『The Witness――見てしまった乙女――』

龍宝

01「The Witness」




 昨日新調したばかりの腕時計を見遣ってから、胡雷天フーレイティエンは「時間だ」と言った。


 感情の乗せられていない兄貴分の声に、周囲を固めていた舎弟たちがかすかに息を呑み、うす暗く、いかにも汚らしい路地裏に緊張がふくらんでいく。


 一歩踏み出した足先に、中身の残っていた酒瓶が軽く当たった。


 もう一度だけ、辺りを見渡す。


 自分たちだけだ。他に人の姿はない。


 すぐ傍にいた舎弟のひとり――自分の運転手だ――その肩を叩いて促す。


 吸っているだけでおぼれそうになる空気を取り込むようなことは、これ以上自分の肺にさせたくない。


 表に停めてある車に戻ろうとした胡雷天を、見張り役のひとりが「大哥アニキ」と呼び止めた。




「――遅刻だぞ」




 ポケットに突っ込んでいた指先を、路地の奥から現れた男に向けた。


 明滅をり返す電灯が、背広姿の男がこちらへ歩み寄る様をコマ送りに見せている。


 ひとりだ。護衛を連れている気配はなかった。




「そう、不安そうな顔をするなよ。理由も分からずに教師の呼び出しを食らって待ってる生徒みたいで、笑えてくる」


「そっちこそ、泥酔した女みたいな足取りだ。手下も連れずにのこのこと来やがって、どういうつもりだ?」




 相手が英語を話したので、こちらもそのように返した。


 どこの生まれか知らないが、この白人は自分を見下している。


 胡雷天の属している黄地会がどれだけ武闘派なのかも知らずに、ただ自分たちよりもほんの少しばかり早く、この国で、この町で商売をしていたというだけで、思い上がっている。


 勝った気になっている。




「お前らのようなチンピラと会うのに、何を構えることがある? それより、さっさと用件を済ませよう」


「運んできた商品の件なら、もう話が付いてるはずだ。からまれる覚えはない」


「口の利き方に気を付けろ。ど田舎から出てきたばかりの新参者に、親切にも仕事をくれてやった相手には、特にな」




 笑みを浮かべる男をにらみながら、胡雷天は拳を震わせつつも口をつぐんだ。


 本当は、めた口を利いているのはどっちだ、と今すぐこの男の鼻面を殴り飛ばしてやりたい。


 だが、頭目から余計な揉め事を起こすなと言われている以上、この程度の挑発には耐えなければならないのが自分の立場だった。




「利口だ、。手短にいこう。この前の話し合いじゃ、お前らの手土産を五○〇で買い取ってやる、って話だったが、状況が変わった」




 新しい煙草タバコに火を付けて、男がわざとらしく間を取る。




「担当が代わってね。それで、値段を見直すことにした」


「……?」


「コンテナひとつにき、二五〇。――それでいいな?」




 煙を吐きながら、男が顔を近付けてくる。


 今度ばかりは、胡雷天も冷静ではいられなかった。




「そんな馬鹿な話があるかっ。あれは、俺たちが苦労して持ってきた荷だぞ。足元を見るのもいい加減にしろ!」


「落ち着けよ、。もしかして、不満なのか?」




 詰め寄る胡雷天を押し返して、男が大げさに肩をすくめた。


 納得できるわけがない。


 元々、五〇〇という値段でさえ、相場からすればかなり譲歩した数字だったのだ。


 新参の立場だからと、こちらが下手に出ているのをいいことに、眼前の男は図に乗り過ぎている。


 二五〇? 二五〇だと?


 そんな値を付けられたところで、商売にならないのは誰が考えても分かる話だ。




「契約を守れ。ひとつ五〇〇だ。変更はない」


「残念だが、それを決めるのはお前らでなく、俺だ。――忠告してやる。血が流れない内に、『分かりましたイエス』と言え」




 煙草を吐き捨てた男から、胡雷天は眼をらさなかった。


 誰も言葉を発しない、睨み合いになる。


 視界の端で、舎弟のあごを汗がつたっていった。


 湿った路地を、微かな風が抜ける。


 切れ掛かっていた緊張の糸が、次の瞬間、音を立てて引きちぎれた。



 殴り掛かった舎弟のひとりに、男が拳を打ち込む。


 喉元を押さえて身体を折ったひとりを突き飛ばして、後ろから襲い掛かったもうひとりを受け止める男。


 ふたりの身体が位置を変え、舎弟の腹に何度も男の膝が打たれるのを見て、胡雷天は懐に手を遣った。




「――ッ!」




 右手に構えた自動拳銃の狙いを付けるよりも早く、男が舎弟をこちらに突き飛ばしてきた。


 とっさに銃口を逸らした隙をかれて、右手首を掴まれる。


 揉み合いになった。


 胡雷天はそれなりに大柄だが、相手の男も筋肉質で膂力には自信があるようだ。


 銃口をどうにか相手の身体にまで持っていこうとする胡雷天と、必死に腕を握り締めて拳銃を奪おうとする男。


 背中から路地の壁にぶつかり、また胡雷天の左拳も男の肩を打つ。




「教会の炊き出しに並ぶ、うす汚い乞食ども。。この町で五体満足に息をしたけりゃ、黙って、首を垂れながら地べたをいずり回ってろ」




 うなるように、男が言う。


 壁に押し付けられたまま、胡雷天は相手の外側に脚を踏み込み、男の殴打に構わず左手でえりを取った。


 力尽くで正面に引き回す。


 上体の傾いだ男が、胡雷天の手首をいっそう強く握り込んだ。



 びくり、と男がわずかに身体を跳ねさせて、それから固まった。


 耳に馴染んだ音と、ぎ慣れた臭い。


 胡雷天は、一拍遅れて、止まった世界の針を再び動かした。


 思考が追い付いたのだ。


 信じられない、という表情で、男が自分の腹と胡雷天の顔へと視線を往復させる。


 にじみ出した赤が、次第にその範囲を広げ、べったりと白いシャツを染めていった。


 押さえたところで、あふれてくるものをき止めるなどできない。


 やがて、男は数歩後退あとずさってから、仰向けに倒れ込んだ。


 水たまりが音を立て、男の身体から流れるそれと混じっていく。




「……大哥」




 呆然といった感じで、起き上がってきた舎弟が声を上げる。


 その時すでに、胡雷天は冷静さを取り戻しつつあった。


 人を殺すのは、何も初めてのことではない。


 今回は、そこまでする気がなかったのに、撃ってしまったというだけだ。




「――屍体を片付けるぞ。お前は、車を回してこい」




 拳銃を仕舞って、胡雷天は動き出した。


 やってしまったことは、もうどうしようもない。


 ここから、どれだけのことができるかだ。


 勘の域を出ないが、この呼び出しは男の独断だろう、と胡雷天は思っていた。


 向こうの組織がどれだけまとまっているかは不明だが、護衛も連れずに現れた男のふるまいからして、また自分たちを新参者のごろつきだと下に見ている点から見ても、組織全体で動いているという感じではない。


 冷静になって考えてみれば、何もかもおかしかった。


 最初の値段から勝手に引き下げて、組織に知られず差額を自分の懐に入れようとでもしていたのか。


 あらの目立つ計画だ。


 ごまかせる余地は、おそらくある。


 男が周囲や手下に行き先を告げている可能性もあったが、そこは賭けるしかなかった。


 こういう男は、決まって抜け駆けをしようと独りで動きたがるものだ。




「大哥、どう処理します?」


「町の南北を流れている、でかい川があったな。重石をくくりつけて、あそこに沈めればいい。後は、魚がすべて消してくれる」


「会長には、何と?」


「俺から、時機を見て話す。それまでは、何もなかったような顔をしていろ」




 信頼のできる舎弟は、自分の方針をすぐに理解したようだ。


 騒ぎ立てることなく、指示を実行しようとしている。


 その姿に自信を取り戻した胡雷天が、男の屍体を確かめようと足を踏み出したその時、どこからか物音が聞こえた。




「――誰だっ⁉」




 反射的に怒声を上げた舎弟に驚いたのか、慌てて駆け去るような足音が響いてきた。


 見られた。


 自分たち以外にも、この路地に迷い込んだ者がいたのだ。


 確認したはずだったのに、一体いつから――


 いや、いつから見ていたにしても、決定的な証拠である男の屍体はこうしてあからさまに転がったままだし、自分たちの剣呑な会話もおそらく聞かれてしまっていることだろう。


 逃すわけにはいかない。


 目撃者が誰であれ、口を封じなければ確実に厄介なことになる。


 余計なことを誰かに漏らす前に、消してしまうべきだ。




「追え。絶対に見失うな」




 舎弟に向かって叫ぶや、胡雷天は携帯端末を取り出した。


 自分の息の掛かった手下たちを、片っ端から呼び出していく。


 地の利は無くとも、人数で囲い込んでしまえば、獲物を仕留めるのにそう時間は掛からないはずだ。


 ならば、自分たちにはお手の物なのだから。




「……やれやれ。結局、こいつの後始末は自分でするしかないようだな」




 屍体を見下ろして、胡雷天はひとり息を吐いた。




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