変身

天使 幸

変身

「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気掛かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変っているのを発見した。」フランツ・カフカ『変身』より。


 息子の啓一が巨大なムカデになっていた。妻の葬儀の翌日のことだった。

 啓一は引き篭もりだった。朝の八時になると自室の戸を叩く癖があり、仕事を定年退職してからは、その鈍い打撃音が私の目覚まし代わりだった。しかしながらその日、目覚ましは鳴らなかった。私は十時を大きく回った頃に、瞼越しでもはっきりとわかるほどに眩しい日光のために目を覚まし——息子のただならぬ様子を感じ取った。彼の部屋へと続く扉を開けてみると、啓一のものと思われる黄ばんだ布団の上に、ムカデが横たわっていた。どうしてかはわからないが——その瞬間、私はそのムカデが啓一であるということをはっきりと知覚した。


 就職に挫折した息子が自室に篭るようになって間も無く六年が経つ。その間、息子が私と顔を合わせたことはおろか、私と言葉を交わしたことは一度だってない。故に私は——六年という歳月が、息子をどのように変化させたのか、私は知らなかった。見慣れぬ顔の脂ぎった中年男が、啓一の名を名乗り、啓一の声で私に父さんと呼びかけるところを想像するだけで鳥肌が立った。寧ろここにいたのが私のイメージしたような怪物ではなく、ムカデで良かったとさえ思った。


 ムカデは——私が扉を開けたがために、部屋に差し込んできた光を恐れるように体を捩り、のたうち回っている。私は何も言わずに扉を閉めると——自分がひどく腹をすかせていることに気づき、台所へと向かった。

 冷蔵庫の中に並んだタッパーの中から、煮物が詰め込まれているものを選んで手に取ると、私はそれを電子レンジの中に放り込み、仏壇に備える米の準備をしようと踵を返した。茶碗を持ち、背を丸める私の惨めな姿が、妻の遺影の表面に反射している。

 妻の胃癌が分かったのは、啓一が引きこもるようになった前だったか、後だったかと思い出してみようとするが、どうにもうまく頭が回らない。耄碌したかな、これだから年は嫌だと自嘲してみるも、写真の妻が笑い返してくれる様子はない。胃癌が治ることなく死んでしまった妻。最後の四年間は家に帰ることも叶わず、ほとんどを病室で過ごした妻。

 私は妻の遺影の表面をなぞる。もしこの場に妻がいたら、啓一をどうにかしてくれていただろうか。或いは、啓一があんな風になるより早く、彼を外の世界へと連れ出していただろうか。

 

 電子レンジの軽快なベルの音で、私ははっと我に帰る。慌てて煮物を取り出し、食卓に並べた。茶碗にご飯をもりつけたところで、啓一に食べさせるものを用意していないことに気付いた。

 今までは——私の作った料理や、スーパーなどで適当に買ってきたカップラーメンを扉の前に置くことでなんとかなっていたが、しかしながら啓一があのような体になった今、そういうわけにもいかないだろう。

 しかしどれだけ考えても、啓一に食事を与える適当な方法が思い浮かばず、私はますます狼狽した。ひとまず、今日のところは私の朝食の残りを与えてみよう。皿を手に取り、タッパーの中に満ちている煮物のうちの半分をその中へと移し替えた。

 タッパーの中には相変わらず、ほとんど液体と変わらないような容貌の煮物たちが燻っている。私はそれを白米にぶっかけると、半ば流し込むようにしてそれらを一気に口にした。味気ない。妻の作ってくれた料理には、到底叶わないだろう。


 汚れてしまった皿もそこそこに、私は立ち上がると未だ湯気の立ち込めている皿を手に取り、再び啓一の部屋に向かった。引き戸を開ける。ベタベタとしたものが指先に触れ、私は一瞬顔を顰めたが、それが、部屋を内側から密閉するために、啓一が過去に扉に貼り付けたガムテープによるものだと気付くと、すぐにその相好を崩した。

 遮光カーテンのためだろうか、真昼間だというのに、啓一の部屋は酷く薄暗い。それゆえに、ぬらぬらと黒光りする啓一の体は一際異様なもののように思えた。

 恐る恐る、歩を進める。今、足先に触れたものはペットボトルの空き容器だろうか、それともカップラーメンの空き容器だろうか。気にはなるが、かといって気にかけている余裕はない。布団の上で、あいも変わらず蠢いているそれをみとめると、私はそっと口を開いた。

「啓一、ごはんだぞう」

 声が震えていた。啓一は私の呼びかけに応じたのだろうか、動きを止めると、にわかに上体を起こして私を見た——何でもムカデには、目に対応する器官がないそうなので、私のその表現は間違っているのかもしれないが——私はその刹那、確かにと感じたのだ。鮮やかな赤い触覚が私の胸元に触れる。二本の牙をたたえた顎が静かに震えている。そのあまりに鮮やか過ぎる色が、却って目に痛かった。

「ここに、おくからな」

 屈み込み、布団のすぐそばに皿を置くと——私はさながら逃げ出すようにして啓一の部屋を後にした。薄い扉越しに、陶器の皿と何かとが触れ合う音が聞こえてくる。私は壁に身を預けるようにしてその場に蹲った。


 私は仏間に座り込むと、妻の遺影の陰に隠すようにして置かれたエコー写真に気付き、深い溜息を漏らした。一昔前の特撮映画に出てくる、蜥蜴の怪物のような姿を湛えたそれが、この世に生まれ落ちてくることはなかった。私の娘になるかもしれなかった、或いは啓一の妹になるかもしれなかった胎児。彼女は人間らしい姿を手に入れるより早く、命を落としてしまったのだから。

 全ては、私が仕事に行っている間に起こったらしい。その日——妻は自らの下着に赤いものが付着していることに気がついた。それが仮に垂らしたインクのように細々としたものだったならば、妻もさして気に留めなかったのだろう、しかしその時は——量が尋常ではなかった。クロッチ部分を塗りつぶす事がまるで自らの使命であるかのように、ねっとりと絡みついている。妻はすぐさま産婦人科を受診した。脂が額に浮いた医者は、子供が死んでしまったことを妻に、酷く無機質な声で伝えたのだそうだ。

 胎児の輪郭を指でなぞる。もし彼女が無事に生まれてきていたら、私とともに、突如として変貌してしまった兄に戸惑い、彼の世話の方法に悩んでくれていただろうか。それとも、さながらカフカの『変身』に登場するグレーテのように、彼を殺すことを選んだだろうか。そういえば、あの小説の中で——主人公の父親は、最後、主人公をどうしたのだっただろうか——。

 馬鹿な考えを振り払うように、私は頭を横に振る。妻の遺影と目があった。まるで空っぽになった頭蓋を満たすかのように、昨日のことが脳裏によぎる。妻の葬儀がはじまる直前まで、私はこの家にいた。そして扉越しに——啓一へ呼びかけていた。

 はじめはできる限り穏やかな口調で、お前の母親が死んだこと、そしてその葬式があることを伝えていたが——一向に啓一が何かしらのリアクションをとっている様子は見えず、次第に苛立ちが募っていった。啓一の名前を呼んだ回数が二十を超えたときにはすっかり怒髪天に達していて——どうせ返事が返ってこないことを理解していながら「お前の母親の葬式なんだぞ、出ないやつがあるか」「母さんが成仏できなくなってもいいのか」などと、扉に向かって怒鳴りつけていた。しかしながらどれほどまでに理不尽な罵声を私が浴びせてもなお、私が予想した通り、啓一が声を発することは一度としてなかった。

 葬儀を終え、家に帰ってくる頃には、啓一に対する怒りはすっかり失せていた。しかしながら謝るのはどこか癪だったため、何か声をかけることもせず、簡潔な食事を取って、そのまま寝ぐらに潜り込んだ。

 その日の晩、私は奇妙な音を聞いた。——獣にも似た、低い唸り声だ。私はたまらず微睡んでいたのも忘れて飛び起きた、どうやらその声は隣の部屋から聞こえているらしい。隣の部屋というと、啓一が普段生活している部屋だ。

「う、う、う、う————」

 以前から、啓一が独り言を口にしたり、そして何かに対して当たり散らしたりすることは——そしてその声が隣の部屋で眠る私の耳にまで入ってくることはよくあったが、しかしながらその声は、日頃聞こえてくるそれらのものとは一線を画していた。啓一はそれから、およそ二時間ものあいだ——呻き続けた。居場所を追い求めるフランケンインシュタインのように、或いは無実の罪で幽閉されたモンテ・クリスト伯のように。悲しいのか、嬉しいのか、悔やんでいるのか、怒っているのか——。

 私はただひたすら、ベッドの上で恐れ慄くことしかできなかった。それが他でもない私の息子、啓一の嗚咽だということ——そして近所迷惑の観点から、少しでも早く息子を黙らせるべきだろうことは十分に理解していたが——しかしながら体が動かなかった。それを怪物の呻吟の声のように思い込んでしまう自分がいた。

 あの瞬間、きっと息子は自分には到底理解の及ばない、訳のわからない化け物になってしまったのだろう。私は仏間を後にすると、啓一が使った皿を回収するため、彼の部屋の戸を開いた。途端、部屋の中心に鎮座していたものが——部屋に突如として差し込んだ光を恐れ、逃げていくのが見える。私は置いた時と同じようにそろそろとした足取りで部屋の中を進むと、皿を拾い上げた。

 皿の底にはおそらくは煮物の残骸だろう茶色いものと、半透明の粘液が混ざり合い、奇妙な色を作っていたが、私はそれをものともせずに、顔を上げると、啓一の姿を探した。相変わらず、息子の姿は見えない。部屋の中からは絶えず何かが蠢く物音がしているので、息遣いから、彼がどこにいるのかを探ることさえできない。

 なんだ何も変わらないではないか、と——部屋の中を一瞥したのち、私は結論づけた。もとより顔を合わせることも、言葉を交わすこともなかったのだ。ただ少しだけ、かたちが変わるだけだ。

 パソコンのモニターがちかちかと点滅していた。私は「またな」とつぶやいて、後ろ手で部屋の戸を閉めた。私はきっと、未来永劫、彼に対して林檎を投げることはできないだろう。いつか彼の毒が自分を蝕むことになろうとも、彼が自らの周囲に厄災を振り撒く存在だったとしても。そんな情けない確信が、私の胸に満ちていた。(了)

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