20 「船長がこんなところに居て良いんですか?」

「何で、何でよぉ……! どうしてやっちゃ駄目なのよぉっ! 良いわよ、お母様なんて! やっちゃうんだから! 私、私、ひっく、約束したんだからぁ!」


 気が付けば目から涙が溢れて止まらなくなっていた。泣いたら一層痛みが強くなった気がしてまた泣いた。

 自分が何を言っているのか分からなかった。一体誰と何を約束したのか思い出せない。ただ自分が凄く混乱している事だけは分かった。


「泣くくらいなら止めなさい、馬鹿っ!」

「う、ううぅっ嫌だぁー! わ、私はピアニストになるのーっ!!」


 それからの事は良く覚えていない。大声で言い争っている内に、いつの間にか泣き疲れて眠ってしまったからだ。

 母は翌日から人が変わったように自分の行動に口を挟むようになった。

 通っていた学校を辞めさせられ、以降は家庭教師が勉強を教えてくれた。事あるごとに「音楽はやるな」と言って来るようになったので、夢を曲げない自分と良く喧嘩をするようになった。

 夢を否定されるのは辛かったし自分も反抗ばかりしていたが、心の隅ではまた笑い合いたかった。

 だって、母親なのだから。


***


 眠くなったのも突然だったが、パチリと目が覚めたのも突然だった。


「あれ……?」


 暗い――のは冬の朝だし当然だ。床が揺れているのも海上だから納得出来る。が、何かがおかしい。

 その違和感の正体にはすぐに気が付いた。隣で眠っていた青年の姿が無いのだ。

 昨日の出来事が夢だった……なんてわけはない。飛び起きて、硬い床で寝ていた為に生じる痛みを節々に感じながら、不思議な事に誰ともすれ違う事なく甲板に駆け上る。

 扉を開け、空の明るさに驚いた。


「え、ひ、昼……?」


 遠くに映る雪化粧をした山の稜線も、どこかを目指して飛んでいる海鳥の群れも、甲板で座ってカードゲームに興じている船員達の笑いジワも――それに混じっている、今はフードを被っていない金髪の青年の姿も――日の光のおかげでハッキリと分かる。

 この時期日が出ているのは昼の数時間のみ。

 昨夜は日付が変わる前に寝た。ウィルがコーヒー豆にかけていたのは7時間は眠るという魔法。計算が合わない。


「ウィル!」


 口を突いて出たのは、つまみ食いを企んでいた自分を叱った時のロヴィーサのような声。その声の鋭さに、ウィルが見るからにビクついた。


「倉庫に居ないから心配したのよ!」


 船乗り達が野次を飛ばす中かつかつと甲板を歩き、カードゲームの輪に歩み寄る。


「すみません、起きたら隣で貴女が良く寝てて! 気恥ずかしくなってしまって……倉庫に居られなくて」

「それに今って昼なの!? 聞いていた話と違うのだけど! もしかして騙した!?」


 ギシギシと甲板の床を軋ませながら弁明する青年に詰め寄る。ウィルの声よりも、周囲から聞こえてくる笑い声の方が大きかったが気にならなかった。


「だ、騙してません! 騙すわけがありません!! それ以上に貴方が良く寝ていたって事です。えーっと、ですから、お早うございます?」


 語尾を上げてこちらを見返す碧眼は陽光を反射していて綺麗だった。それを見ていると怒っているのも馬鹿馬鹿しく思えて来るし、どうも非は自分にあるようだ。「……お早う、ごめん」と返した後はこの青年を責めなかった。

 すぐにウィルはカードゲームの輪に戻っていった。どうもロシア人の通訳をしながら遊んでいるらしい。


「寝起きから元気だな、お前を起こさなかったウィルは紳士じゃねーか。ああ、恋人に置いてかれて寂しかったのか?」


 船の塀に背を預けて座り、イーグルに載せた麻布のキャンパスに何か描いているルーベンが、こちらを見る事なく冷やかす意図しか感じられない声をかけてくる。ルーベンも今は帽子を被っておらず、光を受け蜂蜜のような金髪を露わにしていた。

 寂しかったと言われて胸がざわついたのを隠すように、つんと返す。


「船長がこんなところに居て良いんですか?」

「船乗りが四六時中舵を握ってると思うなよ。陽が出てんのに部屋に居るなんざ勿体ねー、お前もノルウェー人なら分かるだろ。船乗りの午後は休憩時間なんだよ」


 当たり前のように返しながらも、帽子を被っていない以外は相変わらず厚着のこの船長が、イーグルから顔をあげる事は無かった。


「……?」


 何を描いているのか気になって覗き込む。

 まだ着手し始めたばかりのようで木炭による素描しか描かれていないが、それでもわっと感嘆の声が零れた。キャンパスには、室内で椅子に座っている伏し目がちの妊婦が描かれていたのだ。

 単色ながら瑞々しさを感じる女性は30代後半と言ったところ。物の少ない寂しい部屋だったが、微笑を浮かべながら己の膨らんだお腹を撫でている様は、聖母マリアを描いた絵画のように慈愛に満ちている。

 この絵を描いたのが、目の前の意地悪な船長だとは信じられず何度も瞬いた。素描時にこれだけ描けるのなら、完成したキャンパスにはどれだけの世界が広がるのだろうか。


「もしかしてお嫁さん、ですか? 綺麗な人ですね。見なくてもそんなに詳細に描けるんですか? 凄い……え、もしかして有名な画家だったり、します……?」


 耳に届いた言葉に気を良くしたのか、珍しくルーベンに笑みが浮かんだ。頬も持ち上がり、緑色の瞳がこちらを向く。


「そう言ってくれんのは嬉しいがまだ無名だよ。ハンメルフェストの教会に宗教画を幾つか置かせて貰っているだけさ。……まあ本当は船になんか乗らず筆で食っていきたいんだ。産まれて来る子供にもそっちの方が良い暮らしをさせてやれる」


 近くにいる船員達に憚ったのか声を潜めたルーベンは、少年のように笑った後再びキャンパスに視線を落とした。確かに、パトロンの目に留まればヨーロッパを沸かす画家にだってなれる可能性は高いだろう。


「そのためには、どこの家の窓ガラスにもヒビが入っている貧乏なハンメルフェストじゃなくて、トロムソに住みてーんだ。トロムソのがまだパトロンが見付かりそうだからな……北部ノルウェーからはどうも出る気がしねーんだ」


 ルーベンはそこで話を終わらせた。

 イーグルを持って立ち上がり「交代の時間だ」とぼやいた後船首へと歩いていく。その表情はどこか照れ臭そうで、自分が数日の付き合いだからこそ打ち明けてくれたのが分かった。

 それとほぼ同時に背中から一際大きな歓声が上がり、カードゲームに興じていた船員達も散り散りにどこかに消えていく。先程まで多くの船員達が休憩していた甲板には、今や自分達や船首に居るルーベン達の計5人しか居ない。


「ウィル、おはよう。さっきはごめんね」


 負けたのだと分かるくらい項垂れていた青年に声を掛ける。

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