込もう」


 その言葉に唖然としたのはダミアンだけではない。国王の使者もまた威厳を取り繕うのも忘れて驚いている。


「アンドラル王国の法に基づき、ダミアン殿の婚約者であるルーナ嬢との同意のもと、貴殿に『決闘婚』の権利を行使いたす。正式に王立裁判所よりの訴状が届くのを待たれよ」


 さすがに国王の使者としては、この事態の急変は見過ごせなかろう。


「ソ、ソレイユ卿? まさか王命に叛くおつもりか?」


「これは異なことを仰る。私が王命に従いルーナ嬢保護の役目を返上致した事は、使者殿もその目で確認されたはずです。それとこの決闘婚は別の話ですよ?」


「いやしかし、決闘婚など聞いたことも有りませんが!?」


 すると今まで控えていたオリガが、数冊の書物を持って使者の前へと進み出る。

 一礼したオリガは決闘婚の概要を口頭で説明し、手にしていた書物を捲り始めた。


「決闘婚についてはこちらの法典と判例集にてご確認頂けます」


 使者は神妙な顔をしてオリガに示された箇所を丁寧に読んでいく。やがて大きく息を吐くと己の眼球を指で揉んだ。


「ふぅ、これは確かに。決闘婚なる法律は我らが王国に存在しているようですな」


「ふ、ふざけるなっ、そんな馬鹿げた法律があってたまるかッ!」


 さっきから歯軋りをしながら読み終わるのを待っていたダミアンは、ついに我慢の限界となったのであろう。

 国王の使者の言葉を汚い言葉で遮って、法律への悪態をついた。もちろんソレイユはその愚行を見逃さない。


「ほう? ダミアン殿は王国の法律を馬鹿げたと申しますか。おそれ多くも法律とは、歴代国王陛下の正義の顕れとして存在していると心得ておりますが、まさかダミアン殿は国王の正義をお疑いなさるとでも?」


 言葉に詰まったダミアンに追い討ちをかけたのは、国王の使者だった。


「不敬ですぞダミアン殿。この件はソレイユ卿の申す通り、一度お屋敷に戻り裁判所からの訴状を待つのが宜しかろう」


「し、しかし国王陛下のご命令は!? もうルーナは俺のもののはずじゃッ!」


「国王陛下のご命令はソレイユ卿により遂行されました。しかしその後の法的権利の行使はまた別の案件だと心得なさるがよい」


 国王の使者は王族閥と呼ばれる宮廷貴族から選ばれ、中立をたっとぶ。公平性を重視する彼らの言葉は非常に重い。

 それでも抵抗を諦めたくはないのだろう、ダミアンは小さく呪いの言葉を吐き捨てるとソレイユへと言った。


「とにかく! その訴状とやらが届くまではルーナは俺のものだ。返してもらうぞ」


「いや、それは成りませんぞダミアン殿。どうやら法的にその決定権を持つのはルーナ嬢のようだ」


「なにっ!?」


 ダミアンの要求を撥ね退けたのは国王の使者だった。彼の述べた法とは決闘婚が申し込まれた時点で当該女性保護の立場から、女性の身柄の預け先は女性による選択で決定するというものである。

 それは決闘婚の訴状が届くまでに、強制的な結婚をさせない為の法的処置であった。


「さてルーナ嬢よ、ブロッド侯爵家とソレイユ辺境伯爵家、いずれをお選びか?」


 するとルーナは決然として答える。


「ソ、ソレイユ辺境伯爵家です。私はここに残りますっ!」


 この期に及んではもはやダミアンの出る幕はない。

 どうやらその自覚はあったのだろう、床を踏み鳴らしながら乱暴にドアを開けて出て行ってしまった。


 これで作戦の第一段階は完了だなと、使者を丁重に見送りながらソレイユは次の段階の事を考える。

 こういう軍人の顔をしている時のソレイユの集中力は凄まじい。しかし凄まじいだけに回りが見えなくもなるようだ。


「イタっ! な、何するんだよ!」


 背後から突然オリガに尻を蹴られたソレイユは、その理由が分からないだけに少しムッとした。

 だがオリガはムッとどころか怒っていたようである。


「馬鹿ですか? 作戦の事を考える前にやることがあるのでは?」


 そう言った視線の先に居たルーナは少し震えながらも気丈にして、去っていく馬車を見つめていた。

 今まで恐怖でしかなかったダミアンをの当たりにして、平気でいられた訳がなかったのだ。それでもルーナはダミアンなんかに負けたくない一心で、その素振りを見せずに頑張り抜いた。


 咄嗟にその事に気づいたソレイユは、ルーナの元へと一目散に駆けよって、その背中を強く抱きしめる。


「オ、オジサマ?」


「ごめんよルーナ、よく頑張ったね」


 オリガはそんな二人を目を細めて見ながら、やれやれと溜め息をつくのであった。

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