憑キマトイ

キキカサラ

黒い影

 ――今日も疲れた。


 これで20連勤目。毎日終電まで残業。寝るためだけに家に帰る毎日。ブラック企業のテンプレともいえる労働状況だ。新人なのだから当たり前だと、毎日言われている。

 重い体を引きずりながら、駅のホームへ向かう。


「明日こそ、労基に訴えてやる…」


 毎日毎日、仕事を終えると同じ言葉が口から出る。今も所属していることを見ての通り、一度も実行したことがない虚言だ。


 電車が来た。片道一時間、この時間が睡眠時間を増やすための時間だ。毎日のことで習慣化されており、既に体は眠る前の気怠い状態だ。


「あー……」


 座席の真ん中に座り、天を仰ぐ。ため息とともに、自然と声が漏れる。とにかく、少しでも寝たい。座りながら寝ると体が痛くなるが、それでも、脳を少しでも安ませたい。

 でも、この位置は辛い。少しでも自分の体重を他に分散しようと、席を移動して、端に座り直す。

 幸い、電車内に自分以外の人は乗っていない。これなら、どんな体制になってしまおうが、いびきをかこうが、迷惑をかけることはない。


 意識が遠のいていく――――――




「ふがっ」


 体がビクリと跳ねる。自分のいびきで目が覚めた。自分の情けない姿が見られていないかと、周りを見回す。相変わらず、車内に人の姿はない。隣の車両も、その隣もガランとしている。


「ん?」


カーブに入り、更に奥の車両が見える状態になった時、人影が見えた。外が暗いので、車内の明かりに照らされたその人の姿は、一層際立っていた。

 黒い格好をしている。しかし、遠すぎて、どんな服装なのかまでは分からない。ただ俯いて座っている。


――この時間に人が乗ってるなんて珍しいな。


 自分が電車に乗った時には、ホームに人影はなかった。いつもなら、降りる時も誰も降りてこない。それくらい終電に人が乗っていることはない。それでも、公共交通機関だ、乗っていても不思議ではないだろう。

 時計を見ると、電車に乗ってから十分しか経っていない。早くに目が覚めてしまった。しかし、まだ体は重く、直ぐにでも寝入ることができる。俺は再び目を閉じた。




 自然と目が覚める。

時計を見ると、また十分ほどの時間が経っていた。今日はやけに眠りが浅い。いつもだったら最寄り駅まで熟睡している。

 そうだしまった、乗ってすぐに寝てしまったから、タイマーをかけていなかった。これをしないと最悪乗り越して、帰れなくなる事態になってしまう。

 タイマーをかけながら何気なく周りを見た。


「あれ?」


 3両隣の車両。先程遠くの車両に見えていた黒い格好の人が座っていた。その奥の車両に目をやると、先程の黒い人の姿はなかった。別の人か?

 タイマーをかけた安心から、再び眠気が襲ってくる。




 じゅる。

 しまった、よだれを垂らしてしまった。背広に付いたよだれを拭きながら、恥ずかしくなり周りの様子を伺う。先程の人がまだ、同じ席に座っていた。


「次は――。次は――」


 車内アナウンスが流れる。どうやら駅に着くようだ。駅名から、まだまだ自分の最寄り駅までは時間があることが分かった。

 電車が停まる、扉が開く。


「―――。―――」


 駅名が言われると、黒い影が立ち上がった。そして電車を降りてゆく。


――この駅で降りる人だったんだな。


「え?」


 自然と口から声が漏れた。降りた黒い影が、隣の車両に乗ってきた。先程より近くになったが、人の形をしているのは分かるのだが、表情も服装も分からない。本当に影のような存在だった。立体的な影といった感じだ。

 影は座先に座ると俯き、先程と変わらぬ姿勢になった。視線はどこを見ているのか分からない。もしかしたら俯きながら、こちらを見ているのかもしれない。そう考えると悪寒が走った。

 奥の車両を見ると、人影はなかった。


 ――あいつ、もしかして駅に停まる度に、こっちに移動してきてるのか?


 そんな考えが頭を過ぎり、寒気が強くなる。勘弁して欲しい。

 どうする、車両を移動するか?しかし、移動しようとして追いかけられたらどうする?ここは、気付かないふりをしてやり過ごすのが得策ではないか?しかし、次の駅に停まったら、この車両に乗ってくるかもしれない。そうしたら何をしてくるのか…色々な想像をしてしまい、恐怖がわいてきた。

 起きていないことを想像して、自ら恐怖を強めるな。考えないようにするんだ。


「次は――。次は――」


 車内アナウンスが響く。ある意味俺には、死刑宣告の様だった。

 やり過ごそう。仮にこの車両に乗ってきても、気付かないふりをしよう。俯き眠る姿勢を取る。


「―――。―――」


 駅名が流れる。ゴクリと唾をのむ。唾をのむ音が聞かれるのではないかと、心臓の鼓動が高鳴る。この心臓の音も聞こえてしまうのではないかと、恐怖が上乗せされる。

 恐怖で目を閉じることができない。目を閉じて襲われたらと思うと、どうしても目を開けてしまう。


 すすす――――


 視界の端に黒い影が見えた。足音がしない。やっぱりこの世のものではないのか。

 影は、直ぐに座らず、車内を移動する。そしてその足取りは、こちらに向かってきている。体に汗がにじむ。

 そして影は、あろうことか俺の目の前に腰を下ろした。


 ――なんでここに…!


 もしかして、狸寝入りがばれているのか?こちらに襲い掛かってくるのか?恐怖で体が震えそうになるのを必死に抑える。

 意識が飛びそうになる。よくホラー番組とかで、恐怖のあまり意識を失うシーンがあるが、人は恐怖を感じすぎると、本当に意識を失うんだな。

 そんなくだらないことを考えながら、視界が暗転していった。




「はっ!」


 不意に意識が戻った。


「はー、はー、はー……」


 今まで息を止めていたかのように、息が荒くなる。もしかしたら、本当に呼吸が止まっていたのかもしれない。悪夢で目覚めると、こんな呼吸になる時がある。いや、本当にただの悪夢だったのかもしれない。

 俺は直ぐに顔を上げずに、様子を伺った。

 先程目の前に座っていた黒い影の姿はないようだ。続いて俯きながら周りも見てみる。影の姿はない。


 ――夢だったか。


 安堵し、隣の車両に目をやり、息が止まった。そこには黒い影が座っていた。

 もしかして、気を失っている間に、駅に着いて車両を移動したのだろうか。


「―――。―――」


 電車が停まる。

 黒い影は立ち上がり、電車を降りた。そして、奥の車両から再び乗り込む。

 実際に黒い影が遠ざかっていくのを目の当たりにし、俺は今度こそ安堵した。

 もしかしたら、今まで同じ電車に乗ってくる人なんていなかったから、その初めての体験に勝手に被害妄想を感じて、黒い影と認識していただけなのかもしれない。

 本当はただの酔っ払いの行動で、ふざけて車両移動をしていただけなのかもしれない。そう考えると、今までの恐怖は消え、自然と笑いが漏れてしまった。






 しかし、次の日も、そいつは現れた。

 見間違いではなかった。酔っ払いじゃない。人間でもない。確かに影なのだ。存在感のある黒い影。夜の闇にも溶け込まず、闇の中でもそこにいるのが分かる。

 昨日と同じ様に、駅に停まる度に車両を移動してくる。今日は昨日ほどの恐怖は感じなかった。そのため、自分の車両に乗ってきた時にも寝たふりはせず、そいつを観察してみた。

 昨日と違ったのは、黒い影は自分の前に座らず、遠くの席に座った。まるで、影もこちらの様子を伺っているようだった。

 そして、駅に停まると降りて車両を移動する。




黒い影は、あの日以来、毎夜現れ、同じ行動を繰り返した。駅に停まると車両を移動する。ただ、この行動だけをし、こちらには干渉してこなかった。

 他の人が電車に乗っていても影は現れた。残業が遅くまでにならず、終電に乗らなくても、俺が乗る電車に必ず乗ってきた。そして同じ行動を繰り返した。

 黒い影は、他の人には見えない様で、影も他の人に干渉することはなかった。ただ、不思議だったのは、見えていないにも関わらず、人は影を避けて歩いた。その光景は、とても不思議なもので、そして影の不気味さを俺に再確認させた。

 しかし害がないと分かると、人間単純なもので、得体の知れないものがいても眠ることができた。得体が知れないのに、そいつの前で無防備に寝られるのだ。


 ピピピピピピピピピピピピピピピ!!!!


 けたたましいアラーム音が車内に響いた、俺のタイマーだ。

 顔を上げると扉が開いていた。いけない最寄り駅に着いた。降りなければ乗り越してしまう。俺は寝起きで重い体を無理やり動かし、急いでホームに出た。

 寝起きのため、息が切れ、肩で息をする。


 プルルルルルルルルルルルル。


 発車のベルが鳴る。

 周りを見渡すと、先程の黒い影もホームに出ていた。また車両を移動するのだろう。


 プシュ―――。


「え?」


 黒い影は、電車に乗らず、ホームに佇んだままだった。


 ――何でどうして!


 初めて干渉された気がした。今までと違う行動に、恐怖が襲ってくる。どうすればいい、どうすればかいくぐれる。今はさっきみたいに寝ていない、寝たふりはできない。

 黒い影から視線が外せない。体中から汗が噴き出してくる。背筋は寒いのに体が熱い。まるで風邪をひいているような状態だ。

 ホームから出るには、どうしても黒い影の方にある階段を昇らなくてはならない。俺は反対のホームギリギリを歩き、黒い影と最大の距離を保ちつつ、階段に向かった。

 幸い、黒い影が動くことはなく、俺は無事階段に辿り着くことができた。階段を昇りながら背後を確認する。


――ついてきている。


 歩くとついてきて、止まると止まる。黒い影は一定の距離を保ちつつ俺についてきた。恐る恐る影に近づくと、影は退かった。こちらからは距離を詰められるが、影からは距離を詰めてこないようだ。

 終電ではないため、駅構内は結構人がいる。人々は影を避け、歩く。いつもの光景だ。

 影の様子を伺いながら歩いていると、酔っ払いの男性が千鳥足で歩いてきた。そしてあろうことか影に接触した。


「うっ!」


 男性は叫ぶと、前のめりに倒れた。近くの人たちが驚いて一瞬止まる。しかし、酔っ払いと分かっていたので、直ぐにみんな動き出した。

 倒れ込んで動かない様子を見て、駅員がやれやれという感じで、面倒そうに男性に近づいた。


「お客さん、大丈夫ですかー?お客さーん」


 大声で呼び掛け、体を揺する。しかし、全く反応がない。異常な事態に気付いた駅員が、男性を仰向けに寝かせる。そして口元に耳を近づける。


「呼吸がない……救急車!救急車―!!」


 駅員の叫びで、周りが騒然となった。構内は男性のことで騒ぎになっていたが、俺はそれとは別の恐怖を味わっていた。


――影に触れると、死ぬのか?


 咄嗟に走り出さす。黒い影の速度も上がり、俺についてくる。それに合わせて、人の避ける速度も無理に上がり、避けると同時に転ぶ人が続出してしまった。当の本人たちは、なぜ自分が転んだのか分からない様子だった。

 ダメだ、このまま走って行ったら、いつか避け切れなかった人が影に接触して、あの男性の様に死んでしまうかもしれない。

 俺は冷静を取り戻し、走るのを止め、歩き出した。それに合わせて、影も速度を落とす。

 もしかして、影が見えていないにも関わらず、人が避ける現象は、本能的に危険なものだと分かっているからではないだろうか。



 黒い影は、ずっとついてくる。特にそれ以上の動きはなく、一定距離を保ち、ただただついてくる。

 歩いているうちに、ついに自宅に到着してしまった。まさか、家の中まで入ってこないだろうな。

 家はアパートの二階だ。影との距離が保たれるのならば、俺が家に入っても、影はアパートの敷地にすら踏み入れられないことになる。

 憶測は合っていたらしく、影はアパートの前で足を止めた。例え俺が自宅内でどう動いても、あの位置からアパート内に入ることはないだろう。問題はないはずだ。

 今までの黒い影の行動から、自ら危害を加えに来ないだろうと信じ、俺は床に就いた。





連続勤務30日目、重い体を無理やり起こし、栄養ドリンクを一気飲みする。そして身支度をして玄関のドアを開ける。そして目を疑う。

 問題発生だ。影が移動し、下に降りる唯一の階段を塞いでいる。

 昼間に影が出てきたのは初めてだし、それより怖いのは、影の色が黒から赤に変わっていたことだ。赤い色というのは人間に恐怖を感じさせるのだろうか、非常に毒々しく、攻撃的に感じる。


「おはようございます」


 ドアを開けた状態で固まっていると、隣人の男性が挨拶をしてきた。そういえば、出勤時間が被ることがあったな。

 男性はそのまま階段へ向かう。いけない、影に触れたら死んでしまう。


「ちょっと、ま…」

「あれ?」


 男性は足を止めた。そして、そこから前に進めなくなっていた。前に進もうと踏ん張るが、足が一向に動かない。足を上げようとする力と、上げさせまいという力が葛藤し、ブルブルと足が震えている。顔は困惑の色で満ちていた。


「おかしいな、体調でも悪いのかな…」


 男性は諦めて、引き返していった。

 見えていない人が近づかないということは、触れると危険だということだ。同時に、赤い影を見て恐怖を覚えた。影が男性に向けて手を伸ばしている。その場からは動かないので、ただ手を伸ばしているだけなのだが、今までこんな動きをしたことはない。

 もしかして、触れようとする意思があるのだろうか?だとしたら、無理やり階段を降りようとして、掴まれる可能性がある。

 俺は仕方なく仕事を休むことにした。部屋に戻り、会社に電話をかける。相手の出かたが分かるだけに、非常に憂鬱だ。


「お疲れ様です。―――ですが、本日体調が悪く、休みます。申し訳ありません」

「はぁ?テメー、何勝手なこと言ってんだ?直ぐに来い。仕事に穴開けるんじゃねぇ!」

「すみません無理です。今日はどうしても行けません」

「よく逆らえたな!これから家行くから覚悟しろよ!!」

「いえ、家に来るのはおススメしません」

「ふざけたこと言ってんなよ!今す……」


 俺は上司が怒鳴っている途中で電話を切った。今まで、この怒号が嫌で、体が辛くても休まなかった。労働基準法が違反された労働状態でも、恐くて抗議することができなかった。なのに、今日はきちんと主張して言い切ることができた。死と比べたら、怒号なんて怖くもなかった。あの不気味な影のおかげで、初めて会社を休めたのは、なんとも皮肉なものである。

 何か凄く眠くなってきた。初めてしっかり休める安堵感からか、今までの疲労がどっと押し寄せてきた。体が重い。俺はそのまま布団に倒れ込み、意識を失った。




 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン………。


 激しく連打されるインターフォンの音で、目が覚めた。一体誰だ、うるさい。

 居留守を決め込もうと思ったが、インターフォンがうるさ過ぎて再び寝ることができない。俺は、訪問者を迎えるべく立ち上がろうとして倒れた。体がまだ起きていないようだ。少しの睡眠だったからだろう、疲れも全然取れていない。よく今まで、こんな体で働き続けたものだと思う。

 動きの悪い体を引きずり、玄関へ向かう。壁に体を預け、擦りながら起き上がると、鍵を開けた。


 ガシャン!


 ドアが思い切り開けられ、チェーンが引っかかり、途中で止まる。


「いたなこの野郎、勝手に休みやがって!」


 そこには、鬼の形相の上司が立っていた。そういえば電話口でうちに来るとか言っていたな。ドアの隙間から、これでもかと罵詈雑言を浴びせてくるが、疲れのせいか朦朧としてまるで水の中から声を聞いているように、ぼんやりと聞こえる。

 そして、そのまま力が抜け、ずるずると壁伝いに座り込んでしまった。視線も下に落ちていく。そして、はっとした。


 足元のドアの隙間から、赤い影が見えた。


 油断していた。すっかり影のことなんて頭から抜けていた。今朝の行動から、今のあいつは、自ら掴みに来る可能性がある。早くこの場から逃げなくては!

 しかし、意思とは別に、体が言うことをきかず、その場から動くことができなかった。そして、隙間から伸びてきた赤い影の手に足を掴まれてしまった。視界が赤くなる。



 疲れた。休みたい。何で僕だけ。俺の思い通りにならない。誰も私のことを分かってくれない。死にたい。何で生まれてきたんだ。生んでくれなんて頼んでない。この仕事は向いてない。何で働かなきゃいけないんだ。さぼりたい。上司のくず。使えない部下だ。またあいつの尻拭いかよ。社長って座ってるだけだな。役員ってそんなに偉いのかよ。今日も顧客が取れなかった。早く定時にならないかな。今日も残業かよ。何で有休取らせてくれないの。勝手に休みやがって。また遅刻かよ。自由に休ませてくれよ。早退とはいいご身分だ。社長出勤かよ。家に帰ったら夕飯作らなきゃ。子育てと仕事同時はしんどい。このままじゃ離婚だ。給料下げられた。管理職って損だよな。あいつの採用は失敗だったな。なんだよこの会社。ホワイト企業って存在するの。机汚いな片付けろよ。あいつと話したくないんだよな。部署移動とかふざけてる。仕事できないあいつが昇格。早番だるいな。遅番生活リズム崩れるんだよね。挨拶もしないのかよ。ありがとうすら言えないの。最近の若いのは。あれはただの老害だな。スマホの電源切れた。常にメールチェックしろよな。ワンコールで出ろよ。取引先に謝罪に行くの嫌だな。値切られたよ。高いんだよあの商品。資料誤字だらけじゃん。一から教えるのかよ。これくらい覚えろよ。これで何度目。頭悪いな。できるとか思っちゃってんの。話聞いてないのかよ。進捗考えろよ。帰らせてくれ。まだ終わってないの。帰れよ。声がうるさいんだよ。もう飛び降りようか。私のこと見てくれてる人いるの。無視かよ。鬼電やめろ。こっちの気持ちも考えてよ。お酌しなきゃいけないの。上司の隣は嫌だなあ。お局うぜー。誰だゴミ捨てたやつ。ヤニ吸いてえ。遊びに行きたい。まだ水曜だよ。休日出勤かよ。手当出ないの。キモイんだよ。こっち見んなよ。近づくな。好かれたくないんだが。世界滅びないかなあ。汚い手で触るなよ。動き始めるの遅え。何考えてんだ。


 掴まれたところから、誰かの感情が昇ってくる。冷たくて痛くて気持ち悪い。これが負の感情というものなのだろうか。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 ――明日こそ、労基に訴えてやる…。


 俺の意識はそこで途絶えた。





 目を覚ますと、視界が白一色だった。そして消毒液の匂いがした。自宅でないことは明らかだ。

「目を覚ました!先生、目を覚ましました!!」

 騒がしく部屋を出て行った。体が動かない。首も動かせない。ただ天井だけを見つめて音だけで周りの状況を把握する。

回らない頭で声の主を思い出す。あの声は…俺の母親か。

「あんた三日も寝てたのよ!」

「お母さん、まだ起きたばかりですから、落ち着いて、触れないで」

 顔を覗かせ視界に入ってきた母親を、白衣の男性が制する。もしかして、ここは病院か?つまり俺は生きているのか。影に掴まれたのに生きているのか。

 影に掴まれた時に流れてきたのは、仕事をしている人の負の感情だろうか。意識を失う直前に聞こえた言葉は、確かに、俺が毎日呟いていた言葉だ。影は、働いている人の負の感情を溜めこんでいるのだろうか。

 正体が分からない存在だけに、憶測の域を出ないが、過度の労働で苦しんでいる人の感情が、同じ状況の人を助けようとしているのかもしれない。働きすぎな人に警告をしているのかもしれない。

俺は警告を無視して働き続けたために、執拗に影がついてきてしまった。もし、うまく立ち回り、影に触れられずに働き続けていたら、俺は過労死していたかもしれない。そう考えると、ぞっとした。


 ――そうか、生きてるのか。


 死んでいたかもしれない。でも、生きている。生を実感して、なぜか涙が出た。





 俺が意識不明で入院したことで、労基の監査が入り、労働法基準違反で通っていた会社は営業停止となった。同時に、社長や上司は、違法な労働環境、パワハラなどで、社員たちから集団で訴えられた。そして、それ相応の罰が下ったようだ。

 俺はというと、新しい職に就き、部下を持つほどにまでなった。しっかり休みを取れて、最大労働時間も決められているホワイトな会社だ。

 あれから影を見たことはない。

「いいか、影を見たら休めよ」

「え?何の話っすか。都市伝説?」

 営業先に向かいながら部下に言った。敬語は今一だが、素直に仕事と向き合うかわいい部下だ。

「いいや、何でもない。この会社にいる限り見ることはないだろうからな。忘れてくれ」

「何すかそれ」

 部下は笑いながら先に進んでいく。

「ちょっと待て」

「え、何すか?」

 俺に突然腕を掴まれ、部下は困惑した。

「そっちは方角が悪い」

「何すかそれ」

 部下が再び笑った。

 視線の先には、人が避けて行っている空間があった。あの体験以来、俺は人の寄り付かない空間は、意識して離れるようにしている。

「いいか、人は仕事をするために生きてるんじゃない、生きるために仕事をするんだぞ」

「出た、上司さんの座右の銘ですね。心得てます!」

 あの影に会い、俺は生きるということを大切にできるようになった気がする。

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