第2話 地獄

 国王陛下の名において、勇者の娘ルーナをアンドラル王国の庇護のもとにおく事とする──


 そう布告されたのは、ルーナがまだ悲しみの底に沈んで動けずにいた時である。


 変わり果てた父親の遺骸を見たルーナは、それを現実の事だと受け入れる事が出来ないままでいた。

 棺の中で剣の柄に両手を置き、きらびやかな鎧を纏って横たわる父親は、ルーナの知るその人ではなかったからだ。


(私のお父さんは剣なんか持ったりしない。いつも泥だらけになって鍬を持っていたんだもの……)


 無論そんなルーナの気持ちに気を留める貴族など宮中には誰一人としておらず、どの様な方法でルーナを庇護するのが一番良い手段かを、顔を寄せあって相談している。

 一番良いとは言ってもルーナにとってではない。王国にとってという意味だ。


 およそ二百年に一度現れる破格の魔人による大災害は、歴史が証明しているとは言え次がまた二百年後である保障にはならない。

 いや、おそらく二百年の周期に間違いはないのだろうが、身をもって大災害の恐怖を味わった者たちには気休めでも安心の為の保険が欲しかったのだ。


 つまりその保険が『勇者の娘のルーナ』である。


 それの一体何が保険なのかと思うだろうが、この世界に存在する魔法にその理由がある。

 魔法は血の系譜と呼ばれる能力遺伝により、親から子へと受け継がれた。つまり王国は勇者との親子関係にあるルーナに、能力遺伝の可能性を求めたのだ。


 しかし勇者への覚醒も遺伝すると考えるのは馬鹿げていよう。もしそうならばこの世界には勇者の一族が存在しているはずであるが、その様な存在は報告されていない。

 そんな不合理な気休めにすがってでも、彼らは不安から逃れたかったのだ。


 実質的には保護及び監視が目的であったルーナへの庇護には、果たして貴族の一員にする事が最適解であろうと結論づけられる。

 ルーナとブロッド侯爵家の次男ダミアンを婚約させたのには、そう言う経緯があった。


 それ以来、ルーナにとっての地獄の日々が始まったのだ──



「おいルーナ、どこへ行く」


 夜遅くにまで及んだ今日の授業が終わり、ようやく部屋で休めると思った矢先にルーナは婚約者のダミアンに呼び止められた。


 この時点でルーナは疲れ切っている。勉強が嫌いだからではない。農夫の娘というだけで受ける家庭教師からの嘲笑や罵倒で、心が擦り切れてしまっていたからだ。


 今のルーナの淀んだ目を見れば、休息が必要である事くらい容易に判断できるだろう。しかしダミアンはそれを無視して言った。


「こっちへ来て酒の酌をしろ。酌婦の真似事くらい無教養なお前にも出来るだろ」


 そう意地悪く笑うダミアンの要求をルーナは断りたかったが、断ればもっと酷い目にあわされる事は分かっている。だから従うしかなかった。


「酒をこぼすなよ、服に染みでも作ったら承知せんぞ!」


「は、はい」


 小さく震える指で気をつけながら酌をするルーナの身体を、ダミアンはそれとなく触ってくる。

 気持ち悪いっ! と叫びたくなる衝動を我慢したルーナは、今はひたすらに歯を食いしばり続けるしかないと自分を励ました。


「お前は運のいいヤツだな。つまらぬ農夫の娘がこの俺の妻になれると言うのだぜ、有り難く思えよ」


 ねっとりとした視線を向けてくるダミアンに、ルーナは心の中で抵抗する。


(大っ嫌い……)


 その一言を思う事だけが、今のルーナの精一杯の抵抗でもあった。しかしダミアンはそれさえも嘲笑うかの様にその手を緩めはしない。


「おいルーナ、お前も飲んでみろ」


「い、いえ、私は……」


 そう拒んだルーナが気に入らなかったダミアンは「いいから飲めッ!」と無理やりルーナの口へ酒を流し込み、激しくルーナを咳き込ませたのだった。



 十五歳の少女がこんな毎日を繰り返していて、心身に不調をきたさないでいられるはずもない。とうとうある日の夜の事、ルーナに限界が訪れてしまう。


「起きろ、ルーナ」


 それはダミアンの声だった。


 虐待とも思える扱いに心身共に疲れ果てていたルーナは、泥のように眠っていて起きる気配がない。

 ダミアンは再び「おい起きろ」と、ルーナの顔に酒臭い息を吐きかけながらそう囁いた。しかしそれでも起きないルーナに苛立ったのか、今度はその身体を乱暴に揺する。


 それで目が覚めたルーナは、夜中の私室になぜダミアンがいるのかと一瞬固まってしまった。だが同時に恐怖が沸き起こり悲鳴をあげようとしたのだが、ダミアンはそれを許さずにルーナの口を塞いだ。


「声をたてるなッ!」


「イヤっ、離してッ!」


 呼吸を荒くし血走った目でルーナの衣服を剥ぎ取ろうとするダミアンが、これから自分に何をしようとしているかくらいはルーナにも想像がつく。

 だからベッドから逃げ出そうとしたのだが、それより先にダミアンに押さえつけられてしまった。


「チッ、大人しくしていろッ」


 力任せに身体を開こうとしてくるダミアンに、必死であらがい続けるルーナであった。だが男の手は容赦なくルーナの太股の間へと滑り込んでくる。

 途端、言い様の無い戦慄が走り抜けたルーナは、夢中でその手に噛みついた。


「ガッ!」というダミアンのうめき声と共にルーナは頬に激しい痛みを感じ、口の中いっぱいに血の味があふれる。

 その時ルーナは生まれて初めて、殺されるかもしれないと言う恐怖を感じた。


 次の殴打を予感したルーナは咄嗟に顔をかばう。しかしその殴打はいつまで経ってもルーナを襲うことはかった。

 それどころかダミアンは拳を握ったまま動きを止めて、明らかに狼狽している。


 それもそのはずだ。ルーナの保護は国王の命によるものなのだ、それなのに怪我をさせたとあっては侯爵家としての面目が立たない。つまりダミアンはやり過ぎたのである。

 ルーナにとって助けを呼ぶ好機となったその一瞬は、屋敷に響き渡った叫び声と共に警護の者たちを呼び寄せるのに十分な時間となってくれた。


 過度の緊張と疲労により意識を失ったルーナは、翌日目覚めた後も彼女の心神の衰弱を快復させることはなかったようだ。診察した医師もとにかく休養させるしかないと結論づけた。


 この残酷な出来事が引き金となり、ついにルーナの心は壊れて水底みなぞこへと沈んでいく事となる────



 ◇*◇*◇*◇*◇




 その二頭立ての馬車は色彩を欠いた冬の街道を少し急ぎ足に走っていた。

 ブロッド侯爵領へと続く街道の景色は魔人災害の爪跡がほとんどなく、この地方の被害が少なかった事が窺える。


 よく見ればその馬車には、ソレイユ辺境伯家の紋章が付いている事に気がつこう。

 乗車しているのはまさにその辺境伯本人であり、彼は向かいに座る軍服を着た若く美しい女性に一枚の手紙を渡して腕を組んだ。


「オリガはその手紙をどう思う?」


「そうですね、ブロッド卿は何か隠しているように推察します」


「やっぱりそうだよなあ」


 ソレイユは副官のオリガが返した手紙を受け取りながら、天井を見上げた。

 彼の名はアラン・ソレイユといい、アンドラル王国の最北端を領有する辺境伯爵である。国境に位置したその土地は隣国からの侵略に備えた軍事拠点でもあり、ソレイユは王国軍北方指令官の肩書きをも持つ軍閥ぐんばつ貴族として名が知られていた。


 ちなみに年齢は三十歳で、いまだ独身の中年男でもある。


「ソレイユ様には何か心当りでも?」


「いや無いよ。ただ俺はブロッド侯爵が嫌いでね、どうも政治屋貴族というのとはりが合わないんだ」


「それはただの感情ですね。もっと軍人らしく合理性を持って判断して下さい」


 ソレイユの副官を務める女騎士のオリガは、そう言って眉を寄せる。


「ちえっ、オリガは若いくせに頭が固いんだよなあ」


 そう苦笑いをしながらオリガの眉間の皺を突っつこうとするソレイユの指先を、ヒラリと避けてオリガは続けた。


「私の年齢は二十四です。女としては決して若くはありません。それより手紙に書かれていた内容についてですが、ルーナ嬢が病床にあるという情報は王国中央からは届いておりません。これはブロッド卿が隠蔽していたと見てよいのでは?」


「まあ、そんなところだろう。俺がルーナ嬢に面会を求めたものだから、隠しきれずに白状したのさ」


 ソレイユはブロッド卿の顔を思い出すと、不愉快そうに鼻を鳴らす。


「おおかた今頃はルーナ嬢の病気の報告をしに、慌てて王宮へと使者を遣わせていることだろうよ」


「王国の庇護下にある者に関する情報の隠蔽は、その罪を問われますものね。けれど、ソレイユ様はそのルーナ嬢の病気を理由に、侯爵閣下から面会を断られていますが?」


「そだね」


「無駄足になるかもしれない面会を強行してまで、こうしてブロッド邸へと向かわれる理由が分かりません」


「そりゃ断られたからだよ。そしたらもう行くしかないでしょ!」


 その答えに少し驚いた顔をしたオリガを、ソレイユは愉快そうに覗き込むと、「いつも通りの俺だろ?」と重ねて笑う。


 オリガは小さく溜め息をついて、「はい、いつも通りの天邪鬼あまのじゃくですね」と肩をすくめてみせたようだ。


「まあ、招かれざる客と洒落込もうじゃないか」


 そう言ったきり車窓から外の景色を眺め続けていたソレイユの目には、王国内でも名だたる軍人としての鋭く厳しい光が宿ってみえた。

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