下巻・第三章 パリ攻撃
下3.1 パリの防衛(1)シャルル五世が建造した城壁
フランス王ジャン二世がイングランド軍の捕虜になっていた時代、パリ市民は、敵が国の中心部に侵入しているのを見て、自分たちの街が包囲されるのではないかと恐れた。
そこで彼らは、大急ぎでパリの防衛体制の整備に取り掛かり、堀(trenches)と対抗塹壕(counter trenches)で街を囲んだ。
(⚠️補足:counter trenchesに合う訳語がないが、どうやら農業や治水用語っぽい。浅い堀と深い堀を組み合わせた二重構造になっている。旱魃でも水が枯れにくい)
大学側(セーヌ川の南岸)の郊外は防御施設なしでそのままにされ、辺鄙なところにある小さな地域は焼き払われた。しかし、右岸(セーヌ川の北岸)側の広大な郊外はパリの街とほぼ接しており、(郊外の)一部は堀で囲まれていた。
イングランドとの和平が成立すると、当時フランス王国の摂政だった王太子シャルル(のちのシャルル五世)は、パリの北側の郊外を城壁で囲むことを決意した。城壁の両側には四角い塔を建造し、テラスと胸壁が設けられ、周囲には道路と城壁に通じる階段が設けられた。堀は、場所によって一重または二重になっていた。
(⚠️ジャン二世:フランス王国ヴァロワ朝第二代国王。シャルル七世の曽祖父。1356年のポワティエの戦いでエドワード黒太子率いるイングランド軍にフランス軍は大敗し、ジャン二世は捕虜となった)
(⚠️当時の摂政だった王太子シャルル:ジャン二世の息子で、ヴァロワ朝第三代国王シャルル五世。シャルル七世の祖父。賢明王と呼ばれる名君)
パリの代官であるユーグ・オーブリオがこれらの工事を監督し、サン・アントワーヌの堡塁(要塞)の建設も任された。サン・アントワーヌ堡塁はシャルル六世の時代にようやく完成した。[137]
シャルル五世が建造した最新の防衛施設は、東側の川沿い、セレスタン地区の高台から始まる。
新たな防衛圏内(城壁の圏内)には、サン・ポール地区、サン・カトリーヌ耕作地、タンプル地区、サン・マルタン地区、レ・フィーユ・デュー地区、サン・ソヴール地区、サン・トノレ地区、レ・カンズ・ヴァン地区が入った。
これらの地区は、いままでパリの郊外という扱いで防御されていなかった。
新しい防衛施設は、セーヌ川の下流(パリの西側)、ルーヴル城(当時はまだ宮殿ではない)まで達した。シャルル五世のこの事業によって、いままで郊外だった地域はパリの街と一体化した。
パリ北側の新たな城壁には、市内に出入りする門が6つあった。
東から順に、(1)ボーデ門またはサン・アントワーヌ門、(2)サン・アヴォワ門またはテンプル門、(3)パントル門またはサン・ドニ門、(4)サン・マルタン門またはモンマルトル門、(5)サントノレ門、(6)セーヌ門である。[138]
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(※)マップの説明文には視覚情報が欲しいところ。以前の近況ノートですが参考までに。
▼中世(14〜15世紀)パリの地図
https://kakuyomu.jp/users/shinno3/news/16818093090052403561
セーヌ川の北岸「城壁が拡張しているエリア」が、シャルル五世が計画してシャルル六世時代に完成した一大事業。今風にいえば「首都圏拡張および防衛施設刷新事業」。シャルル五世はイングランドからパリを守るために建造したが、1429年当時はイングランドに奪われて利用され、孫のシャルル七世が攻める側になっているのはなんとも皮肉な話。
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