「摩天楼の星(ステラ)」

陸原アズマ

前編

翼が重い。追跡対象は、確実に遠ざかっていた。地上の人間の一団が集まる駅が目に入る度、速度が鈍って息が上がった。しかし、あの中に逃げ込まれでもしたらたまらない。ここまで来たら、全身の疲労感などは無視だ。背中の翼を酷使してでも、追いつくほかないのだから。


「っ早く」


日に日に寒さを増す都会の上空は、息を吸い込むと冷たい空気が肺に刺さるようだ。立ち並ぶ高層ビルや高速道路は飛行の妨げだし、この季節は風が目に染みて痛い。標識や信号機も避けて飛ぶのは面倒だが、墜落は御免だった。羽がぶつからないように壁すれすれを飛び、慎重に滑空しつつ狙いを定めてビルの間を突っ切っていく。


「くそっ」


落ちていく夕日が、ガラス張りのビルの壁面に反射していた。その光は段々と弱くなっていき、反射する光は人工の明かりへと変化していく。点滅する視界の中で、逃走中の背中は人の多い駅の方へと迫っていた。


「これじゃあ」


逃げられる。どうすれば――

刹那、そいつの体が何かの影に包まれた。


「ギリギリかな」


よく聞きなれたその声は、淡い光に照らされた夜に吸収されつつも静かに響いた。看板に音もなく降り立ち、黒い翼がさらに大きく広がった不自然な人影は、笑っているかのように肩が震えている。


「きゃあああああ!」


大きな悲鳴が、冷えた耳にしみた。


「は」


捕まえなければ。とっさに動いた体で、急降下する。

逃げていたことも忘れたのか、跳ねるように進路を変えた後ろ姿は、裏路地へと通じる曲がり角に消えた。

念のため一呼吸置いて、先の暗闇へと飛び込む。目を凝らした路地には、追いかけていたはずの男がゴミ箱と一緒に転がっていた。

先ほどの断末魔のような叫び声の理由が少し気になるが、ここは触れずに無視しよう。まあ、さっきの怯え具合から少し、ほんの少しだけ同情しないでもないが。


「安心しろ、痛くはない。もう、二度と目が覚めないだけだ。『開錠(アクラウスト)』」


悪霊転送用のゲートを開く。光の洪水と共に男の姿を消し去り、あっという間に無事転送は終了した。何はともあれ、やっと片付いた安堵からついため息が漏れる。高速飛行は簡単ではないし、時間がかかるとこの後の特殊任務にも差し支えがあるのだし。いや、いまはそれよりも……


「遊びじゃあないんだぞ」


自分もその登場に気が取られてしまった手前、危うく取り逃がしたらと気が気じゃなかったんだ。嫌味の一つくらい良いだろう……というのが分かったに違いない、黒髪を揺らし上空から降り立った阿久津優魔はいつも通り遠慮なく宣った。笑顔で。


「標識を足場に登場したら派手かと思って。大使、面白かったかい?」

「訳が分からない」

「だろうね。でもさ」


一歩近づいてきた優魔から、一歩距離をとる。


「嫌々やるくらいなら、手伝ってとか言えば良いのに。その方がお互い楽しいから」

「別に、嫌々なんかじゃない。あれくらいは一人でも十分な任務だ。それに面白いか面白くないかで任務はやっていない。」


はっきり言い切れず、多少口ごもったのは屈辱だ。というかこいつ、俺が一人で良いって言ったときから茶々入れる気満々だったろ。笑みを深めた優魔の顔は、まるで悪戯を思いついた子供だ。その癖、俺の心を正確に覗くかのような確信を持った自身ありげな笑顔を見ているのは、正直とても居心地が悪い。やっぱり人の話は聞かないし。優魔は案の定、つまらなそうに手を振るとさっさと別のことを喋り出した。


「大使と話しても張り合いないな。それよりさっきのおっさん霊、あんな甲高い悲鳴あげて成仏って、今回は何を言ったの?」

「特別なことは何も」


今度は自分から聞いておきながら言わんでいいとでも言いたげな眼で、顔を顰められた。なるべく人のいないところに誘導しようとして、小一時間も追いかけっこをする羽目になったことは黙っておこう。きっとバカにされるから。


「ホントかなぁ。台詞は陰湿で、まるで悪魔みたいだったよ」

「俺は天使だ」


それより思いっきり聞いていたじゃないか。

優魔が俺の言葉を最後まで聞かず話し出すも、口が悪いのもいつものことだ。だが、俺が霊を捕縛するときに考えていることなんて手に取るように分かるとでも言いたな顔は大層むかつく。今更だと怒る気もわかないが。

でも陰湿はないだろ……


「追いかけているときの顔が怖すぎたのかもね。次の仕事では控えておきなよ、そういうのはさ」


途端に呆れたような顔でそんなことを言う優魔の顔は、いつもより悪魔らしくなかった。いつもヘラヘラしてる不真面目なところが、かなり悪魔らしすぎるのだ。


「怖くない。今回は逃げたからただ追いかけただけだ」

「少なくともさっきのあれはどこをどう考えても優しくないよ。怖いよ」

「武力行使ってほどのことはしていないぞ」

「その言い草、まるで悪魔だね」


いや、こいつはどんなときでもやっぱり悪魔だ。自己主張の激しい黒々とした翼は、目の前のやつの背中で存在を主張していた。人のことを悪魔だなんて、それをしまってから言ってもらいたいもんだ。


「どう見ても本物なら目の前にいる」

「君はさ、あれだよ」


言葉を選ぶように視線を泳がせた優魔は、溜息を吐いてから言った。


「ちょっとは任務に対しても手を抜くことを覚えた方が良いと思う。こういう憂さ晴らしは感心しないかな」


言葉を選んだ結果がそれとか、やっぱりお前の方がよっぽど悪魔だ。


「せっかくの能力なんだから、もっと上手く使ってみなよ」

「別に、要らない」

「持ち腐れだなあ。思い切って何かやって見なよ。昔は能力使ってバンジージャンプとかやったじゃない」

「あれはもうやらない」


並んで走りながら、人混みの中に飛び込んでいく。

優魔の言葉なんて、別に気になっていない。そう、もうあんなことはするわけがないのだ。断じて。




おはようございます、という声が飛び交う廊下には、機材を持つ者やスタッフ証を首から下げた者がひしめいている。本当に来てしまったが。スタッフたちに軽く会釈を返しつつ横を通るだけで、見られている気がしてかなり落ち着かない。彼らの間を縫って走りながら、脳内に直接聞こえるなんとか意識を集めた。


『では、作戦の最終確認を行う。これは我々【カエルム】としては新たな試みだ。君たち本来の任務である悪霊の魂の回収は、魂の浄化や沈静化の効率的な方法が発見されればより楽になることだろう。これはそのテストケースでもある。期待しているよ』


期待は嬉しいが、煌びやかな装飾が施された衣装が相まって妙に重たい。通信のための魔力感度は良好で、届く指示はクリアだったが。だからと言って、いまだこの作戦に対する疑問がクリアになっているわけではない。同時に聞こえてくる喧騒もノイズとしてしか認識できそうにない。正直不安しかない。


「おはようございます!」


あと、優魔のでかい声も脳にガンガンと響いた。隣にいる俺からすれば煩いくらいで、俺にとってはこれがトドメになりそうだ。だが、青い顔をしていたスタッフの表情は、みるみるうちに明るくなっていった。通路の澱んでいた空気は一喝で浄化され、優魔の声一つでその肩に憑いているものが消えて行く。放置しても問題ない霊もいるはずなのに、優魔によって周囲はあっという間にクリアになった。


「今のは安全そうな奴だったぞ」

「迷子のままよりはいいでしょう。それより、顔をどうにかした方が良い」

「仏頂面じゃない。普通だ」

「ふーん?」


今ここにいる霊は大したレベルではない。放置すると後々大きくなる可能性が高くなることを考えると、先に成仏させてしまうのが良いのは分からないでもないが。


「大使は誰に対してもスパルタなんだよなぁ。天使ならもっと出せばいいのに」


出す? 羽を? それはダメだろう。


「笑顔」


なんだそれは。なぜそこで笑顔になるんだ。俺の羽に何か不足しているというのか。確かに母は人間だからか、立派という程の羽ではないが……。父さんと兄さんも天使だし、羽だってあるのだ。別に、小さくなんか……。


『それでは、検討を祈る』『お次は大手芸能事務所・満天のプロダクションの期待の新星アイドル「s-terra(ステラ)」のお二人です!』


そう言って一方的に切れられた通信と、俺たちの紹介と重なった。考えているうちに、いつの間にかスタジオの目の前まできていた。

通信で静かに響く声に耳を傾けていたせいかもしれない。収録前の慌ただしい会話がやけに大きく、狭い廊下がさらに狭く見えた。

最早ここまで来たらやるしかなかった。アイドルを。


『よろしくお願いします』


スタジオは、光と熱気で支配されていた。室内のはずが、煌々と輝いているライトが暑い。それはまるで季節外れの真夏の太陽のように、肌がジリジリと焼かれているようだ。そんなことを考えるくらいには、頭が朦朧とした。


「ものすごいイケメンだね! それに結成してからデビューまで早かったんだって? 実力派だ」

「そんな、恐縮です」


人間に警戒心を抱かれないよう、見た目も俺たちの組織では選考条件の一部だったはずだ。それに身体能力も人より高いことを考えれば、基礎から鍛える必要もなかった。全て言えないが。


「でも天童大使くんと阿久津優魔くんの二人は、元々幼馴染なんだって?」

「はい。生まれたときからずっと一緒で、家族のような存在です」


ちょっと前まで、俺に向かって毒舌を吐いていた奴と同一人物とは思えない。怪しまれてはいないようだが、あまりしゃべらない方が良いんじゃないだろうか。しかし俺たちが生まれたときから知り合いも同然なのは事実だった。一緒に育ち共に訓練を受けて、同じ組織でコンビを組んで任務に当たっているし。まあこれも勿論言えないが。


「小さい頃からの癖とか、大使の秘密とか。子供の頃の大使は良く笑う子だったので、今はこんなですけど、天使みたいに可愛かったんですよ。」

「優魔、何度も言うが、俺は天使だ」


余計なことは話すなよ、と視線でけん制をするつもりだった。俺が万が一言ってしまってもいけないから、名前を呼ぶに留めた。はず、だったのだが。


「あ」


不味い。これは、非常に不味い。しかし、自分の口からようやく発した言葉はどうやらスタジオ内の全員に聞こえたに違いなかった。なぜなら、気まずい沈黙が落ちたから。


「そうなんです。天使と悪魔のアイドルって覚えてくださいね」


いや、それは流石に無理があるんじゃ、ないか?


「大使くんもクールに見えて面白いねえ。人懐こそうな優魔くんとの相性も良い感じで、今後も話題になりそうな注目グループですね!」


通るのか……。今は人から好かれそうな微笑みで、優魔がカメラに向かって手を振っている。それだけでスタジオ内から黄色い歓声が湧きあがった。

やってしまった……というかさっきまでの下りで、俺と優魔の仲が良く見える理由は勿論、……? 何か俺に分からない力が働いているとしか思えないほど、訳が分からなかった。


アイドルって、結局何すればいいんだ。喋れることが、何もないのでは。


ついに始まってしまったアイドル活動は、鼓膜が割れるかと思うほどの歓声によって幕を開けた。

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