CASE-1 <1>
気づいた時、真生は真っ暗な空間の中にいた。あたりを見回す。ここに来るのは初めてじゃなかったけれど、いつも「ここは一体、どこなのだろう?」と思っていた。そうだ、と真生はあることを思いつく。ここは、児童養護施設の催しで以前行った映画館に似ている気がする。その事を思い出した瞬間、この空間は映画館そっくりに形を変えた。座席が折りたたまれたシートがずらりと並んでいる。観客は彼一人しかいない。席だって選び放題だ、真生は迷うことなく最前列のど真ん中の席に座った。この前みんなで映画館に行った時は端っこの席がチケットで指定されていて、映画が見えづらかったから。まだ幼い真生は、最前席にはちょっとした憧れを抱いていた。
見上げると、真っ白で大きなスクリーン。真生が席に着くとすぐにシアターの中は暗くなり、スクリーンに映像が投影される。
映し出されたのは、目をつぶりたくなるような凄惨な暴力のシーンだった。男の人が女の人の髪の毛をひっぱっていて、何度も何度も背中を踏みつけていた。女の人は裸で、痣が背中にたくさんある。痛そう、怖い、と視線を逸らそうとしたけれど、真生の体はちっとも動かない。瞬きすらできない。
真生はどうしてこんな所にいるのだろう、とスクリーンを見つめながら思った。僕は今施設で、カウンセリングを受けていたはずなのに……カウンセラーの先生の手を握るように言われて、それに触れた瞬間ここに来ていた。
その時、真生はハッと気が付いた。今目の前で映し出されているスクリーン上の女性は、さっきまで目の前にいたカウンセラーであることに。とっさに彼女から手を離すと、彼の意識もちゃんと【施設】に戻ってきていた。
そして、考えるのも恐ろしい事にも気が付いてしまった。もしかしたら、自分が誰かに触れてしまったら……触れた相手の【記憶】が見えてしまうのかもしれない。真生は今見たものが真実なのか、恐る恐る、カウンセラーに聞いた。その真生の言葉にカウンセラーの顔がどんどん青ざめていって、終いには甲高い叫び声をあげていた。
***
令和6年10月1日(火)。
真生の頬に触れるのは晩秋の乾いた風ではなく、まるで初冬の冷たい空気だった。小さなとげで刺されたかのようにピリピリと頬が痛んで、真生は首をすくめた。昨日一昨日と振り続けた冷たい雨のせいで、冬の気配がすぐそこまで近づいているような気がした。天気予報では例年にはない寒気が北海道を覆っているとアナウンスしているけれど、彼はそんなものを見ていなかったから今日の最高気温なんて知らないまま外出してしまった。地下鉄駅の出口に立つ真生は、マフラーを巻いて来るんだったと少し後悔をして足早に歩き出す。まだ10月になったばかりだからと油断していた。
足元には雨の重みで落ちてしまった色づく前の葉が落ちていて、踏み出すたびに冷たい水がしみ出してくる。足の裏から伝わってくるそのじゅわっとしみ出してくる感触ですら寒くて仕方がない。彼は白い手袋をした手を、寒さをしのぐようにジャケットのポケットに突っ込んだ。歩き出すと、男性としては少し長めの髪が冷たい風になびいていく。散髪に行くのも面倒だし、なによりお金がもったいなくて伸ばしっぱなしにしている髪は、少しでもきちんとしているように見えるように今日はゴムで結んでみた。客観的に見た目が良くなったのかは自分では分からない。でも、これから初めての場所に向かう。さすがの真生だって気を遣うし、昨日からずっと緊張したままだった。心臓はまるでドラムロールみたいに脈打ち、緊張しすぎたせいか何だか吐き気もある。
始発地点の新さっぽろから地下鉄に乗り、大通駅で降りる。札幌市の中心部にあり、シンボルでもあるテレビ塔に最も近い出口が最寄りだと真生に【この仕事】を紹介した氷見という人は行っていた。テレビ塔を背にするように前へ進み、真生は創成川を越えて東側へ向かっていく。すぐにクリーム色の壁のような大きな建物が見えてきた。あれが北海道中央医科大学。今日から真生は、この大学にある【法医学講座】で事務員として働くことになっている。正門に近づくと、大通駅の一つ手前であるバスセンター駅の出口がその目の前にあった。真生はそれを見て、損をしたとがっくりと肩を落とす。あの氷見という人は間違ったアクセス方法を真生に教えたらしい。バスセンター駅で降りれば、大通駅より片道で40円も安いのに。氷見の指示を思い出しながら、げんなりと頭を垂れて研究棟に向かっていく。その玄関のあたりで、遠目から見ても妊娠していることがわかる女性がストールを巻いて立っていることに気づいた。
「あ、君が氷見先生の紹介の子?」
真生が落ち葉を踏みながら近づくと、その音のおかげか、相手の女性もすぐに気が付いた。その言葉に真生が頷くと、30代半ばくらいに見える彼女はにっこり微笑む。
「私、幸村って言います。これからよろしく……と言ってもすぐにいなくなっちゃうんだけどさ。私の後、よろしくお願いします」
「千波、真生です。よろしくお願いします」
「それじゃ、先に学校の中を案内してから事務室に行こうかな、こっち」
真生は幸村の後をついて歩く。彼女はじきに産休に入る、法医学講座の秘書。真生は彼女が不在の間の代替要員として採用された。採用、と言っても氷見の独断みたいなものだが。
「先に解剖室でも見に行こうか。研究棟1階の奥に法医解剖室があります。こっち」
薄暗い廊下の向こうから幸村が手招きする。
「今解剖中だから、大きな音立てないでね」
「……はい」
その言葉は真生の体を緊張で強張らせていく。幸村が鍵を開けて大きな扉を開けると、今まで嗅いだことのない臭いが鼻腔に突き刺さっていく。硫黄の臭いに少し似ているが、何の臭いなのか、真生には見当つかない。なんだか不快で、あまり吸い込みたくない臭いだった。真生は深い呼吸をしないように、胸のごく浅いところで息を繰り返した。廊下の突き当りには両開きのさらに大きな扉。裏口の駐車場と直接つながっていて、そこから警察がご遺体を搬入するのだと幸村が教えてくれる。そして、大きな窓のある引き戸の前で二人は立ち止まる。耳を澄ますとカメラのシャッターの音が聞こえてきた、真生が覗き込むと青いビニールのエプロンやゴーグル、大きなマスクで身を覆う人々が忙しなく動いているのが見える。その中央に、氷見が立っていた。ぼそぼそと話している声が聞こえるが、その内容までは聞き取れない。
「今、氷見先生が執刀しながら所見をマイクに吹き込んで録音しているの。マイク、見える?」
言われてみれば、氷見の胸元に黒い虫のようなものが見える。あれはマイクなのか。
「それを聞いて、パソコンで書き起こして、体裁を整えて提出するのが鑑定書。私たちのメインの仕事の一つってわけ」
「あの、ここって、俺も入ったりするんですか? か、解剖中とかでも……」
真生が抱いていた不安を救うように、幸村はすぐに首を横に振る。
「たまに先生から忘れ物を頼まれることもあるけれど、ドアの手前においておけば大丈夫。私も執刀中は入った事ないから安心して」
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