9 『アストリッドッ!』

 不可抗力だし、自分がウィルの立場でも犬の声に驚いていただろうが、ウィルに怒りたかった。ウィルがあれから耳元で何も言ってくれないのも腹立たしい。

 1歩1歩着実にリーナが近付いてきて、怖くて目頭が熱くなる。ランタンの灯りがどんどん近付いてきてもう駄目だと思った――その時。


「リーナ! ラップ人のリーナッ! レオンがね!!」


 廊下から女中頭がリーナを呼ぶ声が聞こえてきたのだ。

 息子の名前を出されたからか、ランタンの動きがピタッと止まった。


「ああ、居た――って何でお嬢様の部屋に居るのよもしかして何か盗もうとしてたの汚らわしい。それよりもレオンがね、戻しちゃうし凄い高熱なんだよっ! 早く来なさいっ!」

「え!?」


 視界に映る革靴が2つ増え、ランタンの灯りが一気に遠ざかる。


「やっ、でも待って、引っ張らないでください! っごめんなさい今は行けません! お嬢様が! お嬢様が地下牢から居なくなってて! それで今お嬢様がベッドの下に居て!」

「何ごちゃごちゃ言ってるのよ! 地下牢に居るお嬢様が居ないだって? 馬鹿をお言い、ラップ人はどうしてそんなしょうもない嘘を吐くのよ。それよりも息子でしょ!」


 すぐそこで言い争う声に胸が苦しくなる。見つかりたくないけれど、「リーナを蔑まないで!」と叫びたかった。この家の女中達は本当は優しいのに。


「そうなのですがっ、でも今は駄目です! ベッドの下に誰か居るの、お願いだから確かめさせてっ!」

「もうそれでも母親なの!? 良いから来なさいっ!」

「っ蹴らないで下さい!」


 4つの革靴が視界から消え、扉が閉まる音がした。抵抗している用心棒と無理強いしている女中頭の気配が遠ざかっていく。

 一拍後、自室は何事も無かったかのように静かになった。


「……もう平気、よね……?」


 どうやら難を逃れたらしい。

 それでも何時見付かるか分からないので、逃げるなら今しかない。レオンの事は気になるが仕方ない。


「ウィル、ねえ大丈夫?」


 ベッドの下から這い出ながら小声で魔法使いの名前を呼ぶ。しかしウィルの声はうんともすんとも返って来なかった。

 根本的に魔法を使われていない気もする。先程までは確かに耳元で聞こえていた風の音が、今は聞こえて来ないのだ。


「ウィル……」


 弱々しい声を出している自分に気が付いてハッとした。自分もウィルを守ると決めたばかりではないか。

 幸い今夜は雪が積もっている。窓の下に広がる裏庭なんてちょっとしたスキー場だ。ウィルの助けが無くとも3階からなら何とか飛び降りられるだろう。雪に埋もれる寒さと衝撃は待っているだろうが、顔から埋まってしまう事さえ避ければ良い。


「おし……」


 心を固めて窓際に立ちガラスを開けると、冷気と共に無数の雪に頬を叩かれ反射的に目を瞑る。

 一拍後そろそろと目を開け――急に怖くなった。


「っ」


 雪と闇のせいで飛び降りる先が見えなかった。

 何時も窓から見ている光景なのに、地面が見えないだけで冥界に飛び降りるのだという錯覚を覚える。

 雪のクッションに絶対なんて無い。今雪はどれくらい積もっていただろうか。見ていなかった。

 崖上からのジャンプに挑戦した町の少年が何人も骨折し、命を落とした事を知っている。雪おろしの最中屋根から転落死する人だって多いのに、本当に自分は生きていられるのだろうか。


 怖い。

 歯が鳴るのは寒いからだけではない。

 どうしてわざわざこの恐怖を味わいに行くのか。

 無事だったとしても待っているのは過酷な旅で、ぬくぬくと育ってきた自分にそれが耐えられるだろうか。

 決意が簡単に揺らいでしまった。

 今ならまだ暖炉が燃えている部屋に引き返せるのではないか。母に謝れば――。


「いや……そんなの絶対嫌……」


 母に謝ったところでピアノが弾けるようになる訳では無い。寧ろ母は自分を監禁するだろうから、今以上に弾けなくなる。ウィルがまた助けてくれたとしても、そんなの死んだも同然だ。

 ピアノを弾きたい。

 一度振り返って洞窟のように暗い部屋を眺めた後、月明かりが支配する世界に向き直る。己を鼓舞するように唇を噛み締め拳を握り締めた。


「私は、ピアノをやるんだ……っ!」


 ギュッと固く目を瞑り、窓枠を蹴りつけ宙を舞った。

 一段と増した寒さと恐怖から叫びたくなったが必死に堪える。


 ――不味い。


 しくじった事にはすぐに気が付いた。極力窓を開けずに飛んだせいで、足に上手く力が込められなかったのだ。

 足を下にしながら飛べていない感覚。嫌な感覚は嘘を吐かない。目の前には足跡1つない雪が広がっており、顔から雪に落下していた。

 顔から雪に埋まってしまっては、身動きもし辛く非常に不味い。窒息死――という単語が頭を過ぎり銀色の雪が迫って来た時。


『アストリッドッ!』

「っ!」


 耳元で、あの魔法使いが自分の名を呼ぶ声がし、同時に浮遊感が不自然な程急に止まった。結晶の一粒一粒が見える程雪が目の前にあって、頬に冷気を感じる。

 地面に叩き付けられる衝撃は襲って来ないと言うのに、うるさい程心臓がバクついている。

 冷や汗のせいで寒さが一層増していくのを感じながら、暫く目の前の地面を眺め、荒い息を吐く事しか出来なかった。


『申し訳ありません……あの、大丈夫ですか? ごめんなさい、驚きましたよね』


 心配しきった魔法使いの声がする。声を絞り出す事も頷く事も出来ず、ただただ体を強張らせ続けていた。


『大丈夫、じゃないですよね……申し訳ありませんでした』


 苦そうな声が聞こえた後、森の方へ引き寄せられる。

 魔法だ――そう思った途端、はっと我に返った。潰れた蛙のように四肢を投げ出していた事に気付き、地面スレスレを浮いたままジャンパースカートの乱れを直すように座り直す。パサッと背中に積もった雪が落ちる音がした。

 森の中にウィルの姿を認めた時には、もう彼の傍に到着していた。西遊記という中国の伝記小説に出て来る『筋斗雲きんとうん』に乗った気分だ。

 魔法使いの手元には火の玉が1つあり、周囲を微かに照らしている。会った時のように複数出していないのは、きっと見付からないよう配慮してくれているからだ。


「ウィル! 貴方ねえ! もうっ! 貴方こそ大丈夫なの!?」

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