武蔵野酒乱日記
来田あかり
第1話
「へえ、ここって霧が多いところからこの朝霞という地名になったのかと思っていたが、やんごとなき方の名前から取っていたんだ」と、おれは感心した。
教えてくれたのはこのスナック「奈美」の常連である吉村氏。俺の酒友である。書籍の編集者をしているとかで、知的な感じがする男だ。
「奈美」はカウンター席とテーブル席が2卓のこぢんまりとした店だ。住まいの近場にあるのでちょくちょく寄っている。
「私もそう思っていたわ」と、スナックのママ。ちなみにママの名前は「奈美」ではない。先代の後を継いだのだという。
「そのまま地名にするには恐れ多いということで、同じ音の漢字で一文字変えたんだがそれが霞という字なんだ」
吉村氏が言うには、当市朝霞市の中心部はかつて膝折宿というなんか嫌な名前の宿場町だった。なんでも足利義政のお抱え絵師の馬がその付近で走行中足を骨折して死んだ、というのがその名の由来なのだという。さらにふんだりけったりなのが、その絵師は盗賊に襲われ、命からがらその町に逃げ込んだという悲惨なエピソード。なんでそれを町の名にする。東武東上線の朝霞駅も元は膝折という駅名だったとか。
そうそう、なんで膝折から朝霞の名になったかというと、その由来がゴルフ場にあるのだという。名門ゴルフ場「東京ゴルフ倶楽部」が埼玉という秘境にある膝折村への移籍がきっかけとなり、村名を改称、昭和7年5月1日、朝霞町が誕生した。その名の改称にあたって、膝折の名があまりに不吉だということで、当時「東京ゴルフ倶楽部」の名誉会長であった朝香宮殿下の名をいただき、朝霞となったのだ。
「しかし吉村さんは何んでも詳しいですね。郷土史にも詳しいとは」吉村氏は俺より年上なのでいつもさん付けだ。
次の朝、十何年か住んでいる団地で目を覚ます。
スナックで吉村氏と朝霞市の名の由来を話した記憶はあるがそれ以降はぶっ飛んでいる。楽しかったという感情だけは残っているが、内容を覚えてないのがもったいない。そこまで飲むのを毎回反省はする。自己嫌悪に陥る。不幸中の幸といえるが二日酔いの症状はない。
若い頃、都心部で飲んで駅前の広場の地べたで目が覚めたことがあった。その時、ホームレスと思しき男性から何か缶のコーヒーをもらったことを覚えている。
60にならんとする今、流石にそんな飲み方はしない。外で飲むにしても歩いて5分の「奈美」か。そのスナックも、今回はコロナ禍での規制で久しぶりだった。「奈美」は埼玉県感染防止対策協力金なんとかやってきたとママがいってたな。
酒で記憶をなくしてばかりだ。年に数度は渋谷とかで旧友数人と年に何回かは飲むのだが、毎回記憶を無くして会話の内容が残らない。せっかく旧交を暖めているというのに何やってんだ俺は。毎日の家飲みでも記憶を無くして朝を迎える。外で飲んでもとりあえずウチには帰っている。しかし外でもウチでも記憶をなくす。
その旧友の一人に、凄まじい酒の逸話がある。ある時その旧友は道端の草むらで寝ていた。無論酔い潰れてだ。目が覚めてここはどこだと混乱して道の中へ走り出した。そこに運悪く車が走ってきて跳ねられた。旧友に車が背後から激突、旧友は宙を舞いボンネットを越え後頭部からフロントガラスに飛び込んだ。フロントガラスは大破。運転手は驚愕しただろう。しかし旧友は無傷だったそうだ。酒のマジックか。
俺も酒で問題行動を起こすのはたまにあるのだが、何とか酒の上での笑い話で済んできた。いや、今の時代それも許されなくなってくるだろう。酒で逮捕されたり、行き倒れて凍死するのは嫌だ。昭和の時代「酒の武勇伝」なんてことばがあったが、許されなくなる時代になっていくんじゃないか。喫煙がそうだ。昔は職場の机に灰皿があり、空間はタバコの煙で満たされていた。今では考えられないことだ。
昭和51年に作られた俺の住まいであるこの団地。東武東上線朝霞台駅および武蔵野線北朝霞駅から徒歩5分。15階建。大友克洋氏の漫画「童夢」の舞台となった団地に似ている。そこが我々の住まいだ。我々というのは、この部屋のもう一人の住人、明美がいるからだ。
明美と知り合ったのは10何年か前。ちょうど父親が亡くなったころだ。俺たちは花のバブル世代の同世代。若い頃にダブルインカムノーキッズ、略してディンクスなんてことばが流行ったがそんな感じだ。結婚はしていない。二人とも住民票的には世帯主だ。二人とも収入はあるが、家計を一緒にするということはない。だから内縁とも違うかな。
朝食は明美と一緒に作る。俺はコーヒーと卵料理の係だ。平日は目玉焼きを作るのだが、明美は黄身がきちんと固まっていないと気が済まず、俺は、黄身はトロトロがいい。そこで時間差で卵をフライパンに投入するテクニックがいる。長年やってるので慣れたものだ。明美はサラダとヨーグルトとパン類を揃える。俺はバンが苦手でもっぱらオールブランなどのシリアルとかオートミル。「鳥の餌みたいね」とは明美の弁。これが二人の朝食。そして通勤。俺が先に出る。なぜか明美は毎朝万歳をして送ってくれる。
地元は、武蔵野線の北朝霞駅、東武東上線の朝霞台駅の両駅が乗り換え駅となる地で、便利な土地柄だ。乗り換えには雨にもぬれずその距離1分もかからない。
半面、通勤途中にある新秋津駅・西武池袋線秋津駅間で乗り換えとなるんだがそれがもう不便。せまい公道を7〜8分歩いて乗換する。これは東京圏の駅間乗り換えでも首位に入るくらいの長距離とか。
秋津駅に向かう道は、朝日の逆光の中わらわらとやってくる人の群れでまるでゾンビ映画のようだ。
そこでは毎日5万人もの人が行き交い、風雨にもさらされる。車道歩道の区別もなく往来する人であふれ、車がろくにとおれない。人流の中を自動車や自転車が人と接触しそうになりながらノロノロと動いている。通行人どうしで肩がぶつかってケンカになっている場面を何回か見かけた。
この乗換問題の改善を目指し国土交通省関東運輸局が主体となり「秋津駅・新秋津駅の乗り換え利便性向上検討会」というものが作られ色んな案が検討されたという。秋津駅・新秋津の駅のホームをつなぐ直通通路の計画もあったようだが、地元商店街の反対もあり、頓挫したとか。
駅間を結ぶルートはいくつかあり、俺の使うルートの観測範囲内には立ち飲み屋さんが4軒あはる。そのうち秋津駅前の店は緊急事態宣言や蔓延防止の最中も営業を敢行しており、賑わっていた。なんか怖かった。ほかの3軒は新型コロナ下での規制期間中営業自粛しており、そのうちの1軒は、すべての規制が解除されても飲み屋は再開せず、唐揚げなど総菜の店頭販売のみになっていた。
会社からの帰りにはそんな秋津の立ち飲み屋さんに引っかかりたくなるが、常連が多そうで気後れして入ったことがない。明美も飲む方なので、ここ十年はもっぱら家飲みである。外で飲むのは、規制解除されるタイミングをついて出かける近場のスナック「奈美」くらいか。
秋津駅のホームには、埼玉県と東京都の県境があり、右足を東京、左足を埼玉におきながら電車を待つことができる。
10年前に転職してからずっと武蔵野線と西武池袋線を使っている。
武蔵野線。沿線の鉄塔の写真を掲載した小説があったな。あれはアニメーション「新世紀エヴァンゲリオン」の影響があっなのかな。読んでないけど。武蔵野線の車窓からの風景を見るのも転職以来だからもう10年になるか。朝の通勤のお気に入りは左側の窓からの風景で、晴れてる時は富士山も見ることができる。
などと、一電車内ででつらつら考える。その帰り。毎日の買い物は俺がしているので、明美にショートメールで本日の買い物を聞く。買い物は大概朝食の素材。「レタスとゴマドレ、トマトをよろしく」と、返事。
本日の買い物とともに家飲みのつまみを買うためスーパーに寄ってから団地に帰る。明美は明美で自分のつまみとなる食べ物を買って帰る。俺はコロナ禍により時差出勤をしている。規制が解けてもそのまま時差出勤は続いている。会社は平均年齢が60以上。デジタルトランスフォーメーションどころかパソコンを使えるのが俺だけのため、リモートワークなど縁遠い。朝は5時台に出て、早めに退社する。家に帰り着くのは夕方6時前。
さあて家飲みだ。
「会社の倉庫が新座にあるんでバスで行ってるんだが、膝折っていうバス停があるんだ。スナックで聞いたんだがそもそも朝霞市の元の地名は膝折村っていうんだってな。なんかまがまがしい地名だな」
俺は吉村から聞いたネタを冷凍庫で冷やしたジョッキでストロングゼロをやりながら明美に披露した。
俺は東北育ちで18の時上京、品川に住んでいた。この地埼玉に来たのは20年前という新参者。明美は埼玉の奥地鶴ヶ島育ちで埼玉はホームグラウンド。そんな埼玉ネイティブ人にちょっと聞いてみたくなったのだ。
「前に私がいた鶴ヶ島市にも脚折町という地名があるよ、脚が折れると書いてすねおり。」「なんか運命的だな。しかし埼玉ってそんなに足や膝が折れるような土地柄なのか」「大袈裟よね」「富士見市には水子という地名もあるよ。東武東上線のみずほ台の駅名も最初は「水子駅」という名前で考えられていたようなの」「語感が似ているが……。重い地名だな」「水子と言っても流された子供のことじゃなく、湧水が出たからみたい」
ストロングゼロを飲み終わると俺は2リットルペットボトル入り焼酎をグラスに半分くらい注ぎ、炭酸水で割って飲みだす。夜9時くらいまで杯を重ね、次第に泥酔してうとうと。時差出勤のせいかアルコール量は増えているだろう。「布団で寝てよね」と、明美の声を受け、俺はよろよろとトイレに向かい用を足して寝床に向かった。
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