45 「ルーベンさん?」
肩を竦めて嫌味を言うと「仕方無い」と、居間で仕事について詳細を聞いた。どうも明日から定期船に乗って見張りの任に就いて貰いたいらしい。
それだけを簡単に説明されると、ロヴィーサとの会話が途絶えた。この女王様は極力男と話したくないらしく、早々に追い出される事になった。
昼前で少しずつ明るくなってきた中、すやすやと寝息を立てているウィルを背負い、充てがわれた家に向かっていく。
背が高いだけあり意外と重たいその体をおぶり、充てがわれた崖上の家に向かう。明日からはここから港へ向かう事になるだろう。
ハンメルフェストの我が家よりもずっと広い家。
2階建てのこの家なら妻子ともゆっくり過ごせるし、アトリエだって持てるだろう。
ヒビの入っていない窓ガラスの外。すぐに止むかと思っていたが、強い風に乗った雪が一層降ってきた。
***
見渡す限り雪化粧をした山しか映らぬ街道を行くと、1つ2つと見覚えのある建物が現れて来る。
アストリッド・グローヴェンはそれを見てトロムソが近付いて来た事を知り、降車の準備を始めた。
数日馬車に揺られていると、頭も少し冷えて涙も引いた。悲しみはずっと瞼の裏に潜んでいたものの、今は馬車から日の出を楽しむ余裕もあった。
恥ずかしがり屋の子供のように中途半端に顔を覗かせる太陽を見ながら、あの金髪の魔法使いの事を考えていた。
あの時は錯乱しきっていた。
ウィルが嘘をついたのは事実だ。けれどきっと、ウィルは悪意があって嘘を吐いたわけではない。何かのっぴきならない事情があったのだ。そう思いたかった。
しかし、自分を追って来る気配が無い事を思うと、見捨てられたのかな、と瞼の裏が再び熱くなる。
「お疲れ様です! トロムソに到着しましたっ!」
街道に乗ったと思えば、馬車はもう本土の港の市場の近くに到着した。御者が大声で宣言し、車内のあちこちから疲れた、と溜め息が聞こえて来る。
「あ~疲れた~……お父さん。ほら行くよ」
途中宿泊した宿屋から乗ってきた父娘が、伸びをしながら馬車を降りていく。途中休憩した村で喧嘩していたが、何時の間にか仲直りしてまた笑い合っていた。他の乗車客も伸びをしながら思い思いの方向へ散っていく。
自分も降りようと思ったが、その前にカウトケイノから一緒だった女性の下に近付いた。数日一緒だった事もあり、世話になった礼を伝えるためだ。
「お姉さん! ご一緒出来て嬉しかったです。色々有り難う御座いました」
宝飾品の交易をしているという女性は、自分の呼び掛けに笑みを浮かべる。
「あらアストリッド、わざわざ有り難う。私も嬉しかったよ」
女性はそう言った後不意に口を噤み、自分の顔に涙の跡が無い事を確かめるようにこちらを見てきた後、ぎゅっと眉根を下げた。
「ねえ……お姉さん思うのだけど。嘘を吐かれても、その理由によっては嘘を許す事って大事だと思うの。だって、大好きな人じゃなきゃあんなに泣けないもの。手放したら絶対……後悔するわ」
ぽつ、と言われた言葉が何を指しているかすぐに分かった。カウトケイノで初めて声をかけられた時の事――ウィルの事だ。
この女性が言っている事は分かる。自分だってそれが出来たらどんなに素敵な事かと思う。
が、月が太陽を食べる時のようにじわじわと侵食してくるわだかまりが、あの青年を威嚇して止まないのだ。実は彼は冷たい人間なのではないか、自分の事はもうどうでも良いのでは無いか、と。
そんな気持ちを隠すように、にっこりと笑みを浮かべる。
「そうですね、覚えておきます。お姉さん、有り難うございます!」
女性は一度何か言いたそうに口をもごつかせ、結局何も言わなかった。
「じゃあ元気でね」と女性は言い、ようやく明るくなりだした市場へ向かう。その後ろ姿を見送り、自分も本島へ渡るべく港へ向かいながら、ただただレオンの無事を祈った、
やってきた本土との連絡船に早速乗り椅子に座る。海を走っているより待機している時間のが長いので何となく周囲を見渡し――見覚えのある体格の良い船乗りを見つけ目を丸くする。
金髪緑目で、精悍な顔に豊かな顎髭を蓄えた男性――ルーベンだ。
どうしてあの父親になったばかりの船長が連絡船に居るのだろう。自分もすぐにカウトケイノに行くと言っていなかったか。
この人は信用ならない。やっぱりこの人が自分達を売ったのだろう。
しかしもうそんな事どうでも良かった。カリンが無事な事くらいは伝えたい。
座ったばかりの席を立ち、追いかけるように冷たい風が吹くデッキに出た。
「……ルーベンさん?」
スウェーデン=ノルウェー連合王国の大きな国旗がぱたぱたと風にたなびく中、声をかけていた。
***
「ふう……」
同じ海の仕事ではあるが、貨物船と連絡船じゃ仕事内容も、働いている人間の性格も随分違う、とルーベン・ハンセンは思っていた。
トロムソ本島と本土の港で頻繁に積み荷を降ろしていた関係、新しい職場には見知った顔も多い。乗船経験のある自分を即戦力だと喜んでくれた。
しかしいざ実際彼らと話してみると、彼らはロンドンへの滞在経歴でもありそうな程紳士的で、上流階級が如く上品で。崖上の家に同僚を招待して酒を飲む事も叶わなさそうだ。
家の1階に寝転したウィルはもうずっと寝ているし、同僚は言ってしまうと物足りない。正直言うと暇だった。
家に帰ってもカリンへ手紙を認めるか、パイプタバコをふかしながら黙々とキャンパスに向き合うしか無く、それはそれで楽しくはあるもののつまらない。昼間は子供達が周囲で良く遊んでいて気も紛れるが、夜だとその声も楽しめない。
もしここがハンメルフェストの家だったら、カリンと取り留めのない会話をして笑いあえたろうに。
カリンの出産はどうなっただろう。妻が心配なのも心からトロムソを楽しめない原因だった。
そんな事を考えていた時。
「ルーベンさん?」
双眼鏡で周囲に障害物が無いかを見ていたら、聞き覚えのあるソプラノに話し掛けられた。
振り返ってみると、そこには白い三角巾を被った赤いロングヘアが印象的な少女が立っていた。一瞬だけ頬が強張ったのは、誰だかすぐに分かったから。
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