祈り 冬の教会

@yokonoyama

第1話

 この小さな教会は、巨大なショッピングモールの片隅に建てられている。教会の前には円形の広場があって、いくつかベンチが設置されていた。クリスマスシーズンは、色とりどりのイルミネーションや飾り付けられたツリーを目当てにたくさんの人がやって来るが、年が明け、冬休みの終わった平日ともなると、誰も来る人はいなかった。

 俺は、教会の出入り口が見えるベンチに座っている。今、制服姿の女の子が1人、教会に入っていった。中学生だろうか。その子は、教会の扉を開ける前にこちらを見た。すぐに中へ入ってしまったが、寒空の下、30代後半の男が誰もいない広場でポツンと座っていたら、それは不審に思うだろう。しかし、人の出入りが見たくて座っているのではない。この場所は、教会の屋根にある十字架がちょうど正面になる。

 俺は、十字架が見たかったのだ。


 19歳で、老舗料亭の板前見習いになった。働き始めてすぐに料亭の料理を教わるのではない。毎日、野菜の皮むきなどの下処理と、食器洗いばかりやっていた。早朝から夜遅くまで働き、体は疲れが蓄積していった。疲労した中でも希望を持って続けられたのは、彼女のおかげだ。遠くから見ているだけだったが、それでも、俺の支えだった。彼女は料理長の一人娘で、女子校に通っていた。たまに調理場をのぞきに来るので、ほんの挨拶程度でも話しができると、何日も幸せな気持ちでいられた。

 勤め出して1年たっても、仕事の内容は同じだった。違うこともやりたいのに、させてもらえない不満はあった。だけど、うれしいこともあった。思い続けていた彼女が振り向いてくれたのだ。ただ、俺の意気地がなくて店の皆に話すことはできず、つきあっていることは、彼女と俺、ふたりだけの秘密にした。しかし、一人前になれたら料理長に言うつもりだった。結婚させてください、と。だから、必死で働いた。

 ところが、それから半年くらいすると、それまでまともに口をきいたこともない料理長からしごかれるようになった。それだけでなく、優しかった先輩までもが態度を変えた。彼女との関係がバレたと思うのに十分な扱いだった。どうしてバレたのかはわからない。もしかすると、ふたりで手をつないで歩いているところでも見られたのかもしれない。いや、バレた理由はどうでもよかった。

 困ったのは、俺たちがつきあっているのを、誰も面と向かって責めないことだった。それでは、弁解もできない。彼女も父親である料理長から何も言われていなかった。だからといって、楽観はできなかった。しごきは、交際をやめない限り続きそうに思えた。耐えるしかない、そう決心したものの、5ヶ月たったところで限界がきた。先輩に、彼女の目の前で、俺がいかに半人前であるかを言われたのだ。情けなかった。同時に、同じことばかりの毎日が、バカバカしくなった。日本料理などくだらない、そう言って店を飛び出した。

 追いかけてきた彼女と、教会の前で話をした。

 もう店にはいられない。自分勝手だけれど、フランスで修行したい。3年後の1月18日にこの教会で待っている。その時、ついて行ってもいいと思うなら、ここに来て欲しい、そう言うと、今ついて行く、と言ってくれた。うれしかったが、彼女に高校をやめてもらいたくはなかった。俺が新しい生活に慣れてから迎えに来たい、そう言って納得させた。

 何のつてもないのに、フランスへ行った。ひとつのところに長くいなかったので、最初は届いていた彼女からの手紙も途絶えてしまった。こちらからも連絡しづらかった。門前払いされたり、すぐクビになったりしながら、8軒目に雇ってくれた店で仕事ぶりが認められた。給料は安く、生活は苦しかったが、約束通り、3年後に帰国した。

 教会で、待ち合わせの時間から夜中まで待った。だけど、彼女は来なかった。悲しいどころか、来ない可能性を考えてなかった自分が滑稽に思えた。

 次の日、逃げるように飛行機に乗った。もう二度と日本に帰るつもりはなかった。そして、何もかも忘れるために働いた。働きすぎた。皮肉なことに12年たった今、フランスの店の日本支店を任されてしまい、戻って来てしまったのだから。


 十字架に鳩が1羽とまった。

 結局、何も忘れることはできなかった。離れていても、彼女と過ごした日々の思い出が、心の支えだった。

 料亭に行けば、たぶん、彼女が今どうしているかわかるだろう。でも、行く勇気はない。

 だから、俺はここで祈っている。

 彼女がしあわせでいるように。



   * * * *



 教会のドアは施錠されていないけど、 わたしはクリスチャンじゃないから、入っていいのかどうか、最初は迷った。ここへ来るのは、今日で4回目。中に入っても、祭壇の近くまで行く勇気はなくて、後ろの席に座っている。


 梅雨入りごろから、わたしは不登校になった。

 わたしは、父の顔を知らない。幼い時に父がいない理由を母や祖父母に尋ねたけれど、答えてくれる人はいなかった。小学生の時にクラスの男の子から、父親がいないことをからかわれた。その時は、かばってくれる友だちもいたし、意地悪が続くこともなくて、自分でも気にしないようにしていた。だけど、クラス替えのたびに似たようなことがあって、中学生になっても言われると、我慢ならなくなった。わたしは、どうして自分に父親がいないのかを知らないのが嫌だった。何度聞いても教えてくれない母のことも嫌になった。

 うちは料亭をやっている。料理長の祖父は体力が落ちてきたから誰かに店を継がせたいみたい。まだ中学生のわたしに、婿養子を、なんて言ってる。祖母と母はそうではないけれど、祖父と母はあまり仲が良くない。だから、母は、おじいちゃんの言うことは気にしなくていいよ、と言った。でも、祖父はわたしに優しいし、料理を教えてくれる。料理を作るのは、学校に行くより楽しかった。わたしは、母への当てつけのように、学校ではなく調理場へ通いだした。学校に行かなくなったわたしを、母は怒ったり悲しんだりしていたけど、わたしだって父のことを教えくれない母に対して、怒ったり悲しんだりして同じ気持ちだった。

 夏が終わるころ、祖父が言った。おまえの母さんから大切な人を奪ったのは、おじいちゃんなんだ。けれども、決して追いだそうとしたんじゃない。単調な作業でもがんばっていたし、店を任せてもいいぐらい見込みがあったから、厳しくしたのだ、と。そもそも、祖父は、ふたりがつきあっているのを知らなかった。今さらこのことを話してもどうしようもないから、と、祖父は母に当時の自分の気持ちを話していない。もし伝えたら、祖父は母ともう少し仲良くできるかもしれないのに。だけど、祖父は母と仲直りがしたくて、わたしにこの話をしているんじゃなかった。

 続きがあった。

 当時、わたしの父は店をやめたあと、すぐに外国へ行ってしまった。その後で、母はわたしを身籠もっているのに気がついた。連絡しようと手を尽くしたけれど、父のいるところがはっきりしなかった。祖父は後々のことを考えて、母が、産みたい、と言うのを反対した。けれども、母に、大事な人を奪ったうえに宿った命まで奪うのか、と言われて反対できなくなった。

 祖父は言った。今は産んでくれてよかったと思っている。疎ましい時もあるだろうが、それでも、お母さんと仲良くしなさい、と。

 祖父の話を聞いてから、調理場には行けなくなった。自分の部屋でごろごろしていた。わたしは、わたしの知りたいことを知ったのに、どうしたらいいのかわからなかった。父のいない理由を知っても、父親ができるわけじゃなかった。

 時間だけが過ぎて新しい年が来たけれど、わたしは何も変わっていなかった。見かねたのか、祖母がわたしの部屋に来て、祖母と母しか知らないことを教えてくれた。

 わたしが生まれた後に、母は家出をしようとしたことがあった。父と駆け落ちするつもりだったらしい。

 約束の日、誰にも見つからないようにするために、早朝、母は幼いわたしを抱いて家を出た。そして、教会へ行った。待ち合わせの時間よりすごく早いけれど、他に行くところなどない。だけど、その日はとても寒くて、母に抱かれているわたしが熱を出してしまった。母は、そのまま父を待つことはできなかった。病院へ駆け込んだ。わたしの病状はひどく、母は教会に戻れなかった。

 わたしがいなかったら、ふたりは一緒になれたかもしれない。

 そう思うと、拗ねてはいられなかった。誰に何を言われてもいいから、学校に行こう。そうすれば、母は喜んでくれる。

 おかあさん、しあわせ? と聞きたいけれど、わたしが聞いたら、しあわせって答えなきゃいけない。そんな質問はできない。

 そのかわりに、わたしは祈っている。

 母をしあわせにしてくれる人が現れるように。


 わたしが教会を出ると、ベンチには男の人がまだ座っていた。上の方を向いている。何を見ているのかと思って、わたしも上を見た。十字架に鳩がとまっていた。

 この人は何をしているんだろう。教会に用事じゃないのかな。あ、わたしが中に入ったから、邪魔しちゃいけないと思ったのかも。でも、出てきたのには、気づいていないみたい。そうだ。近くを通りすぎたら、こっちを向いてくれるかな。それとも、何しているんですかって、声をかけてみようかな。


                    (了)














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