天高く
@twilight_tomato
天高く
少年が彼とであったのはある晴れた秋の日のことだった。
小学校の制服である半ズボンが少し肌寒くなってきた今日この頃。四年経ってもこれ以降冬にかけての制服通学は少年にとって憂鬱だった。
スクールバスを降りて、乗りなれた電車に一人乗り込む。電車通学の同級生は多いが、同じ路線を使っている友人は少なかった。小学校からの帰りの時間帯は、まだ電車も空いていて、席に座る人もまばらだ。
二駅過ぎて、少年の目の前の座席に、一人の男性が腰を下ろした。彼はとても背が高く、電車のドアをくぐるときに頭を引っ込めて入ってきた。少年は、なぜだか彼のことがとても気になって、その人のことをじっと見つめた。親から厳しくしつけられている少年は、普段なら気になっても他人のことをじろじろ見るなどという行為は間違ってもしないのだが、その日だけは例外だった。
彼のどこがそんなに自分の心に引っかかるのか、少年は彼を眺めながら考える。
背が高いこと以外は、目だったところのない男だ。和服を着ているのが少し珍しいが、少年の家では両親や祖父母、そして少年自身も和服で過ごすことが多いため、特段少年の興味をひきつけるものではない。
少年は、じっと釘付けられたように彼の姿を眺める。そうして、一駅、二駅、三駅過ぎたところで、彼がふらりと立ち上がった。
彼はふらりふらりと操り人形のように歩み、少年の前に立つ。そして優しく微笑んだ。
「――きみ、どうしたの? 僕が気になる?」
「っあ、……あの、ごめんなさい」
少年は慌てて彼から視線を外し、俯いて謝った。
「ううん、怒ってないよ。君がどうして僕のことをそんなに見るのか気になったんだ。教えてくれないかな」
「えっと、それは……わかんなくて……。だから、見てたんです」
「僕が気になる?」
「はい」
「そうか。君はどこの駅で降りるの?」
「この二つ先です」
「二つ先って言うと、○×かな?」
「はい、そこです」
少年は、日頃から知らない大人と安易に話をしないように言いつけられてきた。学校は制服から推測されてしまうから仕方ないとしても、最寄り駅や家を教えることは絶対にしないようにと。しかし、少年は今その約束を破った。どうしてか、この人には話しても大丈夫だという確信があった。
「僕も、そこが目的地なんだよ」
「そうなんですか」
「ねえ、よかったら僕のうちに寄っていかない? 美味しい柿があるんだ」
「柿?」
「嫌い?」
「好きです、けど……」
さすがに今日知り合った人の家に突然行くことがどれほど危険であるかということを考えればこれに簡単に頷くことはできなかった。
「両親に、聞いてみないと」
「わかった、聞いておいで。明日も同じ電車かい?」
「はい」
「それなら、同じ電車で待っているからね」
その日は彼と駅で別れ、少年はまっすぐ帰宅した。
彼のことを両親に話すと、普段からが考えられないくらいあっさり訪問の許可が出た。祖父は、「もうそんな歳か」と笑っている。
父は彼を訪ねることを許す代わりに、と少年にこう言った。
「その人のところに行くか行かないかは、おまえ自身が決めるんだよ。行きたければ行きなさい。行きたくなければ断りなさい。それから、家のお稽古事や学校の勉強を疎かにしないこと。日が暮れる前には帰ること。そして、おまえが生まれたときに庭に植えたハナミズキの世話も、今までどおりちゃんとすることだ。いいね」
少年にとって、それらの条件は検討するまでもないほど簡単なことだった。「わかりました、父さん」と少年が答えれば、父も微笑を浮かべて少年の頭を撫でるのだった。
そして翌日、少年は昨日の帰りと同じ時刻に出発する列車に乗り込んだ。
学校から二つ駅を数えたところで、大きな彼が乗り込んでくる。
「こんにちは」
彼は、座席に腰かける少年に向かってにこやかに挨拶をしてきた。少年も「こんにちは」と挨拶を返す。
「ご両親に僕のことは聞いてくれたかな?」
男の問いかけに、少年はしっかりと頷く。
「はい、行ってもいいって」
「そうか。君はどうしたい?」
「僕も行きたいです」
「それなら、遠慮なく来るといいよ。美味しい柿をごちそうしよう」
「ありがとうございます」
少年と彼は、連れ立って駅を出た。
彼につれてこられたのは古い洋館だった。広い庭には沢山の気が植えられていて、しかも美しく手入れされている。門も玄関も綺麗に磨かれているが、人の温もりがある。少年が通されたのは、暖炉のある居間だった。少年は、始めて見る暖炉に興味を示すが、そこには火が入っていない。
「火、つけないんですか?」
「寒いかい?」
「いいえ」
「なら、いいだろう。今柿を剥いてくるからね」
彼は少年を残して廊下に消えていった。少年は案内された椅子に腰掛け、宙に浮いた足をぶらぶら揺らす。普段は行儀が悪いとしないようなことも、彼の前ではしてもいいような気分になってしまうから不思議だ。
「ほら、柿だ。どうぞ」
「ありがとうございます」
彼が持ってきてくれたのは二つの皿に綺麗に盛られた柿だ。彼は持ってきた器をそれぞれ自分と少年の前に置いた。
「僕のほうが少し多いですよ?」
「僕は台所で少しつまみぐいしたからね」
「んん、そうですか」
「そうだよ、遠慮しないで食べなさい」
「はい。ありがとうございます。いただきます」
「いただきます」
二人は両手を合わせて、フォークで柿を食べ始めた。
柿は、シャクシャクとした歯ごたえがあってジューシーで、口の中はすぐに甘さに満たされた。
「すごく美味しいです!」
「それは良かった」
少年が満面の笑顔で言うと、彼も微笑みで返してくれる。美味しい柿を食べながら、彼とはいろいろな話をした。学校のこと、家のこと、色々なお稽古事のこと。どの話も彼は興味深げに聞いてくれて、少年はついいろいろなことを話してしまうのだった。
「――そうだ、僕そろそろ帰らないと」
「うん、そろそろ日も沈みかけている。帰ったほうがいい」
「日暮れまでには帰れって言われてるんです」
「そうか、それならなおのこと早く帰らないとね」
彼は少年に身支度をさせ、大通りまで連れて出る。
「このあたりでいいかな?」
「はい。ありがとうございました。柿、ご馳走様でした」
「うん、またおいで」
「はい、ありがとうございます。それじゃあまた!」
少年は、彼に手を振って、大通りを家の方角に向けて歩いていった。
それからというもの、彼は数日に一度ふらりと少年前に現れては彼を洋館に招き、色々なものを食べさせてくれた。
ブドウに栗、秋刀魚、りんご、鮭にきのこ。秋が深まるにつれて日は短くなり、少年と彼が共に過ごす時間は短くなっていったが、少年は彼の誘いを断ることはなかった。
彼と話をするのはとても楽しかったし、ご馳走してもらうものもとても美味しかった。ただ、彼はどんなにお願いしても、「もう少し寒くなってから」というばかりで暖炉の火をつけてくれることはなかった。
彼の元に通う間にも、少年は勉強も色々のお稽古事も、それからハナミズキの手入れも欠かすことはなかった。
しかし、楽しい時間は長く続かなかった。少年が彼と仲良くなれたと思い始めた十一月の半ば頃、いつもの電車が来る時刻に空が赤く染まった日を境に、彼はぱったり少年の前に姿を現さなくなったのだ。
彼は毎日少年と会っていたわけではない。初めの数日は、少年も次に会えるのはいつなのかと楽しみにしていたが、彼が現れない日が一週間も続くと心配になってきた。明日は会えるかも、明日は会えるかも、と待ち続けて二週間、とうとう師走を迎えるが、彼は一向に現れない。彼と会えないのは寂しかった。それに、寒くなったら火を入れると言っていた彼の暖炉に灯された火をまだ見ていないのだ。
駅のホームでむき出し膝小僧を赤く染めて彼を待つこともあった。しかし彼は現れない。
最初に相談したときに何か知っている風だった祖父に聞いても何も答えてはくれない。
少年は一人静かに寒さに震えていた。
ある日少年はふと思う。自分は彼の自宅を知っているのだから、自ら彼を訪ねてみればいいのだと。
雪のちらつく朝、少年は友達の家に呼ばれていると嘘をついて、家を抜け出した。お小遣いをはたいていちごを購入し、お土産にする。
駅から歩きなれた道を行くと、洋館は確かにそこにある。
門から遠目に洋館を眺めると、窓からいつもの居間が見えた。居間からはちらちらとオレンジの光が漏れている。かなり距離があったが、少年にはそれが暖炉の火であるという核心があった。火に吸い込まれるように手を伸ばし、門の呼び鈴の紐を引こうとした、その時。
「そいつはいかん」
少年を後ろから制止する声が響いた。
「おじいちゃん! どうして?」
「そいつはいけないんだよ」
祖父の声は有無を言わせぬものだった。
「おまえ、父さん母さんにうそをついたな?」
「嘘じゃない、この家の人は、ともだちだもん」
「そうかそうか。でも約束はしていないだろう? おまえ、友達と約束があるといって出て行ったじゃないか。その家のやつとは約束があったのか?」
「……ない」
「だろう? 父さんと母さんには黙っててやるから、俺と一緒に帰ろう」
「……わかったよ」
「これからは嘘をついても助けてやらんからな」
「うん、ありがとう、おじいちゃん」
少年はかじかんだ手を祖父に引かれて今来た道を戻る。はじめてみた暖炉の明かりが、まだ目の前でちらちらと燃えているような気がしていた。
それからは、暮れと正月の親戚の集まりや、新学期など大きなイベントが重なり、少年は彼のことを思い出さなくなっていた。
そして、翌年の秋。
少年はふと、彼のことを思い出す。爽やかな秋晴れの日に始めて出会った彼のこと。今日も空は快晴で、上を見上げると高い高い青空が広がっている。しかし今日は例年と比べると異様に寒く、まだコートを羽織っていない少年は体の芯まで冷え切っていた。
電車に乗り込んで二駅、ここで彼が乗ってくるんだと思い返していると、少年の目の前に大きなシルエットが現れた。その人は、少年の向かいの座席に腰かける。
少年は、彼が彼であると確信していた。
「こんにちは」
「おや、こんにちは。久しぶりだね」
「ええ、本当に」
「――そうだ、今日はおいしい柿があるんです。どうですか? このあと」
「いいんですか?」
「勿論」
少年は、また彼についていくことにした。
彼の後から洋館の門をくぐると、そこは一年前と少しも変わらない。樹木の多いよく手入れされた庭、綺麗な門に玄関。
「さ、美味しい柿だよ」
少年は「いただきます」と手を合わせ、柿を食べ始める。
「柿、美味しいです」
「それはよかった」
少年はまた、彼に色々な話をし始める。一年分溜まりに溜まった話は尽きないが、少年は一つだけ、彼に聞きたいことを聞けないでいた。
それは、急に姿を見せなくなったことと、また会ってくれたことの理由についてだ。
少年がそれについて訊こうと思うと、どうしてか彼からすごく面白い話題が提供されて、どうしてもそれについて話をしてしまう。そのため、少年は問題の核心に触れることすらできなかったのだ。
「おや、そろそろ日が沈む時間だね」
「あ、あの、一つだけ、訊きたいことがあって」
「でも、もっと話をしていたら、門限に遅れてしまうよ」
「どうしても、聞きたいんです」
この機会を逃したらまた彼はすぐに、今度は永遠に消えてしまうかもしれないと思うと、少年は帰ることができなかった。
「困ったね」
「両親には、連絡しますから」
「それなら、今してしまいなさい」
「はい」
少年は持たされている携帯電話で、『クラブ活動で遅くなるため帰宅が遅れます』と嘘の連絡を入れた。五年からはじめたクラブ活動は開催が不定期で、よく似たような連絡を入れていたから少しは時間が稼げるだろう。
「うん、それで、君は僕に何を聞きたいのかな?」
「ええっと、どうして去年、突然僕と会ってくれなくなったのか――」
少年は話しだしたが、彼はそれを「あ、そうだ」という言葉で遮った。
「ごめんね、ちょっと寒くない?」
「え? ……まあ、はい」
少年は更に焦らされて不満げに頷いた。
「暖炉に火を入れるよ。そうしたら話を聞こう」
「あ、ありがとうございます」
付けてほしかった暖炉を暖めてもらえて嬉しい気持ちと、どうして今? という疑問が少年の心を半分ずつ占める。
「去年は火を入れてくれなかったのに、どうして今なのか、と思っているようだね」
「えっ、はい……」
「君の質問に答えるには少し時間がかかるんだ。それに、きみは去年の冬、この暖炉の火を見ただろう? だからね、もう暖炉をつけてもいいんだよ」
「どうして?」
「なんでもだ。さ、ついた。こっちにおいで。部屋が暖まるまでは時間がかかるから、僕の隣で暖まりなさい」
彼は少年を抱き寄せるように隣に座らせた。どこから出したのか、薄手の毛布で二人まとめて包み込む。
「それじゃあ、きみの質問をもう一度聞こうか」
「……まず、どうして去年、突然僕と会ってくれなくなったのか、聞きたいです」
「うん、それはね――」
二人が背を向けた窓の向こう、洋館の庭園で、この時期には咲くはずのないハナミズキが一輪、ゆらゆら揺れる暖炉の炎に照らされていた。
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