2 「こんにちは。こんなところに居ると殺されちゃうよ」
母親の力に負けぬよう抵抗すると、家の中から見ていた老婦人が恐る恐る口を挟んできた。
「あんた……母親ならこの子の話も聞いておやりよ。この子、凄くピアノが上手――」
「人の家の事に口を挟まないでっ!!」
ロヴィーサは老婦人の言葉を遮って金切り声を上げ、獲物を噛み殺した狼のような顔を向ける。身の危険を感じたのか老婦人は「ひっ」と息を飲み、黙り込んでしまった。
「っ……」
その様子に怖気づき、なにか言う気も瞬時に消え去る。
「おい、やり過ぎだっ! なんなんだお前っ!」
今まで黙っていた老紳士が声を荒げる。老夫婦には母の事を話していないので、この招かれざる客の行動は異常に映るだろう。
老紳士がロヴィーサの肩を掴もうと伸ばした腕は、青色の毛糸帽を被ったリーナの手に掴まれ阻止された。身体能力に優れたリーナは、いつだって悲しそうな表情を浮かべている。
「……失礼、ロヴィーサ様に触らないでください」
「っラップ人こそ私に触るな! 離せ! いきなり何をする!」
ラップ人――サーミ人の蔑称。
西洋でも東洋でも、先住民族は先住民族であるだけで虐げられる。ノルウェーでもそうだ。
「っ……離しません」
リーナは一度辛そうに眉を顰めるも、すぐに首を横に振る。リーナの力は強く、老紳士はあっという間に羽交い締めにされてしまった。
「これだから男は野蛮で嫌いなのよ……っ! 娘はしてはいけない事をしたから止めさせに来ただけ、親なら子供を守るのは当然でしょう」
背後のやり取りに気付いたロヴィーサが軽蔑しきった様子で吐き捨て、自分の腕を引っ張り民家を後にする。
「お母様離してってば! おばあさま、おじいさま、ごめんなさいっ!」
遠ざかる民家に向かって声を張り上げて謝る。先程まで外で遊んでいた子供達はすっかり居なくなっていて、更に申し訳無い気持ちでいっぱいになった。
「お母様離して! 逃げたりしないからっ!」
こうなった以上逃げる気はないと言うのに、幾ら声を張っても腕を掴んだ手の力が緩む事は無かった。痣になりそうな程痛い。
「そんなの誰が信じる物ですかっ!」
民家の裏に広がる森を背に、自分と同じロヴィーサの赤い髪が風に吹かれて蛇のように波打っていた。すぐにリーナも着いて来て、民家から遠ざかる雪に刻まれる足跡が増えていく。
ピアノを弾く。
どうしてそれだけの事が許されないのだろう。どうして母は自分の話を聞いてくれないのだろう。
悔しくて悲しくて、瞬きをすると涙が溢れ落ちそうだ。
屋敷に戻る道中ずっと抵抗していたが、母は少しだって腕の力を緩めてくれなかった。ビュッと冷たい風が吹いて、今夜は雪が降る事を教えてくれた。
***
「…………」
今しがた目の前で繰り広げられた光景に、ウィルは雷に打たれたように動けなかった。森の中は穏やかな空気が流れているだけに尚更だ。
酷い。
その言葉しか出て来ない。母親だからと言ってやっていい事ではない。
木漏れ日の下、折角美しいピアノの調べに耳を傾けていたというのに、一気に気分が悪くなってしまった。杖を握り締める力が強くなる。
「みゃあ」
ふと猫の鳴き声が足元から聞こえた。
視線を落とすと、人懐っこくズボンに擦り寄ってきた黒猫が一匹。愛らしい光景に口元が緩む。
「こんにちは。こんなところに居ると殺されちゃうよ」
気分の悪さも少し和み、冗談っぽく囁きかける。
魔女狩りの時代、欧米では黒猫は不吉の象徴として虐殺されてきた。猫焼きという猫を焼き殺す祭りもあった程だ。
19世紀現在でもその偏見は迷信として残っているので、子供に見つかれば最低でも石は投げられるだろう。丁度先程まで子供達がこの辺りで遊んでいた。
「みゃあー」
しかし黒猫は自分から離れようとはしなかった。
それどころかくんくんと自分の匂いを嗅いでいる。どうやらこの黒猫は違いを分かっているようだ。誰も見ていないのに無理矢理追い払うのもどうかと思い、黒猫を遊ばせたまま考える。
考えるのは先程の事。
彼女はあの調子だと母親に折檻されてしまうに違いない。それは嫌だった。
彼女を助けられるのは自分だけ、と言う事なのだろう。
「運が良いな……今日トロムソに来て良かったよ、ねえ?」
ぽつりと黒猫に話し掛け、同時に魔法を展開させた。
風の流れを利用した物。盗聴にも近いこの魔法を使う時はいつも手が震えそうになる。葉擦れの音が一層強くなった中、そっと目を伏せる。
極夜の影響で空はもう陽が落ちかけているがまだ夕食前。彼女の折檻は直ぐには行われないだろう。辛いが彼女の救出はもう少し闇が深くなってからにしよう。
何時の間にか雪の上に座っていた黒猫が、自分の足元から離れなくなっていた。
***
「お母様! 離してってばっ!」
「離すもんかっ!! 貴女はどこにも行かせないわっ!」
有無を言わさず自分の腕を引っ張る母に、すれ違う人は一様にぎょっとした表情を浮かべていた。
グローヴェンの屋敷に戻ったロヴィーサは、油彩画がかかった廊下の壁に自分をどんっと突き飛ばす。
「もう二度とあんな事はしないでっ!!」
「きゃっ!?」
息が止まる。母の目を盗んでピアノを弾いていた自分が悪い――けれどこの扱いはあんまりだ。
キッとロヴィーサを睨み付けた。
「お母様っ! 頭ごなしに止めろと言われても全く頷けないわ! 感情的すぎて意味が分からないだけです! 止めさせたいのならまずはちゃんと止めさせたい理由を話してよ、昔から言っているでしょう!? まっ頷きはしないけどねっ!」
「うるさいうるさいうるさいっ! 言う通りになさい! 理由なんて無いわよ! 名家の娘なら音楽より商売の勉強をしなさいなっ! 音楽なんかやっても傷付くだけよ!」
少しも耳を傾けてくれない母に、自分の声は大きくなる一方だった。
「分からず屋! 私はピアノが好きなのっ、いつか辛くなる日が来るのも覚悟してるっ、ずっと言ってるんだから当たり前でしょっ!」
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