19 「待って、豆を飲むの? それで煮出しちゃ駄目?」

 話し終えた後ウィルはコーヒーに口をつけ目を伏せた。


「コーヒー、美味しいです。……誰かが淹れてくれるコーヒーを飲むなんて、何時ぶりだろう」


 そうどこか寂しそうに呟き、船酔いが治まったらしい青年はコーヒーを飲み始めた。なんて声をかけて良いか分からず、結局口から出たのは無難で可愛くない言葉で。


「コーヒーくらいまた淹れてあげるから」


 ついつい語気が強くなる。こんな事を言いたい訳ではないのに。

 しかしそんな言葉でも、ウィルの頬を緩めるには十分だったようだ。


「有り難うございます、貴女に言われると嬉しいですね。楽しみにさせてください」

「そう。はい、じゃあ夕食食べましょう」


 またしても素っ気なく返し、視線を板張りの床の上に落として食材を取り分けた皿を相手に渡す。「有り難うございます」とウィルが受け取るのを見て、自分もコーヒーを飲み夕食を始めた。

 皿の上を平らげコーヒーも飲み終えて器具の返却も済ませると、体は疲れているのに目が冴えるという久しぶりの感覚に襲われた。その感覚にふっと思い至る。


(……どこで寝よう)


 8番庫は大きくない上ウィルもいる。ウィルが扉から出入りする可能性も考慮すると、扉の前で横になるわけにもいかない。

 少し考えた後ウィルの隣で寝転がる事にした。野犬に強気に出れないこの青年が狼になるとは思えない。想い人も居るようだし、何より人体魔法で眠るという。問題無いだろう。


「ウィル、寝よっか。起きたらもう海上なのよね」


 今まで何回も魔法の凄さを目の当たりにしているものの、人体魔法とやらを使われるのは初めてだ。不安もあって、そろそろと金髪の魔法使いの様子を伺った。


「そんな顔しないで下さい。アストリッドに害は無い魔法ですので安全ですよ。……魔法と言うのはちょっとした物にも込められるんです。魔法使いがやっていないので大して効果はありませんが、護符がその良い例です。護符自体、魔法使いが物に魔力を込めているのを見た人間が模倣して出来たんですよ」


 護符の成り立ちを説明しながら、ウィルは床板の上をまさぐり数粒のコーヒー豆を取り出し――いつの間にか数粒拝借していたらしい――大きな掌の上に乗せる。

 立ち上がって扉の前から部屋の隅に移った数秒後、豆を板の上に戻すなり杖を抱えて座り直す。


「っと。人体魔法を込めたこの豆粒を飲んだ人は、7時間は眠れるようになります。だから貴女は眠れます。…………うん……数粒作っておいたので、これから眠れない日があったら使って下さい……お休みなさい……」


 言っている最中からウィルの瞼が落ちていく。先程までパンを頬張っていた青年の表情とは思えず、「えええ」と狼狽えてしまう。


「待って、豆を飲むの? それで煮出しちゃ駄目?」

「それ、だと……30分くらいですよ……やった事、あり……」

「!?」


 言葉途中にウィルの首から力が抜けた。どうやら眠ったらしい。

 瞬間頭上の火の玉が消え室内がランタンの灯りだけになる。


「もー突然ね……まあ仕方無いか」


 パタリと眠ってしまった子供を目の当たりにした母親の気持ちだ。

 この魔法使いは自分よりもずっと気を張っていてくれた筈。それに慣れない力仕事と船酔いもあった。力尽きて当然だ。

 細く見える肩に毛布を1枚かけふと思う。


(そういえば……ウィルは何時起きるんだろう?)


 あのコーヒー豆を飲めば自分は午前まで眠れるらしいが、当の魔法使いはどうなのかを聞いていなかった。数時間から数日と振り幅の大きい事は言っていたが、自分と同じ頃には起きてくるのだろうか。ハンメルフェストに到着するまで寝ていると言う事も有り得なくはない。


「まあ大丈夫でしょう……」


 いざとなったら叩き起こせば良い。

 三角巾を外しながら、たった半日で随分環境が変わった事に思いを馳せた。まさか今晩床板の上で夢を見る事になるとは思わなかった。今頃屋敷ではどんな話をしているのだろう。

 さてと、と初めてコーヒー豆を丸ごと飲み込む。苦いし違和感がある。


「うわあ……」


 春の陽気に当たっている時のような眠気はすぐにやって来た。

 魔法凄い、と隣の青年を視線で褒める間もなく意識が薄れ――懐かしい、とても懐かしい夢を見た。


*** 


「きゃっ!?」


 バチンッ! と言う音と鋭い痛みに、頬をぶたれたのだと分かった。

 何故、いきなり。

 先程まで、母――ロヴィーサは笑顔で自分の話を聞いていてくれていたのに。頭が真っ白になった。


「っ……お、お母様……?」

「何馬鹿な事を言っているの!?」


 震える声を遮る怒声。鼓膜を突き刺す母の声を聞いたのも、母に手を上げられた事も、11歳のアストリッドには初めてだった。


「音楽なんてやっては駄目よ! 絶対駄目! 許さないわっ!!」


 良く怒る事で有名な学校の先生よりもずっと恐ろしい表情。じんじんと痛む頬が、自分が母を怒らせる事をしてしまったのだと教えてくれた。

 ピアニストになりたい、と今日気付いた事を話しただけなのに。普段は笑って自分の話を聞いてくれるじゃないか。なのにどうして今日はぶつんだ。

 そんなに、そんなに変な事を言っただろうか。自分の夢はそんなに悪い事なのか。

 頬を涙が伝ったのは痛かったからだけではない。


「なん、で……?」


 唇から零れた声はショックで震えていた。


「そんなの何だって良いでしょう、なんでもよ! 娘なら母親の言う通りになさい!」


 眉を吊り上げ到底納得出来ない理由で怒鳴ってくる母親とは反対に、頭の中が落ち着いて来た。頬はまだ痛かったが、その痛みが背中を押してくれた。

 一度深く息を吸い気持ちを落ち着かせ――母親に歯向かうのだと覚悟を決める。生憎とここで大人しく頷く性格では無い。


「嫌……嫌よ! 殴るような人の言う事なんて聞ける物ですか! お母様が嫌でも私は絶対ピアニストになるの! さっき、夏至祭でそれに気付いたのっ!」


 が、反論の言葉に母の表情が見る間に険しくなっていく。


「お黙りアストリッド、とにかく駄目ったら駄目っ!」

「きゃっ!?」


 再びバチンッ! と鋭い音が朝日の射し込む部屋に広がった。じわじわと頬が熱を帯びていく。2回も殴られるとは思っていなかった。

 悲しかった。何故母はこんなに怒るのか。

 ただただ悔しかった。それでも反抗しようと思って顔を上げ気付いてしまった。

 ――こちらを見る母が、どこか怯えたような顔をしていた事を。

 初めて見る母の表情。

 それが訳も分からず寂しかった。自分の知らない母なんて存在しないと思っていたのに。

 そう思った瞬間、感情が弾けた。

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