8-2


 とけかかってしまった理性の力を総動員して、なんとか足に力を入れて踏み止まろうとする。


「待って! わたしがここで行かなかったら、フォシアが――」

「方法なら他にもある。バーナードが要求してきたのは、清らかな身のご令嬢ということだろう。ルキアやフォシアでなくともいい。あるいはバーナード氏の力を借りなければそんなことをしなくてもいい」


 ほとんど即答する勢いでヴィートは言った。

 わたしは言葉を失った。あまりにも単純明快な、それゆえに現実には無理と思える答えだった。バーナード氏の要求だけ見ればそうだし、そもそもバーナードの力を借りないのならというのも尤もだ。――でも後者は現実的ではない。


 わたしの憂いと悲観を感じ取ってか、あるいは気づいて無視したのか、ヴィートはつかんだ手を緩めてくれない。


 けれどヴィートは嘘をついたことも、約束を破ったこともない。言葉少なにうなずいたり首を振ったりして意思表示をしていた少年の面影がよぎる。言葉のかわりに、彼は行動で示した――。


 わたしの手を引いて前をゆく彼の背を、焦がれるように見つめながら、かろうじて声を絞り出す。


「……フォシアが助からなければ、わたしは誰とも結婚できないわ」


 それは自分への戒めであり、最後の理性だった。このままヴィートと共に歩みたい――でもそのために妹の苦難を見過ごすことはできない。

 わたしを無条件に信頼する妹。常に比較されて落ち込むことがあっても、フォシアの向けてくる無垢な信頼があったから、わたしはまだ嫉妬に狂わずにいられる。

 フォシアを見捨てることなど決してあってはならない。


「わかってる」


 ヴィートはまた、端的に言った。わたしの心の声に応えてくれたみたいだった。諭すわけでも釈明するわけでもなく。

 そうして決然と続けた。


「俺はルキアをになんかさせない。絶対に」


 それはいままでに聞いたことのないほど強い宣言だった。

 つかむ手は強く、道を決して過たぬもののようにわたしを導く。

 わたしはなぜか困惑と疑いよりも先に――大きな安堵を感じて、気づけばヴィートの手を握り返していた。




 ――結果からいえば、わたしはヴィートのことを思った以上に知らなかったようだ。

 口下手だと思っていた彼が実は素晴らしい弁舌の持ち主であり、成長したのはその外見のみならず、人脈も同じであった。言葉が足らなかったのは元婚約者に対してだけで、しかもわたしなど目ではないくらいに友人が多かった。


 ヴィートの態度と弁舌が思いも寄らぬところで効果を発揮し、人を動かすというのも後になって知った。人が動けば大きな連鎖を巻き起こす。

 ――栄華を誇ったエイブラの失脚の発端をつくったのはヴィートであり、ヴィートにそこまでさせたのがひとりの女であったことなど、きっと歴史のどこにも記されないだろう。


 わたしは自分の子供に、あなたのお父様は昔とても口下手だったのよと教えてやるつもりだ。そしてお母様もそうだったのよと。

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