流れる時とずれる足音

はるより

本文

 紡は随分と軽くなった頭に指先で触れながら、床屋の外へと出た。

 もうすっかり春の陽気となった、三月の下旬。

 彼はあと三日先に迫った、皇宮警察学校への入学に備えて身なりを整えに来たというわけである。


 元々紡が髪を伸ばしていたのは、父が無事に帰ってくるよう願を掛けての事だった。

 残念ながら、その父とは電報上の「殉職」の二文字として再会する事になったのだが……幼い紡は、希望と髪の何方も切り捨てることができなかった。


 それから二年が過ぎた。

 とうとう肩甲骨まで伸びた髪をそのままに、朝夕家の名を背負って学び舎に通うのは不味かろうということで、遂に床屋に足を運んだのだ。


 傾きかけた太陽の照らす家路を歩きながら、ふと足元に広がっていた水溜りに映る自分の姿が目に入る。

 さっぱりとした短髪の紡の容姿には、在りし日の彼の父、朝夕綴の面影が確かに表れていた。

 それを見て、父との別れが遠い昔の事のようだと他人事のように考える。


 たった二年、されど二年。

 今の紡は、もう昔のように亡き父を思って涙を流すことはなくなった。

 忘却とは、人間に備わるある種の防衛機能だとも言えるが……紡は、そんな自分が少し薄情な男にも思えた。


 靴を濡らさないように気をつけて水溜りを跨ぎ、先へと進む。

 そんな彼の脇を、足元などお構いなしな二人の少年が、水飛沫を跳ね上げながら追い抜いていった。


 少年たちは木製の筒と風呂敷包みを背に、楽しそうに笑い声を上げながら走り去ってゆく。

 きっと何かの稽古に向かう途中なのだろう。

 彼らの濡れた足跡が、道の上に点々と残されていた。


 それから少し歩いて、紡は登り慣れた石階段に足をかける。

 今日から皇宮警察学校の入学日までの二日、様々な手続きや親族への挨拶で桜花神社を訪れることは難しい。

 入学日当日も早朝に家を立つ必要があるため、紡は暫しの別れの前に絃に会う約束を取り付けていた。


 絃はいつもと変わらず、箒で参道を掃き清めながら紡の事を待っていた。

 待ち人の姿を見留めた彼女は表情を明るくした後、目をまん丸にして紡のことを見ていた。


「つむ、髪が!」

「ああ。これを機にと思って、切ったんだ」


 紡は手を後頭部に当てながらそう言った。

 そこには長らく束ねていた髪がなく、少し寂しさも感じる。

 絃は紡の言葉を聞き、彼の顔をじっと見たまま何かを思案しているようだった。


 そして何かを思いついたのか、両手を自分の頭へと持ってゆく。

 小さな指が、彼女の髪を結えていたリボンをするりと解き、艶のある長い黒髪がぱらりと広がった。


「これでまたお揃いですね」


 そして絃は、愛らしく笑う。

 そういえば、絃が髪を結うようになったのは、紡とお揃いの髪型だと言い張るためだったか。

 出会ったばかりの頃の彼女の言動を思い出し、紡は懐かしい気分になる。


 それと同時に、記憶の中の彼女と目の前の絃の姿が寸分の狂いもなく一致していることに不安を覚えた。

 以前から気になっていたことだが……紡と出会ったあの日から、絃は身体的成長をほぼしていないように見えた。

 それが例の、絃が『造られた存在さくらんぼ』である事実に起因しているのか否かは彼には分からなかったが……少なくとも、健康的な十五歳の少女にしてはあまりにも体躯が小さ過ぎる。


「……話した通り、今日から暫く神社には来られなくなる。手紙で連絡はするつもりだけど、何かあったら電報でも送ってくれ」

「はい、分かりました。」

「ちゃんと食事や睡眠を摂って、怪我なく過ごせよ。危ない所には決して行かず、困ったら周りの人間に助けを求めて……」

「つむは心配性ですね。そんなに絃の事が信用なりませんか?」


 頬を膨らませた絃が、言葉を連ねる紡に苦言を呈した。

 それを受けて紡は、「そうじゃない!」と慌てて否定する。


「ただ、その……世の中には色々と危険なこともあるから、一応」

「大丈夫ですよ!つむと出会うまでも、絃はちゃんと生きていたんですから。」

「それはそうだけど……」

「それに依さんも、麟だって居ますしね」


 表情をころっと変えてニコニコ笑う絃。

 紡は『麟』という名前を聞いて、あたりを見渡した。


「……結局、麟は来なかったんだな」

「そうですねぇ。」


 紡は、少し寂しそうな表情を浮かべた。

 今日ここで顔を見たかった相手は絃だけではない。

 友人である麟にも、紡は声を掛けたのだが……彼は浮かない顔をした後、「考えておく」とだけ言ったきりであった。


 彼は紡が皇宮警察学校に行き、剣術の道場を辞めると告げてから、何処となくよそよそしい態度を取るようになった。

 明確に紡の事を拒絶したり、否定することは無かったが……紡に必要以上に寄り添うのを渋るようになったとでも表現するべきか。

 以前のように親しく外出に誘ったり、少しでも長く話を続けようとする事はなくなった。

 通常の友人同士の距離感などそんなものだと言われて仕舞えば、その通りなのかもしれないが……あの日の涙を契機に麟との距離が変わってしまった事は、紡にとっては少し気掛かりな事だった。


「絃たちの心配より、つむは自分の事を考えてください。向かう先はきっと厳しい所ですし、今までよりもずっと大変な事がたくさんあるはずです。」

「……うん。」

「まずは身体を壊さないのを第一に、何かを得るのはその次で良いと思います。」


 そう言うと絃は、少し緊張した面持ちの紡の顔を見上げて、いつも通りの笑顔を浮かべた。


「つむなら大丈夫!誰よりも綺麗な桜を咲かせることができるんですから!」

「……ありがとう。励みになる」


 いつもながら、常人には理解の及ばない事を言って屈託のない笑顔を浮かべる絃。

 彼女に釣られ、紡も口元を緩ませた。


 カァカァと、寂しげな烏の鳴き声が遠くから聞こえてくる。

 黄昏時が目前に迫った今、熟れた柘榴のような夕陽が、境内を鮮やかな紅に染め上げていた。


「そろそろ帰らないと。次に会う時まで、息災で居ろよ」

「はい!お互い様です」


 紡は絃の姿を目に焼き付けるように、じっと見つめる。

 それから、迷いを断ち切るように踵を返し、一気に石段を駆け降りた。


 その背中を手を振りながら見送って、足音も聞こえなくなった頃……絃は桜花神社の本堂の陰へ歩み寄る。


「……本当に、挨拶しなくてよかったんですか?」

「うん……」


 そこに表から見えないよう膝を抱えて座っていたのは、困ったように小さく笑う麟だった。

 その隣にちょこん、という擬音の似合う所作で、絃も腰を下ろす。


「袴が汚れるよ」

「今日はお掃除もして、もう裾が砂だらけなので大丈夫です」

「そういうものかい?」

「はい!」


 そんなやり取りの後、少しの間の静寂。

 そわそわとして、それを破ったのは絃の方だった。


「つむは、麟に会いたがってましたよ」

「そうか」

「……まだ、怒ってるんですか?」

「そういう訳じゃないんだ。」


 恐る恐る顔色を窺ってくる絃に、うーん、と小さく声を漏らして答えを探す麟。


「多分、今の俺は……紡の邪魔をすることしかできないから。」

「邪魔……ですか」

「うん。だって俺は、紡に何処にも行かず、何も変わってほしくないんだ。今までみたいに一緒に稽古して、話をして、それから……。」


 麟は指折りしながらそう言ったところで、言葉を止める。

 そして今まで正面を向いていた顔を、隣の絃へと向けた。


「絃にだって変わってほしくない。ずっと三人で、仲良くやっていきたいと思う」

「絃は変わりませんよ。これまでも、これからも」

「ふふ、そうだね。君はちょっと不思議なくらい、変わらないよな」

「だけど……つむは無理です。もっともっと格好良く、強くなっていきますから」

「……そうかもね」

「何もかも同じままは無理です。けれど変わらない所も、沢山ありますよ」


 そんな絃の言葉を聞いて、麟は複雑そうに口の端を歪める。

 絃にも、麟の心がこのような言葉で慰められるはずもないというのは分かっていた。


「絃は……平気かい?長く側に居た紡と会えなくなっても。」

「寂しいですよ。けれどそれがつむにとって大事なことなら、絃がするべきは応援して見守ること、です!」

「大人だね、絃は」

「全部、とある方からの受け売りですが」

「それでも、それを受け入れられるのは君が大人な証拠だよ」


 また正面を向いた麟は、小さくため息をつくと……ぽすっと音を立てて膝に顔を埋めた。


「身体はいくら大きくなっても……俺だけが、いつまでも子供のままだ。」

「麟……」


 そんな麟になんと声をかけて良いかわからず、絃はおずおずと手を伸ばして麟の柔らかな髪を撫でた。

 麟は驚いたようで一瞬身を縮ませたが、特に制止する様子はない。

 背を丸めた麟が、本当に小さな子供のように見えて……絃は少しの間、それを続けた。


 やがて気が落ち着いたのか、顔を上げた麟は小恥ずかしそうに顔を赤らめていた。


「……困らせてごめんよ、絃。」

「いいえ。参拝者のお話を聞くのも巫女の務めですから」

「そっか。なら、話を聞いてくれてありがとう」

「はい、またいつでもどうぞ!」


 境内を去る麟に別れを告げて、絃は手を振る。

 そして今度こそ人の気配のなくなった参拝道で、絃は袴の端に結えておいたリボンを解き、手のひらの上で眺めた。


 絃にだって、変わっていく世界に取り残されるような不安がない訳ではない。

 紡や麟の事だけではなく……例えば、空を隔てた向こうの霧の都で起きたらしい不穏な噂だとか、誰が言い出したのか『終末論』の存在とか。

 ……それから、帝都の一部の桜が突然花をつけなくなったという話も聞いた。


 見える範囲で劇的に変わったものはない。

 それでも少しずつ揺らいでゆく『今まで』の形に、心を病む人間は増えるだろう。


 ひゅう、と強く吹いた冷たい風。

 それに身を震わせて、大切なリボンを飛ばされないよう、絃は小さな掌をぎゅっと握りしめた。

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流れる時とずれる足音 はるより @haruyori

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