10 「ほら、レオン苦しそうでしょ」
立ち上がり、暗闇で良く見えない顔を見上げる。月明かりを遮る森を今程もどかしく思った事は無い。
「すみません、俺は大丈夫です。森の中に野犬が居て追い払っていたんです。怖かった……」
「確かに怖いけど情けないわね! 魔法を使えば一発で追い払えたでしょうに」
「すみません、動物に魔法を使いたくなくて……町なのも抵抗がありますし。少しだけなら外しても大丈夫かと」
耳が垂れた犬のような目で謝ってくるので、こちらとしてもこれ以上何も言えなくなった。確かに動物に魔法は危険だ。
「……もーなら浮いて乗り越えるとかあるでしょ。普段どうしてるのよ」
「普段は人の目が無いので、背より高い火の壁を出して威嚇するんです」
「ご、豪快ね、魔法使いって……まあ大丈夫だったし貴方も無事で良かったわ。ねえ、大変な事になったの! リーナが私が地下牢に居ない事にもう気付いたのよ! 今は少し時間があるようだけど、きっとすぐにでもお母様が私を探し出すわ」
切々と訴えた内容に、ウィルが息を呑んだのが分かった。
「それは……不味いですね、追いつかれては貴女の苦労が水泡に帰す。では早く港に行って逃げましょう。幾ら森の中とは言え、何時までもここに居ては危険です」
青年は言い終えると犬のように頭を振ってフードに積もった雪を払う。
「急いでくれるのは嬉しいけど、駄目……! こうなっては船で南下するのは不味いわ。リーナ達も南下するでしょうから、クリスチャニアで鉢合わせる可能性も高いし、人伝てに見付かる可能性も高い」
「では、どうします?」
「時間が掛かるけど、徒歩で東の国境まで行ってスウェーデンに入ろう。そこからは長旅覚悟でストックホルムまで歩くしかなさそうね」
隣国の名前を出すと、ウィルの口元がにっと持ち上がった。
「良いですね、令嬢が足に血豆を作るなんて誰も思いません。音楽の勉強、それだけ本気なのですね」
ええ、と大きく頷いた。今、自分の夢を肯定される事が心強い。
「でも1つ問題があるの。トロムソは島でしょ? 国境に行くには連絡船で本土に出る必要があるのだけど……万が一船内で顔見知りに気付かれたら不味いわ。私の家、定期船の運行会社に出資してるし……フードを深く被って喋らなければ大丈夫かしら。ああでも……うーん」
弱々しい声が漏れた。
そういった客は多いし、幾ら船内とは言え暗くて顔は見えない筈。しかしその間、10分程とはいえこの魔法使いに全てを任せるのは不安しかなかった。
「それなら俺にお任せを、俺がここに来た時と同じ方法が取れますから。その方法は後で話すとして、まずはここから離れましょう。アストリッド、港とは離れた海岸まで案内してくれませんか?」
「うん、着いてきて。……あ……」
本人が言うのなら大丈夫だろう、と頷きかけて一瞬躊躇した。
先程聞いたレオンの容態が気になったのだ。
ウィルに頼めば容態を探ってくれるだろうが、ここから離れた方が良いのも確か。今はそこまでしている時間は無さそうだ。
それに屋敷の人達は何だかんだレオンには優しい。今回だって大丈夫だろう。
「どうかしましたか?」
「……ううん、何でもない。さっ!」
小さく頭を振り、促すように黒いローブの裾を引っ張った。レオンの事は落ち着いてから改めて相談してみよう。
裾を引っ張られたウィルから「うわっ」と言う情けない声が聞こえてくる。よろめいていたもののすぐに体勢を立て直し、何事も無かったように一度咳払いをし着いてくる。
「じゃあ海岸に行きましょう。ランタンは無いけど安心して! トロムソの中なら目を瞑ってだって歩けるから、私に着いてきて頂戴。ややこしくなるから魔法は使っちゃ駄目よ? 強盗は勿論酔っ払いだって刺激しないでね?」
フードを目深に被ったこの魔法使いが平穏無事に町を歩けるか心配になって、子供に言い聞かせるように念を押す。言っている最中眉が下がった。
「はい、それは心得ています。案内をお願いします」
自信たっぷりに言われ不安になりながらも、それからは気付かれぬようにと会話も無くなった。
暗い森を抜けた先は月明かりのおかげで明るく夜風が心地よい。人の居ない道を選んで歩いたので誰にも会わなかったが、隣の路地から酔っ払いの歌声が聞こえてきた時には肝が冷えた。
浜辺に行く為また森に入ると暗さが増し、次第に潮の匂いが強くなる。少しすると視界が開けて本土が見えて来た。
ここは1人になりたい時によく来る浜辺だ。周囲には木が点在していて誰も居ない。
月明かりの下見えるのは、微かに波打っている灰色の海。冬の海は隙がなくて美しい。
冷たくなった風に肩を縮こませながら、自分はこの町を発つのだと改めて感じ入る。すぐ近くの岸に見える赤い倉庫は、自分が子供の頃建てられた物だ。
眉を下げてフードを被った青年を見上げる。
「ここで大丈夫? 一体何をするの?」
足を止めたウィルは周囲を見渡した後「素敵な場所ですね」と呟いた。一拍後、どこか得意気にこう続けてくる。
「16世紀の戦争で、スウェーデンがデンマークに取った奇抜な作戦をご存知ですか?」
と。
***
寝台と簞笥が半分を占めている広さの部屋。
そこが住み込みの用心棒であるリーナ・シュルルフと息子レオンに充てがわれた場所だった。
「ほら、レオン苦しそうでしょ」
結局最後まで話に耳を傾けてくれなかった女中頭が、息子が寝ている籠の前に突き飛ばすように自分の背中を押す。
「っ、レオン!?」
アストリッドが居なかった事を信じて欲しかった気持ちは、血の気が引いた息子の顔を見た瞬間吹き飛んでしまった。
「レオン、大丈夫、大丈夫よ! お母さん来たから! だから安心して……っ!」
頭が白くなっていく。
茶色い癖毛は何時もと同じなのに、苦しそうな表情に荒い呼吸と反応の薄さは、明らかにいつもの体調不良とは違っていた。
「ね、ちょっと様子がおかしいだろう? 医者に診せた方が良いと思うのだけど」
確かに医者に診せた方が良さそうだ。ロヴィーサに頼んで給料を前借りするしかない。こちらを見ない息子を前に、瞼が熱くなって涙が溢れた。
――その時。
「大変なの、お嬢様がどこにも居ないのよっ! 貴女達知らない!?」
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