CASE-1 <2>
張り詰めていた呼吸をほんの少しだけ吐き出した。死体を見た経験が多いわけでもないし、いわゆるグロ耐性もほとんどない。もし中に入るように言われたら、どれだけ生活が苦しくなっても辞めてしまうところだった。
幸村はすぐ近くにあるCT室も併せて案内してくれる。ここはケンアンするところねと彼女は教えてくれるけれど、真生にはその「ケンアン」の言葉の意味が分からなかった。幸村に尋ねると、彼女は「私も詳しい事は分からないけれど」と添えながら説明してくれた。
「警察に通報があって、事件性はないけれど死因が分からないご遺体を、ここにあるCTで撮影して、どうやって亡くなったのかを診断するんだって」
死因が外傷によるものなのか、それとも病気によるものなのか。CTで撮影し、死亡時画像診断(Autopsy imaging:Ai)と呼ばれている手法で死因を確認する。そこで事件性が疑われた場合は解剖を行うが、検案だけで死因を評価することの方が多いらしい。
その後、ロビーに向かって大学の教務課、二階にある財務課や総務課などを案内してもらい、ようやっと法医学講座の事務室にたどり着いた。
「遅かったねぇ」
幸村がドアを開けようとすると、外から足音や声を聞いていたのか、中から老年の男性が先にドアを開けた。
「ついでに教務とか案内してたんで」
「そっかそっか、寒かったでしょ? 中、早く入りな。」
急に冷えたからね、と少し前かがみで、ヨチヨチと狭い歩幅で歩く男性。幸村に続いて真生も中に入っていく。事務室の中は思っていたよりも広かった。教員が二人、大学院生と秘書が一人ずつと聞いていたからもっとこじんまりとしたものを想像していた。事務室に入ると目の前には来客用のカウンター。その裏側に事務用の机が二つ。カウンターにくっつけるように、机が垂直に並んでいる。壁際にはぎっしりとファイルが詰め込まれた書棚がならんでいる。左側の壁には、さらにドアが二つ。壁には「堀田・秋森」「氷見」というネームプレートが貼ってある、それぞれの研究室なのだろう。事務室の奥はパーテーションで仕切られていて、そこには給湯室がある。
「千波君、こちらは法医学講座の教授である堀田先生。この講座のボス、一番偉い人」
「は、初めまして、千波です。どうぞよろしくお願いします」
真生が深く頭を下げると「いいからいいから」と優しい声が降ってくる。
「堀田です。よろしくお願いしますね」
「堀田先生、腰痛がひどくてここ数年は解剖にはあまり立ち会わないの」
「アレは立ち仕事だからね。ヘルニア持ちにはしんどい、その代わり、僕は自分の部屋で病理標本の鑑定をしています。大抵はずっといるから、何か困ったことがあったらすぐに相談してね」
堀田は自分の研究室を指さす。
「は、はい」
「でも、氷見先生がこんな若い子を連れてくるなんて思っても見なかったよ」
堀田は近くに会った椅子に座った。真生は幸村にハンガーを渡されて、ジャケットを脱ぐように促された。真生は脱いで給湯室の近くにあるハンガーラックにかける。
「私もびっくりしました。氷見先生が急に『新しい事務員決まったよ』って言って、しかもまだ学生だって言うんですもん。千波君、氷見先生とどこで知り合ったの?」
真生はとっさに言葉を濁した。堀田は「学生さんか、若くていいね」なんて言いながらゆっくりと立ち上がった。腰のあたりをずっと擦っている、よほど腰痛がひどいに違いない。
「じゃあ、さっそくパソコンを立ち上げてもらって。私、今日午前で帰っちゃうからまずは簡単な事だけ教えちゃうね」
「はい!」
真生はふと、ここに来てからほとんど「はい」しか言っていないことに気づいた。
幸村はざっと仕事の概要だけを説明していく。詳しい事はのちのち、後はマニュアルも作ってあるから確認しておいてと付け加えて。真生は先日100円ショップで買ったメモ帳を使って幸村の言葉をメモしていく。仕事に行くならメモ帳が必要だ、と、ある人が真生に教えてくれた。早速役に立っている。
仕事の内容は、鑑定書を作ることだけじゃなかった。先ほど案内してもらった大学の教務課や財務課などから来る書類の対応、講座宛に送られてくるメールの確認や返信。遺族や保険会社からくる死体検案書発行の依頼や先生方のスケジュールの管理。そして備品の購入など。メモ帳はもう何ページも埋まっていく。
特に電話はかかってくるたびにヒヤリとしてしまう。今は幸村が全部出てくれている。幸村が帰った後、とりあえず今日は「担当者が不在なので明日折り返します」と言って、電話番号を聞いておいてと言われた。それもメモしておく。
「……鑑定書は今から始めたら中途半端になっちゃうから、明日以降教えるね。ところで、気になっていたんだけど」
幸村が真生の手を、正確にはまだ身につけたままになっている手袋を指さした。
「手袋は脱がないの?」
とっさに言葉が出なくて、真生は口ごもる。その様子を見て色々察してくれたのか、幸村は「まあ、いろんな人がいるもんね」とそれ以上追及することはなかった。真生はほっと胸を撫でおろす。理解はしていないけれど、ずっと真生が手袋をしていることに納得してくれて良かった。脱げと言われたら、その場で仕事を辞めなくてはいけないところだった。
話を聞いている内に昼休みの時間になった。幸村は病院の診察があるから、と言って先に帰ってしまう。事務室で一人取り残される真生、時計の秒針の音と緊張し続けている心臓の音が重なっていくような気がしてきた。何か起きたらどうしよう、そんな不安ばかりが渦巻いていく。それでもお腹は空いていたから、真生はリュックの中からラップに包まれたおにぎりを取り出す。今朝、自宅で握ってきたおにぎり。味付けは塩だけ、ごくシンプルなもの。
「千波君」
突然声をかけられて、真生は驚きのあまりおにぎりを落としそうになってしまっていた。そうだった、一人ではないんだった。堀田は真生が驚いているのに気づいて、笑いながら「急に話しかけてごめんね」と詫びる。
「若い子がそれだけで大丈夫? ほら、これも食べなさい」
堀田は真生の事務机にチョコレートを置く。
「給湯室にはお茶とかコーヒーだけじゃなくて、カフェオレとかココアとかもあるからね。全部講座の経費で買っているから、遠慮しないで飲むんだよ。マグカップがないなら、紙コップを使ってくれても構わないし」
「あの、ありがとうございます」
「いやいや、気にしないで。……それにしても、氷見先生も秋森先生も遅いね」
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