Ⅰ Trollmann―魔法使い―
1 「有り難う御座います、おばあさま!」
Ⅰ Trollmann―魔法使い―
北部ノルウェー。
北極圏にある町トロムソは久しぶりに良く晴れていた。
極夜の季節は、太陽が出ているだけで嬉しくなる。こんな気持ちが良い日には心が踊るような楽しい曲を弾きたくなった。
崖上に広がる森の横。アストリッド・グローヴェンは民家の一室にあるピアノの前に座っていた。
これから弾くのはショパンの子犬のワルツ。鍵盤の上に指を滑らせ、朗々とした音色を響かせる。
と、「この曲知ってるー!」と、いつも窓の外で遊んでいる子供達がはしゃぐ声が聞こえてきて嬉しくなった。
ピアノを弾く事が大好きだ。
綺麗な音が好きだ。それを自在に奏でられるピアノが好きだ。鍵盤の重さが好きだ。弾き終えた後の達成感が好きだ。
上手く演奏が出来た時はただただ嬉しくて、自分が何かを表現している事が誇らしかった。大好きな事で人を喜ばせられるのも嬉しかった。
だが母は自分がピアノを弾く事を酷く嫌がっている。
昔、自分がピアノを弾いたと知るなり激昂したのだ。ピアニストになりたいとも告げたら無理矢理学校を辞めさせられた程。
おかげで喧嘩はしょっちゅう。時代が時代だと言うのに、屋敷にピアノを置かせてもくれない。
徹底的に反対され、一時はピアノを我慢した。しかし、ピアノを弾きたいという気持ちはそう長く抑えられなかった。
(だから隠れて弾く事にしたの)
やりようによっては、島であるこの町でも案外ピアノが弾ける。
母は気性の激しい人だからか、有り難い事に自分を助けてくれる人が周りに多かったのも大きい。
普段行かない教会で。学校を辞めさせられる前の友達の家で。本土の祭りの体験で。
数え切れない程こっそりピアノを弾いた。ピアノを弾けた日は嫌いなセロリも美味しく感じられた物。
島の隅にあるこの老夫婦の家も、自分を不憫に思った女中が紹介してくれた。
この家には古いピアノがあって、老婦人は「もう弾かないから自由に弾きに来てくれていい」と言ってくれたのだ。もうすぐクリスチャニアに引っ越すらしいのでそれまでだが、それでも十分だった。
母が商談で屋敷を空けるタイミングを狙ってこの家に来ている。自分が屋敷を抜け出している事にも、屋敷から遠いこの家に通っている事にも、母は気付いていないだろう。
老夫婦の家事を手伝う事も、ピアノを弾かせてくれる条件だった。
最初は叱られもしたが、ピアノを弾ける事が嬉しくて笑顔で言う事を聞いた。老婦人はそんな自分を見て「変わったお嬢様ねえ」と呆れていた物だった。
確かに、名家の娘が他人の家にピアノを借りに来るなんて、欧州の中で自分しか居ないだろう。
演奏を終え観客になってくれていた老婦人と老紳士に頭を下げると、パチパチと大きな拍手が送られた。老婦人はバター作りの道具であるバラットという樽の前で作業をしながら、老紳士は革細工をしながら聴いていてくれたのだ。
「今日も良い演奏だったわよアストリッド。最初は必死だった貴女を見過ごせなかっただけだけど……今ではすっかり貴女のファンなの」
「有り難う御座います、おばあさま!」
老婦人の頬が持ち上がっていて嬉しくなる。返す声も自然と弾んだ。
「貴女もそのうちクリスチャニアやコペンハーゲンに音楽をやりに行っちゃうの? ううん、貴女くらいピアノが上手ければドイツかしら」
「はい、ドイツに行ける物なら行きたいです。私、ピアノを弾くのが大好きなので!」
母の反対を振り切ってでも、半年後の誕生日を迎え18歳になったら本格的に音楽を勉強しようと決めていた。
誰かの師事を受けながら生活出来るようこつこつ貯金だってしていて、鍵のかかった箱の中日記帳と共に、銀貨が入った袋を入れている。
「まあ、まあ。素敵だわ……最近は女の子でも勉強しやすくなったわよねぇ、頑張ってね」
老婦人が目を細めた――その時。
ドンドンドンッ! と耳をつんざくノック音が家に響いた。
「アストリッド、そこに居るのは分かってるのよ!? 何をしているのっ! 出てきなさい!!」
すぐ近くに雷が落ちたかのような女性の怒号が、扉の向こうから聞こえてくる。
突然の大きな声。家に居る全員の肩が跳ねた。
「っ!」
「いつもこうやって音楽をしているの!? こんな事しちゃ駄目って昔から言ってるでしょ! 最近は音楽をしていないと思っていたのに!」
表情を強張らせ「お母様……」と呟く。
ついに見付かってしまった。どうしてここが分かったのだろう。商談中では無かったのか。
幕が下りたかのように目の前が暗くなる。
しかし、何時までも隠れてピアノを弾ける訳がない事も理解していた。決めていた18歳が近い今、丁度良い時期なのかもしれない。
母と向き合う覚悟を決め扉を向く。
「おじいさま、おばあさま。今まで有り難う御座いました、……迷惑をおかけして申し訳ありません」
ガチャリと銀世界が広がる外に出る。そこに立っていたのは母――ロヴィーサだった。
被っている紺の帽子に添えられている赤い花と同じくらい顔が赤い。毛艶の良い毛皮を首に巻き、クリノリンでスカートを膨らませたベロア生地の濃紺のドレスを着ている。
後ろには、3歳年上のサーミ人――スカンディナヴィア半島とロシア北部を生きる先住民族――の用心棒、黒髪をお下げにしたリーナが付き従っていた。
「おか――」
「帰るわよっ!」
「きゃっ!」
口を開く前に勢い良くロヴィーサに腕を引っ張られ、冷たい雪上に膝を突く。
「私が商談中に貴女がピアノを弾いていると思ったから、わざと貴女に嘘の予定を伝えたのよ。現場を捕まえようってね。そしたら思った通り!」
「そ……そ、れはごめんなさい。でもっ、お母様話を聞いてよ!」
「お黙り!」
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