りゅうのたまご

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りゅうのたまご

1.祖父の死


 八月三十一日水曜日、祖父が死んだ。


 家の固定電話にかかってきた訃報をまず初めに聞いたのは、死亡時刻の午後一時二十三分、ただ一人だけ自宅に残っていた優紀だった。

 病院からかかってきた電話を切って、そのまま両親の職場に電話をかける。数十分後、一家は騒然となった。



 加瀬優紀、三十歳。平日の真昼間に在宅の、実家暮らし――無職。


 三流大学を卒業して就職浪人、アルバイトで食いつないでいたが、精神に不調をきたし、実家に戻ってそのまま三年。半分引きこもりのような状態であった。

 それほど裕福ではないがそれなりに幸せな家庭だったと思う。一人息子として両親に恩も返したかったが、叶わぬ夢であった。精神科に通う以外に家から出ようとしない息子に、両親はどう対応していいかわからないのだろう。同じ食卓にいながら腫れ物に触れるかのようだ。

 なんとかここから這い上がりたいと思ってはいるが、体調は思うように戻らないし体力も落ちてしまった。就職以前に社会復帰の問題が目の前に立ちはだかっている。

 そんな矢先の、祖父の死だ。


 直接の死因は熱中症だったらしい。98歳にして山奥で一人暮らしを続けていた祖父は、地域の見守りセンターと毎日連絡を取り合っていて、今日はその定期連絡に返事がなかったらしい。職員が山の上まで見に行くと、祖父が倒れていて、そのまま救急搬送されたが、病院で死亡が確認された。

 両親と三人で駆け付けた病院で、村役場の職員と医師に聞かされた説明だ。役場の職員はすみませんと可哀そうなくらい頭を下げていたが、母はそれに「あんなところでまだ一人暮らしを続けていた父が悪いんです。こちらこそ、本当にお世話になりました」と返していた。


 突然の死ではあったが、95歳の大往生だ。妻や兄弟、友人は既に他界しており、娘も優紀の母一人。通夜も葬式も本当に小さなものだった。

 十年以上前に亡くなった祖母の葬式を思い返して、優紀はその差に驚いた。しかし、呼べる人のいない葬式と言うのは、それはそれで幸せなのかもしれない。

今自分が死んだらどんな葬式になるだろうか。……もう少し賑やかになるに違いない。


一連の法事を終え、両親と暮らす狭いアパートに祖父の骨壺がやってきた。それに線香をあげながら、母は珍しく優紀に話しかけてきた。

「ねえ、優紀。おじいちゃんの家、わかるでしょ」

「うん」

「一応査定してもらってね、税金とかはこれからやるんだけど、とりあえず遺品整理しなくちゃいけないの。優紀、お願いできない?」

「俺?」

「そう。お父さんも私も平日昼間は仕事があるし、あの広い家を忌引き休暇だけで片付けるのは難しくて。役場に行かなきゃいけない手続きもたくさんあるし。ね、優紀。お願いよ。誰とも会わないし、どれだけ時間がかかってもいいの」

「わかった。できるよ。たぶん」

 久々に、本当に久々に役に立てそうだ。優紀はこくりと頷いた。


 父の運転する車に揺られること数時間、優紀はアパートから祖父の家へとやってきた。

「ただいま」

 母は持っていた鍵で玄関扉を開け、誰もいない家に向かって帰りを告げる。こうして家が死んでも、ここが母の帰る場所なのだろう。

「綺麗にしてるわね。父さんが出てこないのがおかしいくらい」

「お義父さん、きれい好きだったからな」

 広い家を見渡す二人のあとから優紀は黙って玄関を跨ぐ。祖父の生前と変わらないと二人は言うが、この家はもう冷たくなってしまっている。誰も息をしている人がいないのだ。優紀にはそれがはっきりとわかった。

 到着して最初の仕事は、仏間に後飾り祭壇を設けることだった。遺骨と花、いくつかの仏具、白木位牌を並べて、線香をあげて手を合わせる。あまり家を出ることはなかった優紀だが、夏と冬、この家にはよく顔を出していた。祖父は優紀の現状を詳しくは知らなかったはずだが、この家はどうしてか居心地が良かった。記憶のどこを探しても、ずっと元気だった祖父は死など予感させない人だった。


「――どこから片付けようか」

 最後に祭壇に手を合わせた優紀は両親に問いかけた。

「書類関係は母さんたちが何とかするから、優紀は本とか洋服とか農具とか、生活用品全般をお願い。基本的には売るか、捨てるかしてちょうだい。任せるわ。大事そうな紙とかが出てきたらこっちに持ってきて。私たちの家族のもの……写真とかもあると思うけど、そのあたりもまとめて。あとで母さんが判断するわ。最初は……そうね、台所から初めて。放っておくと手を付けられなくなるのはそこだわ」

 優紀はこっくり頷いて、記憶を頼りに台所に向かった。まだ電気は来ていて、冷蔵庫も照明も生きている。

 まずは、と優紀は冷蔵庫の中身を確認し始めた。この家から人の気配が消えて既に一週間と少しが経過している。一部の足が早い野菜類がとろけ始めていた。


2.遺品整理


 祖父の家に到着してから二週間、両親は最初の数日間で書類整理を済ませて帰宅し、こちらには週末に少し顔を出すくらいだ。優紀はといえば体調のいい日を選んで少しずつ家の片づけを進め、今日はほとんど入った記憶のない奥の部屋の片づけに取り組むことにしていた。


 朝食をとってから、その部屋の襖に手をかける。入ったことがないからと楽しみにしていた部屋だ。一気に襖を引くと、閉じ込められた部屋だったというのにやけに澄んだ空気が流れてきた。

 そして、不思議なものが部屋の真ん中に鎮座していた。

 座布団の上に乗った、巨大な丸いもの。その様子は占い師の使う水晶のようでもあるが、形が少し横に長い。そう、卵のようだ。

「……なんだろう」

 表面が粗く、光沢はあまりない。白い、球体。まるで卵だ。しかし、こんな巨大な卵などありはしない。地球に生息する生き物の中で一番大きな卵を産むのはダチョウだ。優紀はダチョウの卵を見たことがあった。しかし、これはその三倍はあるだろう。一番長い縦の長さでさえ、パッと見ただけで50cmは超えているように見える。

 家の一番奥の部屋。それはまるでこの部屋の、いや、この家の主のようにそこに鎮座している。

 優紀は襖の先に進むことができず、暫しの間その場所にたたずんでいた。

 その場にとどまったまま、よく部屋を見渡すと、板の間に掛け軸がかかっている。

 掛け軸に描かれているのは蛇、いや、龍だ。細長く、手足は短い。羽が生えていて、天空を舞っている。

 一瞬、優紀の脳裏をある想像がよぎったが、優紀は慌てて首を左右に振ってその考えを散らす。

 そして、もう一度座布団の上の卵を見た。――座布団の下から何かが覗いている。紙だ。

 優紀はようやく部屋の中に踏み入って恐る恐る座布団の下からそれを抜き取った。

 二つに折りたたまれた紙の中に、なにか書いてある。達筆なその筆運びは、祖父のものではない。


「龍の卵。摂氏三十五度を超えた状態を百七十時間保つこと。可愛い龍の子が孵るでしょう」


 優紀は唖然とした。龍の卵? そんなもの、あるわけがない。170時間、ほとんどまる一週間だ。いくら酷暑とはいえ、昼夜通して三十五度以上を保つのは難しい。外に出していては夜の気温が低すぎるし、なによりこれが本当に卵なら、炎天下ではゆで卵になってしまいそうだ。

「……温めるか……?」

 勇気はすぐさま、スマートフォンで孵卵器の値段を調べる。……孵るかどうかもわからない、そもそも卵かどうかもわからないものに出すには少し値が張りすぎる。

 次に検索したのは、アラーム付きの温度計と湯たんぽ。これなら何とかなりそうだ。

 卵を孵化させるためには、温度を保つことと、上下を固定すること。鳥類の卵なら転卵が必要だが、爬虫類の卵は逆に必ず上下を決めておかなければならない。龍はどちらかわからないが、イメージから言えば爬虫類だろう。

 あとは、適度な温度と酸素、湿度。湯たんぽとともに布団の中で管理するとして、湿度を保つためのものと空気穴が必要不可欠だ。


 優紀は、温湿度が規定値から外れるとアラームが鳴る温湿度計と、湯たんぽを二つネットで注文した。


 三日後、いつも通り祖父の部屋を片付けていると、呼び鈴がなった。表から「すみませーん」と青年の声。

「はーい!」

 返事をしながら、優紀はちらりと置き配を頼めばよかったと思う。おそらく年下の、仕事をしている男の姿を見るのは気が滅入る。

 とはいえ早く出なければ、優紀はうつむき加減に「こんにちは」と扉を開けた。

「こんにちは、お届け物です……って、あれ?」

 青年が首をかしげる。どうしたのだろうか、と考えて優紀はふと、ここが二週間前まで祖父の家であったことに思い至る。

「あ、えっと、俺、桃山勇次郎の、孫です」

「お孫さん? あっ、あぁ、すみません! あの、この度はご愁傷様でした」

「あ、あぁ……はい。……ご存じなんですね」

「……まあ、狭い村ですから」

 自虐を含んだその台詞に、あいまいな返事をしてから「あの、荷物を……」と会話を切り上げる。

「ああ、すみません、こちらにサインを頂けますか」

 配達員は慌てて自分の持っていた箱を優紀に差し出した。


3.りゅうの子


 それからきっかり一週間、優紀は来る日も来る日も卵を温め続けた。

 湿らせた紙を敷き詰めたベッドの上で、卵はずっと黙っていた。


 卵を温め始めて七日目、温度はどうかと覗いたそのとき、パキパキ、パキンと音がして、卵の殻が割れた。

そこから覗いたのは、巨大なトカゲの赤ちゃんの顔。

 子供らしく頭が大きくて、まだ目は開いていない。大きさは中型犬くらい。

「…………かわいい」

 優紀は高鳴る胸を押さえた。

 こんなに大きな赤ちゃんを見たのははじめてだ。それでも、赤ちゃんだとわかる。


 食べ物はトカゲなら虫などなのだろうが、この図体で虫を食われたらエサがいくらあっても足りない。色々と調べて、マウスやラットなどが適当だろうと見当をつけた。大きめのヌードマウスを通販で買っておいた。

 優紀は、マウスをさばいて骨をのぞき、細かくミンチ状にしたものを与えてみることにした。大きな皿の上に解凍した生肉を盛る。

 近くに人がいると食べないかもしれないので、優紀は台所に身を隠そうと身を翻す。しかし、その甲斐むなしく後ろから音がした。

「……っ、食べてる!!」

 最大限声を押し殺して優紀は叫んだ。それから、そろそろ近づいていく。巨大トカゲは、優紀を気にすることなくエサを食べ続けた。


 そのとき、ピンポン、とチャイムが鳴った。宅配便だ。

「こんにちはー」

「はい、ただいま!」

 優紀が出ていくと、そこにはいつもの青年の姿。

「毎日すみません、こんな山まで」

「いいっすよ。俺運転好きなんで。何頼んでるのか気にはなりますけど」

「いやあ、はは……」

 今日はひときわ大きな荷物。すぐに大きくなるらしいトカゲの子のために、遊び場の柵を作らなければならない。


 DIYのサイトを見ながら見よう見まねで柵を作る。土間から玄関を通って庭まで。適温のところを自分で探すだろう。

 はやく大きくなった姿が見たい。けれど、いつまでも赤ん坊でいてほしい。相反した気持ちが同時に存在するのがわかった。


 細切れに睡眠をとりながらトカゲを見続けて、気付けば朝になっていた。

 しばらく寝てしまったようだ。優紀は慌ててトカゲを見に行く。

「…………なんかお前、デカくならないか……?」

 まだ殻を破って1日だというのに、目はぱっちり開き、素肌の感触も変わっている。

「……っうわ」

 ぴょんと飛び付いてきたトカゲは、ベロン、と長い舌を伸ばして優紀の顔をなめた。

「すごいな……」

 動物の成長は早いらしいが、ここまで早いというのは異常だ。

「やっぱり、龍なのかな…………」

 急ピッチで作り上げた柵のなかに、トカゲを離してみる。

 トカゲは4本足でスルスル這い回って、優紀の足元にすりついてきた。

「わ、わ! なんだお前!」

 優紀は懐く犬のようなトカゲをかわす。

 なんなのだ、この生き物は。


 また今日も、玄関チャイムが鳴る。

「はあい、ただいま!」

 優紀はトカゲを土間に隠し、「いいか、出てくるんじゃないぞ」と念を押した。

「こんにちは!」

「こんにちは、いつもどうも」

「今日のは重たいですよ」

「すみません」

 今日はマウスを大量に購入した。トカゲがそれを気に入ったらしいから。

「あれ、この家って犬とか飼ってましたっけ?」

「え、いや! そんな、何も!」

 突然できた柵を見て配達員にそう言われた。優紀は慌てる。

あんな得体の知れないものを孵したと知られたらどう思われるかわからない。それに、あのトカゲがどこかにつれていかれてしまうかもしれない。

「…………足元の、何ですか?」

「…………あ! 出てくるなって言ったのに」

「……トカゲですか?」

 あまりにも大きいトカゲの姿に、首をかしげる配達員。優紀は腹をくくった。

「……話せば長くなるんですけど」


「てことは、この子、龍なんですか!?」

「いや、わかんないですよ。それに、そんなわけないし……」

「でも龍の卵なんですよね?」

「いや、それも本当かどうかわからないし……じいちゃんのいたずらかも」

「でもそんなにでっかい卵なんて聞いたことないし、赤ちゃんなのにこんなに大きいし」

 "普通"にしてはおかしな点をいくつも指摘されて、優紀は頭を抱えた。そんなことはわかりきっている。

「…………しばらく見守るしかないと思ってます」

「そうですよね……。そうだ、僕もまた見に来てもいいですか?」

「……村の人に秘密にしてくれるなら」

「もちろん!」

 配達員は、ニコニコ笑って帰っていった。

「なあお前、お前はなんなんだ?」

 俺が話しかけても、トカゲはくるりとした大きな瞳で俺を見つめるだけだった。


4.狩り


 それから1週間、俺は毎日配達を頼んだし、お陰で配達員も毎日やって来た。どうしてそんなに宅配を頼まなければならなかったのかというと、トカゲが毎日どんどん大きくなって、食べるものが増えてきたからだ。

「トカゲ、こっち来な。大輔さんだよ」

 ここ数日で、配達員の名前を知るまでになった。

「トカゲくん、そろそろ名前つけてあげたらどうですか?」

「名前ですか……考えてはいるんですけど」

 優紀は首を捻る。

 最初は体色の緑色にちなんで名を付けようとした。しかし、最近脱皮を繰り返すうちに段々鮮やかな青色になってきている。となると、色は却下だ。もっと変わっていくかもしれない。大きさに関連させようとも、どこまで大きくなるのやら。しまいには祖父の名をつけようとしたが、それはそれで仏壇に手を合わせづらくなるのでやめた。

 結局、悩んだまま名前はついていない。

「お前はどう思う?」

 優紀は自分の背丈ほどに成長したトカゲの大きな頭を撫でる。まるで恐竜のような姿に、頭から飲まれるのではないかと思っているがトカゲは優紀をべろべろ舐めるばかりで食べようとはしない。

 自分の名前について聞かれたというのに、トカゲはそのぎょろりとした目玉を閉じて、巨体のすべてで優紀に甘えるばかりだった。


 翌朝、優紀は庭に広がる光景に言葉を失った。

 庭一面に広がる血の海、その中にトカゲ、そして1頭の巨大な猪。トカゲは口の回りを血だらけにして、うまそうに猪を食む。優紀は腰を抜かしてその場に座り込んだ。

 そこにまた配達員がやってくる。

 呼び鈴すら鳴らさず友達のような気軽さで家の中にずかずか入ってくるその男は、「うわ、すごいスね」と一言言った。

「へ、平気なんですか……」

 まだ縁側にへたり込む優紀は配達員を見上げる。

「俺、一応猟友会なんで。爺さんたちがうるさくて」

「あ、ああ、そうなんですか……」

「猪なんか畑荒らすから大分撃ちますよ。罠もやるし、捌くとこまで俺らでやるんで。ここまで派手にはやらないですけど」

「はあ…………」

 配達員はトカゲに寄っていって、「うまいか? ん? すごいなあ」と頭を撫で回している。

「この感じだと冷凍のエサいりませんかね」

「……いや、予備はほしい…………」

 優紀は、持ってきてもらった最大サイズのラットを外の冷凍庫にしまってもらった。

「てか、最初はあのマウスミンチにしてたじゃないですか。これはダメなんですか?」

「マウスは血抜きしてあるから……」

「ああ、血は怖いですからね。感染症とか」

 そういうことではない。しかし、配達員の言葉に反論できる気力は優紀には残っていなかった。


 それからというもの、トカゲの食欲は益々旺盛になって、体もどんどん大きくなった。猪狩りに出掛ける頻度が、5日に1回から4日に1度になり、最近では1日おきに行くようになっていた。

 体も相当大きくなり、もとは農家だったこの家の相当に広い庭いっぱいになっていた。裏山もこの家のものだから良いが、こんなに大きな生き物をどうしろと言うのか、優紀は卵を孵したことを後悔しはじめた。

「いやあ、大きくなりましたねえ」

「なりすぎですよ」

「ははっ。麓じゃ最近猪が減ったって言われてて、不思議がられてますよ。この山、アンタの爺さんが立ち入り禁止にしてて誰も入れなくて、迷惑してたんです」

「…………それは、祖父がすみません」

「あっ、いや、謝ってほしいとかじゃないですけど」

「……いや、偏屈ものでしたから、祖父は」

 偏屈の上に、おかしな置き土産を残したものだ。

 口についた血をペロペロ舐めるトカゲはやはり大きな目をしていて愛くるしい。

5.さなぎ


 トカゲと生活を共にしてから数ヶ月が過ぎた。

長引く残暑も影を潜め、寒ささえ感じるようになってきた10月。トカゲは突然庭の真ん中に陣取り、眠ってしまった。

 トカゲは眠っていることも多かったから、はじめは特に気にしていなかった。しかし、2日、3日と続くと心配になる。肌に触れてみても、いつも通りひんやり乾いているだけだった。

「……冬眠じゃないですか? 寒くなってきたし」

 配達員の意見はこうだった。

「冬眠って、させちゃいけないんじゃなかったですか。ペットを飼うとき」

「でもこの子家の中に入れておけないでしょ。大丈夫ですよ」

「でも……」

 目が覚めないこともあると聞く。

「ちゃんと湿らせてあげて、冷たくなりすぎないように気を付けてあげるくらいしかできませんよ。きっと大丈夫です、こんなに大きいんだから」

 優紀はその言葉を信じきれず、トカゲの体に触れる。ゆっくりではあるが、規則的な鼓動が聞こえてきた。

 これが、止まってしまわないかと考えるだけで恐ろしかった。


 それからまたしばらく、優紀は毎日トカゲの鼓動を確認し、ほっとする日を過ごしていた。あれほど頼んでいたトカゲ用の通販はほとんど頼まなくなっていた。

 そしてある日、優紀はトカゲの体が段々薄い膜に包まれていっていることに気がついた。まるで蝶の作る蛹か繭のようだ。

 観察していると、膜は段々厚くなり、色と模様がついてきた。色は、周りの景色に溶け込んでいって、トカゲはまるで築山のようになった。

「トカゲ」

 その膜に包まれてから、トカゲの鼓動は外からではわからなくなってしまった。

 生きているのか、死んでいるのかわからない。それでもトカゲが目覚めるまで待つしかなかった。


「こんにちは」

 ついに、配達のない日にまで配達員がやってくるようになった。

「またそこにいるんですか」

 彼は綿入れを着て縁側から動こうとしない優紀を心配して声をかける。

「今日は、何も頼んでないですよ」

「友達の家に来るのに理由が要りますか」

「友達なんですか、僕ら」

「友達ですよ」

 優紀は少しだけ笑った。「友達なんですか」と確認して、そんなに断定するような言葉が返ってくるとは思わなかった。

「ほら、中に入って。温かいものでも食べましょう。鍋のタネ買ってきたんで。貴方が元気じゃなかったら、誰がトカゲくんの面倒を見るんですか」

「でも」

「どうせろくでもないもの食べてるんでしょ、麓に降りてこなくて畑もやれない人が、まともな食事をしているとは思えません」

 図星だった。トカゲの餌のついでに買っていたカップラーメンなどで食事を済ませる日々が続いていた。


 その日は、配達員の持ってきた材料で鍋をした。土鍋は幸い台所の片付けをしたときに見つけていた。調味料はなかったが、それを見越した配達員がすべて持ってきていた。

 ぼたん鍋には独特の臭みがあった。トカゲはこれをよく食べていた。


6.羽化


 それは、ある晴れた冬の日のことだった。雪が降りそうなほどキンキンに冷えた空気が日の光にあてられてきらきらと輝いているような朝だった。

 いつものように優紀が祖父の綿入れを着て縁側から庭を眺めていると、築山がもぞもぞ動き始めた。

「……トカゲ?」

 もぞもぞ、もぞもぞ。まるで大地が脈打つように動く山のようなトカゲ。その山の天辺に亀裂が入り、パリパリと音を立てて薄い皮が剥がれ落ちた。


 羽化だ。


 全ての殻が落ち、その目は、やはり大きく黒く、しかし顔つきは締まって精悍に。

 そして一番の変化は、その背に大きな翼が備わったことだった。

 サファイアのように美しいブルーの体、同じ色の、折りたたまれたしなやかな翼。四足歩行で地面を歩き回っていた両の前足が、立派な翼となっていた。

「…………お前」

 その姿はまさしく龍、伝説上の、羽ばたく大きないきものだ。

 龍はその大きな頭を子供のように優紀に擦り付ける。事実、彼はまだ子供なのだ。

「本当に…………っ、うわあああっ」

 言葉を失った優紀を、トカゲが爪でひっかけた。ふんわりとその広い背に乗せられる。

 トカゲは、助走もつけずに大きく羽ばたいた。とたんにふわりと浮き上がる巨体、巻き起こる突風。

「……すごい」

 上空の空気は山よりもっと冷えていて、耳が痛くなるほどだ。



 龍は舞った。愛するひとを乗せて。

 そのふるさとへ向けて。


 龍はまだ、人が己より弱いことを知らない。





 とある青年が、友人を訪ねてある民家にやってきた。

 その庭は無人だった。

何もいない、ケージを模した柵があった。

友人が愛用していた、その祖父のものであった綿入れが落ちていた。


 そこにあったはずの二つの命は、忽然と姿を消していた。

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